はてなキーワード: スイスイとは
知らんかった。
なお、手動剃刀は使ったことない。
電動シェーバーが洗顔ソープに対応していることは知っていたが、なんか気持ち悪いし、機械が壊れそうだし、ずっと素肌に直接当ててた。
だけど、どうも剃り残しが発生するし、強く押し当てたら肌が荒れるので、試しにやってみた。
刃がスイスイ動くしほとんど剃り残しも生じない。すごいなこれ。シェーバー壊れないし。
あと、風呂場にある鏡、初めてまともに使ったわ。いままで何に使うのかよく分からんかったけど、あると便利だ。
早めに教えておいてくれ。
32歳男性より
この間初めてLUUPに乗ってみた。
電動キックボードなんて簡単だろうと思って、特に説明も読まずにアプリでサクッとレンタル。
適当に乗り場で乗って発進した。
とりあえず歩道をスイスイ進んでたら、前から歩いてきたおばちゃんが驚いた顔で避けた。
しばらくすると、車道を走ってるLUUPのやつがいた。あれ、車道走るもんなのか? でも、車と並走するの怖いし、歩道のほうが安全だからこのまま進んだ。
途中で赤信号に引っかかったけど、歩行者がいなかったから、そのままスーッと進んだ。自転車とかもやってるし、LUUPも同じようなもんだろう。
目的地近くになったから駐車しようとしたけど、駐車エリアが見当たらない。アプリを確認するのも面倒だし、邪魔にならなそうな電柱のそばに停めて、そのままアプリを終了しようとしたら「駐車エリア外です」とか出た。いや、別にここでよくない?
使ってた人いる?
走った距離に応じて、キャラクターが励ましてくれたり応援してくれたり罵ってくるやつ。
走るとポイントがもらえて、一定数貯まるとキャラクターのエピソードが解放されてた。
自分には結構合ってたんだよな。なんか一緒に走ってるって感覚があった。ずっとスマホから音出るからイヤホン必須だったけど。
始めた次の月にストアから消えて、気付いた時にはエピソードが見られなくなって、そのうちランニングもうまく計測できなくなって、今ではもうスタート画面から動くこともない。でもずっとスマホの中に入れてる。
そのあとガーミンの一番安いランニングウォッチ買ったんだけど能力がもう桁違い。これでこんな機能なら上位モデルって何見れんの?
でも時々あのアプリが恋しくなる。せいぜい走った距離と時間くらいしかわかんないけど、あれがきっかけでランニングを始めて、フルマラソンも完走した。
ポケモンとかドラクエとかピクミンは歩くじゃん。歩きながらスイスイスマホいじるんじゃなくて、走り終わった後にお疲れーって言って欲しい。
我らが楽しいインターネットでは、定期的に「強い女」論争が巻き起こる。
流れとしてはおおむね、
・一部の特色あふれる性格をした女性たちが 「男はこういう従順な女ばかり求めて強い女を嫌う」とキレ散らかす
・ 「強い女」なんて男は大好きだが?」と男性側から例があれこれ挙がる
・それは「強い女じゃないだろ」的な反論がまた一部の女性たちから挙がる
という感じ。最近もあったし、みなさまもどこかで一度は見たことがある流れじゃないだろうか。
どうしてこんなことになるかというと、実は、原因ははっきりしている。
男性の言う「強い人」と女性の言う「強い人」が性質として真逆だからだ。
男性の言う「強い人」は、
・自分の欲望や感情に流されることなく、課せられた役割や責任をまっとうする
である。
これはどうしてかというと、逆に言えば「自然にしていると、男というのは周りに合わせず自分勝手に振る舞ってしまう」からである。
だから、それを抑えて周りのために振る舞えるのが成熟の証であり、すなわち強さである。
一方女性の言う「強い人」は、
・周りの意見や事情に流されることなく、自分のやりたいことを貫ける人
である。
これはどうしてかというと、逆に言えば「自然にしていると、女というのは周りに合わせて自分を押し殺してしまう」からである。
だから、それを打ち破って自分の意見を言えるようになることが脱皮の象徴、すなわち強さである。
これらを踏まえた上で、
「物静かで穏やか、自分の意見はあまり言わない。周囲を助けながらやるべきことを黙々ときっちりこなして責任を果たす人」
を考えてみると、男性の間では「間違いなく頼れる立派な人=強い人だ」として評価される。
一方で女性からすると、「周囲に従順で自分の意見を言えず、都合よく使われる情けない人=弱い人」に映ってしまうのだ。
なので、そういった女性が男性に評価されている様子は、他の女性にとっては「男の都合の良いように動く女と、だからこそそれを褒めそやす男ども」の図になってしまうわけである。
そしてキレる。
逆に女性が言う「強い女」が男にとってはピンとこない。女性側がスローガンとしてよく掲げる、いわゆる「わきまえない女」である。
「周りに合わせずとにかく自分の意見を押し通し、かといって周囲を助けることはせず自分の仕事だけ終わらせて趣味に没頭!」
みたいなタイプは、職場にいたら男性間では「口だけ立派だが自分勝手で最低限の成果しか出さない、信用できないやつ」と評価される。
しかし女性としては、「自分を大事にでき、周りにとっての都合の良い存在にならずにいられる強い女」のロールモデルだ。
女性側が「ちゃんと「強い女」を好けよ」と言うときは主にこういうタイプが想定されているが、男としてはそんなのが「強い」わけがないのでまったく違うタイプを「強い女」の例として挙げる。
そして女性側は「だからちげえっつの! やっぱ強い女を認めたくねえんだな、男には都合悪いからw」とキレる。
これの繰り返しがインターネットの地層にはいくつも積み重ねられている。
……などという文章を読んで!
