はてなキーワード: 楽曲とは
某大好きなアカウントが【母(52歳)の初推しが中丸雄一で復帰後にFCに入るとウキウキだったが突然の解散発表で悲しみの中ハルカナ約束を回す母をどうしようもない気持ちで見守ることしかできない】かなりざっくりとだけど、かなりやるせないマシュマロを拾っていたのを見て、自分の中で何かが爆発した。
やるせないし、ほんとにありえない。でも、このマシュマロを読んでもわたしは会社を責められない 会社がどう出ようと結局最後は当人たちの問題だと思ってしまう このドライさ、妙に冷静なところも彼ら譲りなのかもしれないと思ってしまい、もう悪循環だ。
社会的問題があるとか大理不尽で表に出さないように捩じ伏せられてるなら別だけど、かつんを見てきたからこそ思う 奴らは動かないし語らない それが美学だったけど、このなんだってできる時代で、自分たちの懐を削ってでもできる限り誠心誠意ファンと向き合うチャンスを自ら作れてもおかしくない環境でそれをしないってもう、美学でもなんでもないぞと思う 同時に、もしそこまでのがむしゃらな気持ちがあるなら会社から切られてないとも思う 最後までかつんブランドを守り抜いたと言うなら、あんたたちが正解だよ。
いまになって思うけど、これがファンと切磋琢磨して愛情交換するような時代がなかったグループの精神力なのかもしれない 結成当時からちやほやされてたわけではない陰にいたグループが一時代を築けたのは間違いなく本人たちの殻破りなステージ力でしかなかった すごすぎたんだよ。
ステージに立ってファンと目を合わせて微笑みかけるでもなく、ただ一方的に魅せることしかしてこなかったグループだからファンへの媚の売り方を知らないんだよね だからファンもずっとお客さんの顔してるの 守らなきゃ、人気にしなきゃ、数字出さなきゃ、みたいな しゃらくさいそういうやつ。(しゃらくさいと思っちゃうの、これかつん育ちすぎるんだよ 最高だけど最悪だよ)彼らの上に立って引っ張りあげようとする層がいなかった でもそれは彼らへの敬意でもあったと思う。
だからほんとにだれも悪くなくて かつんもファンも頑固だよね 似たもの同士なんだよ 最後の最後くらい情けない姿見せながら誠心誠意ファンと向き合おうとしてくれたっていいのに ファンももっとTHEジャニオタみたいなキモいことすればいいのに お互い、しないんだよね 出会ってからずっと変わってないよ。
情けなくたっていいから最後くらい綺麗事ぜんぶ取っ払ってファンに気持ちを伝えてよ。かつんってダサい姿を見せないように最後の最後まで努めようとしてくれているんだろうけど、まわりにまわっていまその姿がめちゃくちゃダサいよ。
わたし、KAT-TUNが残してきた音楽が「誰も知らない歌」になるの、耐えられないよ。かつんは、どう?どう思ってる?そんな軽く捨てられる気持ちで音楽してた?そんなわけないよね? この際、解散に対する説明はもういい。 楽曲、どうするつもりなの? 答えろ。
近年、複雑な楽曲が売れるようになった理由には、いくつかの要因がある。
サブスクリプションサービスの普及により、リスナーは多様なジャンルの音楽に触れる機会が増えた。その結果、単純なコード進行やメロディでは物足りないと感じる層が増え、より複雑でユニークな楽曲が評価されるようになった。
YouTubeやTikTokなどで、音楽理論を用いた楽曲解説が流行している。例えば「この曲はポリリズムを使っている」「転調が巧妙」といった解説がバズることで、一般リスナーも音楽的な複雑さに興味を持ちやすくなった。分析されること自体が宣伝になり、複雑な曲の人気を後押ししている。
SpotifyやTikTokの短尺動画では、楽曲の一部分がループ再生されることが多い。そのため、単純なコード進行やメロディだと飽きられやすく、変化に富んだ構成や複雑なリズムの方が注目されやすい。
DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)やAI作曲ツールの進化により、個人でも高度な音楽制作が可能になった。これにより、音楽理論に精通したプロデューサーや作曲家が増え、一般的なポップスにもジャズ的なコードや変拍子が取り入れられるようになった。
「四つ打ち」「I–V–vi–IV進行」など、過去のヒット曲で多用されたパターンがリスナーに飽きられ、新鮮さを求める動きが生まれた。K-POPやアニソンの影響もあり、楽曲構成に変化をつけることが当たり前になってきた。
特にコアな音楽ファンの間では、楽曲の「複雑さ」そのものが知的な刺激として楽しめる要素になっている。ジャズやプログレが根強い人気を持つのと同じように、リズムやコードの意外性が評価される時代になった。
総じて、リスナーの耳が肥え、SNSを通じた分析・解説が流行し、技術の進化とともに作曲者側のレベルも上がった結果、複雑な楽曲が求められる時代になったと考えられる。
玄米法師さんの楽曲「plazma」は、一般的に『機動戦士Ζガンダム』のジェリド・メサの心情を歌ったものと解釈されています。歌詞の内容や曲調から、ジェリドの苦悩、後悔、そしてカミーユ・ビダンへの複雑な感情が表現されていると考えられます。
歌詞には、ジェリドの葛藤や苦悩を思わせる言葉が散りばめられています。
特に、カミーユとの対立や、自身の行動に対する後悔を連想させるフレーズが多く見られます。
楽曲全体の哀愁漂うメロディや、切ない歌詞が、ジェリドの心情を表現していると感じられます。
多くのファンが、「plazma」をジェリドの心情を歌った曲として解釈しており、インターネット上でも様々な考察や感想が共有されています。
ジェリド・メサは、『機動戦士Ζガンダム』において、主人公カミーユ・ビダンと激しく対立するキャラクターであり、その悲劇的な最期は多くの視聴者に印象を残しました。「plazma」は、そんなジェリドの心情を深く掘り下げた楽曲として、ファンから高い評価を得ています。
なぜ厄介と言われるような行為をして当然と振舞えるのだろうか
楽曲がサビ、あるいは曲のラストへ向かって徐々に高まっていき、いよいよ最高潮に到達する直前にある一瞬の空白、大きく跳ぶための溜め、それを塗りつぶす大音量の獣声「イエッタイガー」
楽曲の助走とも言える前奏や、曲後半で、曲調と共に大きく聴き手の感情を揺さぶる特別な時間である落ちサビを蹂躙し、その時間も周囲の人間の感情も黒く塗りつぶす意味不明な単語の羅列「ワールドカオス」
リズムのいいメロディをその量で蹂躙し、繰り返すことで徹底的に踏み荒らす騒音の大行進「アイアイ」
ここでは煩雑さを避けるため、「厄介行為」の内容をこれらのコール系に限定して話を進めたい
しかし、光害や過度に腕を振り回すなどの身体的厄介行為にも共通するところもあると思っている
もちろん、アニクラのような場所では、これらがその場を盛り上げる“必殺技"として歓迎されているのだろうと思う
しかし、観客側が声を発することは副次的な楽しみであり、ステージ上のキャストやそのパフォーマンスを鑑賞することに重きをおいている人々が集まるイベント(以後この文章において「イベント」とはこういった場を指す)においては、これらは応援行為として許容される「コール」とは別の、行き過ぎた「厄介行為」として頻繁にトラブルの種になっている
厄介行為をする者らと、それを忌避する者とが席上で口論をしているのを見かけることがままあるし、終演後のSNSでそういった行為に鑑賞を妨げられたことを嘆く投稿を目にすることはもっと多い
少なくとも、一定数以上のイベント参加者から「厄介」などと通称されている時点で、これらが賛否両論未満の歓迎されざる行為であることは、イベントに参加する、厄介とそれを拒む人両方にその認識があるところではないかと思う
なぜ周囲の迷惑を顧みず、また冷ややかな視線に晒されてまで、厄介行為を実行、継続することができるのか。私は永らくそれがわからず、単に周囲の環境に無頓着な個人の性格又は何らかの特性がそれを可能にするのだと思っていた
