週刊少年ジャンプ
『週刊少年ジャンプ』(しゅうかんしょうねんジャンプ、WEEKLY JUMP) は日本において集英社が発行する週刊の少年向け漫画雑誌。1968年に『少年ジャンプ』として月2回刊誌として創刊、翌1969年より週刊となり『週刊少年ジャンプ』に改名。週刊誌の最高発行部数を記録した。略称は「ジャンプ」、「WJ」 など。
週刊少年ジャンプ | |
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WEEKLY JUMP | |
愛称・略称 | ジャンプ・WJ |
ジャンル | 少年向けコミック誌 |
読者対象 | 男性 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 240円 |
出版社 | 集英社 |
編集部名 | 第3編集部 週刊少年ジャンプ編集部 |
編集長 | 佐々木尚 |
刊行期間 | 1968年7月11日(1968年8月1日号)〜 |
発行部数 | 279万部(2007年10月〜2008年9月日本雑誌協会調べ) |
レーベル | ジャンプコミックス |
ウェブサイト | http://jump.shueisha.co.jp/home.html |
概要
1968年(昭和43年)7月11日に『少年ジャンプ』の名称で同年の8月1日号として創刊。創刊時は月2回(第2・第4木曜日)発売、1969年(昭和44年)10月から週刊化された。毎週火曜日発売、2007年現在は毎週月曜日発売。シンボルマークは海賊マーク(ジャンプパイレーツ)。
雑誌キーワードは「友情」「努力」「勝利」。すべての掲載作品のテーマにこの要素(を意味するもの)を最低1つは必ず入れることが編集方針になっている[1]。これは同誌の前身とも言える月刊漫画雑誌『少年ブック』の編集方針から受け継いだものであり、元は小学4・5年生を対象にしたアンケート(「一番心あたたまる言葉」「一番大切に思う言葉」「一番嬉しい言葉」)によって決められたものである[2]。
創刊時に後発の少年漫画誌として、当時の人気漫画家を確保出来なかったため、連載陣のごく少数を除き、全て専属契約の新人で揃えることになった。これは新人発掘に効果を発揮し、『ジャンプ』躍進の原動力となった。週刊少年漫画雑誌で最大部数を誇るようになった現在も、この方針は継承されている。初の漫画専門誌であり、この人気により少年向け総合誌だった他誌も漫画専門誌へと移行するきっかけとなった。
他社の週刊少年漫画誌で掲載されているような表紙および巻頭でのスポーツ選手やアイドルのグラビアは、1970年代後半から1980年代前半までと、1990年代後半の一時期にはあったが、現在は載っていない。スポーツ選手の特集やインタビュー記事自体は2色の情報ページなどで現在でも行われることがある。
現在、同誌の読者構成は小中学生が中心であり、講談社の『週刊少年マガジン』や小学館の『週刊少年サンデー』、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』よりも低年齢寄りである[3]。近年は女性読者が増加。読者の半数が女性と言われている[4]。
歴史
1968年創刊~1970年代前半
1968年創刊。創刊号の発行部数は10万5000部。当初は男気がある劇画調の作品が盛んに登場していた。「ハレンチ学園」・「男一匹ガキ大将」(1968年 -)、「ど根性ガエル」・「トイレット博士」(1970年 -)、「侍ジャイアンツ」・「荒野の少年イサム」(1971年 -)、「アストロ球団」・「マジンガーZ」(1972年 -)、「包丁人味平」・「プレイボール」(1973年 -)等がヒット。
1971年、発行部数が100万部を突破。 1973年8月に『週刊少年マガジン』を抜いて雑誌発行部数で首位。
1970年代後半
ギャグ漫画分野の強化に乗り出す。「1・2のアッホ!!」(1975年 -)、「東大一直線」(1976年 -)、「すすめ!!パイレーツ」(1977年 -)、「キン肉マン」(1979年 -)などが人気に。それ以外にも「サーキットの狼」・「ドーベルマン刑事」(1975年 -)、「リングにかけろ」(1977年 -)、「コブラ」(1978年 -)等がヒット。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(1976年 -)は少年漫画雑誌中、最長の連載記録を更新中。1978年、発行部数が200万部を突破。
1980年代前半