「いやいや、女からしても周囲を助けながら自分の仕事を責任持って全うする人間は強い人だよ」
と思う女性も多々おられると思う。
それは正しく、そしてあなたがたは社会の中で責任を全うしている方々なのだ。
どういうことかというと、その特性上女性は「周りの意見や事情に流されることなく、自分のやりたいことを貫ける人」と認識しがちではあるけれど、
社会に出て真に責任ある立場でまっとうに職務をこなすようになると、
「ああ、こうやって周りに望まれること=自分の責任・役割をちゃんと果たす人々がいるから社会は成り立っており、それはたいへんなことで、だからこそそれができる人は強い人だな」と考えるようになる。
現代社会というのは原理的に、誰かが自分の責任を果たし合った結果で出来ているからである。
つまり、「周りの意見や事情に流されることなく、自分のやりたいことを貫ける人」をこそ強い人だと思ったままの女性というのは、責任ある仕事をしたことがなく、その立場に就いたこともない女性たちなのだ。
実際、その証拠の一つに彼女たちの共通点として、仕事や社会についての認識が妙に幼いことがあげられる。「そんなもんプロがすでに思いついてるわ」というようなアイデアを褒めそやしていたり、「たとえ自分にどんな事情があったにせよ職場でしていい振る舞いじゃないだろ」という私やってやったぜ系エピソードを自慢していたり。いいとこバイト感覚の分解能で社会を見ている。
あなたが暇なら、物静かそうな女性キャラにキレ散らかしている女性のアカウントを見つけ、ポストを眺めてみると実感できると思う。
ひとつの観点からすれば、彼女たちは弱者女性と呼ぶこともできるだろう。
そして悲しいかな、彼女たちはだいたい彼氏・夫からモラハラされている。
説明する必要もないことに、モラハラ男が彼女たちの思う「強い」にばっちり該当してしまうからである。男性からすると「なんであんなクズと付き合っているんだろうな」という感想になるが、彼女たちからすれば「強い男を選んだ」のである。
もちろんモラハラで不満はバリバリ溜まっていくが、自分の彼氏・夫は「強い」ので逆らえないし文句を言えない。
鬱憤がたまったままスマホをスイスイしていると、流れてくる従順そうな女の絵。
自分に重なって嫌になる。なのに、リプ欄にはそれを褒めそやす男たちの投稿にあふれている。いいねもたくさんだ。
男は結局そうやって自分にとって都合の良い女が良いんだろ! 私が彼氏・夫に言いたいことが言えないのはそういう社会の雰囲気をお前たちが作ったからだ!
