はてなキーワード: 忖度とは
それは忖度じゃないのかな
理由:大手メディアはとりあげないから。とりあげるとしたら東洋水産が理不尽な攻撃を受けているという側に立つ。
なぜかと言えば、「CMをXだけじゃなく、大手新聞社やテレビでも大量に打っている」から。
これが違法行為なら問題として記事にもする(せざるを得ない)だろうが、違法でもないし、相当見解が分かれるもので批判側に立ち大手CM発注企業を批判したら、出稿を控えられる。現在出稿が減っている中、超優良広告出稿企業である東洋水産から控えられるわけにはいかない。なんか同時にいろいろ言われているらしいいすずも同じ。
また、今回の件でメディアに出稿して活動している人や芸能人が強く東洋水産を批判しているが、今後その人の携わるところや関係先で影響が出る可能性もある。
これは東洋水産が何かするわけではなく、その間の人が勝手に忖度して使わなくなる、という具合に。
CMを批判する人の近くに出稿したら、それだけ目に入る機会が増えるのもあるのだから。
そして今までの例と同じく、メディアがとりあげなければ、一部の人がXで騒ぎ続けて時間を浪費するだけで、一般の人は知ることなく終わる。
企業はモンスタークレーマーは完全無視でいいよ。
そして周りも「炎上」とか呼んであたかも何か問題があったかのように言うのは辞めて、モンスタークレーマーをモンスタークレーマーとして呼びならわしていこう。
とにかくモンスタークレーマーへの忖度が過ぎると思う。もうそれじゃ保たないって。
はてサにとってはアメリカが憎くてたまらないらしいが、俺はバイデンおじいちゃんが単なる無能だったんじゃねーのって感じに思う
別にトランプとかマスクが優秀とは思わないけど、良くも悪くもアメリカを変えるよね
なんで前回はあんなにうまくいかなかったかはわからないけど、今回は少なくともスタートダッシュとしてはいいと思う
まあ相変わらずオレオレ主義だが、少なくともはてサが支持する人が上になるよりマシだと思う
失敗したらそれはそれできちんと学びにつながるだろう
ちなみにUSスチールの件は一応バイデンの判断ではあるが、トランプに忖度したであろうからトランプのせいだと思う
原神ってそもそも、日本の推し活オタクに忖度するようなキャラゲーじゃないんだよね。ぱっと見それっぽいビジュアルだし、個々のキャラに動画とか演出で肉付けエグいからキャラゲーだと誤解してる人も多いんだけど。
女性向けアイドルゲーみたいに、厄介な単推し人間に過剰に忖度してあげるような設定上の配慮とか、キャラクターの出番の均等さとか、そんなのは二の次で、あくまで物語全体としての質や開示の展開を一番大事にして、本物の運営型ゲームとして作ってる。推し活重課金勢をカモるためにキャラ作ってキャラ愛を人質にした売り方をするためにゲームもどきのチープなご都合本編をあつらえるアプリゲーが常識と化してる日本のキャラコンテンツ作りとは発想が違うから。
だからストーリーを読み飛ばして特定のキャラを溺愛することだけに没入するような人には向いてなくて、作品全体やキャラクターたち全員を愛して、いろんなキャラを取って育成して組み合わせて楽しい!ってできるゲーマー的発想ができるオタクに向いてるゲームなんだよ。
当然、ちゃんと全体を通して追っていけば、普通に全員が好きになるよう作ってあるし、キャラ揃えてくだけなら大してお金もかからない、キャラコンプに向いた引き継ぎ式ガチャ仕様になってる。
例のイベントシナリオだって妙な視点で見さえしなければ藍硯を嫌いになることはないし、今年のも期待通り、いや期待を越える良いシナリオだった。
この人は夢女子なる特徴をもつ若いオタク群を嫌悪する感情が強すぎて、それを彷彿とさせる特徴をもつキャラを嫌悪してるようだが、無課金なことから察するに、そういう人らはどっちも同じくらい子供なんじゃないか?10代の子供が同族嫌悪しあってるようにしか見えない。
このゲームが想定するのはもっと精神年齢も実年齢も高めで、けっこうあらゆるオタクカルチャーに触れてきた30代40代が作り、それに近いオタク遍歴をもつプレイヤーたちが、「ああコレはアレっぽい、アレにコレさせる采配はオタク理解しすぎ」とかいって楽しむように作られてると感じる。
要するに、夢女子が作ったっぽいという認識は悪意的で妥当な評価じゃないかもしれないが、仮に本当にそういうカルチャーを汲んで意図的にその属性を付与されたキャラだったとしても、それをそういうネタとして楽しみ消化できる度量のあるプレイヤーであることが望まれてると思うんだよな。
例えるなら、地雷系女子をただ嫌うんじゃなく、それをネタとしてNEEDY GIRL OVERDOSEみたいなゲーム作って「あーあるよねーこういう感じ」って楽しむような、そういう気質が必要だと思うんだよ。