1980年、発行部数が300万部を突破。少女、女性キャラクターに重きを置いた作品が多く登場する。「Dr.スランプ」・「3年奇面組(後の「ハイスクール!奇面組」)」(1980年 -)、「ストップ!! ひばりくん!」・「キャッツ♥アイ」(1981年 -)、「キックオフ」(1982年 -)、 「ウイングマン」(1983年 -)、「きまぐれオレンジ☆ロード」(1984年 -)など。他にも「キャプテン翼」・「ブラック・エンジェルズ」(1981年 -)、「風魔の小次郎」・「よろしくメカドック」(1982年 -)、「北斗の拳」・「銀牙 -流れ星 銀-」(1983年 -)等がヒット。
1980年代中期
バトル漫画「北斗の拳」が大ヒットとなり、それまでのラブコメディ漫画をふっ飛ばし、「キン肉マン」・「Dr.スランプ」・「キャプテン翼」と共に「少年ジャンプ四天王」と呼ばれ[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、発行部数が50万部上昇し黄金時代の先駆けとなる。この時期から漫画雑誌としての側面が強くなり、アイドル・スポーツ選手などのグラビアは掲載されなくなった。1984年1・2号より、創刊以来使用されていた誌名ロゴを一新する。
「ドラゴンボール」(1984年 -)は創刊以来最大のヒット。この頃より「ジャンプ王国」「お化け雑誌」と呼ばれるようになる。毎週発売日の開店直後に完売し、子供に頼まれた母親が買いに行くも手に入らず、出版社に多数の苦情が寄せられるようになる。
1985年、発行部数が400万部を突破。「魁!!男塾」・「ついでにとんちんかん」・「シティーハンター」(1985年 -)「聖闘士星矢」・「県立海空高校野球部員山下たろーくん」(1986年 -)等がヒット。
1980年代後半
「ドラゴンボール」・「聖闘士星矢」などの超能力バトル漫画の爆発的人気がその後の作品に影響を与える。さらにこの頃に発売した「ファミコン」の特集を取り上げるようになった。「ジョジョの奇妙な冒険」・「燃える!お兄さん」(1987年 -)、「BASTARD!! -暗黒の破壊神-」・「ろくでなしBLUES」・「ジャングルの王者ターちゃん」・「まじかる☆タルるートくん」(1988年 -)、「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」・「電影少女」(1989年 -)等がヒット。
1988年13号で創刊号から1000号を達成し、この年に創刊20周年を迎える。さらには1988年12月の年末最終号(1989年3・4合併号)で発行部数が500万部を突破。
1990年代初期
1991年3・4号で発行部数が602万部を突破。週刊誌が全国紙の発行部数を抜いたとして一般メディアも報道する。しかし、人気作品の連載を無理に継続させたため「マンネリ化」に落ち入り[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、「聖闘士星矢」や「魁!!男塾」などの看板作品が打ち切られる。集英社内の体制変化により編集者の異動が増え、学園コメディ漫画やギャグ漫画として始まった作品が連載か進むにつれ、超能力バトル漫画に変更され、一部の漫画家から編集部との意思疎通に不満が出る[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。「花の慶次」・「SLAM DUNK」・「珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-」・「幽☆遊☆白書」(1990年 -)、「アウターゾーン」(1991年-)等がヒット。
1990年代前半
1992年頃、「ドラゴンボール」と共に、「SLAM DUNK」・「幽☆遊☆白書」が大ヒットし、90年代の「少年ジャンプの三本柱」と称される。1993年31号で創刊25周年を迎え、記念イベントとしてこの年の夏休みに「ジャンプマルチワールド」が東京後楽園で開催された。「BØY」(1992年 -)、「地獄先生ぬ〜べ〜」・「NINKU -忍空-」・「とっても!ラッキーマン」(1993年-)、「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」・「みどりのマキバオー」(1994年 -)等がヒット。発行部数は1994年12月の1995年3-4号で653万部の歴代最高部数を達成する。
1990年代後半
1995年25号で「ドラゴンボール」、1996年27号で「SLAM DUNK」が連載終了。発行部数が減少に転ずる。この時期は「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」(1995年 -)「幕張」・「封神演義」・「遊☆戯☆王」(1996年 -)「花さか天使テンテンくん」・「I"s」・「世紀末リーダー伝たけし!」(1997年 -)等が本誌を支えた。