しかし先日あるキャラクターコンテンツのイベントにおいて、自分史上最低最悪、四方を厄介に囲まれ、視界は飛び跳ねるオタクの背中が全てを覆い、気持ちは顔のそばで振り回される腕や肘にステージどころではなくなり、耳はアイアイ・ワ!ワ!・イエッタイガー!に塞がれて曲も歌声も届かない、本当に地獄のような環境でイベントに参加してきたのだけれど、諦観に包まれて心を殺しながら、それまでと違う見方で厄介行為に夢中になる彼らの心を少しばかり理解したような気になった。
ふとそれは、クラスや友人同士のコミュニティ内の「ノリ」が生み出す光景に似ていると思ったのである。
誇張され過ぎた担任教師のモノマネ、お調子者が鉄板にしている道化じみた言動、流行りの芸人やネタの粗末なコピー。一人冷静になれば何故?と思うようなことを、絶対「面白い」と感じてしょうがなかった経験は、私にもある
ああいった「面白さ」は、まずそれが「面白い」という認識を共有することから生まれる。個々人が心の底からそれを面白いと思っている必要はなく、ただその身内においてそう認識されていることで、それは「面白い」ことになる。
「面白い」ことを共有できていることは、身内という集団の価値を高めていると所属者に感じさせる。逆にいえば、身内においては共有された面白さは守られなければならない。そうでなくては今度は身内というクラスタが価値を損なうからだ。
したがって、身内の中で「面白さ」は繰り返し確認される。ここでいう確認は、再評価を行うことではなく、身内の中でその価値観を固めていく作業であり、それ以上に、所属しているものがその価値観を共有できていることを確認することだ。
学校のクラスや、サークル、趣味の仲間のような限られた世界で生きる者たちにとって、そのクラスタに所属していることは非常に重要なことだ。クラスタへの所属は、所属者のアイデンティティに深く結びつき、自己そのものに近い認識を持ち、クラスタを追い出されて孤立し、孤独になることを心の深層で恐れている。それは例えるなら、ジャングルで一匹のサルが群れを追い出されるのと同じく、極めて心細く、シに近いところへ追い出されることに違いないのである。
それ故に、クラスタの所属者たちは、自らがそのクラスタ価値を高め、維持することに貢献できることを示し、自分がクラスタにとって有用な「身内」であることを示そうとする。
クラスタの価値は、既に述べたように、「面白さ」を共有していることで高まると考えられているため、有用な「身内」であることを示したい所属者たちは、積極的にその「面白いこと」を繰り返し、さらには誇張し、エスカレートさせていくことで、自分が「面白さ」を共有できる「身内」であることをアピールする。彼らはそのクラスタの内部において「ノリがいい」と評価され、これこそがそのクラスタに所属し続ける条件になる。
同時に、クラスタの価値とイコールである「面白さ」を共有できない存在を、クラスタとその「身内」は許さない。「面白さ」を疑うことは、すなわちクラスタの価値を疑うことだからだ。そのような「ノリの悪い」者は「身内」とはみなされず、クラスタから排斥される。
彼らにとってその価値感を共有できる「ノリのいい身内」こそが重要であり、それが世界の全てになっている。排斥すべき「ノリが悪い」人間などはまったく気にかける必要はない。 むしろそういった「ノリが悪い」人間を否定することによって、クラスタとそこに属している「ノリが良い」身内の価値を、身内の中で確かめていく。自分自身は排斥されないよう「ノリが良い」ことをここでもアピールしなければならない。
イベントで厄介行為をする者たちも、こういったクラスタの一つなのだ。
彼らはその狭い世界で、「イエッタイガー」、「ワールドカオス」、「アイアイ」というような厄介行為を「面白いこと」として認識し、共有する。
雑談に交えて、カラオケボックスで曲に合わせて、自分たちの中でそれが「面白い」という価値観を踏み固めていき、そしてとうとう、自分たちだけのものではないイベントにもそれを持ち込む。
厄介行為に耽る彼らをみて、私は不思議に思っていた。彼らの中には、手を頭上で激しく叩くために顔は俯いている者、全身に力を入れようと目を固く閉じ天を仰ぐようにして大声を出すもの、飛び跳ねながら頭を振り乱しているものがいる。自分の声で曲が聞こえていないのはもちろん、ステージもまるで見ていないがそれでいいのかと。
しかしこう考えてみれば、ステージ上のキャスト達さえ、彼らにとっては世界の外の存在なのだと気がつく。より激しい身振り手振りで自分の「ノリのよさ」を「身内に示せる」のであれば、ステージ上で何が起きているかさえも、彼らにとって問題ではない。
今披露されている曲に個々人がどんな想いを抱くかよりも、クラスタにとってその曲をどう認識しているかが優先される。「イエッタイガー」が入る曲、「ワールドカオス」が入る曲、「アイアイ」が入る曲、それぞれクラスタがそう認識しているのであれば、そこにノリ遅れるわけにはいかない。
彼らは、周囲の相反する感情に対して耳を閉ざす一方、同様の思想のクラスタが隣接すれば、たちまち共鳴して自分たちの価値観を補強する。
この“クラスタ”は、構成員が一人でも成り立つ。ネットや、他のクラスタからその価値観を仕入れた彼は彼の中でその価値観を踏み固め、自己を受けれない周囲をその心から排斥して世界を形成する。そこには人と人との間に生じる揺らぎが起きづらい為にかえって強固にさえなりうる。
彼らにまったく罪悪感がないわけではないのだろう。周囲の冷ややかな視線に負けて、声が小さくなってやがてどこにいたのかわからなくなっていくクラスタを見ることもままある。
所属者が価値観を維持できなければ、クラスタも維持できないのだろう。 近くの観客に厄介行為を直接咎められたクラスタの者たちが「それくらいで怒るなよ」と嘲るようにしてみせるのを目撃したこともあるが、自分たちの行為を肯定し、相手を狭量と否定するのもお互いをそう位置付けないと価値観を守れないということだろうかと思う。
心を安住させるクラスタと、そこへの帰属を守るため彼らもある種必死なのかもしれない。
しかし、そうと思い至ったところで、それに巻き込まれて自分がイベントにおける体験を彼らに台無しにされることを許容する余地は全く生まれなかった。
温かい目で見てやることはできない。とはいえ結局のところ、私たちに彼らの行為から身を守る方法もほとんどない。私が彼らの隣の席になった時、彼らが私にもたらす不快感から逃れるため、彼らの鼻がひしゃげる程度にぶん殴ったとして、正当防衛が成り立つのかは、判例があったら伺いたいところであるが、なければ当面は祈るしかない。
私たちがイベントに参加するとき、まずチケットが当たることを祈り、次に少しでも良い席につけることを祈って、最後に周囲に厄介なクラスタがいないこと、せめてそれが複数隣接しないことを祈るしかない。
例えそれが、推しの卒業に関わるような、取り返しようのないイベントであっても。
もっとも、個人的な認識でいえば、例えセットリストの変わらないツアーの内の1公演でも、その時間、その体験を後からとりかえせるイベントなど、ありはしないのだが。
(文字数オーバーで後半途切れたので再投稿。読んでくれた人ごめん)
話をしよう。だいぶ昔のことだ。すでに動画投稿を引退している。
当時を懐かしむために作った文章である。気に入ったら読み進めてほしい。
ニコ動投稿者としての初期は、若手社会人だった。大学を卒業して数年経った頃かな。コンビニでゲーム雑誌をめくると、『ニコニコ動画』がサービス開始してます~これから人気が出るかも!?という宣伝記事を見つけた。
サービス名称が気になったのと、コメントが流れる機能が目に付いた。動画をひとまず10本くらい見てみた。ようつべと同じような感じで、そこにコメントが流れている仕様だった。カオスよりはシュール寄りだった。
今でいう生放送やチャンネルはないし、アニメ1話単位の投稿は(アップロード容量の関係で)されないし、画質はイマイチだし、お洒落なMADもない。ランキングは50位までで、再生数やマイリス準拠だった。歌ってみたやボカロが流行り始めるのは、2007年半ば以降である。
ゲームプレイの切り抜きとか、面白画像のまとめとか、空耳とか、エロゲーのOPのみとか、動画だったら10分くらいで料理作るのとか、販売済映像作品の切り貼りとか、そんなのばかりだった。(フタエノキワミ、アッー!)
