銀座
銀座(ぎんざ)は、東京都中央区の地名で、日本を代表する繁華街である。旧・京橋区の地域にある。現行行政地名は銀座一丁目から銀座八丁目。郵便番号は104-0061[2]。
銀座 | |
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銀座の遠景 | |
北緯35度40分16.4秒 東経139度45分54.0秒 / 北緯35.671222度 東経139.765000度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 中央区 |
地域 | 京橋地域 |
面積 | |
• 合計 | 0.87 km2 |
標高 | 4.4 m |
人口 | |
• 合計 | 3,608人 |
• 密度 | 4,100人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
104-0061[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
※座標・標高は銀座四丁目交差点付近 |
ブランドショップなどが立ち並ぶ高級商業地であり、地域ブランドなどとしても知られている。都心随一の規模を誇る繁華街であり、新宿・渋谷・池袋などとともに東京を代表する商業地である。
概要
編集江戸時代に銀貨の鋳造所である銀座が置かれたことが地名の由来である。日本最大の繁華街の一つであり、日本橋などとともに広義における下町でもある。東京都心を代表する高級商業地として、日本国外においても戦前よりフジヤマ、ゲイシャ、ミキモト、赤坂などとともに知られる。海外のハイブランドの旗艦店や高級クラブ、高級バー、高級時計専門店、百貨店などが多数集積しており、東銀座駅前には歌舞伎座が位置している[4]。
「銀座」の名は一種の地域ブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。ただし近年はユニクロなどのファストファッションやドラッグストアなど大衆的な店舗も増えている。ハイブランドのアパレルだけでなく、マクドナルドやスターバックス、H&M、Apple Storeなどの外資系の日本1号店が銀座に置かれ、長年欧米文化の発信地であった[5][6]。
北から南にかけて一丁目から八丁目まで続き、中央通りと晴海通りが交差する銀座四丁目交差点付近は銀座の街の中心であり、商業地として日本一地価の高い場所としても知られている[7]。同交差点に位置する銀座和光の時計台は銀座のランドマーク的存在になっている。また西側で有楽町と隣接しており、有楽町駅や日比谷駅などからも徒歩圏内である。地価の高い繁華街である一方で、基本的に銀座の中心部のビルについては56mまでの高さ制限があるため、歌舞伎座タワーなどの一部の例外を除いて超高層ビルはほとんど存在しない[8]。
地理
編集東京都中央区の西部に位置し、西を千代田区、南を港区に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる[9]。こうした事情から、銀座は4丁目と5丁目を除き、1番地が存在しない。こうした未整理区域があることを利用し、銀座八丁目と新橋の間には銀座九丁目を示す「銀座ナイン」と呼ばれる商業施設が3棟あり[† 1]、2号館には「銀座九丁目」というおでん屋が入居している。
街路に関しては、仙台、秋田、会津若松、駿府(静岡)、名古屋、大坂(大阪)、広島など多くの近世城下町の町人地と同じく、直交街路を基本としており、これは近隣の日本橋、京橋地区と同様である。
しかし、大阪の船場や名古屋の錦周辺、あるいは京都の四条室町周辺などと異なり、街区は正方形ではなく細長い短冊形となっている。これは、京都のうち豊臣秀吉による都市改造を受けた地域や、大阪の平野町や天満周辺、松山などと共通する。
また、街路網は北東から南西に向かう中央通り(銀座の部分だけ特に「銀座通り」と呼ばれる)を中軸として設計されており、大阪、京都、名古屋、札幌のように東西南北の方位を基準とした構造を有していないばかりか、銀座における中央通りの軸線は、京橋、日本橋、神田における軸線と異なる方向を向いている。これは、徳川家康による当初の都市計画の際、江戸前島以来の微高地の尾根筋沿いに、地形に沿った主軸線として通町筋(とおりちょうすじ、現在の中央通り)を設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な排水の便を図ったものといわれる。
近代になってからの都市計画に基づきさらに整備が加えられている。関東大震災後、後藤新平による震災復興の都市計画における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東-南西軸(東京全体の南北軸の一部)として昭和通りが設けられた。また、数寄屋橋から銀座四丁目交差点、歌舞伎座前を経て勝どき橋方面へ至る、北西-南東方向の主要な直交街路として晴海通りが大通りとして整備され、銀座街区の西側には外堀通りが整備された。
このような整備にも関わらず、銀座内部の街路は昔ながらのものであり、通りから通りへと抜ける路地が多く点在し銀座らしい空間を醸し出している。
地域の郵便番号は104-0061で統一されている。
区域
編集南東側を現在の首都高速都心環状線、その他を東京高速道路にぐるりと囲まれた地域である。かつては、東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に囲まれた人工の島であった。
昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、1960年代後半に銀座西と共に銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。
一方、数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線の西銀座駅(現在の銀座駅)があったことなどから、町名が銀座となった今でも西銀座の名を冠した施設も散在する(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。
隣接する地区
編集地価
編集住宅地の地価は、2019年(平成31年)1月1日の公示地価によれば、銀座4-5-6の地点で5720万0000円/m2となっている[10]。
歴史
編集江戸時代
編集江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座に当たる[11]。
- 江戸前島
1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、1603年に江戸幕府を樹立すると、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる[13]。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所(現在の静岡市葵区両替町一丁目)が移転し、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南一丁目〜四丁目までを拝領して新両替町と称し銀座人らが住居を構え、新両替町二丁目東側南角に常是役所、この北隣に銀座役所が設けられた[14]。常是役所は現在の第一三共ビル付近[† 2]、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置[† 3]に相当する。ビルの前には「銀座発祥の地」の石碑がある[† 4]。1715年には大判座の後藤屋敷が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目に当たる。銀を特権的に扱う銀座は相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は当地の通称としてそのまま残った[15]。
現在の五丁目〜八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。
1657年、明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。
明治時代
編集銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた[16]。煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や、中流階級、ホワイトカラーの人々だったということである[17]。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中流階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
大正・昭和戦前
編集1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。
なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていたため、銀座から撤去されたレンガを貰い受けて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった[18]。その後、銀座の繁栄にあやかって全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店(カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われる中でも発展を続けていく。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める[† 5][19]。