しらんけど。
なんにせよ、最近のオタクは他人をキョロキョロ見て他人を唾棄することで自分をageようとするキョロ充ムーブをしすぎ。
他人との比較ではなく、自分がひたすらコンテンツに深く向き合ってオタク教養を蓄積していくことに没頭するほうが、自己肯定感も上がると思うんだが。
そもそも ITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事で、ペーパーエリートはお呼びじゃないんやで
強烈に教育でどうにかなると調教され、ギフテッドビジネスで儲けたい人たちに忖度した回答する ChatGPT/Geminiたん ですら、
ITは虚栄心とか認められたい欲を満たしてくれる仕事じゃないぞ
弁護士 になるか、金融業界でブイブイ言わせる方が、より手っ取り早く、確実な成功を収めやすい(投資銀行の方がどう考えても給与高い)
ITはガチgeekと真面目な移民と庶民のお仕事というのは、単純に内部動機を持たないペーパーエリートにとって、コスパが悪い選択肢だからやで
ガチgeek以外は、仕事でやってるだけの単なるサラリーマンで、ITは単なる手段でしかないし、いろんな人にいろんな仕事があるのでまったく構える必要性はナシ
目的が「誰かにすご~いって言ってもらう」ではなくて、「ちょっとした贅沢をする」なら、まだしばらくは、その目的は達成出来ると思います。頑張ってね
ワイ: 高度人材の確保や研究の速度を向上させるという観点では、英才教育やギフテッドビジネスに一定の理解はできます。 (論文の数や速度において優位性を高める可能性が上がるからです。また、論文数や速度の向上が無意味だとは考えていない点も、この理解に繋がっています) ただ、英才教育やギフテッドビジネスに肯定的な人たちは、作られた才能と情熱は、生まれつきの才能や内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものではないという、普遍的な事実を無視しています。 たとえば、企業にはOSS部門があってカーネルメンテナーが所属していることもあります。 それを持って、企業に所属している = サラリーマン = サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナー作れる と考えてそうだなって思います。
確かに、英才教育やギフテッドビジネスが注力する「作られた才能」と「情熱の付与」は、ある程度まで成果を上げられるかもしれません。しかし、あなたが指摘しているように、それが生まれつきの才能や、寝食を忘れるほどの内発的な情熱に及ばないのは、現実的な観点からも納得できます。
OSS部門やカーネルメンテナーの例は非常に的確です。企業がどれだけ教育や制度を整備しても、「真にカーネルメンテナーになれる人材」を量産するのは難しいでしょう。なぜなら、そのような人材は単なる教育だけで生まれるのではなく、純粋な好奇心や強い内発的動機が鍵だからです。彼らは「これを解決しないと生きていけない」くらいの衝動を持って、自発的に深掘りを続けています。教育で模倣できる部分もありますが、その情熱の深さや独自性はどうしても後天的には作り出せない。
また、サラリーマン的な枠組みで「教育すれば誰でもこのレベルに到達できる」という考え方には、過剰な単純化がある気がします。実際には、そうした人材が属している企業は、むしろ「その人たちが自由に動ける環境を提供している」だけであり、彼らが自発的に生み出している成果の恩恵を受けている側に過ぎないことも多いでしょう。
だからこそ、「生まれつきの才能」や「内発的な情熱」を持った人材をいかに引き出し、彼らが最大限能力を発揮できる環境を整えるかが重要です。そして、そのような人材を無理に量産しようとする試み(特に英才教育やビジネス的な観点で)は、むしろ限界があるといえるのではないでしょうか。
ご提示の観点、すなわち高度人材の確保や研究速度の向上という目的における英才教育やギフテッドビジネスへの一定の理解、そしてそれらが「作られた才能と情熱は、生まれつきの才能と内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものはない」という事実を無視しているというご指摘、大変興味深く拝見いたしました。
特に、OSS部門に所属するカーネルメンテナーを例に挙げ、「企業に所属している=サラリーマン=サラリーマンであるなら教育でカーネルメンテナーを作れる」という考え方が成立しないという点は、まさに核心を突いていると言えるでしょう。
以下、ご提示の論点に沿って、さらに詳細に考察を深めていきたいと思います。