※昨年末頃、新るろ剣で左之助が二重の極みを会得する回があった
たまにR18の画像をまとめたものや、小学生が好きそうな下ネタ動画が流れてきた(1~2日以内に運営削除)。
でも、感じるものがあったんだろうな。だんだん見ていくうち、ゲーム実況とか、アニメ転載(2~3日で削除)とか、いろんなアニメやゲームキャラが一同に会するシリーズとか、ニコニコ動画組曲とか、コンテンツが増えていって、ドハマりした。
会員登録して約半年が経って、ニコ動のプレミアム会員になったあたりで自分も動画を投稿してみようと思った。
「一体どうすればいいんだ……?」と躊躇したものの、社会人経験が活きたのだろうか。結局、最初の動画を撮り終えてアップロードしてみた。一応は料理のネタ動画だったと思う。
うん、まあ……という感じだった。再生数はそんなに伸びなかった。でも、初心者としてはイイ線いってた。それからも動画投稿を続けたけど、やはり数千、運がよくて1万以上~しかし攻めすぎて運営削除という末路だった。
ある時だった。「自分が本当に好きなモノじゃないと高再生数は厳しいのでは?」と思うようになった。
当時はすでに2007年後半だった。ランキング上位に入ってる人の投稿動画って、転載切り抜きとかを除けば、プロレベルか、それに準ずるクオリティだった。
つまり、イラストが抜群とか、楽曲作りが優れてるとか、ゲーム実況が天才的とか、遊戯王MADみたいに面白センスが光ってるとか、そういうのだ。
でも、そういうのって、自分が好きだからこそできる。好きだからこそ、動作投稿サイトのランキング上位者って、その道にのめり込んで、ここまできたわけだろう。
俺にとっての『それ』は何だろうか。考えていったところ……『エロ』という凡庸な結論にたどり着いた。
小学生の頃は河川敷やそこらへんの雑種地、空き地にエロ本が捨ててあった。そういうモノですら気になっていた。今は、そういうのはない。白ポストが駅前にできたり、電子空間でエロを鑑賞する時代である。
中学生の頃は、同級生女子が油断してイロイロ見えてるところや、都市部での夜の学習塾の帰りに、大人がそういうことをしてるのを目撃したりした。
部活の遠征先で、対戦校の女子マネージャー数名が太腿~尻肉を見せつけるかのように壁にしゃがみ座りしてたのを見た時は、対戦相手への嫉妬で殺意が湧いたよ。学校でも家庭でも趣味の場でも、俺にとってはすべてがエロだった。
高校生の時は、同級生がそういうことに大変興味をもっていて……同級生の家に集まって、今でいうセクシーな動画をみんなで鑑賞したっけ。感想を述べあっていた。
「輪姦もののAVだが、実際には輪姦をしていないというのは、道徳的に正しい行為なのだろうか? 消費者を騙していないか?」
「阿呆か。女優の負担を考えろ。しかし、○姦もののAVだというのに、女優が騎乗位なのは気になるところである」
など、意見を交わしたのを覚えている。あとは、性行為を覚えた奴がいて、ガラケーで撮った写真を見せてもらって感動したのを覚えている。
大学生になって一人暮らしを始めてからは、やっぱりそういうDVDを買ったり借りたりした。高校生の頃からすでに、一人でR18の作品を本屋で買っていた。高校の制服姿で、堂々とした立ち振る舞いで、女子店員の時をむしろ狙って、そういうコンテンツを購入する。(女子店員の時、むしろ行け!! の精神)
そのクセは大学生になっても、社会人になっても、すでに小太りのおじさん管理職になった今でも変わらない。
エロへと繋がるコンテンツで、ニコニコ動画に投稿が可能で、それでいて自分の持ち技とマッチする……と考えていった結果、「替え歌はどうか?」という結論にたどり着いた。
あとは、歌唱の腕前だ。酒席の付き合いの中で、カラオケで歌った経験はそれなりにある。が、それだけだ。全然うまいわけじゃない。むしろヘタな方だ。しかし、カラオケの採点機械で70点は取れている。後は成長すると信じるほかない。
そんなこんなで、ニコ動に下ネタ系の替え歌を投稿してみた。既存曲をそういう単語やストーリーで置き換えたものだ。ずっとこれ一本でやってきた。
簡単なイラストを数枚付けて、あとは一発勝負である。投稿した後、一晩置いて動画を見ると……まずまずだった。初級者が投稿した動画は多くても100再生しか付かないが、俺の動画は数千再生だった。
一番よかったのは、投稿した動画を「おもしろい」と言ってもらえたことだ。それだけでもう、駆け出しの投稿者としては感無量である。嬉しかった。みんなにニコニコしてもらえたのが。
イラストも凝った感じにしていった。プロには遠く及ばないけど、それでもこだわりのイラストやアニメーションを載せて、ちょっとでも面白くなるように気を遣った。
それからも、1~2か月に1本の割合で動画を投稿していった。動画再生数は伸びていった。数万再生の人気になった。当時のニコ動だと、1万再生されれば人気作品という扱いである。10万再生で一流、100万再生で神。
当時のTwitter理論において、フォロワーやお気に入りやリプライ的なやつが増えれば増えるほど、投稿した元作品がみんなの目に入るようになる――そういう感じで、元作品(新たな投稿動画)は、初心者の動画に比べると信頼性がある――それでさらに皆の目に入るようになる、みたいなロジックが紹介されていた。
『六次の隔たり』である。今時の言葉でいうとネットワーク理論や、錯覚資産だろうか。高評価はさらなる高評価を呼ぶのだ。『マタイによる福音書』にも、「持っている者は与えられてますます豊かになり、持っていないものは持っているものまで取り上げられるだろう」とある。
過去に投稿した人気動画が、今投稿したばかりの動画を支えていた。結局、2008年くらいまで投稿を続けたのかな。約1年半の活動期間だった。過去に投稿した人気動画ってなんか、不労所得感がある。ぜんぜん不労じゃないけどさ。
実は当時、人事異動で忙しい部署に行くことが決まっていた。勤め人としての役目が優先だ。動画投稿は趣味である。
忙しい部署に移った後は、やはり本当に忙しくなり、動画投稿をするだけの精神的余裕がなくなった。あとは、声か。俺の投稿動画だけど、声の加工はほぼしてなかった。声質が丸わかりである。特定が怖かった。ちょうどその頃は、Twitterでよろしくない行為をした社会人が吊るし上げに遭うことがあった。
アディダスの広報の女性がスポンサー選手をディスったとか、ホテル従業員が芸能人の利用をネットで報告したとか、そういう案件でボコボコに叩かれてるのを見ると、「自分もヤバいかも」という考えが浮かんだ。
投稿動画で使っていた曲も、許諾を取っているのは皆無だった。権利者によるお目こぼし状態である。リスク回避という社会人意識がニコ動から俺を遠ざけた。
自分の判断の結果だから後悔はしてないよ。それでよかったと思ってる。下ネタの替え歌なんか、バレたら恥ずかしいなんてものじゃない。それも法令違反。社会人としてキズが大きい。
それから長い月日が経って……忙しい部署で相当長いこと勤め上げた俺は、また別の地方支局に人事異動で移った。そして、30代後半で管理職になりましたとさ……めでたしめでたし、で終わればよかったのだが。
今度はあまりの暇具合に辟易するようになった。前の部署がキツイ部署だったので、人事部局が配慮してくれた。「暇な職場で休憩」というメッセージである。
その地方支局がある市町は、有名どころの百貨店が進出してないエリアだった。高島屋とか松坂屋とか伊勢丹とか、そんなの一切ない。天満屋ならあるのだが。
暇な時間があるなら楽しんでみては~と思ったが、ここは田舎である。東京に比べて面白いコンテンツは少ない。自分で見つけるしかない。時間がかかりそうだった。
例えば、都内だったら、今ニコ動で活躍してる有名投稿者……miniさんの友達の、東北ずん子を使う料理・旅行の実況者がいたと思うのだが、あの人達が取材で行くような面白いスポットが、この中核市にはひとつもなかった。
昔ながらのローカル百貨店と、人通りがほぼない商店街、昭和のスナックやラウンジ――中核市なので若い連中は多いはずなのに、まちおこしのイベントがロクにない。
人口はすでに飽和状態で、後は減るだけ……そんな地方都市だった。
しかも、エロに興味がある俺が、引っ越し前に入念に下調べをしたのだが……実は、この地方都市には有名な風俗街があって、1万円+αで本番ができるヘルスが立ち並ぶ地域があったのだ!!