1996年52号で「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が連載1000回を達成する。この時期は長年行われていなかったアイドルグラビアの掲載と『愛読者賞』の復活があった。後者は企画に参加した連載作家のほとんどが連載を休載するなどあり1回で終了。また、13年間親しまれた誌名ロゴの変更、経済面を考慮し表紙のギミックを廃止するなどの試行錯誤が続いた。それまでの超能力バトル漫画から学園コメディへの活発連載と言う本誌の作風転換も行われた。
1990年代末期
1995年から始まった発行部数減少に歯止めがかからず、1997年までに約230万部減少。10年をかけて伸ばした部数が2年で逆戻りし、1997年49号で『週刊少年マガジン』に発行部数を抜かれる。その一方で、様々なコミック記録を塗り替えた「ONE PIECE」(1997年 -)を始め、「HUNTER×HUNTER」(1998年 -)「NARUTO -ナルト-」(1999年 -)等が新たな看板作品として登場。これらの作品は2000年代のジャンプの牽引役となり、2009年現在も連載が続いている。その他に「ROOKIES」・「ホイッスル!」・「シャーマンキング」(1998年 -)「ヒカルの碁」・「テニスの王子様」(1999年 -)などもヒットし、部数の降下傾向は続くものの、『週刊少年マガジン』についで2位は維持。
2000年代以降
「BLACK CAT」・「ピューと吹く!ジャガー」(2000年 -)「ボボボーボ・ボーボボ」・「BLEACH」・「Mr.FULLSWING」(2001年 -)「いちご100%」・「アイシールド21」(2002年 -)など人気作を輩出。特に「DEATH NOTE」(2003年 -)は、アクションがほとんどなく台詞重視で話が進むなど、内容・表現ともに従来の「少年ジャンプ」の傾向とはかけ離れたものだったにも関わらず、単行本の初版100万部最速到達記録を作り、実写映画化・アニメ化なども行われるヒット作となった。その後も「銀魂」(2003年 -)・「家庭教師ヒットマンREBORN!」・「D.Gray-man」(2004年 -)「魔人探偵脳噛ネウロ」(2005年-)「To LOVEる -とらぶる-」(2006年 -)がヒットし、連載作品の単行本売り上げは好調に推移している。
漫画業界全体の発行部数が落ち込む中、2002年に『週刊少年マガジン』を抜いて再び漫画誌の発行部数1位となる。この時期から誌面を越えた活動が多く見られるようになる。1998年から開設した公式サイト「POP WEB JUMP」が拡張を続け「デジタルマンガ部門」が新設、サイト上で漫画を連載させるなど新しい試みが行われた。2000年からはジャンプフェスタが開催され、イベント限定グッズの販売や連載作家を招待するなどして盛況を続けている。
特徴
以下に挙げられている新人契約制度やアンケートシステムに関する詳細は、『少年ジャンプ』草創期に編集長を務めた西村繁男の著した書籍「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」内に詳しい記述がある。
新人の登用と専属契約制度
創刊以来新人作家を積極的に登用しており、新人のチャンスが多い雑誌であるといえる一方、本誌でデビューした作家は必ず集英社と専属契約を結ぶ必要があり、連載が短期に終わった場合も他社で仕事を行うことができない。各作品の欄外における「○○先生の漫画が読めるのはジャンプだけ!」などの煽り文句に、その一端が受け取れる。
この点については新人を「飼い殺し」にしているとの批判も根強く、作家の中でも小林よしのり、井上雄彦、車田正美、八神健、木多康昭、鈴木央など他誌・他社へと活動の場を移して成功した例がある。
また1960 - 1970年代にジャンプに連載を持っていた小室孝太郎は編集部の都合で人気のあった連載が打ち切られた上、この契約を知らない間に結ばされていたために、他誌で仕事をしようとしても集英社から交渉を妨害され、しばらく作品発表の場が持てなかったことをインタビューにて語っている[5]。
本誌3代目編集長だった西村繁男も集英社の退社後に出版した自著で「漫画家に対する執筆保証の項目がない他、契約期間中は他誌との執筆交渉すらできないという点で、極めて編集部に有利な契約である」と、問題が存在することを認める発言をしている[6]。
なお、この「専属契約制」は(他誌で連載経験があったものの)「ハレンチ学園」でブレイクした永井豪がジャンプでの連載の傍ら他誌での連載を開始したことに危機感を覚えた当時の編集長の長野規が発案したものと言われている。同制度の適用第1号となったのは本宮ひろ志である。
アンケート至上主義