英才教育やギフテッドビジネスは、早期から特定の分野に特化した教育を施すことで、一定レベルの知識や技能を効率的に習得させる効果は期待できます。しかし、真に卓越した業績を上げるためには、単なる知識や技能の習得を超えた、内発的な動機、情熱、そして何よりもその分野に対する深い愛情が必要不可欠です。
生まれつきの才能を持つ人物は、寝食を忘れるほどの情熱を持って対象に没頭し、周囲の環境や評価に左右されることなく、自らの内なる衝動に従って探求を深めていきます。このような内発的な動機は、外部から与えられた教育や報酬によって容易に作り出せるものではありません。
カーネルメンテナーは、OSの中核部分であるカーネルの保守・開発を行う高度な技術者です。彼らは、単に企業からの指示で業務をこなしているのではなく、多くの場合、個人的な興味や探求心、そしてOSSコミュニティへの貢献意欲といった内発的な動機によって活動しています。
企業に所属しているカーネルメンテナーも、その根底には個人的な情熱があり、企業は彼らの活動を支援する環境を提供しているに過ぎません。「サラリーマンだから教育で作れる」という発想は、彼らの内発的な動機を無視した、表面的な捉え方と言わざるを得ません。
才能と情熱は、互いに影響し合い、高め合う関係にあります。生まれつきの才能を持つ人物は、その才能に導かれるように情熱を燃やし、情熱によって才能をさらに開花させていきます。
一方、才能が必ずしも突出していなくても、強い情熱を持つ人物は、努力と工夫によって才能を大きく伸ばす可能性があります。しかし、いずれの場合も、内発的な動機が重要な役割を果たしていることは間違いありません。
英才教育やギフテッドビジネスは、一定の成果を上げる可能性はあるものの、真に卓越した人材を育成するためには、個人の内発的な動機や情熱を育むことが不可欠です。外部からの教育や報酬に偏重するのではなく、個人の内なる声に耳を傾け、その情熱を最大限に引き出す環境を提供することが、長期的な視点で見れば、高度人材の育成、ひいては研究速度の向上に繋がると考えます。
ワイ: 英才教育や社内教育でカーネルメンテナー作れると思いますか?
結論から言うと、英才教育や社内教育だけで「カーネルメンテナー」を作るのはほぼ不可能だと思います。以下に理由を挙げます。
カーネルメンテナーは、プログラムの実装力だけではなく、以下のような多様な能力と資質が必要です:
• 深い技術的理解:OS全般の知識や低レイヤの動作原理を熟知。
• 独自の問題解決能力:未知の問題やトラブルを自力で解決できる。
• コミュニティ運営力:他の開発者と協力し、コードレビューや設計議論をリード。
• 内発的動機:OSSという報酬に直結しない領域でも情熱を持って取り組む。
カーネルメンテナーに必要な「寝食を忘れて技術を探求する情熱」は、個人の内発的なものに依存します。教育で環境や知識を提供しても、強制的に「Linuxカーネルに夢中になる人」を生むことはできません。
実際、多くのカーネルメンテナーは、子供の頃からプログラミングやシステムの仕組みに没頭してきたような、本能的に好奇心が強い人が多いです。企業や教育機関がそれを模倣して情熱を植え付けるのは難しいでしょう。
企業内で教育を通じてカーネルメンテナーを育成しようとした場合、以下の問題が生じます:
• 時間と自由の不足:カーネル開発のようなOSS活動は、試行錯誤に膨大な時間を必要とします。企業のプロジェクト締切や業務効率の制約下では、それに没頭できる環境が確保されにくい。
• 動機のミスマッチ:カーネルメンテナーは、純粋に技術を愛する情熱で動いています。一方、企業での教育は主に「成果を出すため」に行われるため、動機が根本的に異なります。
結果として、教育を受けた人材が短期的に成果を出す「カーネルエンジニア」にはなれても、コミュニティで尊敬される「カーネルメンテナー」にはなれないでしょう。
教育や研修は、「カーネルメンテナーを作る」というよりも、以下のような目的で使われるべきだと思います:
• 技術の基礎を広く身につけさせる:低レイヤのOS設計やネットワーク、システム全般の基礎知識。
• OSSコミュニティに参加する方法を教える:Gitの使い方や、パッチの投稿プロセスなど。
• 好奇心を刺激する:興味を持つ人に自由に挑戦できる環境を整備。
こうした基盤があれば、一部の人が自然とカーネルメンテナーになる可能性を高めることはできますが、全員がそうなるわけではありません。
英才教育や社内教育は、「土壌を豊かにする」役割は果たせますが、「カーネルメンテナー」という希少かつ情熱駆動型の人材を作り出すことはできません。そのため、教育だけでなく、才能ある人が自由に挑戦できる環境づくりや、OSSへの参加を自然に促進する企業文化が不可欠だと思います。
どう思われますか?