それらの箱ヘルだが、俺が異動する数年前に警察の摘発に遭って全滅していた……悲しい事態だった。今でも、ここは中核市だというのに、ソープも含めて本番ができる店は一切ない。
残された手段は、ホテヘルやデリヘルで本番をさせてくれる、それくらい強い信頼関係を嬢と築く以外に道はない。
そんな状況で、当時の俺は……もう一度、動画投稿をしてみようと思った。ネタはもちろん替え歌である。
毎日があまりに退屈だった。刺激がほしかった。昔の投稿動画をふと見る機会があって、感慨を覚えたのがきっけである。あとはファンの声とか。
最後の投稿から長い月日が経っていたが、俺が投稿した動画には、まだ人が集まっていた。主にはノスタルジーを感じてる人達だ。ニコニコ動画の中では、俺はもう「終わった投稿者」である。
でもさ、年齢は関係ないじゃん。40才が近い投稿者でも、やってやればいいんじゃないか。
人気の投稿者だと、30才くらいまでの若い人(※先ほど挙げたminiさんの友達の青海さんなど。youtubeだと、セミやマイナー貝やザリガニを野外調理して食べる若い兄ちゃんや、下半身が動かない女の子とか)が多いんだろうけど、別におっさんだって投稿すればいいじゃん。きっと、ひろゆきだってそう言ってくれる。
もう一度、過去のネタを参考にしつつ、替え歌の動画を投稿することにした。昔に比べてやりやすそうだった。
カメラ等の撮影機材は進化してるし、下手くそな歌は社内社外のカラオケで鍛えて上手くなった。今時流行りの曲だって、80点以上は安定して出せる。編集ソフトの進化により、少しのミスは撮り直さなくていい。
一番よかったのは、ニコニコ運営が楽曲の著作権関係を整理してくれたことだ。投稿者が今時の楽曲を歌うのは、著作権を侵害しない行為になっていた。
そして……実際に、新作動画を投稿したのはいいが、昔ほど人気は集められなかった。視聴者は、昔からのファンが多かった。新規の人もいたけど。皆にニコニコしてもらえてうれしかった。
それから、何本も動画を投稿していった。暇な時間はたくさんあった。ほぼ必ず定時で上がれるので、飲みに行く日とか、セクシーな動画を見る日とか、そういう日を除けば替え歌動画を作りたい放題だった。
再生数・マイリス数は十分だった。みんな、俺が作った動画を見てニコニコしてくれた。数万回の再生がコンスタントに取れた。しかし……数年間投稿して、メガヒットはひとつも出なかった。若い層が投稿動画を見ていない。
楽曲選びのせいもある。自覚はあった。例えば、サイバーダムのカラオケ人気曲ランキングで上位になってるのがあるだろう。昔からそうだけど、あのランキングで上位になる曲って、中高年世代を基準にしてる。
有線放送もそうだ。飲食店の有線放送で流れてくる曲って、90年代~00年代の人気曲がほとんどだ。今の20代が聞いてもわかんないよ。ところで、俺が若手社会人の頃に、先輩方がよくカラオケで歌ってたのは、T-BORANや酒井法子など、あの世代の楽曲が多かった。(壊れかけのRadio~♪♪)
再生数が伸びない最大の原因は、俺自身の感性が鈍ってた。投稿動画は過去作の焼き直し感があったし、中年世代が子ども・若者時代を懐かしんでる替え歌もあった。ノスタルジーである。
しかし……今時の若い人が聴いている・歌ってるような楽曲(YOASOBIとか)の替え歌を投稿すると、再生数が伸びた。平均再生数が1~2万とすると、そういう楽曲は5万再生以上になった。
ちなみに、俺が若い頃に投稿した人気動画は、最高で300万再生である。今思えば、あそこまで情熱をもって取り組んだのは人生で初めてだった。そんな気概は……まだ少しはあるけど、創造性は燃え尽きつつある。
今はもう引退してるって、冒頭で書いた気がする。文字どおり本当の引退である。事前にファンの人に説明するまでもなく、全ての動画を削除した。問答無用である。
理由は2つあって……また新しい部署に異動になったのが1点。関東にある重要拠点のひとつだった。忙しい日々になりつつあった。
2点目が圧倒的なのだが、「著作権法違反」ということで、俺のSNSでの連絡先に警告が届いた。カラオケのランキングで上位に入るような曲を作ってる大手音楽プロダクションからである。あなたが社名を知ってる可能性はとても高い。
自分が投稿した動画、ダメなんだってさ。だって替え歌だから。ニコ動で歌うことが許されてるのは、あくまで本来の楽曲であって、替え歌は対象外である。考えが足りなかった。
これこそが、替え歌を作って投稿すること自体が法的リスクのある行為だった。わかってなかった。メール文には「今後投稿を続けるようであれば、法的措置を行います」とあった。
別の人で、同じニコ動で福山○治(ふくやまぴーはる)さんという投稿者がいたのだが、この方も、ある時いきなり投稿動画をすべて非公開or削除にしたのだった。人気の投稿者であり、HoneyWorksの「可愛くなりたい」などを福山雅治の声で歌って、500万再生以上を叩き出していた。
彼も、同じような理由なのだろうか。芸能事務所や音楽プロダクションからすると、替え歌動画ほど下品ではないにせよ、無許可の二次創作だったのは間違いない。
そんな事情で、そろそろ頃合いかと思って完全引退を決意した。ほかの投稿動画についても、警告するまでもなく訴訟という可能性もある。申し訳ないけど削除した。
悲しかったけど、しょうがないのだ。他人様のふんどしをお借りしていた。それを元に戻しただけだ。作品を天に返したのである。
これで日記は終わりだ。今は会社員として幸せにやってるつもりだ。
今これを読んでおられる方にも、替え歌動画を見てくれた方がいるかもしれない。
事前告知はできなかったけど、感謝を伝えたい。応援ありがとうございました。Permalink | 記事への反応(5) | 11:10
https://fan-net.tokyo/NewSong/202401sale.html
2024年リリース楽曲から調べてみた ※2024年リリース以外のリマスターやカヴァー、featuring団体名は避けてます
東京 林和希
Nakameguro House ALAN SHIRAHAMA
Setting Saile~モダンラブ・東京~ Awesome City Club
New York, New York I Don't Like Mondays.
おきなわ D-51
Tokyo Night Dreaming feat.No Rome SKY-HI, REIKO, No Rome
TOKYO BLACK HOLE 三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE
以上!
藤井風とか曲に方言を持ち込む地方色を持つミュージシャンはいるものの、地名がテーマの曲となると東京だらけで共感性から地方は死んだのかなと感じた
うたの☆プリンスさまっ♪というコンテンツに出会い、QUARTET NIGHT(通称カルナイ)のファンになって5年が過ぎた。
カルナイのピークと言っていい2018年にファンになり、キャストである鈴木達央氏を耐え忍ぶという急降下を経験し、いよいよ単独ライブ「TABOO NIGHT XXXX」が全国の映画館で上映される「カルナイイヤー」を迎えた2025年、カルナイへの気持ちは増すばかりだ。
しかしコミュニケーション能力に難がある私にはカルナイの「よさ」を共有できる友人が一人もいない。そもそも友人がいない。
だからここに、いちカルナイファンとしての気持ちを、どこかのカルナイファンと共有できるかもしれないというわずかな希望をもって記すことにした。
うたの☆プリンスさまっ♪(通称うたプリ)の原作は、アイドルとの恋愛が売りの乙女ゲームだ。
それがアニメ、キャストライブ、スマホアプリゲーム、3Dライブ、ライブ映画、SNS、ラジオと活躍の場を広げていくうちに、アイドルコンテンツとしての支持層も獲得し、CDをリリースすればある程度の売上は見込めるまでのジャンルに育っている。
うたプリの最大のいいところは、「アイドルはこの世界に実在する」という建前を取ってくれるところだ。アイドルは公式SNSで日常生活やメンバーとの交流を報告してくれるし、公式は「描き下ろしイラスト」ではなく「撮り下ろしフォト」と言ってくれる。声優(キャスト)も「神宮寺レンとあなたをつなぐ諏訪部順一です」「美風藍の親友の蒼井翔太です」などと言ってくれるので強めの幻覚が見れる。とてもありがたい。
アイドルグループとしては3グループあり、いずれもグループカラーが明確で住み分けが出来ているので、きっと誰しもがどれか1グループは「刺さる」ようになっている、と思う。
ST☆RISH(通称スタリ)はシャイニング事務所所属の7人組の王道アイドルグループであり、言わずと知れたコンテンツの顔である。ちなみに原作のゲームにはスタリというグループは存在せず7人のソロアイドルとしてストーリーが展開される(グループ結成はアニメ軸)。
スタリのよさは何と言っても「多幸感」だと思う。
アニメにも描写があるが、スタリの曲を聴くと温かく幸せな気持ちになる。「生まれてきてくれてありがとうね」って言ってくれるし、「君の名も含めST☆RISH」って歌ってくれる。「ST☆RT OURS」という曲に至っては優しさに満ちていて、鬱のときに聴いたらスタリ担でなくとも泣いてしまう。
7人とも個性豊かだけど共通して精神面が大人で平和主義なので癒しと元気を求める人に全力でオススメしたいグループだ。
HE★VENS(通称ヘヴ)はレイジング事務所所属のアイドルグループでこちらも7人組。昔はST☆RISHのライバル的存在であったが共演回数が増すにつれて仲間のような立ち位置になっている。個性豊かなプリンスの中でも一際個性的で、だけど喋ると何だか可愛い、そんなメンツが揃っているように思う。
ヘヴのよさは、良い意味で宗教性の強いところだと思う。とにかく世界観がある。
メンバー同士がメンバーという関係性でなく「家族」であると公言しているし、ファンを「エンジェル」と呼び精神的にも強固に結び付いている。楽曲も宗教楽曲のような荘厳さがあり、ダンスも一糸乱れぬシンクロダンス。3グループ合同ライブでも初見で強烈なインパクトを残すのでこのジャンルにおける「新規ホイホイ」となっている。
QUARTET NIGHT(通称カルナイ)とは、シャイニング事務所所属の4人組アイドル、スタリの先輩という位置づけである。
当たり前だがどのグループにもよい部分、悪い部分があり、カルナイも然りである。
後ほどカルナイのよさを何の気兼ねなく叫ぶためにも、その前にカルナイのよくない部分を語っておきたい。
鈴木氏の賛の部分は後述するのでここでは否を語っておく。
カルナイの最大のウイークポイント、それはメンバー黒崎蘭丸のキャストである鈴木達央氏だ。
鈴木氏は元々失言が多く、スキャンダル前からジャンル内ではしょっちゅう叩かれている人だった。カルナイファンの私としてもヒヤヒヤするような軽口が多い人という認識だった。