一般に漫画雑誌では読者アンケートを参考にして編集の方針を定めることが多いが、本誌では特にその傾向が強く、人気の低下した連載作品はすぐに連載終了、つまりは打ち切りの対象にされる。
この「アンケート至上主義」と呼ばれる体制は「アストロ球団」を連載中の中島徳博の「大御所というだけで人気もない漫画が載っているのはおかしい。アンケートの結果を1週で出すようにして、サバイバルにせよ」という提案が発端となっている。ただし、その中島自身「アストロ球団」以後はアンケート結果が芳しくなく、幾度も打ち切りとなっている。これは作家や作品の経歴などに関係なく平等に適用され、すでに「リングにかけろ」や「風魔の小次郎」で人気作家となっていた車田正美が長期大河作品として構想した「男坂」が約半年で打ち切られた例は特に知られる。またアニメ化やグッズ化なども行われるほどの人気を博した「聖闘士星矢」や「シャーマンキング」が、人気が落ち込むやいなや中途半端な展開で打ち切られた例もある。
この打ち切り適用の厳しさのため、本誌では10 - 20週前後で終了した連載作品が他誌と比べ際立って多い。「地獄先生ぬ〜べ〜」の文庫版において、作者の真倉翔・岡野剛がこれに対し、アンケートの結果に基づき作品の内容を変えたり、あらゆる創意工夫が求められ、いつ連載を打ち切られるか、常に心配していたと言及している。逆に、読者人気の高い作品が物語を完結させたい作者の意向に反して連載を引き延ばされることも多い。
ただし、連載開始直後の「キン肉マン」が、アンケート順位が低かったにもかかわらず、低年齢層の人気が高い傾向があったため打ち切りを猶予して推移を見守った結果、後のヒットにつながるなど、単純に数字だけを追わずに判断する例もあった。「サーキットの狼」のように、打ち切り決定後にアンケート結果が急上昇したため急遽連載を続行した例や、一度は短期打ち切りとなったもののそれから数ヵ月後に連載が再開された「ライジングインパクト」などのような例も存在する。近年では、「聖闘士星矢」のように、途中で打ち切った作品の「完結篇」を他誌に掲載した例もあり、あるいは打ち切りまで一定の猶予期間を与えるなど、初期の厳しさが若干緩和された。ただし、完結編を掲載した作品は、打ち切り後にアニメ化された「武装錬金」や、作者の体調面も終了理由となった「べしゃり暮らし」(その後、週刊ヤングジャンプで不定期連載として移籍)など特異な理由がある場合で、不人気により短期打ち切りとなった場合は行われていない。
掲載順はアンケート結果を元に副編集長がその週ごとの雑誌構成を考慮して決めている[7]。基本的には人気順が掲載順に直接反映され、票が多いほど誌面の前面に掲載される好循環が得られるが、票が少ないほど誌面の後面に掲載される悪循環となっている。だが、「王様はロバ〜はったり帝国の逆襲〜」や「ピューと吹く!ジャガー」など例外的にほぼ毎回巻末に固定的に掲載される場合や、原稿の入稿が遅れた為に後面に掲載される場合[注 1]もある。
作品のアニメ・映像化
『少年ジャンプ』の人気作品はそのほとんどがテレビアニメ化されているが、かつての『ジャンプ』編集部は作品のアニメ化には乗り気ではなかった。現在でいうところのメディアミックス効果には懐疑的で、読者が無料で見られるテレビアニメを見て満足してしまい雑誌や単行本の売れ行きが落ちるのではないかと懸念していたためである[8]。
転機となったのは1981年に放映が開始された「Dr.スランプ」のアニメ化作品「Dr.スランプ アラレちゃん」の大成功である。この作品については在京の複数のテレビ局からオファーがあり、中でも当時編成局長(通常の会社の部長級幹部に相当する)だった日枝久が何度も集英社を訪ねたというほどの、フジテレビの熱烈な要望に集英社側が折れる形でアニメ化を許諾した。しかし、「Dr.スランプ」アニメがもたらした雑誌や単行本との相乗効果や、これに派生したキャラクター商品による著作権収入は集英社の想像をはるかに超えたものがあり、これ以後集英社は自社作品のアニメ化に積極的になった。
しかし近年では、少子化の煽りを受けて4大キー局各局で全日帯アニメ枠は削減されており、4大キー局でのゴールデンタイム帯で放送の作品は、2006年10月に枠降格となった「ONE PIECE」を最後に消滅した(テレビ東京を含めた場合はまだ 「NARUTO -ナルト- 疾風伝」がゴールデンタイムで放送されている)。テレビ東京系列の放送で、かつ地上波でしか放送しないアニメが増えてきたため、ほぼ全ての作品が事実上の関東ローカル(在京キー局のみでの放送)もしくは、三大都市圏や五大都市圏+岡山県・香川県のみの放映となり、ローカル局ではほとんど放送できない事態となった。これは、スポンサーがほとんどつかず、番組販売を受ける為の予算が割かれることによる。ただしテレビ東京系列の放送の場合は大抵BSジャパン(日本全域)で視聴する事ができる。