かくして、怒りにまかせてリプをする。
自分の鬱憤を他責思考にスライドさせ、関係ない人々に体当たりしていくその姿、なにかに似ていないだろうか。
「小中と野球やってて地元限定でそこそこのピッチャーだったとは思うわ」
そのように謙遜を含めた感じで「スゴくはないよ」と言うから「まぁ小中学生レベルだし」と私も甘く観ていたのだけれど、息子が小学生となり様々なスポーツへ興味が出始めると「あれ?」と思うことが増えた
私は男兄弟の居ない家庭で育ち、夫が息子の要望に合わせてサッカーやバスケ、野球と様々なスポーツで遊んであげている姿を見て「男の人ってやっぱり運動経験豊富なんだなぁ」としか感じていなかった
でも、その種目が水泳/ボディーボード、スキー/スノーボード/スケート、スケボー/インラインスケートなどなど種目の幅が広がっていくと「えっ出来るの!?」と驚いてしまう
スケボーとかインラインスケートやスキーやスノボはただ滑るだけじゃないんだ!クルクル回ったりジャンプしたりする!サッカーでもポンポンとリフティングが途切れず、テニスでめちゃくちゃ速いサーブを出して、バスケでダンクしてるんだ!
息子が「○○やってみたい!」と言う→夫が「じゃあ次の休日やりに行くかぁ」と返答→休日に夫が「まず基本の動きは」と当たり前のように息子へ教え始める
「何で出来るの!?」と夫へ聞くと「学生のとき流行ったからなぁ」と毎回全く答えになってない返しをされる。流行った程度でここまで出来るなら日本は金メダルいっぱい獲ってるスポーツ大国になってるわい!
先週の土曜、息子を連れて今年もスキーに行った
息子が平地で「ストック上手く使えなくて前に進まない」と言うのを見て夫は「ストック使わなくても進むことは出来る」とまるでスケートのようにスイスイと足だけで進んでみせた
息子は「えぇ!?ほかの大人の人もそんな事してない(周囲の大人も出来ていない)」と驚くものの、夫は「これはカントリースキーの技術だからなぁ普通のスキーしか知らない人は苦手かもねぇ」と答えていた
長く一緒に居るけど本当に知らないことまだまだあるんだな
子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色の不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣に意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たちは真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。
ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキー、スキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通の着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物の動作としか言いようがなかった。
確かに、人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピンの場合、頭の上から足の先まで完璧にシンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間が操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである。
さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンはテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツはスキーやスノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみの構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しかし映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。
その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚を説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然に設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンのパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。
もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンはキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしか「テレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式の発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムックの存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。
さらに子ども向け番組の世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組のマスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。
また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数の人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかしガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間の声優が存在するとしても、そのピッチやトーンを常に一定に保つのは至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人の技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。
その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。
以上のような理由から、私は「ガチャピンに中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情から、ガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキーのジャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである。
では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間の性質によるのだろう。未知や不思議なものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピンの超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈をはるかに凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。
私はむしろ、大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子どもの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険の世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界や常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコと笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルなガチャピン”だったのだ。もし、あのころの私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界はもっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。
思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。
だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピンに中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジーの証明であり、あの緑色の恐竜がいつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋な気持ちは、決して間違っていなかったのだ。
誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たちが大人になるにつれ忘れかけた好奇心と冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつの生命”——それがガチャピンなのである。
きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気と希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たちは子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。
そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実の境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピンに中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。
こうして振り返ってみると、ガチャピンがテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピンに勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たちは自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界はもっと広がるのだと教えられる。
結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割のひとつではないだろうか。私たちに想像の余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘と可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔で私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピンに中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分の世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。
そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントのステージで、そして私たちの想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日の自分を取り戻すためにも。
BYDが新型高級ミニバン「Xia(夏)」を発売開始。
https://www.marklines.com/ja/news/320122
項目 | トヨタ アルファード PHEV | BYD Xia(夏) |
---|---|---|
全長 | 4995mm | 5145mm |
全幅 | 1850mm | 1970mm |
全高 | 1935-1945mm | 1805mm |
EV航続距離 | 75km | 190km(FF/AWDは180km) |
価格 | 872万円〜 | 約600-800万円 |
BYD Xiaは全長・全幅ともにアルファードを上回り、より広々とした室内空間を提供。
それでいて全高は低く、よりスタイリッシュなデザインを実現している。
アルファードPHEVのEV航続距離はわずか75km程度である一方、Xiaは190kmもの航続距離を誇る。
「普段は電気でスイスイ」なんて言ってられない。Xiaなら、日常的な使用であればほとんどの場合純EVモードで走行可能。
価格についても、アルファードPHEVが872万円からという高額設定なのに対し、Xiaは約600-800万円と、より手頃な価格設定。
これまでトヨタは、アルファードとヴェルファイア(通称アルベル)で中国の高級ミニバン市場を独占的に支配してきた。
しかし、BYD Xiaの登場により、その地位が大きく揺らぐことは間違いない。
Xiaは、アルベルを上回る機能性と低コストを両立させており、トヨタにとって脅威以外の何物でもない。
「移動するリビング」なんて自慢できる時代は終わったよ。。。短いけど。
BYD Xiaは、より広く、より快適で、そしてより安価な「移動する未来」を提供している。
BYDの純電気自動車技術は、すでにPHEVを必要としないレベルに達している。
トヨタ信者は、「やっぱりトヨタ信じててよかった」なんて言っている暇があったら、BYDの革新的な技術と圧倒的なコストパフォーマンスを真剣に考える時期に来ているのではないだろうか。
https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1649422.html
アルファードとヴェルファイアが新しくなったらしいんだけど、ぶっちゃけ俺みたいなトヨタ信者にはこれしかない。
マジで!