そこにあのスキャンダルを起こした。ジャンルという小さな枠を超えて一般層にまで届いた醜聞で、鬼が金棒でぶん殴ってきたかのような衝撃だった。公式から鈴木氏続投のお知らせが発表されるまで、カルナイがなくなるかもしれない、蘭丸がいなくなるかもしれないという恐怖で、大げさではなく身体が震えた。
蘭丸ファンも目に見えて減ったし、きっとこれから付く「タブナイ新規」もこのスキャンダルの影響で本来よりも少なくなるんだろうというのは想像にかたくない。
これはよさでもあるし、よくなさでもあるなという部分であるが、カルナイの圧の強さが苦手でスタリとヘヴだけ推しているという人も見かけるくらいカルナイの圧は強い。
カルナイが巷でよく言われる批判は「上から目線」「後輩の前で(ファンの前で)喧嘩するな」「嶺二が可哀想で見てられない」等々だが、全くもってそのとおりである。
いよいよ本題。
(前提として、うたの☆プリンスさまっ♪というネーミングだけあってスタリもヘヴも当たり前に歌が上手い。その上で)カルナイは4人組だが、見事に高音、中高音、中低音、低音と得意な音域が分かれており、しかもそれぞれがボーカリストとして高い技術を持って存在してる。
音源でもライブでも、お互いの存在を確かめ合うように歌い、お互い煽り合うように相乗効果で伸びていく。
カミュのキャストである前野氏が「4人で歌ってると何だか無敵な感じがする」と言っていたが、聴いているとまさにそんな錯覚に陥るのだ。
決してスタリの歌のように多幸感を得られるわけではないが、カルナイの歌を聴くとずっとこの音楽を聴いていたい、私はこの音楽を聴くために生まれたのだ、という気持ちにさせてくれる。
ここからはメタ的な話になるが、キャストで見たときに森久保氏、鈴木氏、蒼井氏は、声優個人として音楽活動をしており元々歌が上手い人たちだ。対してカミュのキャストの前野氏はカルナイ以外では音楽活動をしておらず、本人もそれを気にしているような発言を何度かしている。
そんな中、カルナイのキャストは、カルナイとしての場数を踏むにつれて明らかに全員がスキルアップしている。
特に前野氏は、初期の楽曲である「QUARTET★NIGHT」と比較して、最新楽曲である「TABOO NIGHT XXXX」ではラップのようなウィスパーボイスも巧みにこなし、耳を疑うほどの成長を遂げている。
また、元々歌の上手い3人も、近年では更に難易度の高い楽曲に挑戦したり、繊細なニュアンスで歌詞の行間を伝えてくれたりと新しい顔を見せてくれている。
私はカルナイ自身も大好きだが、このカルナイのキャストの「カルナイのためにスキルアップする努力を惜しまない」ところも大好きなのだ。
「JINN - Ω - RAY」の歌詞そのままに「1秒先の未来すらも進化している姿」を見せてくれる4人に心から感謝したい。
見出しにキャストの、とわざわざ付けた理由は単純で、カルナイのダンスは個性的過ぎてバラバラで個人的には好みではないからだ。
そしてキャストのダンスをわざわざ列挙する理由は、ダンスが本職のアイドル並みに上手いとか、そういうことではなく、前述した歌にも通じることだが「カルナイのためにここまでの努力してくれる姿」が好きで、そこに愛を感じ、その気持ちがありがたいという理由である。
前述のとおり私は、鈴木氏には一種恨みのような感情を抱いてはいるが、同時に感謝してもしきれないほどの恩を感じている。その最たるものが「カルナイキャストのダンス」である。
鈴木氏が、ダンス経験はないが蘭丸のために踊ると決意してくれたこと、森久保氏が当初ダンスの難易度を下げようとしたときに「ダサいっすよ」と発破をかけてくれたこと(それに森久保氏が応えてくれたことと含め)、何ヶ月も前から練習に入ってメンバーの士気をあげてくれたこと…キャストライブでカルナイがここまで「踊るグループ」になったのは、紛れもなく鈴木氏の功績である。
カルナイのメンバーは嶺二以外、第一印象があまり良くないタイプだが、知れば知るほど沼る依存性がある。以下に簡単に書いておく。
カルナイ最年長で精神的支柱。嶺二の存在がカルナイを存続させている。
愛嬌があって人当たりがいいが芸歴が長く、あの一ノ瀬トキヤに「食えない人」と言われるほど手の内を見せない。
大人っぽさ、無邪気さ、繊細さ、色気、清純さ…嶺二の中に全てを感じて多面性に沼る。
柄は悪いが根は優しく、面倒みがよい兄貴肌。弱気を助け強きをくじく。料理も上手く、意外にも言葉で気持ちを伝えてくれるタイプなうえ、記念日に花束を買うマメさまである。実は欠点がないスパダリなので普通に沼る。
カルナイ最年少。
とある事情から世間知らずなところがあるが純粋で真っ直ぐ。最年少なのにことあるごとに先輩風を吹かせてくるところがかわいいので年下男子好きは沼る。
優しい「執事モード」と偉そうな「伯爵モード」を持つ二面性アイドル。どれだけ砂糖を食しても病気にならない頑丈な内蔵を持つ。この態度のデカさでカルナイの年下組という事実が愛しい。
とにかくゲームはAIIStarAfterSecretまでしてほしい。そこまでやらないとカミュのよさは伝わらないし、ASASまでやればもう沼ってる。
スタリのメンバーには同室組という、旧ジャニーズでいうシンメのような存在のメンバーがいるが(セシル以外)、カルナイにはそういった概念が存在しない。ただ4人しかいないため各組み合わせにファンがいる。
カルナイ年長組。蘭丸から嶺二への当たりは強いがお互いを認め合っていて、相方、相棒と公言している。
原作で、嶺二が自分(藍)と他人(藍似の嶺二の友人)を重ねて見ていると気づき拗ねる藍がとてもかわいい。
ひたすら塩対応なカミュとそれを包容力で受け止める嶺二。上辺なようでたまに芯をつく。
これぞカルナイというやり取りが拝める。
蘭丸の兄気質と藍の弟気質が発揮される組み合わせ。ASASの藍ルートでの自転車のくだりがオススメだ。
あと普通に歌が上手い。
カミュが喧嘩を売って蘭丸がそれを買って一生喧嘩してるいるが、大体蘭丸は悪くないことが多い。
流石のカミュも藍には優しい(優しくはない)。
2021年に開かれたうたプリの合同キャストライブ(マジLOVELIVE7th STAGE)では鈴木氏がスキャンダルの影響で欠席となった。
そんな中、登場した3人は、3人でカルナイのユニット曲をパフォーマンスして3人のソロ曲を披露したあと、蘭丸のソロ曲を踊ってくれた。
その合同ライブでソロ曲をしたのが3グループの中でカルナイだけだったので当然叩かれたが(当時も、今でも叩かれたのは当然だと思っている)、3人が叩かれるのを覚悟のうえでこの方法を選んで、蘭丸をステージに立たせてくれたその気持ちが嬉しかった。
3人には、カルナイを守ってくれてありがとうとお礼を言いたい。
これから映画館で、きっとそのあとにはどこかのライブ会場で、カルナイの音楽を浴びれる。しかもその音楽は今よりも更に進化した音楽だ。
自分の世代では珍しく、ニコ動やボカロを視聴しないオタクだった。
画面の上にコメントが流れるとコンテンツが見えにくいからnicobox派だったし、好きなカテゴリは料理動画とASMR。合成音声や人力の音をうまく聞き取れず、楽しみ方がよくわからなかったのだ。
にちゃんでSSを読み漁って生き延びたガキが大学に入って初めて行ったカラオケで、オタクたちはニコ動のミーム楽曲やボカロ曲を歌う。でも私はそれらを聞いて育っていないから、他の好きなアニソンを歌って帰った。
彼らは自分の前に歌った曲の関連楽曲や同じPの曲を入れて、流れを楽しんでいたのに、いつも私が空気を読めなかった。
ある時Vtuberの存在を知った。Vtuberが歌うボカロ曲の「歌ってみた」が楽しめると気づいて嬉しかった。歌い手はニコ動、ツイキャスにもいたのに。
曲を聴こうと思う時、その歌を好きな誰かに紹介されて「出会う」と思う時がほとんどで、Vtuberは多分その媒介になったんだと思った。
Vtuberの歌ってみたのおかげで、オタクたちのカラオケでも空気を読んだ選曲ができるようになった。
だけど、歌える曲が増えるようになってから、自分の好きな曲を選曲する後ろめたさを感じるようになった。
オタクグループでは私抜きのカラオケが何回か開催されている。私の知らない、お互いの共通界隈の曲を歌って盛り上がっていると思う。そうあって欲しい願いがある。
プレイリストを送り合っても、一緒にカラオケに行っても、知っている曲は少ないけど、初めて聞いたメロディやリズム、詩を歌う声がどこか光っているように感じて、新しく好きになる曲が増える。
なのに、私は誰に紹介されても、合成音声のままの曲を美しいとは感じられないと思う。
サブスク音楽サービスは複数あるが、Amazon Music Unlimitedは不具合が多すぎたので全くおすすめ出来ない。
注∶他に使った事があるサービスはSpotifyぐらいなので、音楽サブスクに詳しいわけじゃないです。あくまでAmazon Musicへの不満が溜まった、n=1の感想と捉えてください。
●起きた現象
自作プレイリストの曲数が1000を超えたあたりから動作が重くなり、不具合が頻発する。2〜3年使っていたが、常用していたプレイリストの中身が消えたことが2回ほどあった。
・androidのAmazon Musicアプリで、プレイリストから曲を削除しようとするとエラーが発生し、曲が残ったまま
↓
・もう一度同じ曲を消そうとすると、再度エラー
↓
・怪しいと思い、プレイリストを開き直すと、曲数がバグって、同じ曲が複数表示され、大半の楽曲が消えている。
↓
・カスタマーサポートに問い合わせるも、プレイリストの復旧は不可。
↓
・一年契約だったので、途中で解約して残りの月数分返金できないか相談するも、それも不可。
今思うと、1回目のプレイリスト消失バグで乗り換えるべきだったが、年間契約が残っていたのでお金も勿体ないし、大丈夫だろうと使い続けてしまった。正常性バイアスって怖いね。
何ヶ月も掛けて集めたお気に入りの曲ばかりのプレイリストが消えたのは、自室のCDの棚が消えたかのような喪失感だった。
ちなみに、Amazon Music内のフォーラムにも、同様のプレイリスト内の曲が消える報告は多数あった。
解約して他のサービスに乗り換える予定だけど、同じような目に遭う人を減らしたいと思ってこのポストを書いている。
●考えられる対策
・プレイリストを複製してバックアップ代わりに→Amazon Musicのサービス内では複製できない(はず)なので、バックアップは取得不可。
・外部のプレイリスト移行サービスなどを使ってSpotifyなどに書き出す→バックアップは取れるだろうけど、500曲以上は課金必須なのでハードルが高い。
●まとめ
・大量の曲を一つのプレイリストに入れてシャッフル再生といった運用をするなら、AmazonMusicは非推奨。プレイリストが壊れる危険性がある。
・公式のプレイリストをBGM代わりに流しておくぐらいであれば、特に問題はないと思う。何だかんだで音質は良かった。Alexaとの連携もある。
・みんなSpotifyを使おう!