1926年(大正15年)1月31日、黒色青年連盟の講演会参加者の一部が暴徒化、銀座に移動して店舗を襲撃。資生堂のショーウィンドウ破壊を皮切りに、不二家、山野楽器など二十余件が被害を受けた[20]。
日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年(昭和19年)には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った[21]。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けることとなる。
戦後
編集第二次世界大戦が終わると、服部時計店、松屋や銀座東芝ビル[† 6]など、多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店はバラックや露店で営業を再開した[22]。 8丁目の例では表通り230余戸のうち130戸が焼け、40戸が疎開で取り壊された状況にあった。その跡には1945年12月1日から一斉開店する予定で、従来の店舗の間口通りに木造の仮建築がなされた[23]。 華僑・王長徳による一等地買い占めが行われたのもこの時期である。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。1951年にGHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。
銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は、建築基準法(当時)の百尺規制(約31m、1尺≒303mm)で建物の高さが揃うまでになっていった。また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていった。 道路の改良は続いたが、交通量はそれ以上に拡大した。1972年2月からは、コインパーキングメーターが稼働開始。駐車場を確保する苦労は緩和される一方、違反車の撤去は強化された[24]。
1960年代、学生運動が盛んになると銀座においてもデモ活動も行われるようになった。 1969年11月13日には銀座四丁目交差点で学生らと機動隊が衝突。投石や火炎瓶が飛ぶ暴動状態となった。さらに学生らは地下の銀座駅へと逃げる途中にも火炎瓶を投擲、炎上させ、通行人や乗客に負傷者が出た[25]。
そんな銀座であったが、銀座には暗い影が忍び寄りつつあった。上述のように、明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層であったが、関東大震災以降、山手の住宅街は、東京急行電鉄や小田急電鉄、西武鉄道等の沿線住宅開発により、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていた。これら電鉄会社は、大阪の阪急電鉄に倣ってそれぞれの都心側ターミナル駅の繁華街建設を進めており、渋谷、新宿、池袋に代表される副都心の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのである。山手線よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつあった。1964年のみゆき族、1971年のマクドナルド1号店の開店、1970年の歩行者天国の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を渋谷(「シブヤ系」も参照)や原宿に、庶民的な要素も含めた総合的な筆頭繁華街としての地位は、新宿に奪われることになっていく。1980年代後半には、バブル景気に伴う地価高騰の象徴として、銀座の天文学的地価が連日報道され、高級クラブに代表される夜の街としてのステータスは盤石ながらも、総合的な繁華街としては首都圏における鉄道沿線文化の色分けに組み込まれていき、銀座は、東京東部の一繁華街に落ち着きつつあった。
1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心再開発のブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになる。銀座の各所で再開発が促され、ヨーロッパの高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が、中央通りや晴海通りなどに表通りに軒を連ねるようになった。他方、都心再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、一定程度銀座にも呼び戻すことになった。彼らによって、総合的繁華街としての副都心の雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況に伴う小売業態の変化も手伝って、ドラッグストアや飲食店のチェーン店なども開業するようになった。その結果、戦前や高度経済成長期のような「独特な高級繁華街」としての雰囲気は、随分薄くなっているといえる。
21世紀
編集2010年代になると、中国人観光客によるいわゆる爆買いに代表される外国人観光客(インバウンド)が目立つようになった。それに合わせ外国人向け免税店や既存の店舗の中に外国人向け免税コーナーや免税手続き所を設ける店舗が多くなった[26]。
2019年10月1日、銀座六丁目から八丁目が暴力団排除特別強化地域に指定される[27]。地域内では暴力団と飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科されるようになった[28]。
2020年代になると、新型コロナウイルスの流行による外国人観光客の喪失により交通量は激減。空きが目立つ店舗も現れた[29]。
地名の由来
編集江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所(銀座)にある。駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、1612年(慶長17年)に江戸に移されて以来、これが地名として定着した。
沿革
編集- 1869年6月9日(明治2年4月29日)
- 江戸町名改正により新両替町等を合わせて銀座一町目から銀座四町目が起立[30]。
- 1869年6または7月(明治2年5月)
- 三十間堀西側等を合わせる[31]。
- 当時の銀座一丁目から銀座三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形に当たる。
- 1930年(昭和5年)3月4日
- 区画整理により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一丁目から銀座四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五丁目から銀座八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目から銀座西八丁目とした。
- この時点での銀座一丁目から銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、晴海通り、桜通りに囲まれた四角形に当たる。また、当時の銀座五丁目から銀座八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形に当たる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。
- 1951年(昭和26年)8月1日
- 三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(銀座東二丁目から銀座東八丁目も同様)と改名した(埋め立ては1952年7月に完了した)。
- 1968年(昭和43年)10月1日
- 1969年(昭和44年)4月1日
- 住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目から銀座八丁目も同様)として[33]銀座東が消滅。
町名の変遷
編集実施後 | 実施年月日 | 実施前(いずれも拾弐番組) |
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銀座壹町目 | 1869年6月9日 | 與作屋敷、新兩替町壹町目 |
銀座貳町目 | 新兩替町貳町目 | |
銀座三町目 | 新兩替町三町目 | |
銀座四町目 | 新兩替町四町目 |
実施後 | 実施年月日 | 実施前 |
---|---|---|
銀座壹町目 | 1869年6または7月 | 銀座壹町目、三拾間堀壹町目 |
銀座貳町目 | 銀座貳町目、三拾間堀貳町目 | |
銀座三町目 | 銀座三町目、三拾間堀三町目 |
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ各町名ともその全域) |
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銀座一丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西一丁目、銀座一丁目 |