今回のマイナーチェンジ(っていうか強化?)も、実用性と快適性の追求っぷりがドヤ顔で迫ってくるし、そもそもアルファード・ヴェルファイアって名前聞いただけでテンション上がるからなあ。
とくに室内空間の広さと快適性ね。
アルファードって元々後席重視の高級ミニバンってイメージ強くて、そこをさらに拡張してくるあたり、まさに「もっと俺たちの希望に応えるトヨタ」って感じ。
あの広々なシートで足を伸ばして、さらに静かな空間…これって「移動するリビング」だろ?そんなもん、かっこよすぎて笑うわ。
ヴェルファイアのほうは、新色の「プレシャスメタル」っていう名前がなんかまた燃える。
もはやカラー名からして「俺たちは攻める!」みたいなメッセージが伝わってきて、あの「ゴツい外観」を引き立てるんじゃないかな。
アルファードには8人乗り「X」グレードのHEVが追加されたって話だけど、そういう細かい選択肢の増やし方が「ファミリーの多様なニーズ全部拾っちゃうトヨタ」らしくて涙出るわ。
で、今回注目すべきは「BEVじゃなくてPHEV」で来るあたり。
最近、どのメーカーもBEVだの何だの言ってるけど、トヨタはやっぱりPHEVを押してくるのが面白い。
BEVって充電設備がまだ整わないと使いづらいし、バッテリーだけで長距離はまだまだ不安って人も多いじゃん?
その点、PHEVなら普段は電気でスイスイ、長距離走るときはガソリンで安心、みたいな「いいとこ取り」感が半端ない。
しかも高級ミニバンって、遠出も多いし、家族全員乗せて楽しく旅行ってシチュエーション多そうだから、充電待ちでモタつく心配が少ないPHEVは地味に最強なんじゃないかと思う。
トヨタはそのあたり、現実的なユーザーのライフスタイルをわかってるよなあ。
というわけで、アルファードもヴェルファイアも、今回も俺たちトヨタオタクをガッツリ引き寄せてくれるわけだけど、特にPHEV的アプローチは「やっぱりトヨタ信じててよかった」って思わせてくれる。
そんなに界隈に精通しているわけじゃないけど、実際に動画編集をしていてaivoiceを使う理由がなくなってしまったと感じる
古くからニコニコ界隈はvoiceroidが主流で次いでaivoiceが使われてきた
ボイロはymm4と連携して動画編集もスイスイできるから使いやすいし
けどvoicevoxが出てから一気にそちらが主流になり、さらに無料のcoeiroとか大量のソフトが出てきた
最近だとvoicepeakも多くなったよね
で1年ほど前にaivoice2が出たんだよ
俺は紲星あかりや琴葉姉妹を割引して買ったんだが、ぶっちゃけ後悔している
当時はまだ有料ベータ版みたいな感じで、これから実装予定の機能が多かった
けど、肝心のYMM4との連携は一切音沙汰がない
ようするに単体で音声を出力することはできても、動画編集アプリ上で気軽に生成して使うってことはできない
大半の音声合成ソフトが動画編集用にAPI公開している中でaivoice2は有料なのにやろうとしない
ぶっちゃけ音声もガビガビだ
紲星あかりや琴葉姉妹というブランドがなければ絶対に購入はしなかった
正直技術力でかなり後塵を拝している
小学生の頃から、夏休みの宿題に出される読書感想文とか全然余裕。
他の作文とかは苦手なんだけど、読書感想文だけはスイスイ書けた。
で、まぁその延長で社会人になってからも読書感想文っぽいブログを始めたんだ。自分のためのメモでもあったし、誰かが読むとも思ってなかった。
でも、ある日、初めてコメントが来たんだよね。正直かなり嬉しかった!