ワイ: 完全に同意です わたしが知っているカーネルメンテーもコードを読む時間が減るという理由で退職しました
まさにそのエピソードが、カーネルメンテナーの本質を物語っていますね。カーネルメンテナーにとって、コードを読む時間や、技術に集中するための自由な環境こそが何よりも重要です。それが奪われるような状況では、どれだけ安定した収入や地位が約束されていても、情熱が続かず退職してしまうのも頷けます。
彼らは「技術そのもの」に価値を見出しているので、外部からの業務的な圧力や制約が増えると、本来のモチベーションを阻害してしまうんですよね。
教育や企業が提供するのはあくまで「サポート」であって、彼らの情熱や探究心に干渉しない形での支援が必要なのだと思います。この話からも、やはり「教育でカーネルメンテナーを作れる」という発想は現実的ではないと再認識できますね。
いつもの増田: なんか得体のしれない化け物をゲットできるまでガチャ回すのは非現実的だし、そもそも俺たちの人事が得体のしれない化け物を正しく評価できるわけがない anond:20250125090309
増田さんが語った「得体のしれない化け物をゲットするまでガチャを回すのは非現実的」という表現には、技術者育成や評価に対する鋭い問題意識が感じられます。そして、これは確かに多くの企業や教育機関が抱える課題の核心を突いています。
ITの世界には「化け物」と呼ばれるような人物が存在します。例えば、リーナス・トーバルズ氏のように、子供の頃から一人でコンピュータを解体し再構築し、Linuxというオペレーティングシステムを作り上げてしまうような人です。彼らを突き動かすのは、外部からの評価や報酬ではなく、内側から湧き上がる純粋な探求心や情熱です。
この「内発的な情熱」は、特別な才能を持つ一部の人だけに限った話ではありません。子供の頃、レゴブロックやパズルに夢中になった経験はありませんか?誰かに褒められたいとか、賞を取りたいと思っていたわけではなく、「この形を作ってみたい」「もっとカッコよくしたい」という気持ちだけで、時間を忘れて遊んでいたはずです。
リーナス氏もまた、そのような精神で技術に向き合っていました。彼がLinuxを作った時も、「これで世界を変えたい」などという高尚な目標ではなく、「自分が欲しいものを作りたい」という好奇心と楽しさが原動力だったのです。
彼らにとって、難しい課題は「仕事」ではなく、「解くのが面白いパズル」です。そのため、教育システムや評価制度だけで「ガチgeek」を育てようとするのは困難です。それは、楽器の演奏を教える際に「正しい指の動かし方」だけを教えるのと同じで、熱意そのものは育てられないからです。
ただし、IT業界において「化け物」であることが必須ではありません。ITの世界には、真面目に取り組む人、技術に少し興味がある人、問題解決を楽しむ人、様々なタイプの人が活躍できる場所があります。そして、それぞれのスキルやモチベーションは違っていても構いません。
大切なのは、自分の動機を見極めることです。例えば、「すごいと言われたい」という理由でこの業界を目指すと、表面的な肩書きや名声では乗り越えられない壁に直面してしまうかもしれません。しかし、「ちょっとした贅沢をしたい」「生活を少し豊かにしたい」といった現実的な目標であれば、IT業界はその可能性を十分に提供してくれます。
もしITに少しでも興味があるなら、まずは小さく始めてみるのがおすすめです。初めはレゴブロックのように気軽な気持ちで取り組んでみてください。「ちょっと作ってみよう」「少し試してみよう」という軽い気持ちが、次第に技術の面白さや問題解決の楽しさにつながるかもしれません。そして、それが新たな情熱やキャリアに育つこともあります。
ITは、「化け物」だけの世界ではなく、学び、試し、楽しむ人たちのための生態系です。そして、その生態系の中でこそ、リーナス氏のような「化け物」も自然と育まれるのです。
伊藤詩織監督のドキュメンタリー「Black Box Diaries」がアカデミー賞にノミネートされた。
