竹島外一島(たけしまほかいっとう)とは、明治初期の日本のいくつかの公文書で言及される日本海西部の日本と韓国の間にまたがる不確定な二つの島で、日本と韓国の間で領有権争いがある竹島について、その争点のひとつとなっている。 1877年(明治10年)に発せられた太政官指令「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」や太政類典の「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした一文が日韓の竹島における領有権の解釈から問題になっている。鬱陵島は江戸時代まで日本では竹島と呼ばれていたため、韓国はこの一文の「竹島」が鬱陵島で「外一島」が現在の竹島(独島)と解釈し、この指令は日本自らが現在の竹島(独島)を朝鮮領と認めている明らかな証拠であるとしている。(ただし、太政官指令には松島のことは全く書かれておらず、朝鮮領であるとも書いていない。)日本でこれと同様の考えを持っている学者は京都大学の堀和生名誉教授と名古屋大学の池内敏教授で、現在の竹島は1877年の時点では日本領ではなかったと主張している。しかし現在の竹島が「竹島」として島根県に正式に編入される1905年までの明治期の近代的地図にはイギリス船の測量間違いを端に架空の位置に竹島が描かれ、鬱陵島が松島となっているため、日本政府や日本の一部の学者たちはこの「竹島外一島」は架空の竹島と鬱陵島を指していた可能性が高いとしている。