「ついに俺の読書感想文ブログにも読者が!」なんて浮かれてたら、そのコメント見てびっくりし。
「これ、内容を冒頭から結末まで書いてるだけじゃん。本のネタバレしてるし、感想でもなんでもない」だって。
唖然としたよね。え?これって感想じゃないの?って。俺が今まで書いていた読書感想文って、もしかして読書感想文じゃなかったのか?
それ以来、なんか「読書感想文とは…?」って混乱しちゃって。今までの自分の書き方が全部ダメだったのかなって思い始めたわけよ。
なんかイップスみたいな感じになってしまって、文章が書けない。
今までは気軽に、ただ「主人公がこうして、ああして」って流れを書いて、そのあと「だから面白い」って書けば済んでたのに、急にそれが正解じゃなくなった感じがしてさ。
だから今は頭が真っ白になってる。
どうすればいいのだろう…
体育会系クラブなのだろう、元気が有り余っている感じで歩道で爆走する奴ら。なんというか微笑ましさはあるが速度が出ているので普通にとても危ない。てか通勤通学時間帯でそれなりに人の歩いてる歩道を爆走するのは本当に止めて欲しい。歩道走る時はチャリも徐行(個人的には15㎞/h以下)がお約束だぞ!
ロードと書いたがクロスバイクや最近ほぼ見なくなったがピストを含む。スーツスタイルのリーマンが多い。こいつらはやたらスピードを出す割にヘルメットと手袋をしていないので勘違い野郎だとすぐわかる。場合によっては裾止めもしてない。なお車道走行と歩道走行を都合よく併用する奴が多く、別にそれ自体を否定はしないが歩道を走る時はだから徐行しろと言いたい。
電動アシストの「立ち上が軽く簡単にスピードが出る」との特性を最大限に活かし普通のママチャリでは有り得ない加速(ロードとかよりも立ち上がりだけは早い)で一気にスピードにのり歩道を爆走する危険な存在。電動アシストってチャリ本体の重量が30㎏くらいあるし、オバハン本体の、最低でも45㎏くらい以上の重量が乗るので、人をはねたら普通に殺せる乗り物なのだが何故かその危険性はあまり周知されていない。本人は気分よくスイスイ走っているのだろうがアシストにより20㎞/h以上普通に出ているため本当に爆走としか言いようがない。あと歩道上で平然と別のチャリ等を追い越そうとするし、とにかく全体的にマナーがカス。歩道で遭遇したら絶対に近づいてはならない。
ハウスかテクノかと問われたらジャンル分けが難しい部分もあるが、今回はハウスカテゴリに入れさせて頂きたい。
ハウスミュージックの歴史を語る上で外すことのできない1曲。ここから全てが始まったと言っても過言ではなかろう。
様々なバージョンが出ている名曲。聴けば「これが元ネタか!」となる人も多いだろう。
DJ EMMAさんが毎月5月に必ずかけていた曲として思い出深い人も多いだろう。
フロアの聴衆は必ず「スイスイスイスイ」と合唱していた記憶がある。
2006年にリリースされたInner City Jam Orchestra版を聴いた人は多いかも知れない。
ピアノハウスというジャンルにおいて歴史的名曲である事は間違いない。
なんとも印象深い歌詞とPVが特徴的だが、ジャンルを超え大ヒットした曲として選択させてもらった。
未だに色あせる事のない名曲。Kings of Tomorrowは他にもAnother Dayなどの名曲を残している。
クラブに遊びに来る客層を問わずフロアを沸かせたハウスとして書き連ねておくべき一曲。いわゆる一般受けするハウス(悪い意味では無い)
日本が世界に誇るハウスの巨匠サトシトミイエ氏の名曲。トミイエ氏といえばTearsの方が有名でファンも多いと思われるが個人的趣味で敢えて選ばせてもらった。
最後に日本の音楽ゲームからハウスミュージックを知った人も多いのではないかと思い、ビートマニアシリーズの名曲を載せておきたいと思う。
これを機に日本にハウスミュージックが広がったのであれば、それは歴史的に外せない1曲として重要な価値を持っている。
グングンと人生が消えていく
伏線も分かるし盛り上がり所も把握してる
そして時間が過ぎている
寝る
朝シャン髭剃り飯仕事
風呂に入ったり飯食ったりしながらグイグイ読む
そしてまた時間が過ぎる
毎日がこの繰り返しだ
土日は土日で読み残した漫画を読んでいる内に過ぎる
本を読むことに飽きたら適当なソシャゲを起動して適当にプレイする
飽きたらアンインストール
そして土日が終わる
こうして一週間が終わる
そして一ヶ月が終わる
一年が終わる
気づけば40代だ
何もないまま人生が過ぎていく
無料の漫画 無料のゲーム 無料の動画 無料の読書 無料の筋トレ 無料の散歩
所有漫画:0 買ったゲーム:0 払ったスパチャ:0 買った本:0 ジムのサブスク:0
金がなさすぎる
なんだかんだブラックな雇先の情報は出揃ってたからそこを避けていけば最悪の職場はそうそう引かなかったように思う。
そもそも元増田って学生時代にちゃんとコンピューターサイエンスやプログラミングをしてたのかな?