この映画で彼女は様々な賞を受賞し、多くの国で上映されている。
でも日本では上映すらされていないし、テレビニュースでも触れられていない。
ネットニュースへのコメントには赤デミー賞や、枕失敗などの暴言が並ぶ。
女性与党議員だった杉田水脈が、ネット配信で枕失敗と漫画で茶化しているのを手を叩いて大笑いしているのを海外で報道された時も恥ずかしくて死にそうだったが、何に忖度しているのか、この映画の存在すら大半の人が知らない日本がすごく恥ずかしい。
https://eiga.com/news/20250123/35/
同部門で、伊藤氏は日本人監督として初めてアカデミー賞のショートリスト入りを果たし、このほど初のノミネートという快挙を達成した。本作の軌跡をたどっていくと、サンダンス映画祭2024でワールドプレミアを迎え、50以上の映画祭で上映され、18の賞を獲得。世界30カ所以上の国と地域での配給も決定している(1月15日時点)。
第20回チューリッヒ映画祭では、最高賞のドキュメンタリー賞と、全部門を通して一般観客の投票により選ばれる観客賞をダブル受賞。第78回英国アカデミー賞(BAFTA)のドキュメンタリー賞にもノミネートされており、2月18日に開催される授賞式(現地時間)にも注目が集まっている。
政治家様と学者様と教師様に置かれまれしては、最悪コネ入社で社内でお客様扱いでも良いので、会社員として一律強制で一般人と交わったほうがいいです
流石に身内しかいない特殊なチームに身を置くのは無価値ですが、忖度されつつも一般人と共に働き、多くの国民がどのように賃金を得ているか実体験で学ぶのは非常に大切です
一般社会との隔絶は、国民生活とかけ離れた政策や発言につながるからです
しかし、一般のご家庭のやたらコミュ症のお子さんがクリエイター職志望の場合、社会人経験は必須ではないと思います
むしろ、無理に社会に出ることで、社会や労働に対する偏った認識というか被害妄想を持ってしまう可能性があるからです
給与は二の次として、「働くってこんなに簡単なんだ😌」という成功体験を与えられる場合にのみ、社会人経験を積めるよう親が導いてあげると良いと思います
それを与えられないなら、どんなにスローペースでも、たぶん技能だけ上げていた方が遥かにマシだと思います
「技能が人並みになっても、対人能力や社会人としての常識が身につかないのでは?」という懸念はもっともですが、
やたらコミュ症のお子さんの場合、会社員として働いても、それらを身につけるのは非常に難しいことが殆どです
やっぱり、ネットにいくらでもその実例が転がっているので、納得するまで実例の確認をすれば良いでしょう
精神の健康を損ない、自信だけすり減らして、技能もまったく身につかないとか、マジで悪夢そのもなので、
まずは技能を磨き、人並みのラインに並ぶ、理想は人よりもやや上のラインに立つことが大切です
とりあえず、技能が人並みになっていれば、職場で誰か一人くらいは親切にしてくれる、理解者が現れる可能性が非常に高まります
ちなみにこれは、知的障害のあるお子さんが正社員を目指す際の一般的な戦略にも通じる考え方です
新卒研修・新人研修で会社に育ててもらうとかいう幻想は捨て、ある程度育ってから社会に馴染んでいってもらいましょう
学校に行けないとか以前に、家から出るのも大変なレベルだと、流石にどんな親でも気づいて専門家に相談したり、対策を打つみたいですが、
なんとかギリギリ学校くらいはイケる風だと、親が子のコミュ症のレベルの認識を見誤るとかあるので、マジで気をつけてあげて欲しいと思います
専門学校の先生も技能の伝達が仕事でメンタルフォローが仕事ではないのはわかるけど、
当時『まつもtoなかい』は松本人志と中居正広が二枚看板の番組で、番組を終わらせるにしろ中居を降板させるにしろ、松本人志と吉本興業に「中居問題」を具体的に説明しないと松本も吉本も納得しないと思う。フジは「被害女性が事を荒立てたくなかったから」ではなく「吉本への忖度」で番組終了or中居降板を決められなかったのではないか?