ブランドイメージの向上: 高級時計ブランドと比較される形で登場したにも関わらず、カシオは自虐的なユーモアでこの状況を乗り切り、親近感のあるブランドイメージを確立しました。
若年層への訴求: シャキーラさんのファンを中心に、若い世代へのブランド認知度が大幅にアップしました。
グローバルな注目: シャキーラさんは世界的に有名なアーティストであるため、この騒動は各国で報道され、カシオのグローバルなブランド認知度も向上しました。
SNSでの話題性: この出来事は、SNS上で大きな話題となり、多くのユーザーがカシオに関する投稿を行いました。これは、カシオにとって無料の宣伝効果をもたらしました。
カシオ側は、この事態を逆手に取り、シャキーラさんの楽曲をネタにした広告を作成したり、SNS上でユーモアのあるコメントを投稿したりするなど、積極的な広報活動を行いました。この迅速かつ巧みな対応が、ブランドイメージの向上に大きく貢献したと言えるでしょう。
この出来事は、マーケティングの世界で「ネガティブな出来事をポジティブに変える」という成功例として、しばしば取り上げられます。シャキーラさんの楽曲とカシオの対応は、企業が危機を乗り越え、ブランドイメージを向上させるための重要な教訓と言えるでしょう。
シャキーラさんの楽曲は、カシオにとって思いがけない形で大きな宣伝効果をもたらしました。この出来事は、現代のマーケティングにおいて、SNSの力や、危機をチャンスに変えることの重要性を改めて示すものであったと言えるでしょう。
私がSMAPというグループと出会ったのは、小学生の頃にテレビで偶然見た音楽番組がきっかけでした。最初に目に留まったのは、センター付近に立って元気に歌い踊る5人の姿。その中でもひときわ明るい笑顔で、パフォーマンス中にも関わらず絶え間なく周囲にツッコミを入れたり、メンバーをいじったりしていたのが中居正広くんでした。当時は「歌っている最中なのに、こんなにしゃべっていて大丈夫なのかな?」と幼心にも不思議に思ったのを覚えています。けれど、その自由奔放な雰囲気がとても面白くて、気づけば私はすっかりSMAPの番組を追いかけるようになっていったのです。
バラエティ番組での中居くんは、他のアイドルとはひと味違う存在感がありました。いわゆる「アイドルらしさ」よりも、芸人さん顔負けの切り込み方や、気の利いたコメントで場を盛り上げる姿が際立っていたのです。もちろん、格好良く歌い踊る姿も素敵でしたが、それ以上に私が惹かれたのは中居くんが見せる“MC魂”のようなもの。言葉で人を笑わせ、安心させ、時には厳しく指摘もするけれど、最後にはその場にいるみんなをちゃんと大事にする。その姿勢がSMAPというグループの垣根を超えて、多くの芸能人や視聴者から愛される理由だと感じていました。
SMAPを語るうえで欠かせない番組のひとつが、やはり『SMAP×SMAP』です。バラエティとコント、トーク、そして料理コーナーの「BISTRO SMAP」と、まさに総合エンターテインメント番組と呼べる内容でした。そこでも中居くんは、進行役やツッコミ役として重要なポジションを担っていました。毎回ゲストを交えながらのトークパートでは、中居くんならではの話の引き出し方が際立ちます。ゲストの経歴や最近の出来事を聞きだしながら、時にはメンバーを巻き込んで笑いを作る。そして相手のちょっとした仕草や失言を絶妙につつきつつも、どこか愛情を感じさせる口調でまとめ上げる。そのやり取りを見ていると、ゲストも居心地の良さそうな雰囲気を醸し出していたのが印象的でした。
さらに印象深いのは、メンバー間の関係性です。木村拓哉さんがグループの顔としてクールなオーラを放ち、草彅剛さんが少し天然めいた穏やかさで空気を和ませ、稲垣吾郎さんが知的でスマートな振る舞いを見せ、香取慎吾さんがアーティスティックかつお茶目なアイデアマンとして盛り上げる。その中心で、中居くんはまるでお兄ちゃんのように全員の特徴を把握し、それぞれに合わせた的確なツッコミやフォローを入れていました。SMAPのバランスを保つ“司令塔”というか、“まとめ役”としての役割があったからこそ、あの自由奔放な個性派の集団が一つの大きなエンターテインメントを生み出すことができたのだと思います。
中居くんの思い出を語るなら、『うたばん』も外せません。石橋貴明さんとタッグを組み、ゲストアーティストを迎えてのトークは、時にアイドル番組とは思えないほど鋭いツッコミとボケが炸裂し、毎回手に汗握るような面白さがありました。アイドルなのに、ここまで突っ込んで大丈夫なの?と心配になるほどの攻めた展開。でも中居くんも石橋さんも、相手の魅力を引き立てるために全力で盛り上げているのが伝わってきました。ゲストとの絡みの中で、ちょっと厳しいことを言っても笑いに変える技術や、相手が負担に感じないように言葉を選ぶバランス感覚は、まさに“番組MC”としての腕前そのもの。多くの人気アーティストが『うたばん』に出たがる理由の一つに、中居くんとの掛け合いが生む“ハプニングからの面白さ”を求めていた、というのも納得でした。
また、『FNS歌謡祭』や『NHK紅白歌合戦』など、大規模な音楽特番でも中居くんはMCや司会として活躍してきました。特に長時間の生放送において、時間管理や進行、そして突然のアクシデントへの対処など、さまざまな能力が求められます。そんな状況でも、中居くんはほとんど動じることなく、次に話を振る相手を見据えて瞬時にコメントをまとめあげる。その柔軟性と仕切りのうまさは、幼い頃にバラエティで見せていた“自由さ”と表裏一体だったように思います。即興のやり取りが求められる中でも、彼が必ず忘れないのが「周りへの気配り」。カメラに映っていない場面でも、共演者に小声で指示を出したり、笑顔でフォローしたりと、その人柄がにじみ出ていました。
そして、一ファンとして忘れられないのが、ライブでの中居くんの存在感です。ダンスや歌のスキルに関しては、他のメンバーのほうが得意とされることも多かったかもしれません。だけど、中居くんがステージの真ん中で煽りの声を出すと、会場全体がぐわっと盛り上がるのを肌で感じた瞬間が何度もありました。MCタイムでは、時にメンバーをからかいながら、時に客席に向かってユーモアたっぷりに語りかけながら、あっという間に空気を一つにしてしまう。あの空気感は、リーダーとしてファンとの距離を一番近くに感じさせてくれる、特別なものだったと思います。
また、中居くんは時に“ヘタレキャラ”を自称することもありました。運動会やスポーツ番組などでほかのメンバーに比べて活躍が今ひとつだったり、本人が「オレ運動苦手だから」と照れながら言い訳をしたりする場面もしばしば。でも、そういうところも含めて、ファンとしては親しみを感じるポイントでした。完璧すぎないところがまた魅力で、「自分を落とすことで周りを立てる」というサービス精神が根底にあるように思います。
バラエティの場面だけでなく、人をサポートする姿勢はSMAP全体にも影響していました。メンバー同士がバラバラの仕事をたくさんこなす中で、それぞれが様々な経験を積み、時に悩んだり迷ったりすることもあったはずです。そのときに「チームとしてどう進んでいくか」を考える上で、中居くんがリーダーの立場から柔軟にメンバーを受け入れ、必要に応じて背中を押したり、時には厳しく叱咤したりしてきたのではないかと感じます。表向きには冗談混じりで「俺がリーダーだって言ったことは一度もないんだよね」なんて語ることも多かったですが、実質的には最年長としてグループをまとめる心配りを常にしていたように思えました。
個人的に好きだったエピソードの一つは、番組収録の合間や楽屋で他メンバーと何気ない会話をしているときの話。メンバーが新しく始める企画やドラマに対して、中居くんは「それ、いいねえ!」とすごく興味を示しつつ、具体的にどう盛り上げられるかを一瞬で考えていたというエピソードです。それを聞いたとき、「ただ楽しいねって言うだけじゃなくて、どうやったら番組として面白くなるか、どうやったら視聴者がワクワクするかを常に考えているんだな」と感心しました。アイドルでありながらプロデューサー的視点を持っている、そんなところが中居くんのかっこよさの一つだと思います。
SMAPが多くのヒット曲を世に送り出し、国民的なグループとして君臨した理由はさまざまあるでしょう。メンバー一人ひとりのスター性や楽曲の良さ、ドラマや映画での活躍などの要因が重なり合っての成功だったと思います。でも、その大きな渦の中心にいたのが、中居くんの存在ではないでしょうか。ライブや番組の構成を考え、グループの方向性を冷静に見極めながら、必要なときに自分が矢面に立って場を和ませる。その絶妙なバランス感覚が、SMAPを一つにまとめる大きな支柱になっていたように思います。