別にあの時代でも独学でプログラミングを学ぶのはそんなキツくはなかったと思うんだけど。
時代を超える良書は一通り出揃ってたし、家庭用の環境構築も興味のある人間なら難しくはなかった。
そんで次々に技術が更新される時代で上の世代は消えたりCOBOLみたいな分野に籠もりだす中、自分たちだけ若い頭してるからスイスイ覚えて中核にも入り込めた。
今はもう一通り整って来ちゃってるから、若い世代が潜り込める分野も狭そうだよね。
すでにあるフィールドの中で新しい仕組みを作るのは楽かもだけど、フィールドそのものを書き換えながら突き進むって意味では20年前ぐらいが一番やりやすかった。
今はもう既に伸びたレールをひたすら延長するだけみたいなのが多くて、いやーこんな公共事業や土木工事みたいな地味ーで先の見えた単純業務ばけりやるのは楽ではあるかもだが夢はねーなーって感じるよ。
相性なんだろうね。
元増田はITに入ったくせにロマンの薄い奴だったという話、まっ、これからの時代は緩やかに過ごせて良かったんちゃうん?
せっかくお前向きの時代になったのにさ。
34歳 年収900万 身長173cm 容姿は博多華丸さんに似ているとよく言われる(歳食ってからさらに似てきた)
婚活初めて4年今までで6人ぐらいの女性としか顔合わせできなかった。
だけど担当さんが言うには4年で6人はとても少ないらしい。
そんなこんなで婚活をだらだら続けていたら、去年の暮れあたりに担当さんから職業:農家を自営業に変えてみないかと言う提案をされた。
まあ別に嘘はついてないのですんなり受け入れた。
するとまあ不思議なことに、女性側の反応がとても優しくなり顔合わせまでスイスイ行くようになった。
以前は、メッセージを送っても農家とはなんだ?汚れる仕事なのか?何人でやってるんだ?家族は関わってるのか?などなど、とまぁ仕事に関しての取り調べみたいだったのに。
自営業と記載したら仕事の話の前に、趣味の話とかができるようになった。
にしてもこんなに農家って女性ウケ悪いんだなと結構ショック。婚活始める前は作ってる野菜が欧州の日本では珍しいちょっとおしゃれなものなので、女性ウケいいかも?なんて楽観してた自分をぶん殴りたい。
お前の絵が下手だから売れなくなるだけ
つーかお前ら絵描きってなんでいつまでたっても鳥山明くらいの絵が描けねーの?