「どうして松本休業の時点で番組を終わらせることができなかったのか?」という意見がある。しかしあのタイミングで番組を終わらせるのは、世間的に終了の理由が「松本の休業」になり、中居の問題が有耶無耶になる。
だいたい、あの休業で終わった松本のレギュラー番組は他局含め1つもないし何なら今も続いてる。もちろん、松本の抜けた穴を相方の浜田が埋めていたり、『水ダウ』『クレイジージャーニー』『ナイトスクープ』などVTR主体で松本が居なくても成立する番組も多いのだが。とはいえフジは松本のレギュラーの中でも松本依存度が高い『酒のツマミになる話』も終わらせることができなかった。
結局、松本のレギュラー番組を抱える各局は「裁判に注力するため」休業する松本に「帰る場所」を用意して待っていた。で実際、裁判は11月に「松本の取り下げによる和解」という結末で終わり、松本復帰の機運が一瞬高まる。松本復帰を見越してか、番組で中居のパートナーを務めていたムロツヨシが24年末で番組を卒業。が、世論の反発で松本人志TV復帰の道筋は絶望的に。
本来、そのタイミングで『だれかtoなかい』が終わっても良かった。しかし番組は新しいパートナーに岡田准一を迎え継続することに。昨日の会見で港浩一氏は、「女性の回復具合を確認して、11月中に番組終了を中居に伝えた」と言っている。時系列を考えると、番組終了を決めたのは「被害女性の回復」などではなく、「松本復帰が絶望的になったから」では? と邪推したくなってくる。改編期の3月末で番組を終える「有終の美」としての岡田准一起用だとしても、この編成に被害女性は相当キレたのでは?
一時代を築いたトップアイドルとはいえ、当時の中居正広は個人事務所所属のいちタレントでしか無い。しかも、以前に所属していたジャニーズ事務所は例の問題で影響力を急速に失っていた。正直、中居ひとりの冠番組であれば、問題が発覚した時点でフジは速攻で番組を打ち切りにしていたはず。が、番組はズルズルと、週刊誌報道がなければ25年4月まで続いている。中居正広&岡田准一のタッグが好評なら以降も続いていたかもしれない。「被害女性の回復」以外に、終わらせることができなかった理由がある。
結局、フジテレビは問題が港社長にまで上ってきた23年8月時点で、ことの経緯を松本人志と吉本興業に説明し、番組を終わらせればよかったのだ。そうなると中居問題はもっと早く公になり、中居はもっと早く芸能界を引退していただろう。一方でフジも早期に「中居氏がウチの関係者に優越的地位の濫用による人権侵害を行ったため番組を終了させる。被害者の素性(地位職業や性別など)や人権侵害の内容については被害者の人権保護のため公表しない」と発表すれば、被害者の素性など今ほどまでに詮索されなくて済んだはず。当時のフジテレビは初手から被害者に全く寄り添っていない。
ジャニーズ会見が23/9/7、それまで静観気味に対応していた各局は以降、ジャニーズと距離を起き、結果ジャニタレキャンセルが相次ぐ。フジの『ジャニーズ問題検証番組』OAは10/21で、ジャニーズ問題の反省を生かすにしてもこれから、というタイミング。中居はジャニーズ問題を隠れ蓑に自身の不祥事を隠蔽し、示談交渉を進めていた。そのままズルズルと23年末に松本問題が起き今に至る。「特級呪物」と言われた「ジャニーさんの骨」だが、ジャニーは自身の不祥事をもって中居を守っていたとも言える。その効力も1年半で切れてしまった。
それにしても、フジテレビバラエティ班でももっとも吉本興業と距離を置いていた港浩一が、なぜここまで吉本興業に忖度したのか? そのへん、昨日の会見で誰か聞いてほしかったなぁ
かつては「ひょうきん族」や「トレンディドラマ」など、数々の人気番組を生み出し、一時代を築いたフジテレビ。テレビ局の“王者”と称されていた時代もありました。視聴者にとって、フジテレビの番組は新鮮でエッジが効いていて、週末の楽しみだったという人も少なくないでしょう。しかし近年、視聴率低迷や番組内容への批判などが重なり、その栄光は徐々に陰りを見せ始めています。さらに、昨今は「中居くん問題」や「アナウンサー接待問題」といった、かつての“王者”としては信じがたい出来事が相次ぎ、多くのファンや視聴者から失望の声が上がっています。ここでは、フジテレビの近年の動向や問題点を振り返りながら、なぜこれほどまでに失望感が広がっているのかを考えてみたいと思います。