他誌のアニメ化作品に比べて深夜枠で放送された作品は少なく、「HARELUYA II BØY」・「いちご100%」・「魔人探偵脳噛ネウロ」・「To LOVEる -とらぶる-」など、描写がハードなものや、「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」・「BLACK CAT」・「DEATH NOTE」・「武装錬金」など、放送時にはすでに本誌での連載が終了していた作品が多い。ただし、近年は上記の全日帯アニメ枠削減の影響もあり深夜枠での放送も珍しくない。「DEATH NOTE」はゴールデンタイムで放送の要望が主要4局のTV局からあったが、死の描写が多いために原案者の方からゴールデンタイムでの放送を断った。また、深夜ながらも全国ネット枠で放送する予定だったが、TV局の都合によりローカル枠での放送となった(しかし、アニマックスでの放送は夜7時からであり、ゴールデンタイムの時間帯である)。
今のところ民放キー局各局で同誌掲載の作品はアニメ化されている。そのうちTBSとテレビ朝日は極端に作品は少ない(2000年代では前者が「BLACK CAT」・「To LOVEる -とらぶる-」、後者が「ボボボーボ・ボーボボ」・「いちご100%」を放送した程度である。)。また、テレビ東京系での放送となる作品中は「銀魂」を除き2008年10月付けでハイビジョン製作に移行している。 「ONE PIECE」・「家庭教師ヒットマンREBORN!」は同誌連載作品では珍しく、製作局の本放送時刻が朝帯 (6:00 - 11:00) である(無論、番組販売・振替放送・遅れネットは除いた場合である)。 一方、NHKにおいては皆無といってもいいほど放映されていない(『少年マガジン』『少年サンデー』のアニメ作品は近年NHKにて放映されている)。
編集者
『少年ジャンプ』の編集者は基本的に集英社の社員である(ただし創刊当初は嘱託・アルバイトの編集者も存在した)。そのため集英社発行の他雑誌はもちろん、総務部や人事部など編集者と全く関係ない部署に異動することもある。一方で『ジャンプ』系列誌から全く異動がない者もおり、第4代以降の編集長は全て、入社以来一貫して『ジャンプ』系列誌の編集者だった者が就任している。部署内異動や『ジャンプ』系列誌相互間での異動は頻繁にあり、打ち切り・新連載がなくとも、担当が変更になることも多く、漫画家が困惑することもある。尾田栄一郎は担当編集者がちょくちょく変更になるので、「また担当交代。最低3年はやって欲しいです編集長。」[9]と書いている。編集者の交替があると、漫画家がジャンプの巻末コメントで言及することが多い。
編集者は漫画家または作品の担当を割り当てられ、その漫画家と一緒になって作品づくりをする。編集者によっては連載作品2作品以上担当することもある。持ち込み、未デビュー、次作品制作中の漫画家も担当するため、実際はそれ以上の数を担当する。こういったことから漫画の方向性・内容にも影響を与える大きな力を持つ。『週刊少年ジャンプ』には担当編集者にすべて任せるという伝統があり、編集の方法にマニュアルは存在しない。ある漫画家を引継ぐときも、前任の編集者から今までの編集方法を指導することはなく、引継ぎも一日で終わる[10]。
作品づくりの際に漫画家と非常に緊密な関係を築くことから、「トイレット博士」のスナミ先生(角南攻)・「キン肉マン」のアデランスの中野さん(中野和雄)・「Dr.スランプ」のDr.マシリト(鳥嶋和彦)・「シェイプアップ乱」のマッチ茨木(茨木政彦)「銀魂」の小西恒平(大西恒平)や吉沢(吉田幸司)など、『少年ジャンプ』編集者をモデルにしたキャラクターが漫画に登場することも少なくない。
歴代の編集長
連載作品
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(山止たつひこ(秋本治)) 1976年42号 -
- ONE PIECE (尾田栄一郎) 1997年34号 -
- HUNTER×HUNTER (冨樫義博) 1998年14号 - (2006年以降、不定期で短期連続掲載)
- NARUTO -ナルト- (岸本斉史) 1999年43号 -
- ピューと吹く!ジャガー (うすた京介) 2000年38号 -
- BLEACH (久保帯人) 2001年36・37号 -
- アイシールド21 (原作:稲垣理一郎、漫画:村田雄介) 2002年34号 -
- 銀魂 (空知英秋) 2004年2号 -
- 家庭教師ヒットマンREBORN! (天野明) 2004年26号 -