現代の絵描きはレオナルドダヴィンチとかミケランジェロとかミュシャとかの絵をぱぱーっと1分くらいで描けなきゃおかしいっしょ
あとな
文字を書くのと同じくらいに絵を描けねー奴が多すぎると思うわ
イラストもよくわかんねえけど最初に丸かいてから絵を描くやつがいるけどそういうのやめろって思うわ
文字を描くように一筆で一発で絵を描けよ
なんでそんなこともできねーのか謎
できねーならすげー情けねーじゃん
そういう特殊能力なんだろ
マジで絵描きはそういうレベルじゃないなら絵を描くなって思うわ
ったくのろまなんだからよ
ちょっと前のことだけど、夜8時前に近所の道路を自転車で走っていた。和歌山県某所で、当方は会社帰り社会人♂である。スーパーに寄って帰ろうと思っていた。
其処は車1.5台分程度の細い道路だった。一応はアスファルト。それで、自分の前には1台の自転車の姿があった。スイスイと走っている。
でも、「なんかおかしいな」と思っていた。距離が近づくとわかった。その自転車乗りは無灯火運転だった。
そしたら、正面の方から3台くらいかな、家族連れの人がチャリを漕いでいた。親御さんと、子どもが2人いた。
それで、そのうちの1人、お父さんかな。いきなりだった。
って言うと、自分の前を走っている無灯火の人を止めた。
「ライト点けないとだめでしょ」
とお父さん?は言ったのだ。
自分も、狭い道路だったので、なし崩し的に止まることになった。
そしたら、その無灯火の人がさ、
「あ? なんでテメエ、コラ」
と、その無灯火の人は言った。ルックスを見た感じは……夜目だったけど、自分と同じ30くらいだった。
グリーンの作業着だった。傍目で見ると柔道着みたいな感じがした。背丈は普通くらいかな。
そこからのやり取りは、当方の人生で見たことがない感じだった。
「それ、お前の常識やんけ」
「お前が思っとるだけや。はよどけ」
「無灯火! ケガしたらどうするんや」
「待て、こら、おい」
「あ!!!!??」
ここで、彼が自転車を降りた。
「お前、俺が今、どういう気持ちかわかっとんか!」
「……」
「何をさっきからグチグチ言うとんじゃ。ワシはのう、お前に手を出すんを、精いっぱい我慢しとるんやぞ!!」
「呼べっ!!」
自分は退散しようと思った。
それで、自転車に乗って、彼らを追い越してスーパーマーケットに向かった。
買い物を済ませた後、やじ馬根性で帰り道にあそこに寄ってみると……現場に警察が到着していた。
一応は地元民である。すぐ近くにあるブロック塀の陰で、聞き耳を立てることにした。
案の定、無灯火の人がお巡りさんから詰問を受けていた……ここで、pixel8の録音をオンにした。最新のアンドロイドの自動文字起こしは高性能だった。
以下に記録を書いてみたい。
無「四回目くらいやな」
無「別に思わん」
巡「悪いことしてる認識は?」
無「ある。悪いことをしてる。でも、俺は偽善者じゃない。ごまかしてなんかない。悪いことしてるとわかってて、正面からやっとる。罪の意識と向き合って、それを乗り越えとる」
巡「それ、開き直り言うんやで」
無「あ、そう。で、どうするの」
巡「○○さん。いい加減に捕まえるよ」※近所のすごく大きい家の苗字だった。この一世帯しかない。
無「そういうの、俺の親父と、じいさんが悲しむからやめようやwwwお巡りさんも知ってんやろ」
巡「……あなた、市の職員やろ。うちらとおんなじ公務員。常識守って、しっかりせんと」
無「関係ないやろ。別に職場に通報したってええで。ワシは本気よ。じゃあ、行くわ」
※ここで、あのおっさんが何か怒ってたけど、レコーダーでは文字起こしできなかった。距離が遠かったのだろう。
「なんで逮捕せんのですか、それで済ますんですか」だったら聞こえた。
花の金曜日にこんな話をしてすまない。でも、この光景はちょっと、自分には来るものがあった。
自分という人間は、学校で習った常識に従って生きてきたはずだ。それこそずっと。
中学も高校も、学校の先生の言うことをちゃんと聞いて、それなりの成績で、世間でバカにされない程度の大学を出て、今はしがない化学工場勤めである。
そんな中で、彼のようなヤツに出くわしてしまった。
正直、ちょっとだけ羨ましかった。自分は、年上には敬語だし、同僚にも敬語だし、年下にもできれば敬語である。
目上の人間には絶対的に敬語を使う。それと、法律にはちゃんと従う。自転車に乗ってても、赤信号無視とか絶対しない。停止線では一時停止する。それが社会のルールだと思っている。
あの彼は、ちょっと生きづらいのかもしれない。でもさ、あんなに破天荒でも地方公務員として採用されるんだし、実際に働けてもいるんだろう。
そういうことを考えると、コツコツと工場作業員として頑張っている自分と比べて、あっちの方が人として優れてるのかも、とか思ったりする。
愚痴みたいになってしまった。ちょっと思ってみただけだ。早めに忘れてほしい。
増田はいいよな。匿名だから。約一年前からほぼ毎週、読んでいる。アタリを引いた時の感激がすごい。
小心者のブログには、とてもこんなことは書けないよ。