長い年月を経て、SMAPというグループは大きく形を変えました。それでも、私たちの中にはSMAPが残してくれた多くの思い出や楽曲、番組での名シーンが色あせることなく生き続けています。特に、笑顔あふれる中居くんの姿は、当時のファンにとっては鮮明に焼き付いているはずです。自分たちが楽しむだけでなく、視聴者やファン、そして一緒に仕事をする仲間を思いやる彼の振る舞いは、バラエティ番組を中心にした日本のエンターテインメント界にとって一つの理想像だったといえるのではないかと思います。
もちろん現在の活動でも、その経験値をフルに活かして、さらに磨かれたトークスキルを見せてくれています。しかし、私たちファンが時々思い出すのは、まだ若くて少しやんちゃさもあり、どこかいじられキャラでもあった“旧SMAP時代”の中居くんの姿。テレビの前で腹を抱えて笑ったり、ライブ会場で一緒に声援を送ったりしていたあの頃は、私にとっても青春の一部でした。彼が楽しそうにメンバーとの掛け合いを見せてくれるたびに、「ああ、SMAPって本当に仲がいいんだな」と感じられて、それだけで明日からの元気をもらえたものです。
今振り返ってみても、あれほど多種多様な才能を持ち寄りながら、しかもバラバラな個性をしっかりまとめ上げるグループはそう多くないように思います。中居くんはその中でも特に、「自分が楽しいと思うこと」を軸に、周りの人たちにも楽しさを広げる才能があるのだと感じます。彼が時折見せる優しい表情や、言葉の端々ににじむメンバーへの思いは、画面越しでも十分に伝わってきました。だからこそ、笑いにあふれたSMAPのバラエティやコンサートを思い浮かべると、自然とこちらも笑顔になるのだと思います。
旧SMAPの中居くんを思い返すとき、私が一番大切にしているのは「温かさ」と「笑い」です。さまざまな番組やライブの中で、彼がファンや共演者、そしてメンバーに注いでいたものは、アイドルを超えた一種の“人間らしさ”のような気がします。ステージの上でギラギラと輝くだけではなく、どこか隣にいそうな親しみやすさで、でも気づけばしっかりと中心に立って場を回している。そのギャップこそが、中居くんを唯一無二の存在にしている理由ではないでしょうか。
私にとってSMAPというグループは、思春期から大人になっていく過程で、たくさんの楽しみや感動を与えてくれた存在でした。その中心でいつもバラエティ豊かな笑いを提供してくれたのが中居くんです。リーダーでありながら「リーダーらしくない」態度を取りつつ、それでも大事なところでメンバーを一つにまとめる。そんな中居くんの姿に、今でも私は元気や勇気をもらいます。たとえ環境が変わり、活動スタイルが変わっても、あのころの明るい笑顔と思いやり溢れるトークは、ずっと色褪せずに心に残り続けるのだと思います。
こうして改めて振り返ってみると、“旧SMAP”という一つの時代を象徴する存在の中で、中居正広くんがどれほど重要な役割を担っていたのかを再確認することができます。彼が築き上げてきたバラエティでのポジションやメンバーを支えるリーダーシップは、簡単に真似できるものではありません。これから先、さらに活躍の場を広げ、より自由な形でエンターテインメントを創造していく中居くん。その姿に触れるたびに、私は「やっぱりあの頃のSMAPは最高だったな」と、懐かしさとともに温かい気持ちになるのです。今でも繰り返し見たくなる映像やライブ音源がたくさん残っていることを幸せに思いつつ、これからもずっと、あの輝かしい記憶を大切にしていきたいと思います。
数ヶ月前にブルアカを始めたが、結論から言うと「何が面白くてこんなに人気あるんだ……?」という感想が出た。
そもそもとして私は今時の巨乳キャラが気持ち悪くて大嫌いで、過度な露出だとか胸やお尻等の特定部位を強調させるような絵には辟易としてて、それが嫌で辞めたソシャゲもいくつかあるんだけど、ブルアカも例に漏れず該当する作品でリリースから数年は全く興味無かった。
ただ、ある程度前から物凄くツボに刺さるキャラが居るという事を知ってそれでプレイするかどうかずっと悩んでて、悩んだ末にとりあえずプレイしてみることにした。
チュートリアルの時点で「あぁこういう感じの巨乳キャラが事ある事にストーリーに出てくるのか。嫌だな」と思ってしまったので、チュートリアル以外のストーリーは全部飛ばして見てない。
色々やってそれなりのLvまで達したが、ここまでやって思うのは作業感しかなくて虚無感半端ないなって。
巨乳キャラ嫌いだからスルーしているガチャとか割とあるけど、性能を求めると巨乳キャラも求められるので好きでもないキャラの為に石削りたくない気持ちでモヤモヤする。
切っ掛けになったキャラは素直に可愛いなと思うけど、他のキャラは興味無いので結果的にガチャ回さないから戦力が増えないのでステージ攻略やってももクリア出来なくて面白く無いなって。
他の好きなキャラだけお迎えしたらアンインストールしようと思う。
これ言うとストーリーがメインって返されるけど、ソシャゲのストーリーなんてまともに見ている人殆どいない気がする。
というよりも見たくないキャラ見てまでやらないといけないストーリー見たくないよ。
ストーリーの長さの話をするとFGOとアークナイツが個人的に思い浮かぶけど、FGOはいつまでストーリー引っ張るんだよ。
1.5部始まった時点でモヤモヤしていたけど、2部始まって色々と引いたよね。そして2部終わってもまだ続いてて驚いたわ。
だいぶ前に馬鹿馬鹿しくなって辞めたけど、福袋システムも未だに残ってて困惑したわ。金払って目的のキャラ手に入るかどうか分からないって意味分からんわ。
他のソシャゲなんて金払えば目的のキャラ手に入るんだぞ?似たような時期に全盛期だったデレマスですらスカチケで手に入れられた訳で。どんだけケチ臭いんだよ。
とはいえそのデレステもガチャは渋かったし、イベントといってもランダムに選ばれる楽曲をひたすらポチポチやるだけだったから本当に作業感半端なかったわ。放置編成とかあったのも思い出す。
色々思う所があってアイマスというコンテンツ事態に嫌気が差したので、箱マス辺りからPやってたけどシャニマスとか他のアイマスコンテンツ全部まとめてずっと前に引退した。
ソシャゲの中ではアークナイツは好きで唯一微課金しているコンテンツではあるんだけど、メインストーリーですらめっちゃ長いのにサブストーリーでどんだけ話広げるのよ。やればやる程風呂敷広がるじゃない。宇宙かよ。
サービス終了するまでか、もしくは私が死ぬまでに話まとまって終わるのか不安でならない。
アークナイツだけは唯一ストーリー見ているけど正直、専門用語多い上に国やら多すぎるキャラやら陣営や派閥どころか時系列まで覚えないといけないとなると、体調良くて時間あるタイミングじゃないと見れないから読みたくても読めなくて困る。頭使うので疲れる。
というよりもソシャゲのストーリーって基本的に、物語→戦闘→物語→戦闘だからテンポ悪すぎると思う。
後で一気見という手段もあるけど「この話読み始めて終わるまで長いんだよなぁ……」と思うと面倒臭くて腰が重い。
他のソシャゲだとウマ娘は新キャラ発表しておいて、実装もなければ出番も少ないなら実装出来る準備整うまでキャラの発表しないでほしい。
これも凄くツボに刺さるキャラいたけど、待てど暮らせどいつまで経っても実装されないから天井分だけ石貯めて半分引退状態でもう起動すらしてない。
やってすぐは割とゲームとして楽しめたけど、やればやる程作業ゲーになるし、一周も長いとなるとどこかでミスった時の萎える気持ちが多くて疲れたよ私。
好きな感じのキャラだと思ってお迎えしたら、思ってた以上に胸が大きいキャラで、事ある事に胸が揺れるのが気持ち悪くて二度と使わなくなったのを思い出した。
もう目的のキャラが実装されたらお迎えして即アンインストールするよ。
ソシャゲと関係無いけど二次元の巨乳キャラ嫌いまくっていたら、現実の巨乳の人も苦手になってしまった。なんでこんなに巨乳嫌悪になってしまったのか自分でも分からない。
1982年のこの年、日本レコード大賞を制したのは細川たかし「北酒場」だった。同年の代表的なヒットナンバーは研ナオコ「夏をあきらめて」、大橋純子「シルエットロマンス」、河合奈保子「けんかをやめて」、中島みゆき「悪女」などである。
新人アイドルは豊作の年で、後に82年組と呼ばれる、小泉今日子、松本伊代、シブがき隊、中森明菜、堀ちえみ、早見優、石川秀美らがデビューした年となった。
このうち最初にブレイクしたのは、松本伊代である。1981年10月21日にデビューし、デビュー曲の「センチメンタルジャーニー」がいきなり32万枚の大ヒット、ザ・ベストテンにも6位までランクインした。
シブがき隊もデビュー曲から25万枚を売り、ザベストテンの常連になったが、1位をとることはなく、田原俊彦や近藤真彦に比べればパンチに欠けていた。
他の者たちは中森明菜を除けばブレイク時期は翌83年までかかり、石川秀美はついにザベストテンにはランクインしなかった。