- D.Gray-man (星野桂) 2004年27号 -
- 魔人探偵脳噛ネウロ (松井優征) 2005年12号 -
- To LOVEる -とらぶる- (漫画:矢吹健太朗、脚本:長谷見沙貴) 2006年21・22号 -
- SKET DANCE (篠原健太) 2007年33号 -
- PSYREN -サイレン- (岩代俊明) 2008年1号 -
- ぬらりひょんの孫 (椎橋寛) 2008年15号 -
- トリコ (島袋光年) 2008年25号 -
- バクマン。 (原作:大場つぐみ、作画:小畑健) 2008年37・38号合併号 -
- いぬまるだしっ (大石浩二) 2008年39号 -
- 黒子のバスケ (藤巻忠俊) 2009年2号 -
- ぼっけさん(西義之) 2009年3号 -
- べるぜバブ(田村隆平) 2009年13号 -
- フープメン(川口幸範) 2009年14号 -
増刊号
隔週の間を埋めるという目的から創刊の翌年から発行されている。
発行部数
(判明分のみ)
- 1968年創刊号 10万5000部
- 1969年 最高24万部
- 1971年新年号 115万8000部
- 1974年 最高165万部
- 1977年新年号 188万部
- 1978年新年号 210万部
- 1979年新年号 280万部
- 1980年新年号 304万5000部
- 1981年新年号 308万部
- 1982年 342万部(年間平均)
- 1983年 371万部(年間平均)
- 1984年 390万部(年間平均)
- 1985年4-5号 403万部 37号 405万部 年間平均 450万部
- 1986年5号 435万5000部
- 1987年5号 450万部
- 1988年5号 485万部
- 1989年3-4号 500万部
- 1990年5号 530万部 21-22号 503万部 37号 520万部
- 1991年3-4号 602万部 21-22号 585万部 36-37号 615万部
- 1992年3-4号 618万部
- 1993年3-4号 638万部 36-37号 643万部
- 1994年3-4号 648万部 36-37号 650万部
- 1995年3-4号 653万部 歴代最高部数を記録。
- 1995年25号 「ドラゴンボール」終了。部数減少に転じる。
- 1996年新年号 588万部
- 1996年27号 「SLAM DUNK」終了。部数低下に拍車が掛かる。
- 1997年 405万部(年間平均)
- 1997年11月週刊少年マガジンに発行部数で抜かれる。
- 1998年 360万部(年間平均)
- 1999年 363万部(年間平均)
- 2000年 363万部(年間平均)
- 2001年 340万部(年間平均)
- 2002年 320万部(年間平均)
- 2002年8月再び『週刊少年マガジン』の急降下で首位奪還。
- 2003年 300万部(年間平均)
- 2004年 300万部(年間平均)
- 2005年 295万部(年間平均)
- 2006年 2,953,750部(一月下記サイトにて確認)
- 2007年3月 2,839,792部
- 2008年1月 2,778,750部(社団法人日本雑誌協会)
- 2008年4月 2,785,833部(社団法人日本雑誌協会)
- 2008年7月 2,790,834部(社団法人日本雑誌協会)
価格の変遷
()は特別定価、あるいはサービス定価。消費税導入以降は税込み価格。
- 創刊時 - 1970年夏頃? 90円(100円?)
- 1970年秋頃? - 1971年秋頃? 80円(不明)
- 1971年冬頃? - 1973年春頃? 90円(100円)
- 1973年夏頃? - 1973年11月 100円(不明)
- 1973年12月 - 1976年春頃? 130円(150円)
- 1976年夏頃? - 1980年春頃? 150円(170円)
- 1980年夏頃? - 1989年3月 170円(180円、または190円)
- 1989年4月 - 1990年8月 180円(190円)
- (1989年4月1日に消費税3%が導入された)
- 1990年9月 - 1995年12月 190円(200円、または210円)
- 1996年1月 - 1997年3月 200円(210円、または220円)
- 1997年4月 - 1998年6月? 210円(220円)
- (1997年4月1日に消費税税率が5%に変更)
- 1998年7月? - 2004年4月 220円(230円)
- 2004年5月 - 2008年8月 230円(240円、または250円)
- 2008年9月 - 240円(250円)
サブコーナー
読者コーナー
- ハレハレ笑学校(? - 1980年?)