1969年4月1日 | 銀座一丁目、銀座東一丁目 | |
銀座二丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西二丁目、銀座二丁目 |
1969年4月1日 | 銀座二丁目、銀座東二丁目 | |
銀座三丁目 | 1968年10月1日 | 銀座三丁目、銀座西三丁目の一部 |
1969年4月1日 | 銀座三丁目、銀座東三丁目 | |
銀座四丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西四丁目、銀座四丁目、銀座西三丁目の一部 |
1969年4月1日 | 銀座四丁目、銀座東四丁目 | |
銀座五丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西五丁目、銀座五丁目 |
1969年4月1日 | 銀座五丁目、銀座東五丁目 | |
銀座六丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西六丁目、銀座六丁目 |
1969年4月1日 | 銀座六丁目、銀座東六丁目 | |
銀座七丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西七丁目、銀座七丁目 |
1969年4月1日 | 銀座七丁目、銀座東七丁目 | |
銀座八丁目 | 1968年10月1日 | 銀座西八丁目、銀座八丁目 |
1969年4月1日 | 銀座八丁目、銀座東八丁目 |
地域
編集世帯数と人口
編集2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
銀座一丁目 | 960世帯 | 1,493人 |
銀座二丁目 | 452世帯 | 649人 |
銀座三丁目 | 224世帯 | 308人 |
銀座四丁目 | 133世帯 | 188人 |
銀座五丁目 | 27世帯 | 38人 |
銀座六丁目 | 36世帯 | 58人 |
銀座七丁目 | 202世帯 | 260人 |
銀座八丁目 | 491世帯 | 614人 |
計 | 2,525世帯 | 3,608人 |
1908年には27,689人が暮らしていたが、関東大震災や戦争を機に郊外流出が進み、1955年に15,582人にまで減少した。さらに高度経済成長期には人口減少に拍車がかかり、1970年の人口は6,257人、1998年は2,963人にまで減少したが、それ以降は都心回帰に伴う投資マンションの建設ラッシュによって多少は増加に転じているもののそれらマンションの実態は事務所使用が著しく多い。
小・中学校の学区
編集区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[34]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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銀座一丁目 | 2〜10番 11番1〜2号 |
中央区立泰明小学校 | 中央区立銀座中学校 |
11番3号 12~28番 |
中央区立京橋築地小学校 | ||
銀座二丁目 | 10〜16番 | ||
2〜9番 | 中央区立泰明小学校 | ||
銀座三丁目 | 2〜8番 | ||
9〜15番 | 中央区立京橋築地小学校 | ||
銀座四丁目 | 9〜14番 | ||
1〜8番 | 中央区立泰明小学校 | ||
銀座五丁目 | 全域 | ||
銀座六丁目 | 全域 | ||
銀座七丁目 | 全域 | ||
銀座八丁目 | 全域 |
景観
編集銀座の建物は戦後復興の1960年代までに建設されたものが多く、当時の建築基準法により高さ31mに制限され、統一された景観を形成してきた。しかし、老朽化した建物の建て替えに際して、多くの建物が容積率制度の導入される1964年以前に建設されたものであることから、建て替え前よりも小さい規模での建設を余儀なくされることや、建物の高層化により統一した景観が阻害されることを懸念した地元と中央区が協議し、1998年に地区計画「銀座ルール」が制定された。ルールでは、道路幅に応じて高さ13〜56mにまで制限し、容積率も基準を800%、最大でも1100%とし、開発に大幅な制限をした[35]。
しかし、2002年に都市再生特別措置法の「緊急整備地域」に指定されたために、容積率が大幅に緩和され、銀座においても再開発による建物の高層化の機運が高まることとなった。これとは別に、2005年に都市計画法の特定街区制度を活用して銀座八丁目に121mの銀座三井ビルディングが建設された。この流れを受けて、2004年に地元企業は資生堂名誉会長の福原義春を代表とする「銀座街づくり会議」を発足させた。
その中で、 松坂屋が森ビルと共同で松坂屋銀座店と隣の街区を合わせて大規模な再開発をする計画が浮上。また、ほぼ同時期に歌舞伎座でも建て直しに伴う一部高層化の計画が発覚し、再び「銀座ルール」の見直しがされることとなった。2006年に施行された新ルールでは、昭和通りより西の銀座中心部では一切の例外を禁止して建物の高さを56mに抑え、今まで規定のなかった屋上広告についても最大で10mまでとした。
一方で、昭和通りより東では、区長が「文化等の維持・継承に寄与する大規模開発」と判断した場合に限って56mを超える建物の建設が許可されることになり、歌舞伎座の再開発は認められた。また建物の建設に際して建築確認の前に「銀座街づくり会議」が選出した学者や地元商店主らによって構成された「銀座デザイン協議会」と建物のデザインや用途などについて協議することを求めている。
象徴
編集銀座のシンボルとされているのが柳である。また、銀座四丁目交差点に建つ和光本館の時計台と三愛ドリームセンターは完成時より銀座のランドマーク的存在である。
銀座の柳
編集銀座発祥の地、堺から移住してきた銀細工職人が故郷を懐かしんで移植したのが起源とされる[36]。現在では、「中央区の木」にも指定されている。1874年に日本初の街路樹として、桜・松・楓が銀座通りに植樹されたが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、1877年に湿地に生育する柳に植え替えられた。1921年には車道の拡幅に伴い銀杏へと植え替えられ、残された木も1923年の関東大震災で壊滅したものの、銀座の柳に対する思いは強く、1929年に発表された西條八十作詞の『東京行進曲』でも銀座の柳を懐かしむ歌詞が登場する。1932年に震災復興事業として、銀座通りに長野県安曇野産の柳が朝日新聞社の寄贈によって復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催された。その後も、『東京ラプソディ』や『東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。
しかし、1968年に銀座通りの共同溝工事のために柳は伐採され、東京都日野市の建設省街路樹苗圃に移植された。その柳もどんどん枯れていき、1984年には3本しか残っていなかった。それを知った地元商店主が柳の枝を譲り受けて挿し木を行い、自宅の庭などで育てたものを銀座をはじめ、全国各地に植樹を行った。銀座に柳を復活させる運動は続いており、現在では外堀通りや銀座柳通り、御門通りに柳が植えられている。また、外堀通りでは2006年から毎年5月5日に「銀座柳まつり」が開催されている。
経済
編集東京都心部に位置する銀座は、明治時代より商業の中心地として日本でも有数の繁華街を形成している。
商業地域は銀座通り(中央通り)沿いの地域を軸とした銀座の西部、特に晴海通りと交わる銀座四丁目交差点の周辺を中心としている。また、七丁目や八丁目周辺は高級クラブや飲食店などが立ち並んでいる。
一方で、東銀座地域は企業の社屋などが立ち並ぶオフィス街となっており、新橋演舞場のある六丁目から八丁目にかけては新橋の花街が形成されている。
商業
編集銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、隣接する有楽町エリアを合わせた2002年の年間商品販売額は4088億2100万円で、東京都内では新宿駅東口地域に次ぐ規模である。
明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期のデパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが業態は少しずつ変化していった。従来は高級婦人服飾店といえば銀座セキネ、銀座マギー、マミーナ、小松ストア、銀座ダイアナ、三愛、創作洋品店(オートクチュール店舗)、日本初のセレクトショップであるサンモトヤマなどが代表だったが1990年代のバブル崩壊以後は海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた、その一方でカラオケ店、ブランド品買取専門の質店などといった大衆的な業種のチェーン店化が活発になっていく。
銀座は、老舗の集積地でもあり、松屋・三越のほかにも、隣接する有楽町にルミネ・阪急MEN'S TOKYOが立ち並ぶ。しかし、有楽町駅再開発・一億総中流社会解体によって、有楽町そごうは2000年、有楽町西武は2010年、有楽町阪急は2011年、松坂屋は2013年、プランタン銀座は2016年に閉店しており、銀座・有楽町エリアの百貨店は7店から2店にまで急減している(阪急MEN’S TOKYOを含めると3店)。銀座というと百貨店というイメージをもつ人も多いが、実際はエリアごとの百貨店売上高では新宿や日本橋などの方が多い。