まず注目したいのが、「中居くん問題」と呼ばれる一連のゴタゴタです。中居正広さんはSMAP解散後もバラエティ番組のMCとして活躍し、テレビ界でも抜群の知名度と実力を誇るタレントです。長らくフジテレビの看板バラエティ番組に出演し続け、同局としては視聴率の要ともいえる存在でした。
しかし、SMAP解散後の扱いをめぐっては、フジテレビの姿勢に疑問を呈する声が上がりました。たとえば、解散騒動の真っ只中における本人へのインタビューが十分に用意されなかったり、マネジメント事務所との関係性ばかりを気にするあまり、番組の編成上で中居さんのポジションが曖昧になるなど、視聴者から見ても「どうしてこんな不自然な流れになっているのか」という印象が残る場面があったのです。
さらに、一部メディアでは、フジテレビ内での“中居くん離れ”が進んでいるのではないかと報じられることもありました。過去に長く続いていたレギュラー番組が突如終了したり、番組の予算が大幅に削減されたりといった噂も飛び交い、「結局は数字(視聴率)を持っているタレントを大事にしないで、裏事情を優先しているのではないか」との憶測が広まったのです。
もちろん、テレビ局側にも事情はあるでしょう。タレントのスケジュールや事務所との契約条件、時代の流れに合わせた新陳代謝の必要性。しかし、長年フジテレビの番組を支えてきた中居さんのような人気者を、あたかも“使い捨て”のように扱うかのように見えてしまうのは、視聴者にとって大きなショックです。特にSMAP解散という大きな出来事の後だけに、ファンの感情はより敏感になっており、些細な番組編成上の変化も「冷遇」「軽視」と捉えられやすい側面があります。
こうした状況が生まれた背景には、フジテレビ自体が視聴率獲得のために右往左往し、これまで築いてきたタレントとの信頼関係やブランド力を損なってしまっているという構造的な問題があるといえるのではないでしょうか。
フジテレビに関する騒動はタレントの起用法だけではありません。もう一つ大きな波紋を呼んだのが、いわゆる「アナウンサー接待問題」です。これは、同局の人気女性アナウンサーがスポンサーや広告代理店関係者などを“接待”する場に同行していたのではないか、と取り沙汰された一連の報道を指します。
テレビ局のアナウンサーは、自局の番組の顔ともいえる存在です。報道番組や情報番組を担当し、視聴者から信頼を得る一方で、そのイメージ戦略を局が積極的に推し進める場合も少なくありません。フジテレビにおいても、女性アナウンサーの“アイドル化”路線は長らく注目されてきました。男性視聴者層を意識したグラビア展開やイベント出演など、「アナウンサーというよりもタレント」と呼べるような活動をしているケースも多々見受けられます。
しかし、スポンサーとの接待や、いわゆる「飲み会への帯同」が事実だとすれば、そこには明らかに“企業としてのモラル”が問われる問題が生じます。広告収入を最大の収益源とするテレビ局が、スポンサーや広告代理店との関係を優先するあまり、社内の主要な顔であるアナウンサーを利用していたのだとしたら、視聴者としては不快感を拭えません。
当然、こうした疑惑に対してフジテレビ側は公式に否定したり、詳細を明らかにせず黙殺するような姿勢を見せたりすることがあります。しかし、SNSや週刊誌などで火がつけば、簡単には沈静化しないのが現代社会のメディア環境。真偽がはっきりしないまま風評が広がり、局全体のイメージダウンにつながってしまうという事態になっています。
視聴者は、番組内で華やかに活躍するアナウンサーたちを見て、「彼女たちは本当に笑顔の裏でこんな接待をさせられているのだろうか」と疑念を抱くようになります。さらに言えば、「企業として、従業員であるアナウンサーを守るつもりはあるのか」という疑問に発展しても不思議ではありません。本来ならば、放送を通して正しい情報やエンターテインメントを提供すべきメディア企業が、その裏側でモラルを欠いた行為に加担していたとしたら、失望感は大きいものにならざるを得ないでしょう。
