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小沢貞孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小沢 貞孝(小澤[1]、おざわ ていこう、本名:貞孝(さだたか)[2]1916年12月1日 - 2002年12月17日)は、日本政治家衆議院議員(7期、民社党)。

経歴

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長野県東筑摩郡笹賀村(現松本市)出身。旧制松本中学長野工業専門学校信州大学工学部)を経て1938年昭和電工に就職。戦後、同社労働組合の活動に参加し、1951年日本社会党から長野県議会議員選挙に出馬し当選。2期務める。この時の選挙戦では左派社会党と対立する形での出馬だったため、以後左派と対立する局面が続く(その一方で労組の勉強会に向坂逸郎を招くなどしている)。

1958年衆院選長野4区から出馬するが左派が推す下平正一と公認を争い、公認を得られぬまま脱党して無所属で出馬。結局、初当選し復党するものの、民主社会党の結成に参加。しかし、1960年第29回総選挙で落選。一旦、昭和電工に復職したが、政治活動も続けた。

1963年第30回総選挙では再び落選、1967年第31回総選挙でも落選するが唐沢俊樹の死去に伴い繰り上げ当選した。1968年第二水俣病(新潟水俣病)について、古巣の昭和電工の関与を否定する発言をしたため、1969年第32回総選挙で批判の怪文書を撒かれ、落選(現在は、昭和電工鹿瀬工場が原因と判明している)。1972年第33回総選挙で返り咲いた。以降も下平、増田甲子七唐沢俊樹唐沢俊二郎と強豪がひしめく中で当選と落選を繰り返し、通算7期務める(うち1期は繰り上げ当選)。この間、1985年-1987年に党国会対策委員長を務めた。

1990年第39回総選挙で落選したのを最後に政界引退した。同年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[3]

2002年12月17日心不全のため松本市の自宅で死去、86歳[2]。死没日をもって正四位に叙される[1]

脚注

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  1. ^ a b 『官報』第3523号8-10頁 平成15年1月14日号
  2. ^ a b “小沢貞孝氏死去/元民社党衆院議員”. 四国新聞. (2002年12月17日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20021217000324 2023年10月10日閲覧。 
  3. ^ 小沢 貞孝https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%20%E8%B2%9E%E5%AD%9Dコトバンクより2023年10月10日閲覧 

外部リンク

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議会
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