家電メーカーはオーディオ製品を中心にしたショールームを銀座に相次いで開設した。1963年1月三菱電機が三愛ドリームセンター内に三菱電機スカイリングを、1966年4月にはソニーがソニービルを建設した(松下電器=テクニクス銀座ショールーム、日立製作所=Lo-Dプラザ[† 7]、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザ[† 8])。また、日産自動車も銀座ギャラリーを開設した。
新築されて2016年にオープンした東急プラザ銀座や銀座プレイス、2017年にオープンしたGINZA SIX(ギンザ シックス)、改装されて2015年にリニューアルオープンしたイグジットメルサ(旧ニューメルサ)などの大型の複合商業施設が数多く並ぶ。
情報通信業
編集かつて銀座にマスメディアの集中が見られた時期があった。明治時代、銀座煉瓦街の建設に伴い、丸の内や日本橋に近い銀座に、多くの新聞社が集中した。一時期は、東京日日新聞(現:毎日新聞)、東京朝日新聞(現:朝日新聞)、読売新聞や國民新聞などといった新聞社のほとんどが銀座に集中し、それに伴って印刷業や広告代理店なども集中した時期もあった。しかし関東大震災により東京在来の新聞社が壊滅的打撃を受けると、読売が大手町へ移転するなど銀座への集中も途絶えることとなった。現在は、隣接する築地に朝日新聞東京本社が、隣接する汐留(東新橋)に日本テレビと共同通信社がそれぞれ社屋を構えていることが目立つくらいである。
また、日本電報通信社(現:電通)が銀座(外堀通り、現在も(旧)電通通りとも言う)に設立されたことにより、広告原稿の受け渡しの利便性から地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。このことから、現在でも地方のテレビ局・ラジオ局などのうち、比較的小規模なものを中心に、銀座に支局や支社を構えるところが少なからず存在する(地方民間放送共同制作協議会も、銀座に事務所を置く地方ラジオ局支社長達が「火曜クラブ」として定例会合を開いたことに因む)。
出版社や大手出版取次店をはじめとする印刷出版業に関しては、東京における集中地区は、主要な大学にほど近い本郷をはじめとする文京区内や千代田区神田神保町周辺を含む、皇居の北側のエリアに一大中心地があり、銀座は中心地とはいえない。しかし、前述したような事情から、明治時代から社屋を構える教文館や実業之日本社など、古い出版社には銀座に本社を残しているところも残存する。
銀座に本社を置く企業
編集文化
編集江戸時代後期から現在まで「新橋」と呼ばれる花街が位置している。
明治時代、煉瓦街建設や新橋と横浜を結ぶ鉄道の開業、また築地(明石町)鉄砲洲(湊)に外国人居留地があったために舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。
食文化
編集食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。1871年、「文英堂」(現:木村屋總本店)が尾張町にて創業し、あんパンの販売を始めた。また、1895年には洋食屋の「煉瓦亭」が開業した。銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂は1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現:資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水やアイスクリームを売りだした。他にも、1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど銀座には様々な食文化が流入した。
1911年3月、パリのカフェを模した「カフェー・プランタン」が開店し、作家や画家などの文化人の社交場となった。その後も「カフェー・ライオン」や「カフェーパウリスタ」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、文壇の議論が盛んに行われた。しかし、関東大震災を境に関西資本のカフェーが進出し、カフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していった。昭和初期にはエログロナンセンスの流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。また、この頃に関西の料亭の進出も相次いだ。
戦後、銀座は徐々に世界各国の高級料理店が進出し、代表的なフランス料理店のレカン、マキシム・ド・パリや高級クラブなどが林立する街として認知されるようになっていく。1980年代後半に差し掛かるとそれまでとは比較にならない勢いで世界の一流レストランが挙って出店する一方、外食フランチャイズも盛んになる。まず1970年に「ダンキンドーナツ(現・ダンキン。日本からは米軍基地を除き1998年に撤退)」、次いで1971年に「マクドナルド」の1号店が銀座に開店。1990年代後半には「スターバックスコーヒー」や「タリーズコーヒー」が相次いで進出し、その後も「サンマルクカフェ」や銀座四丁目交差点で銀座和光と並ぶランドマーク的な存在である三愛ドリームセンター内に「ル・カフェ・ドトール」の1号店が開店、銀座は戦前とは異なる形態のカフェ激戦地となり、カフェブームを全国へ広げる舞台として躍進する。
ファッション
編集服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。その中で、資生堂は化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献する。
関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけてはモボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であるアール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。
1964年に並木通りやみゆき通り周辺で「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していたアイビールックかコンチネンタルルック、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「VAN」や「JUN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消す。
1990年代後半からは海外ブランドの進出が活発になり、並木通りを中心として次第に晴海通り、銀座通り(中央通り)へと多くの海外高級ブランド店が進出。しかし、2008年9月にアメリカで起きたリーマンショックを端とするバブル崩壊と経済危機の煽りで、海外ブランドの閉鎖が相次ぎ、2割ほどが撤退すると予想された。近年では、プランタン銀座とマロニエゲートの間を南北に走る銀座マロニエ通りに、カルティエ、シャネル、ルイヴィトン、ブルガリ等のラグジュアリーブランドが軒を連ねている。 最近ではユニクロやFOREVER 21等のファストファッション専門店が進出し様変わりしている。2017年に松坂屋銀座店の跡地を含む銀座六丁目10番街区(4,600m2)、隣接する銀座六丁目11番街区(4,400m2)の2つの街区約1.4haがGINZA SIXとしてオープンし、盛況である。
文化施設
編集1900年代から1920年代前半にかけて、歌舞伎座や東京宝塚劇場など、銀座・有楽町周辺には多くの劇場が開場した。
1950年代以後はカントリー・ミュージックやジャズなどをバンドの生演奏で楽しむジャズ喫茶の開店が相次ぎ、1960年代に入ると銀座ACBが盛況を博し、シャンソン喫茶「銀巴里」は多くのシャンソン歌手を生んだ。しかし、1970年頃より、新宿や御茶ノ水などへ音楽の拠点は移っていった。
劇場や映画館は1970年代までと比べ減少したが、現在ではコンサートホールなどの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の文化支援活動の一つとして開いているものが多いことである。また、画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。
主な文化施設一覧
編集交通
編集銀座へは地下鉄とバス網が整備されており、またJRの有楽町駅、新橋駅からも徒歩圏内にある。このため、1998年に行われた銀座への交通手段に関するアンケート調査では地下鉄利用者が半数以上を占め、JRの利用者も3割以上だったことから、大半が鉄道を利用して銀座へ来ていることが分かった[要出典]。
道路
編集晴海通りや中央通り、昭和通りなどの大通りが縦貫し、これらの通りでは自動車の交通量が多いことにより渋滞が深刻化している。
銀座全域が首都高速道路に囲まれた形になっており、直に利用する以外にも目印等の用途がある。
道路
編集- 南北に延びる道路(新橋〜京橋間)を西からの順
- 銀座コリドー通り
- 数奇屋通り
- 東京都道405号外濠環状線(西銀座通り・外堀通り、旧電通通りとも言う) - 数寄屋橋交差点より南西側が「西銀座通り」。
- ソニー通り
- 並木通り
- 西五番街
- 金春通り・すずらん通り・ガス灯通り
- 中央通り - 銀座通過部分は「銀座通り」になる。
- 信楽通り・あづま通り
- 三原通り
- 昭和通り
- 東西に延びる道路(築地〜日比谷間)を北からの順