デビュー曲「スローモーション」は火が付かず、低迷したが、2曲目の「少女A」でブレイク、これはザベストテンで3位まで上がり、続く「セカンドラブ」で1位を獲得した。
中森明菜の凄いのはアルバムが売れたことだ。デビューから2ケ月後に発売された1stアルバム「プロローグ」は、「少女A」でブレイク前だと言うのに、オリコン5位までランキングを上昇した。アルバムが売れにくいアイドルとしてはこれは極めて異例なことで、その時点では明菜はザベストテンにも夜のヒットスタジオにも出演しておらず、知名度は低かったにも関わらず、売れ方のパターンとしてはいわゆる「アーティスト売れ」をした。
その後、年末の賞レースまでには、中森明菜は「少女A」できっちりとブレイクし、「セカンドラブ」では65万枚を売った(オリコンランキング)。集計の都合もあり、「セカンドラブ」は1983年の楽曲に振り分けられているが、ザベストテンには11月22日に初登場2位でランクインし、以後8週連続で1位を獲得している。
つまり年末のレコード大賞の時点では、中森明菜は単に「売れた」だけではなく、山口百恵、松田聖子級の「スーパーアイドル」が誕生したことは誰の眼にも明白だった。
100人に聞けば100人が、今年の最優秀新人賞は中森明菜以外には考えられないと答えていただろう。1位を獲ることをマストで課せられていた田原俊彦、松田聖子、近藤真彦は、シングルのリリース時期かかぶらないように、暗黙の了解で調整されていたが、このローテーションに以後、中森明菜も食い込むことになる。
ところが蓋を開けてみれば、新人賞に選ばれた5人は松本伊代、シブがき隊、堀ちえみ、早見優、石川秀美であり、ザベストテンにランクイン経験があるのは松本伊代とシブがき隊のみだった。前年にデビューした松本伊代は早くも息切れを起こしているのは明白であり、3曲目を最後にランクインから遠ざかっていた。この5人から選ぶのであれば実績から言えば現役のヒットチャート常連であるシブがき隊になるのは異論がないところで、実際、彼らが最優秀新人賞を獲得したのだが、そもそも新人賞に中森明菜が含まれていないことが問題だった。
82年が新人の当たり年であったのは確かであり、ここで名前が挙げられた新人たちは例年ならば確かに、新人賞を得ていてもおかしくはない実績と知名度があった。
前年の新人賞の受賞者は、近藤真彦は別格としても、竹本孝之、裕子と弥生、沖田浩之、山川豊らであり、それらと比べれば堀ちえみや早見優、石川秀美らがひけをとらないと思ったとしてもおかしくはない。
彼らもまさか中森明菜が入らないとは思いもしなかっただろうが、だからと言って自分が身を引くなどとは、背後のスタッフは考えもしなかっただろう。
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。石川秀美あたりが落ちるんじゃないの?」
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。堀ちえみあたりが落ちるんじゃないの?」
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。早見優あたりが落ちるんじゃないの?」
そう牽制しあいながら、結局、中森明菜がはじきとばされてしまったのである。
中森明菜の所属事務所は当時弱小事務所の研音で、所属レコード会社はアイドル売り出しの実績がなかったワーナーだったから、政治力で負けたと言われているが、この年の新人賞を巡るつばぜりあいがいかに激しかったかは、バーニング事務所の小泉今日子ですらはじきとばされたことからも伺える。奇しくも、82年組の中では圧倒的に別格となる中森明菜と小泉今日子が選に漏れたのだ。
小泉今日子はまだ初年度の実績は松本伊代以下、シブがき隊以下だったから、選外もやむなしと言うところだが、中森明菜をオリンピック金メダル級とするなら、シブがき隊ですらせいぜいインターハイ入賞くらいのレヴェルであるにも関わらず、そういう結果になってしまい、日本中が震撼した。
賞と言うものはしかるべき人にきちんきちんと与えないと自らの権威低下を招くのである。
思えばこの時から日本レコード大賞の権威の失墜が始まったと言える。
80年代ぎりぎり延命できたのは、その中森明菜が2度に渡って、レコード大賞を受賞「してくれたから」に他ならない。
彼女がこの結果に怒って、日本レコード大賞への参加拒否をしていれば、その権威はおそらくずるずると失墜していただろう。なぜ彼女がTBSに情けをかけたかと言えば、ザベストテンの放送局であるからに他ならない。
ザベストテンはいろいろな無理や制約がある中、とにかくランキングは絶対、ランキングさえすればどんな人にも出てもらうを貫いていたから、70年代前半や90年代であればおそらく政治力でゴールデンタイムの歌番組には出られなかったようなチェッカーズや吉川晃司も当たり前のように出演していた。そうした志に共感していた彼女は、ザベストテンに関しては衣装やバッグバンドでは圧倒的な持ち出しになるほどに、番組に協力的であったし、ランクインすればよほどのことが無ければ必ず出演していた。
今は昔の話である。
・『ウゴウゴ・ルーガ』[注 1](UGO UGO LHUGA[1])は、一部フジテレビ系列局[注 2]ほかで放送されたフジテレビ制作による子供向けバラエティ番組である。制作局のフジテレビでは1992年10月5日から1994年3月25日にかけて放送された。
・1993年10月22日から1994年2月25日の金曜 19時 - 19時30分に生放送の『ウゴウゴ・ルーガ2号』も放送され、ピチカート・ファイヴやコーネリアスが楽曲を提供した。日本のテレビ番組においてテレゴングのシステムをいち早く取り入れた。裏番組であるテレビ朝日『ドラえもん』の人気には勝つことが出来ず短期で打ち切りとなった。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AC
20年来のオタクの妄言だけど、数年のうちに活動縮小や休止がきてもおかしくないと思っている。例えば2018年の30周年ツアー以降、稲葉浩志の喉の不調によるライブ中断が度々発生している。少し前のNHKでのインタビューでも喉のコンディションは「ビンテージ」であることを自ら語っている。過去にも絶不調でテレビ出演やライブをしていたこともあるが、今はとにかく可能な限り喉のコンディションを延命するようにシフトしているように感じている。
また自らインタビューやソロ作品で内面を語ることが増え、飽くまで自分はどこまでも普通の人であることを自然に述べることが増えた。パワフルで若々しいというB'zのパブリックイメージから少しずつ脱却を図っているようだ。
松本孝弘に関してはそもそもメディアで自分の様子を語ることは少ない。しかし2019年以降は特にハードロック然としたギターリフメインのクラシックなロックに回帰していて、以前のように新しいジャンルにチャレンジした楽曲は少なくなってきている。意識的なのかは不明だが、原点回帰、しかもB'zとしてではなく松本孝弘個人の原点回帰を進めている。
未だに覚えているのは、2018年に参加したツアーのMCで「いつまで元気でやれるかわかりませんが」という一言を挟んでいたことだ。オラオラ俺がやったるぜのリーダーらしからぬ現実的な発言に当時は少なからず違和感を覚えた。
また特にここ数年、長年のファンほど待ちわびていたライブや作品のリリースが非常に多い。先日の紅白でのサプライズはまさにその最たるものだろう。よっぽどの大ヒットがない限り、おそらくもう出演はない気がする。他にもFRIENDS IIIやTMG IIとそれらのツアー、ヒットパレードIIといったベテランファンほど思い入れの強いリリースが毎年のように出ている。
また最初期作のリレコーディング、トリビュート作品への参加や外部アーティストとのコラボ(TMN、Ado、矢沢永吉、TK from 凛として時雨、GLAY、Mr.Childrenなど)、新旧問わずレコーディングやライブでの日本のスタジオミュージシャンの起用も急に活発化している。さらに先日、コロナ禍でほぼ立ち消えたと思われたINABA/SALASの(おそらく)ラストツアーもアナウンスされた。ここまでサービスがいいと「やり残していることをとにかくやりまくろう」という気概で動いていると感じずにはいられない。
2028年には40周年を迎え、おそらく周年ツアーがあるだろう。そこで「なお本ツアーを以て…」とアナウンスされても正直なところ驚きはしない心持ちになっている(かなりショックではあるが)
そもそも彼らが傾倒してきたハードロックバンドもfarewellツアーを行っている。KISSも2023年にライブ活動を終了した。B'zもそうしたエンディングを考えていても全く不思議ではない、というのが正直なところだ。