西御門 (鎌倉市)
西御門 | |
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町丁 | |
来迎寺 | |
北緯35度19分43秒 東経139度33分35秒 / 北緯35.328561度 東経139.559828度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川 |
市町村 | 鎌倉市 |
地域 | 鎌倉地域 |
人口情報(令和5年(2023年)9月1日現在[1]) | |
人口 | 1,031 人 |
世帯数 | 427 世帯 |
面積([2]) | |
0.33 km² | |
人口密度 | 3124.24 人/km² |
郵便番号 | 248-0004[3] |
市外局番 | 0467(藤沢MA)[4] |
ナンバープレート | 横浜 |
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西御門(にしみかど)は神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある大字。雪ノ下の北部に位置する。現行行政地名は西御門一丁目及び西御門二丁目。住居表示実施済み区域[5]。
地理・歴史
[編集]地名の由来は、鎌倉幕府の鎌倉(大倉)御所の西門があったことから転じ、西門前を南北に通ずる西御門大路の北方の地域を指した。
吾妻鏡によると文治2年(1186年)1月5日に「美濃藤次安平西御門家」と記されているのが初見である。建保元年(1213年)5月4日、将軍源実朝は西御門に赴き、和田合戦で傷付いた武士の実検を行っている。
元仁元年(1224年)9月5日子ノ刻(0時ころ)に三浦義村の「西御門亭」が焼失。暦仁元年(1238年)1月10日には、義村亭の他に後藤基清、三浦家村らの居宅が罹災。義村亭を譲り受けた三浦泰村は、宝治元年(1247年)の合戦で敗れて居宅を焼失。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、禅秀に加担した足利満隆、持仲が義堂周信開祖の保寿院で挙兵。享徳3年(1454年)には関東管領上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏の西御門亭で殺害される(享徳の乱)。
戦国時代には建長寺の所領があり、天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、二階堂郷中の一つである当地に禁制を下し、掌握しようとした。正保国絵図には「西御門村」が記録されている。いつの頃からか二階堂、浄明寺、十二所とともに「谷合(やつあい)四ケ村」と称された。
明治22年(1889年)の町村制施行で東鎌倉村に属した。明治27年(1894年)の鎌倉町誕生で大字となり、昭和14年(1939年)から鎌倉市の町名となる。昭和43年(1968年)1月1日の住居表示に伴い西御門一丁目 - 二丁目となった。
世帯数と人口
[編集]2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
西御門一丁目 | 281世帯 | 665人 |
西御門二丁目 | 146世帯 | 366人 |
計 | 427世帯 | 1,031人 |
人口の変遷
[編集]国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年)[6] | 897
|
2000年(平成12年)[7] | 902
|
2005年(平成17年)[8] | 909
|
2010年(平成22年)[9] | 952
|
2015年(平成27年)[10] | 1,012
|
2020年(令和2年)[11] | 1,046
|
世帯数の変遷
[編集]国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年)[6] | 337
|
2000年(平成12年)[7] | 365
|
2005年(平成17年)[8] | 371
|
2010年(平成22年)[9] | 378
|
2015年(平成27年)[10] | 400
|
2020年(令和2年)[11] | 420
|
学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年(平成29年)7月時点)[12][13]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
西御門一丁目 | 全域 | 鎌倉市立第二小学校 | 鎌倉市立第二中学校 |
西御門二丁目 | 全域 |
事業所
[編集]2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[14]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
西御門一丁目 | 22事業所 | 73人 |
西御門二丁目 | 8事業所 | 23人 |
計 | 30事業所 | 96人 |
事業者数の変遷
[編集]経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
---|---|
2016年(平成28年)[15] | 19
|
2021年(令和3年)[14] | 30
|
従業員数の変遷
[編集]経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
---|---|
2016年(平成28年)[15] | 40
|
2021年(令和3年)[14] | 96
|
施設
[編集]寺社・旧跡
[編集]その他
[編集]著名な住人
[編集]- 三浦義村
- 三浦泰村
- 北条義時
- 里見弴
その他
[編集]日本郵便
[編集]参考文献
[編集]- 奥富敬之 『鎌倉史跡事典』 新人物往来社 1999
- 三浦勝男編 『鎌倉の地名由来辞典』 東京堂出版 2005
脚注
[編集]- ^ a b “町丁字別・地域別人口と世帯数(国勢調査基準・各月・平成13年〜)” (XLSX). 鎌倉市 (2023年9月12日). 2023年9月17日閲覧。 “(ファイル元のページ)”(CC-BY-4.0)
- ^ “令和4年(2022年)版 鎌倉の統計” (PDF). 鎌倉市. 2023年8月14日閲覧。(CC-BY-4.0)
- ^ a b “西御門の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ “鎌倉市の町名称及び住居表示の実施状況”. 鎌倉市 (2017年2月7日). 2018年2月22日閲覧。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口、外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ a b c “経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
- ^ a b “経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ “法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年8月4日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。