- ジャンプ海賊ワールド(1980年? - 1982年)
- ジャンプ放送局(JBS)(1982年 - 1995年)
- 1レース(半年)ごとにポイント集計し優勝者を決める方式。読者コーナーとしては珍しく、単行本化(全24巻)された。さくまあきら、土居孝幸、榎本一夫、横山智佐らがレギュラーを勤めた。
- ジャンポスト(1996年)
- 地方別のリーグ戦形式だったが、人気低迷で1レースのみ(半年)で打ち切られ、それ以降「ジャンプ団」開始までは読者コーナーのない状態が続いた。
- ハガキ戦士ジャンプ団(1997年 - 2001年)
- ハガキ紹介に漫画の要素をプラス。シーズンごとに設定されたノルマをクリアできればシーズン終了。出演は井沢ひろし(ジャンプ放送局に投稿経験あり)、石塚祐子など。
- じゃんぷる(2001年 - 2005年)
- 「ジャンプ団」終了の数週間後より、スタッフの一部を変更してリニューアルスタート。井沢、石塚は引き続き出演。「JBS」に近い形式だった。単行本化もされた。
- ジャンプ魂(2006年 - )
- 「じゃんぷる」をリニューアルさせてスタート。井沢は引き続き参加。「じゃんぷる」ではアルバイトだった山下慎一郎が正規メンバーとなった。アシスタントには、イラストが描けるという事と、「アイシールド21」で声優を務めている事から中川翔子を迎えた。中川は2008年に卒業し、代わりに後輩・林未紀が加入。
ゲーム紹介コーナー
新人漫画家の募集企画
- 年に1回行われる企画
- ギャグキング(1989年 - 199?年、2000年)
- スカウトキャラバン
- 金未来杯(2004年 - 2005年・2007年 - )
- 年に2回行われる企画
- 毎月行われる企画
- 新人漫画賞(1968年 - 1972年?)
- ヤングジャンプ賞(1973年? - 1979年)
- フレッシュジャンプ賞(1979年 - 1982年)
- ホップ☆ステップ賞(1982年 - 1996年)
- 天下一漫画賞(1996年 - 2002年)
- ジャンプ十二傑新人漫画賞(2003年 - 2007年)
- JUMPトレジャー新人漫画賞(2007年 - )
愛読者賞
1973年 - 1983年、1997年に行われた。読者アンケートで選ばれた10人の作家が45ページの読切作品を執筆する。掲載する順番はクジで決める。1位に選ばれた作家は海外旅行のプレゼントがあった。
イベント
- ジャンプフェスタ
- ジャンプ検定
- ジャンプ・アニメツアー
日本国外の少年ジャンプ
2006年現在、『少年ジャンプ』は日本国外でも発行され、「ドラゴンボール」・「ONE PIECE」などの名作が翻訳されている。
週刊少年ジャンプ事件史
漫画表現の過激さや作者の不祥事により連載作品が打ち切りに至ったり、本誌が回収されたケースがある。それらの原因となった作品とそれぞれの詳細について以下に示す。
『ハレンチ学園』性的悪戯ブーム事件
「ハレンチ学園」(永井豪)が問題となった現象。
1968年の創刊号から連載したこの作品の影響で、全国の学校でスカートめくりなどの「ハレンチな」行為が流行したことによりPTAや教育委員会から猛抗議が来た。しかし『ジャンプ』は漫画表現の多様性という名の下に連載を続行。当時の編集長長野規は教育評論家の阿部進と連携し、自ら積極的にテレビ番組やPTAの会合などに出向き『ハレンチ学園』の擁護に勤めている。
この件に関する限りは、編集部はむしろ権力に負けずに連載を続けたことを誇りにしている節があり、『ジャンプ』30周年の時の特集でそのようなコメントが見られた。
『私立極道高校』実在学校無断掲載事件
「私立極道(きわめみち)高校」(宮下あきら)が問題となった事件。
滋賀県にある実在の中学校名と校章、そして卒業生の名前を無断で作品内に掲載して滋賀県教育委員会から抗議を受けた。この行為はプライバシーの侵害にもあたる。1980年第9号と第10号が回収され、「私立極道高校」は第11号で打ち切りとなった。ストーリーは41話まで連載され、単行本は読切版の1話と連載最初の6話を収録した1巻のみ発売されていたが、事件がきっかけで絶版となった。なお、回収に協力した人には、アドレス帳が送られた。
宮下はしばらくの謹慎期間を経て「激!!極虎一家」で連載復帰。「激!!極虎一家」には「私立極道高校」のキャラが多数登場している。
『燃える!お兄さん』職業差別事件
1990年第45号の「燃える!お兄さん」(佐藤正)が問題となった事件。
主人公の担任教諭が仕事上の失敗から担任を外され同校の用務員をすることになり、それに対して主人公が「先生ではなく用務員になったのだから何をしても構わない」という理屈の元に、その教諭にやりたい放題するという内容だった。