- 銀座桜通り
- 銀座柳通り
- 銀座マロニエ通り
- 松屋通り - 沿道に松屋銀座があるため。
- 東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線(晴海通り)
- みゆき通り
- 交詢社通り - 沿道に交詢社があるため。
- 花椿通り - かつては出雲通りだったが資生堂が買収。
- 御門通り
首都高速道路・出入口
編集鉄道
編集1882年に東京馬車鉄道が新橋〜日本橋間で開業した。1903年、馬車鉄道は「東京電車鉄道」と名を変え電化し、同年には数寄屋橋〜神田橋間に東京市街鉄道が開業した。これらの鉄道路線は、後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。1934年には東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が銀座まで延伸した。
1950年代より地下鉄整備が着々進められ、西銀座駅の丸ノ内線が開業したことを機に整備されていく。その一方で自動車の増加に因り都電は徐々に撤去されていった。
- 鉄道駅
東京地下鉄(東京メトロ)
- 東銀座駅(○浅草線)
路線バス
編集店舗・施設
編集ゲームセンターの類が無く、家電量販店・カラオケボックス・パチンコ店・ファーストフード店は他の繁華街に比較して少ない。それらの店は隣の有楽町や新橋などに集中している。法人については本店・旗艦店ないし路面店、あるいはそれに準ずるもののみ掲載。以下、店舗等一覧は2020年以降のコロナ禍等その他で変容あり。
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銀座を舞台・背景とした作品
編集日本映画の黎明期から黄金期となる戦後混乱期から高度経済成長期まで、東京を代表する町として頻繁に銀座が登場。歌謡曲でも銀座を歌った歌が数多く、『東京行進曲』や『東京音頭』などといった東京の歌の歌詞にも銀座が登場する。
- 映画
- 東京の女性(1939年、東宝)
- 肉体の門(1948・1964・1977・1988年、東宝・日活・東映)
- 銀座カンカン娘(1949年、新東宝)
- 銀座化粧(1951年、新東宝)
- 君の名は(1953年、松竹)
- ゴジラ(1954年、東宝)
- 銀座二十四帖(1955年、日活)
- 太陽の季節(1956年、日活)
- 夜の蝶(1957年、大映)
- 嵐を呼ぶ男(1957年、日活)
- 銀座のお姐ちゃん(1959年、東宝)
- 銀座旋風児シリーズ(1959年 - 1963年、日活)
- 秋立ちぬ(1960年、東宝)
- 女が階段を上る時(1960年、東宝)
- セクシー地帯(1961年、新東宝)
- 銀座っ子物語(1961年、大映東京)
- 銀座の恋人たち(1961年、東宝)
- 銀座の若大将(1962年、東宝)
- 閉店時間(1962年、大映東京)
- 銀座の恋の物語(1962年、日活)
- 風速七十五米(1963年、大映)
- 二人の銀座(1967年、日活)
- 007は二度死ぬ(1967年、ユナイテッド・アーティスツ)
- 続組織暴力(1967年、東映)
- 女の警察(1969年、日活)
- 続 女の警察(1969年、日活)
- 夜をひらく 女の市場(1969年、日活)
- 女の警察 国際線待合室(1970年、日活)
- 女の警察 乱れ蝶(1970年、日活)
- 経験(1970年、東映)
- 赤頭巾ちゃん気をつけて(1970年、東宝)
- 実録 私設銀座警察(1973年、東映)
- 逆襲! 殺人拳(1974年、東映)
- 白昼の死角(1979年、東映)
- ロスト・イン・トランスレーション(2003年)
- ラジオドラマ
- 君の名は(1952年、NHKラジオ)
- テレビドラマ
- 君の名は(1962・1966・1976・1991年)
- 孤独の賭け(1963年)
- 白い魔魚(1965年)
- 銀座わが町(1973年)
- 東京大地震マグニチュード8.1(1980年)
- 教師びんびん物語(1988年)
- ギンザの恋(2002年)
- 肉体の門(2008年)
- 小説
- 肉体の門(田村泰次郎、1947年)
- 黒蘭姫(横溝正史、1948年)
- 女が見ていた(横溝正史、1949年)
- 魔弾の射手(高木彬光、1950年)
- 青の時代(三島由紀夫、1950年)
- 女王蜂(横溝正史、1951年)
- にっぽん製(三島由紀夫、1953年)
- 暗闇の中の猫(横溝正史、1956年)
- トランプ台上の首(横溝正史、1957年)
- 白昼の死角(高木彬光、1959年)
- 赤頭巾ちゃん気をつけて(庄司薫、1969年)
- 黒革の手帖(松本清張、1980年)
- ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり(柳内たくみ、2010年)
- 漫画
- アニメ
- アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007年)
関係者
編集- 出身者
- 吉田暁芳 - 浮世絵師。実家は銀座2丁目にあった呉服屋。
- 内田清之助 - 鳥類学者。実家は銀座5丁目にあったたばこ屋。
- 池田彌三郎 - 民俗学者。実家は天ぷら屋の銀座天金。
- 岸田劉生 - 洋画家。実家は薬屋の銀座楽善堂。漢口楽善堂も参照。
- 金子光晴・大鹿卓兄弟 - 共に詩人。少年期に銀座の祖父宅に越してきた。
- 久保栄 - 劇作家。出生地は札幌だが10歳頃から木挽町育ち。
- 池田大伍 - 劇作家。実家は天ぷら屋天金。池田彌三郎の叔父。
- 由良三郎 - 推理作家。実家は銀座の老舗の小間物屋。
- 稲山嘉寛 - 実業家。第5代経団連会長、新日本製鐵初代社長
- 福原信三 - 実業家、写真家。資生堂社長、日本写真会会長
- 福原路草 - 写真家
- 松本重雄 - 日本銀行理事。実家は蓄音機・レコード販売の銀座三光堂。
- 篠沢秀夫 - 仏文学者、学習院大学教授。タレント教授の走り
- 矢代静一 - 劇作家。実家は銀座ヨシノヤ。
- 岸田辰彌 - 演出家、オペラ歌手。
- トニー谷 - 司会者、ボードビリアン
- 山本嘉次郎 - 映画監督、俳優
- 居作昌果 - 元TBSプロデューサー
- 北林谷栄 - 女優
- 岩下志麻 - 女優
- 和泉雅子 - 女優、冒険家。実家は銀座・三原橋で3代続いた寿司割烹店であった。現在は自社ビルとなっている。
- 泉ピン子 - 女優
- 藤井貢 - 男優、ラグビー選手
- 柄本明 - 男優、コメディアン
- なぎら健壱 - シンガーソングライター
- 吉田尚記 - ニッポン放送アナウンサー
- 三州ツバ吉 - 格闘家、プロレスラー。世界3大砂漠マラソンを覆面仮装で完走した唯一の男。実家は銀座に2店舗ある大衆割烹の三州屋。
- 大谷桂三 - 歌舞伎役者
- 銀座にゆかりある人物
- 田中久重 - 1875年(明治8年)、京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に、のちの東芝の前身の一つとなる田中製造所を設立。
- 武藤山治 - 実業家、言論人。1880年代後半、銀座界隈で日本で初めての広告取扱業「新聞広告取扱所」を創業。旧鐘紡(カネボウ)中興の祖。
- 小山内薫 - 劇作家、演出家。1911年(明治44年)、同郷の親友松山省三と平岡権八郎(京橋竹川町〈現在の銀座7丁目〉の料亭「花月楼」の跡取り)が銀座で日本初とされるカフェ開店に関わった。パリのサロン的なカフェを模したもので、小山内が「カフェー・プランタン」と命名し、看板を書いた(小山内薫#逸話参照)。
- 岡崎えん - 俳人、女将。文豪らが集った西銀座にあった和風酒場「おかざき」女将。
- 山崎晃嗣 - 終戦後、銀座で最盛期を迎えた学士金融光クラブ主催者で戦後アプレ犯罪の象徴。三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』などの小説のモデルとなる。
- 松平佳子 - 元公族李鍵(桃山虔一)夫人。終戦後、銀座の銀六デパートに菓子屋「桃山」開店。その後、銀座の会員制社交クラブ「銀座倶楽部」の雇われマダム兼社長になる。1951年に離婚後、銀座に飲み屋「よしの路」開店。その後「よしの路」は中華料理店「桃山」、寿司屋「桃弥摩(ももやま)」となる。
- 鳥尾鶴代 - 元子爵夫人、通称「GHQの女」。終戦後、銀座の洋装店に勤め、1953年には銀座でバー「鳥尾夫人」を開店したが、3年もたずに閉店。
- 伊東絹子 - ファッションモデル、第2回ミス・ユニバース第3位。1958年(昭和33年)、みゆき通りに洋装店「伊東絹子の店」を開店した。
- 細木数子 - タレント、占術家、実業家。1958年の20歳の時、銀座にクラブ「かずさ」を開店した。
- 白坂亜紀 - 実業家。20代で銀座にクラブを2店開店。「クラブ稲葉」オーナーママ。NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』「銀座、夜の女たちスペシャル」出演。
世界各地の"銀座"
編集- シャンゼリゼ大通り(パリ8区)、モンテーニュ大通り(fr、パリ8区)、ジョルジュ=サンク大通り(fr、パリ8区) - シャンゼリゼは銀座と友好提携関係を結んでいる。上記3つのアヴニューに囲まれた周辺界隈がラグジュアリー関連の"黄金の三角地帯 (fr)"と呼称されている。また、下記フォーブール=サントノレ通りがシャンゼリゼ通り北側を並走している。
- フォーブール=サントノレ通り(fr、パリ8区)、サントノレ通り(パリ1区) - ロワイヤル通りを挟んで続くこの2つの通り界隈は、世界屈指の高級ブランド店街。