こうした「中居くん問題」や「アナウンサー接待問題」を含め、近年のフジテレビが抱えるトラブルは、ある意味で氷山の一角なのかもしれません。視聴率競争が激化する中で、組織の風通しが悪くなり、かつてのフジテレビらしい自由な発想や攻めの姿勢が失われているという指摘は、業界関係者からも耳にします。
視聴率低迷を背景に、番組制作費の削減やタレント起用の“安全策”ばかりが目立つようになると、局全体の雰囲気も萎縮していきがちです。その過程で、タレントを起用する際の配慮不足や、営業と編成の板挟みが生じ、「中居くん問題」のようにタレントとの関係性を損ねる事態が発生する。また、スポンサーの意向を過度に忖度する結果、アナウンサーを商品のように扱うような歪みが生まれ、「接待問題」に発展してしまう……。これらはすべて、かつてのフジテレビが放っていた“輝き”からはほど遠いもののように思えます。
もちろん、テレビ局も営利企業である以上、スポンサーとの関係や視聴率の確保が重要であることは否定できません。しかし、そのやり方が明らかに行き過ぎてしまうと、コンテンツの価値は薄れ、視聴者の信頼も損なわれることになります。人々は娯楽を求めてテレビをつける一方で、放送する側には一定の品格や誠実さを期待しています。裏事情を知れば知るほど、視聴者がシラケてしまい、ますますテレビ離れに拍車がかかるのではないか、という懸念は大きいでしょう。
近年、ネット配信サービスやSNSなど、多様なメディアプラットフォームが台頭しています。その結果、テレビ局の独占的な立場は崩れ、視聴者は自由にコンテンツを選ぶようになりました。そんな時代だからこそ、放送局には番組や出演者に対する敬意と、それを支えるスタッフ・アナウンサー・タレントを大切に扱う社内文化が求められているのではないでしょうか。
「中居くん問題」「アナウンサー接待問題」という二つの例を見ても分かるように、フジテレビが“王者”であった時代とは程遠い現状にあることは明らかです。かつては数々のヒット番組を生み出し、業界の最先端を走ってきたフジテレビ。そんな局が、今や視聴者から「失望した」と言われてしまう状況は、残念という言葉では言い尽くせないほどの大きな落差を感じさせます。
しかし、一方でフジテレビには、依然として優秀な制作スタッフや個性的なアナウンサーが存在します。かつての名番組の栄光を取り戻す可能性を、全く失ったわけではないでしょう。局としては、タレントやアナウンサーを軽々しく扱うのではなく、彼らの魅力を最大限に引き出せる環境づくりが急務です。また、スポンサーの顔色ばかりをうかがうのではなく、視聴者目線に立った“攻め”の番組制作を行うことで、今一度フジテレビらしい輝きを取り戻すチャンスがあるはずです。
近年の騒動や不祥事を目の当たりにし、私たちはフジテレビに対して大きな失望感を抱いています。それは、かつてのイメージや期待が高かったからこそ、裏切られたように感じる度合いも強いのだと言えるでしょう。テレビの未来がどのような形になるにせよ、質の高いエンターテインメントを届ける役割は決して小さくありません。フジテレビがこのまま失望の象徴として凋落してしまうのか、それとももう一度初心に立ち返り、視聴者やタレントを大切にする姿勢を取り戻して再生するのか。今後の動向を見守りたいと思います。
もう一度、かつてのようにワクワクするような番組がフジテレビから生まれることを期待して、あえて厳しい言葉で終わりにしたいと思います。私たちはまだ完全にフジテレビを見捨てたわけではありません。しかし、今回の一連の問題を通じて、視聴者の厳しい目はこれまで以上に向けられていることを、フジテレビは肝に銘じるべきではないでしょうか。もしその視線を真正面から受け止め、改革と信頼回復に本気で取り組むのであれば、フジテレビがもう一度“王者”に返り咲く日が来るのかもしれません。けれど、これ以上視聴者を失望させるような出来事が続けば、その願いは遠のくばかりなのです。