この号が発売された直後から「用務員をバカにしている」などの抗議が用務員組合や読者等から殺到。その事態を重く見た本誌編集部はその掲載号を回収するという決断に至った。掲載号を集英社に郵送すると、本誌のマークが入ったシャープペンシルが貰えた。後に発行された単行本でもこの回は不掲載となっている。 なお、ストーリー上では、この教諭が居なくなった理由は「謎の転勤」によるものだったと最終回近くの登場人物のセリフで説明された。
『世紀末リーダー伝 たけし!』作者逮捕事件
2002年8月7日、「世紀末リーダー伝たけし!」の作者の島袋光年が16歳の女子高校生を買春したとして、児童買春禁止法違反で逮捕された事件。
この騒動は一般新聞紙や週刊誌にも大いに取り上げられ、この事件を受けて同年37・38合併号での掲載を最後に同作の連載打ち切り、予定されていた単行本25巻も発売中止となった。39号には、本誌1ページを使い、編集部からの謝罪文が掲載された。
その後、島袋は謹慎期間を経て青年漫画誌『スーパージャンプ』にて復帰、その際「関係者に多大な迷惑をかけた」とコメント欄で謝罪した。絶版となっていた単行本も「ワイド判」として再刊、同作品は『スーパージャンプ』で連載が再開されたのち完結した。その後、島袋は「トリコ」を、2007年に読切で、2008年に連載開始し、『ジャンプ』に復帰している。
関連ゲーム
以下に挙げるのは、週刊少年ジャンプをテーマに扱ったゲームソフトである。
- ファミコンジャンプ 英雄列伝(ファミリーコンピュータ、アクションRPG、1988年2月15日、バンダイ)
- ファミコンジャンプII 最強の7人(ファミリーコンピュータ、RPG、1991年12月2日、バンダイ)
- カルトジャンプ(ゲームボーイ、クイズゲーム、1993年9月10日、バンダイ)
- ジャンプスーパースターズ(ニンテンドーDS、格闘アクション、2005年8月8日、任天堂)
- バトルスタジアム D.O.N(ニンテンドーゲームキューブ、プレイステーション2,アクションゲーム、2006年7月20日、バンダイナムコゲームス)
- ジャンプアルティメットスターズ(ニンテンドーDS、格闘アクション、2006年11月23日、任天堂)ジャンプスーパースターズの続編。
関連項目
派生誌
アニメ
その他
脚注
参考文献
- 西村繁男 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」
- 飛鳥新社、1994年5月。ISBN 4870311720
- 幻冬舎、1997年11月。ISBN 4877285253
- 創刊から立ち会った元編集長が綴った内幕。
- 西村繁男 『漫画王国の崩壊』 ぶんか社、1998年3月。ISBN 482110606X
- 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」の続編的物語。前作より生々しい内容なので、登場人物は全員仮名になっている。
- 本宮ひろ志 『天然まんが家』 集英社、2001年10月。ISBN 408780335X
- 『週刊少年ジャンプ』黎明期の看板作家の自伝。漫画家側から見た『少年ジャンプ』史としても読める。
- 「少年ジャンプというジャンル!」『STUDIO VOICE』2008年2月号、INFASパブリケーションズ
出典
- ^ 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」(飛鳥新社)pp.31 - 32 ISBN 978-4870311725
- ^ 斎藤次郎「『少年ジャンプ』の時代」(岩波書店)pp.11 - 12
- ^ 社団法人日本雑誌協会 JMPA読者構成データ
- ^ 東京新聞2009年1月20日夕刊
- ^ 『まんが秘宝Vol.2 つっぱりアナーキー王』 洋泉社、1997年 ISBN 978-4896912777
- ^ 「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」(飛鳥新社)pp.158 - 159
- ^ 「ONE PIECE 47巻」(集英社、2007年 ISBN 978-4088744117)の質問コーナーで尾田栄一郎が読者の質問に回答した内容より
- ^ 株式会社ワールドフォトプレス 『フィギュア王№119』 嶋田隆司インタビューより
- ^ 週刊少年ジャンプ・2007年49号の尾田栄一郎による巻末コメント
- ^ 夏目房之介の「で?」