- ヴァンドーム広場(パリ1区)、オペラ地区(パリ2区、パリ9区) - ヴァンドーム界隈の高級宝石商街からガルニエ宮(オペラ座)のあるオペラ広場周辺の、劇場映画館、プランタンやギャルリー・ラファイエットなどのグラン・マガザン(百貨店)街へ続く界隈。
- ナイツブリッジ(シティ・オブ・ウェストミンスター、ケンジントン・アンド・チェルシー区) - ウェスト・エンド・ロンドンにある、百貨店ハロッズやハーヴェイ・ニコルズから高級ブランド店まで高級商業施設が集積する地区。
- オックスフォード・ストリート、リージェント・ストリート、ニュー・ボンド・ストリート、オールド・ボンド・ストリート("ボンド・ストリート", en)、及びピカデリー(シティ・オブ・ウェストミンスター) - メイフェア地区を中心とするこれら通り一帯は、百貨店や高級ブランド店から劇場までが集積するウェスト・エンドにある代表的な歓楽街。
- オコンネル通り(ダブリン)
- モンテナポレオーネ通り(en、ミラノ)
- コルソ通り(ローマ)
- グランビア通り(マドリード)
- ランブラス通り(バルセロナ)
- 5番街、ブロードウェイ(ミッドタウン・マンハッタン)
- 西47丁目のダイヤモンド地区(en、ミッドタウン・マンハッタン)- 上記5番街と6番街との間にある高級宝石商街。
- ロデオドライブ(ビバリーヒルズ)
- ヤング・ストリート(トロント)
- クアフュルステンダム通り(通称クーダム、ベルリン)
- ケーニヒス通り(通称ケー、デュッセルドルフ)
- メンケベルク通り(ハンブルク)
- カイザー通り(フランクフルト・アム・マイン)
- トゥヴェルスカヤ通り(旧ゴーリキー通り、モスクワ) - ロシア革命前からロシア随一のメインストリートであり、古くから多数の日本人駐在員より「モスクワ銀座」とも呼ばれている。首都モスクワと(ロシア革命前まで首都であった)サンクトペテルブルクを結ぶ幹線道路の(モスクワ側からの)始点でもある。
- ネフスキー大通り(サンクトペテルブルク)
- スヴェトランスカヤ通り(ウラジオストク)
- レーニナ通り(旧豊原大通り)、サハリーンスカヤ通り(旧真岡通り)、ミーラ大通り(ユジノサハリンスク)
- フレシチャーティク(キエフ)
- マーシャル通り、イェロゾリムスキェ通り(ワルシャワ)
- ナロードニ通り、ヴァーツラフ広場(プラハ)
- アンドラーシ通り、ヴァーツィー通り(ブダペスト)
- ヴィクトリア通り、マゲル通り(ブカレスト)
- ヴィトシャ通り(ソフィア)
- クネズ・ミハイロヴァ通り(ベオグラード)
- イリツァ通り(ザグレブ)
- アマリアス通り(アテネ)
- イスティクラル通り(イスタンブール)
- バリアス通り(テヘラン)
- コンノートプレイス、パハールガンジ(別名「メインバザール」)(ニューデリー)
- ドバイ・モール等のショッピングモール界隈(ドバイ)
- "ベイルートのシャンゼリゼ"と呼ばれているハムラ通り (en)(ベイルート)
- アレンビー通り (en) 界隈のシェンキン通り (Sheinkin Street)、ディゼンゴフ広場 (en) 界隈(テルアビブ)
- ヘリオポリス地区南端近接のシティ・スターズ、ニューカイロ地区のカイロフェスティバルシティ等のショッピングモール界隈(カイロ市内東部)
- サリットセンター、ウェストゲート等のショッピングモール界隈(ウェストランド・ナイロビ)
- サントン(ヨハネスブルグ)
- パウリスタ通り(サンパウロ)
- アトランティカ通り(リオデジャネイロ)
- フロリダ通り(ブエノスアイレス)
- レフォルマ通り(メキシコシティ)
- 狎鴎亭、明洞(ソウル)
- 黎明通り(平壌)
- 人民大街(長春)
- 王府井街(北京) - 古くから多数の日本人駐在員より「北京の銀座」とも呼ばれている。
- 南京東路(上海)
- 銅鑼湾(香港)
- 頂好(台北)
- アヤラ・センター (en) 地区、ロックウェル・センター (en) 地区(マニラ首都圏マカティ) - 界隈の高級ショッピングモールの代表格グリーンベルト (en) はアヤラ・センターにある。
- オーチャード・ロード(シンガポール)
- サイアム(バンコク都パトゥムワン区)
- ドンコイ通り(ホーチミン(旧サイゴン))
- ジョージ・ストリート(シドニー) - 同ストリートのクイーン・ヴィクトリア・ビルディング周辺界隈が高級商業施設街。
脚注
編集注釈
編集- ^ 行政区画上、銀座八丁目の管轄となっている。なお、建物の上は道路になっている。
- ^ 北緯35度40分22.8秒 東経139度46分1.5秒 / 北緯35.673000度 東経139.767083度
- ^ 北緯35度40分23.6秒 東経139度46分2.4秒 / 北緯35.673222度 東経139.767333度
- ^ 石碑には「銀座発祥の地」とあるが、ここは発祥地ではなく銀座役所跡地である。
- ^ 「銀ブラ」の語源については諸説あるが、安藤更生『銀座細見』によれば大正4、5年頃、慶應義塾の学生が使い始めた言葉であるという説などがある。
- ^ 東急不動産に買収されて後の銀座TSビル。モザイク銀座阪急が入居していた。2012年9月に取り壊され現存しない。
- ^ 所在地の有楽フードセンター(現・銀座インズ)は所属が中央区か千代田区か未確定。
- ^ 所在地は新橋1丁目だった。
- ^ 1880年(明治13年)創業の銀製品の専門店。1899年(明治32年)に銀座に店舗を構え、現在は宮内庁御用達(宮本商行 都中小企業振興公社による「東京手仕事」HP、宮本商行の銀製品 藤巻百貨店)。
- ^ 1994年、ミッドタウン・マンハッタン ガーメント地区(en、7番街も参照)発のイタリアンスタイルのファッションブランド。日本には1996年に東京南青山で、2014年に銀座で開店した(「トッカ / TOCCA」 VOGUE)。オンワード樫山によるライセンスブランド店で、同社のレーベル(ブランド)の一つになる。
- ^ 1992年創業、日本のリファクトリィ社によるファッションブランド。銀座では他に、2丁目のメンズ店や3丁目に店舗がある。青山Ao、自由が丘等全国に展開している。
- ^ ジュエリーやブライダル、レストラン等のショッピングモール。
- ^ アクセサリーパーツやビーズのラボとカフェとの複合店舗。原宿にもカフェ併設店舗がある。
- ^ 下記レストラン オザミ系列のビル。オザミ デヴァン本店、プティ オザミなどのフランス料理店の他、和食店ささ花、和食郷土料理店おばこ、下記ファッションブランドのツモリチサトなどが入居している。
- ^ 2000年、大阪梅田発のパンケーキやかき氷のカフェ(「分厚いパンケーキ&かき氷カフェ 雪ノ下 東京銀座に…」 はてなニュース 2013年11月1日)。
- ^ 銀座では他に、ホテルモントレ銀座が松屋銀座裏手界隈銀座2丁目にある。
- ^ 1932年、"銀座アパートメント"として築造されたレトロビル。現在はアンティークショップやギャラリー、アトリエ等が入居。
- ^ 1946年、大阪で創業した高級呉服ないし和服専門店のチェーンストア。2003年からさが美の子会社。銀座では他に、銀座コア店がある。
- ^ 銀座駅構内にもエチカフィット店がある。
- ^ リヨンでブラッスリーを展開するポール・ボキューズのライセンスブランド店で、ひらまつ によるレーベルの一つになる。
- ^ 三井ショッピングパークが運営。
- ^ 「和」をコンセプトとした紳士靴を中心にドレスシャツやスーツ等を扱う三陽商会のオリジナルブランド。銀座では他に、松屋銀座、8丁目の三陽銀座タワーにある。
- ^ "パリジャン"を意識したメンズブランド"エディフィス"と、"パリ16区のパリジェンヌ"を意識したレディースブランド"イエナ"とを融合した店舗。2つとも、"ジャーナルスタンダード"などを扱う日本のベイクルーズグループによるオリジナルブランド(「Le Dôme ÉDIFICE et IÉNA 銀座店」 タイムアウト東京 2018年)。また、同グループはジャーナルスタンダードを上記マロニエゲート銀座1と、銀座4丁目の路面店で展開し、さらに銀座三越等に入るパティスリーのラデュレをライセンス展開している。
- ^ 中央区立の結婚式場やイベントホール、貸し会議室。
- ^ 1940年に日本橋の丸善裏で創業。男女のオーダーメイドやメンズのプレタポルテのチェーン店。銀座への本店進出は1952年に4丁目、現在の三越新館付近から。銀座界隈のオーダーメイドスーツ店は他に、下記銀座山形屋、銀座SAKAEYA、銀座テーラーなどがある。
- ^ 1755年(宝暦5年)に京橋南伝馬町で創業した藍染屋が由来の老舗。銀座では他に、1585年(天正12年)京都創業で昭和32年に銀座進出した京ごふくゑり善、1810年(文化7年)京都創業で昭和25年に東京進出した銀座志ま亀などの老舗があり、その他1979年創業の銀座もとじ、銀座きもの青木等があり、松屋・三越にも各専門店がある。また、メンズの着物専門店としては、銀座もとじ 男のきもの、アルマーニ銀座タワー内のアルマーニ/カーザ等がある(「ありそうでなかった、銀座の男の着物専門店で和服体験」 MATCHA 2016年4月26日)。
- ^ 銀座6丁目に当たる並木通り沿いのみゆき通りとの角に銀座風月堂があるが、東京風月堂とは別資本になる。
- ^ 1947年に銀座7丁目で創業。常連客の巨人軍選手千葉茂の注文で始まったとされる「カツカレー」発祥店として知られている。なお「カツカレー形式の洋食」の発祥に関しては、浅草の「河金丼」も知られている(「カツカレー発祥の店が、実は浅草だった! 河金」 浅草smartニュース 2015年1月29日)。築地にバー&グリル銀座スイス店がある。
- ^ 入居する松屋銀座裏手のヒューリック銀座二丁目ビル内マロニエ通り側にはマクドナルドがあり、その向かいに場外馬券場の下記ウィンズ銀座がある。
- ^ a b 松屋銀座は、東京高速道路下の専門店街「銀座インズ1・2」で、ワールドなどの各レーベルブランドショップの他、ザ・ボディショップ、シュウ ウエムラ、ヒビヤカダンスタイル、ロペピクニック等が入る"プチプチマルシェ"のプロデュースをしている。
- ^ 1890年、オランダのアムステルダムで創業。1914年第一次世界大戦勃発でロンドンカムデン区の宝石商街ハットンガーデン (en) を拠点とした。1948年にはエリザベス王女の結婚指輪のカットイヤリングを担当した"世界3大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)はムラキ。
- ^ 1937年、ボザール出身のロジェ・ヴィヴィエによりパリ8区ロワイヤル通りに創業、フランス発の高級靴ブランド。エリザベス・テイラーやケーリー・グラント、エヴァ・ガードナー、マレーネ・ディートリッヒ、ビートルズ、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、カトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・バルドーらに愛用され、また、1953年エリザベス2世の女王戴冠式にも採用された。それまでライセンス生産していた伊トッズが2015年から親会社(「トッズグループが「ロジェ ヴィヴィエ」を一元化」 WWD 2015年11月24日)。
- ^ 銀座では他に、GINZA SIXにある。
- ^ 2010年、ウェスト・エンド・ロンドンのメイフェア地区マドックス・ストリート (Maddox Street) 創業、イギリス発の婦人靴ブランド。
- ^ 1975年、ニュージャージー州創業、米国発のビジネスからカジュアルまでのバッグブランド。銀座では松屋店の他に、2017年12月22日に銀座1丁目中央通り沿いに路面店を開店した(「トゥミが銀座1丁目に新店 - 多彩なラインナップのバッグ&イニシャル刻印サービスも」 fashion-press 2017年12月26日)。
- ^ モラビトのライセンスブランド店になる。
- ^ 1993年、日本人の荻野いづみがミラノで創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。
- ^ 1977年創業、紳士靴から始まった、主に女性用バッグやシューズ等の日本発の革アイテムブランド。銀座では他に、銀座三越にある。
- ^ 1923年(大正12年)、横浜元町で創業。主にパンプスなど婦人靴で知られる。
- ^ ヒロカワ製靴による主に紳士靴のブランド。銀座では他に、4丁目に銀座本店がある。
- ^ 日本のサザビーリーグ子会社ファーイーストカンパニーが展開するウィメンズブランドANAYI のコレクトショップ。銀座では他に、エッセンス・オブ・アナイ ルミエアが東急プラザ銀座にあるほか、その他東京ミッドタウンや大丸東京など各百貨店にある。
- ^ オンワード樫山のウィメンズ向けブランド。銀座であるのは、上記トッカストアと松屋のみ。同社のブランドは他に「23区」などがあるが、松屋銀座、大丸東京、8丁目の路面店23区GINZA店にあり、同23区と「組曲」とのライン「23区・組曲バッグ」がマロニエゲート2にある。
- ^ ワールドのウィメンズ向けブランド。銀座では松屋銀座のみにある。
- ^ 同上ワールドのウィメンズ向けブランド。オンワード樫山のトッカがロマンティックなら、より都会的。銀座では松屋銀座とマロニエ2にある。
- ^ 同上の中高年女性向けブランドで、銀座では松屋銀座のみにある。
- ^ ヨーガン・レールの目に止まり、1993年からミラノを在住拠点にする元ファッションモデル林ヒロ子によるバッグやウォレット等のブランド。2016年から南青山骨董通りに路面店があり、その他松屋銀座、イグジットメルサ、日本橋三越、小田急新宿などにある(「芸術性と機能性を兼ね揃えた、大人のためのウォレット『ヒロコハヤシ』」 キナリノ)。
- ^ 同上のメンズ向けブランドで、銀座では松屋銀座と有楽町の阪急メンズ東京にある。
- ^ a b オーバドゥは、1875年を起源に、1958年にパリで創業したランジェリー専門店のブランド Aubade。パリ市内外各所にある。シャンタル・トーマスは、パリ南部近郊マラコフ生まれ。1967年にプレタポルテに携わり、ランジェリーに進出したのは1975年。ブランドは Chantal Thomass。パリ1区サントノレ通りに本店がある(“日本のお店で買える、パリの人気下着ブランドを厳選”. All About (2017年4月13日). 2019年3月8日閲覧。)。
- ^ 1968年パリ6区グルネル通りで創業、ニットを中心としたファッションブランド。ジル・サンダー、モロー・パリ (Moreau Paris)、ロシャス・パリ (Rochas Paris) などを取り扱う日本のオンワードグローバルファッション (OGF) との輸入販売総代理店契約が、伊ミッソーニと共に2017-2018年秋冬コレクションで終了。ただし、オンワード樫山がライセンスで手掛け、松屋銀座その他に出店するブランド「ソニア・リキエル コレクション (SONIA RYKIEL COLLECTION)」は継続(「オンワードがソニア リキエルの輸入販売を終了」 WWD 2017年7月31日)。
- ^ 銀座では他に、銀座インズ店がある。
- ^ 深川宮川の廃業を受けて1893年(明治26年)、築地で創業した全国の「宮川」の「総本山」(「築地本願寺近く、宮川の総本山 つきじ宮川本廛」 All About 2013年3月4日)。その松屋内の店舗。
- ^ 1921年、第一次大戦の青島攻略戦におけるドイツ兵捕虜 アウグスト・ローマイヤーが創業したハム・ソーセージ製造業。日本でロースハムを生み出した。同松屋店の他、ローマイヤレストラン日本橋店があったが閉店し、2019年3月銀座5丁目に同レストランを開店予定(「店舗紹介」 公式HP)。
- ^ 1933年、旧軽井沢銀座で創業。東京駅改札内グランスタやecute上野、トレインチ自由が丘などに店舗がある。
- ^ 木村屋總本店現6代目の長男木村周一郎と、パリ メゾン・カイザーのエリック・カイザーが2000年に創業。木村は、1998年にNYチェルシー・マーケット (en) およびヘルズ・キッチンの9番街沿い、ミュージアム・マイル界隈などで展開するアーミーズ・ブレッド (Amy’s Bread) の店舗、および1999年から、パリ5区モンジュ通り (fr) 8番地で1996年に創業し世界各地で展開するエリック・カイザーの店舗メゾン・カイザー (Boulangerie Maison Kayser) にて修行。2000年に帰国後、エリックカイザージャポンを設立、高輪に第一号店を出店した(「企業情報」 公式HP)。銀座では他に、&COFFEE MAISON KAYSER が銀座1丁目にある。
- ^ 1977年、パリ8区フォーブール・サントノレ通り創業、フランス発のショコラティエないしパティスリー。
- ^ ブルガリのチョコレート専門店と併設カフェ。
- ^ ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサン、メレリオ・ディ・メレーと共に、パリのヴァンドーム広場界隈に本店を構える"グランサンク"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。ジョゼフィーヌ以来、欧州王室によるティアラ着用の発祥店とされている(「ショーメ、栄光のヘリテージ〈前編〉 運命に導かれたナポレオンのジュエラー」 日経リュクス 2018年7月17日)。
- ^ 1903年、ベルギーのアントワープで創業。モニッケンダム同様、1914年の第一次世界大戦勃発でニューヨークに本拠地を移した。1946年以来からの「サイトホルダー(デビアスから直接ダイヤモンド原石供給を受けられる特権。日本では1994年からTASAKI)」。"世界の三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)は佃にあるプリモ・ジャパン。2003年に同銀座ブティックを開店。
- ^ 札幌のアインファーマシーズが展開する化粧品中心のドラッグストアチェーン店。銀座では他に、銀座8丁目に銀座並木通り店がある。
- ^ 2019年4月4日、並木通り沿いに開店。国内第一号となる「MUJI HOTEL GINZA」、飲食業態「MUJI Diner」を併設し「世界旗艦店」を謳う。
- ^ 美術や絵画、書道等の展覧会から講演会までのレンタルスペース。
- ^ 銀座では他に、銀座4丁目にハープ&フルートサロン Hanare店がある。
- ^ 1922年(大正11年)に創業した創作和菓子やどら焼きで知られる老舗。併設してイートインないし喫茶スペースの甘味よしやがある(「銀座の和菓子 木挽町よしや がイートイン店舗 あんみつなど新メニューも」 銀座経済新聞 2016年4月26日)。
- ^ 「あんパン」発祥店として知られている。
- ^ 銀座では他に、銀座5丁目にロテスリーレカン銀座店がある。
- ^ ショーメ、ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサンと共に、パリのヴァンドーム広場界隈に本店を構える"グランサンク"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。
- ^ 銀座では他に、GINZA SIXにある。
- ^ 東京には銀座と南青山店がある。パリ16区パッシー通り、パリ1区サントノレ通り、マレ地区パリ4区フラン・ブルジョワ通りなどパリ市内各所で展開する、1997年創業のフランス発のブランド。銀座三越店は2018年閉店。
- ^ 2011年、南青山5丁目で開店した阿部千登勢によるブランド(「sacai初のショップ公開 店舗デザインは藤本壮介」 fashionsnap.com 2011年9月9日)。同銀座三越や伊勢丹新宿に店舗がある。
- ^ 銀座では他に、GINZA SIXにある。
- ^ 1930年、ミュンヘン創業のドイツ発の惣菜からハム、ソーセージ、ワイン、ビールまでの食料品店(デリカテッセン)。以降、レストランから配達(ケータリング)まで展開している総合食料品事業を本国や欧州で営む。日本では、1992年以降、三越全店内で店開している。
- ^ 1942年、パリのモンパルナス地区で創業したブーランジュリー。日本では1983年に銀座三越店の第一号店開店から、三越各店内中心に16店舗がある(「ジョアン Johan」 三越)。
- ^ パリ1区サントノレ通りやパリ7区ラ・モット=ピケ大通り、その他神宮前、台北、上海等に店舗を構えるMOFのショコラティエ(「お土産に!表参道の高級チョコレートショップ最新10選」 NAVITIME 2017年2月6日)。
- ^ 赤坂トゥール・ダルジャンなど数店の高級フランス料理店にも卸す、1988年創業の茶葉専門店。銀座では他に、5丁目にリーフルダージリンハウス銀座がある。
- ^ 1854年、アムステルダムで創業した"三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。1980年にオランダのユリアナ女王から"アッシャー"に"ロイヤル"の名を冠され、現社名となった。
- ^ 1927年、ボローニャで創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。
- ^ 1993年、ウェスト・エンド・ロンドンのチェルシー地区ウォルトン・ストリートで創業したイギリス発のバッグなど革アイテムのブランド。南青山5丁目と銀座4丁目に路面店、GINZA SIXや松屋銀座などに店舗があり、日本各地の直営店だけでも17店舗になる(「アニヤ・ハインドマーチ」 VOGUE)。
- ^ 上記イエナ等を展開し、上記銀座三越等に入るラデュレの国内ライセンス展開をする日本のベイクルーズグループによる独自ブランド、かつセレクトショップ。ジャーナルスタンダードのライン ラックス (journal standard luxe) は、ハイブランド中心で、他に神宮前の表参道に店舗がある。銀座では他に、マロニエゲート銀座1に別ラインのジャーナルスタンダード・レサージュ ( - L'ESSAGE) がある。
- ^ 1905年(明治38年)現在地で創業、銀座三越並びにあるネクタイを中心にした紳士服洋品の老舗(「創業105年 老舗ネクタイ銀座田屋がモダンに変わる」 fashionsnap.com 2010年08月16日)。
- ^ 1881年(明治14年)創業、同上銀座三越並びにあるメンズカジュアル紳士服の老舗。銀座では他に、7丁目店がある。
- ^ 1890年(明治23年)銀座で創業し、1925年(大正14年)に京橋弥左衛門町(現在地の銀座4丁目)に移転した、オーダーメイドスーツのテーラー並びに高級既製服スーツの老舗。
- ^ マレ地区パリ4区フラン・ブルジョワ通り本店やサン=ジェルマン=デ=プレ地区パリ6区レンヌ通りにある1979年創業、南仏発の香水店。1996年、日本香堂傘下のグループ会社になった。
- ^ 1948年(昭和23年)現在地で創業。銀座のその他の老舗洋食店には、1933年(昭和8年)5丁目並木通りで創業した南蛮銀圓亭、1948年に1丁目の現在地で創業した銀座日東コーナー1948などがある。
- ^ 築地に総本店がある。銀座では他に、銀座8丁目に博品館店がある。
- ^ それまであった老舗古書店の奥村書店が閉店したのにともない、2010年、同書店員が同じ歌舞伎座界隈に独立開業した古書店。歌舞伎や映画を中心とする古本屋。
- ^ 福岡市の老舗ギャラリーだったトワールのオーナーが設立したギャラリー。現代美術の作家の発表の場となっており、福岡にゆかりのある多数の作家も作品を発表している。
- ^ 隣接する日比谷側の有楽町マルイなどにも店舗がある。
- ^ 東京には銀座の他、青山Aoや渋谷の東急本店に店舗がある。1973年サン=ジェルマン=デ=プレ地区パリ6区フール通り発祥、フランス各地で展開するブランド。
- ^ "パリジェンヌの靴"に触発され制作された革靴からスポーティブシューズ、バッグなど革アイテムからアパレルまで取り扱う1851年創業スイス発のブランド(「DICTIONARY バリー」GQ JAPAN、NO.177 2018年3月3日号)。
- ^ 2020年秋以降新ビルの建設開始、2022年秋に新ソニービルがオープンとなる予定。
- ^ ロートレックの作品などアールヌーヴォーの店内装飾で知られるパリ8区ロワイヤル通りマキシム本店のライセンスブランド店だった。GINZA SIX内の「THE GRAND GINZA (ザ・グラン銀座)」でマキシムの"苺のミルフィーユ"が販売されている。
- ^ 1948年(昭和23年)に現在地で創業した、おかきを主とした米菓・和菓子店。銀座では他に、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ 1946年(昭和21年)に現在地で甘味とかき氷店として創業した和菓子屋。2階はあんみつやお汁粉等の甘味喫茶室(「愛情が直に伝わる老舗和菓子店 銀座 鹿乃子の、親子2代…」 CAFE.TOKYO 2015年12月20日)。銀座では他に、銀座三越にある。
- ^ 1986年に日本で初めてベルギーワッフルを販売した大阪発の店舗。
- ^ 江戸時代から京都に店舗を構える書画用品や香の専門店。銀座には、銀座煉瓦街の時代から路面店を構える老舗。
- ^ ミシュランガイド2つ星のパリ1区サントノレ通り本店のライセンスブランド店になる。
- ^ 江戸時代の1617年(元和3年)に京都で創業。1872年の東京奠都と共に東京八重洲に移転し、関東大震災や第二次世界大戦等で店舗が消失したのを期に銀座に移転。
- ^ 1950年、静岡の清水市で創業。ランドセルや、甲州印伝のバッグ専門店。
- ^ エベレスト登山隊にも採用された、肌着専門店(「保温力でエベレスト登山隊に貢献…」 zakzak 2015年9月30日)。
- ^ 1930年、新橋駅近くで創業したドイツ料理風ステーキ等の洋食屋。銀座では他に、銀座1丁目に和牛グリルつばめやがある。
- ^ 1955年創業、イギリス発の花柄プリント等のアパレルや家庭用品のブランド。1985年に銀座に第一号店開店、1986年から百貨店やイオンモールなどのショップで展開してきたが、2018年9月17日までに全国108店舗を閉店し、イグジットメルサの同店も同年7月29日をもって閉店した。これに伴ってイオンから伊藤忠商事にライセンスが移り、百貨店や専門店への卸売からショップ開発に乗り出す方針を打ち出している(「伊藤忠が「ローラアシュレイ」を販売 事業撤退のイオンと入れ替わり」 WWD 2018年9月14日)。
- ^ BUNMEIDO CAFE は併設のカフェレストラン。銀座では他に、歌舞伎座横のカフェレストラン併設の東銀座店の他、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ 1804年(文化元年)創業、1865年(慶応元年)、銀座に移転してきた老舗。カフェスペースでは夏季限定でかき氷が販売される。銀座では他に、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ 上記コメ兵同様、質屋ないしリサイクルショップの全国チェーン。銀座では他に、質銀座和光前店、質松屋銀座前店がある。
- ^ 銀座では他に、銀座三越、GINZA SIX に店舗がある。
- ^ ディオール跡に、ミラノ、ビバリーヒルズ、NYに次ぐ世界で4番目のメゾンとして、2018年12月8日にアジア最大の旗艦店と銘打ち開店(「ボッテガ・ヴェネタ、銀座ディオール跡地に日本初のメゾン出店」 fashionsnap.com 2018年07月20日、「ボッテガ・ヴェネタアジア最大の旗艦店が東京・銀座にオープン、白黒のホームアイテム&雑貨を先行販売」 Fashion Press 2018年12月4日)。
- ^ 1885年、パリのヴァンドーム広場に構えるジュエリーブランドから始まった、フランス発の高級クリスタルガラスやジュエリーを中心とするブランド。1935年からパリ8区ロワイヤル通り11番地に店舗を置く。2018年6月、銀座5丁目に旗艦店を開店(「クリスタルガラスの『ラリック』旗艦店を銀座にオープン、ジュエリーやフレグランスなど」 Fashion Press 2018年6月23日)。
- ^ 1988年、LAのガレージの一室で創業した925シルバーアクセサリー等の米国の高級ジュエリーブランド。南青山6丁目や神宮前にも店舗がある。
- ^ パナソニックによるデジタルカメラのブランドで、そのショールームないしギャラリー。2019年4月20日、ライカ銀座前に開店した。
- ^ 創業100年のオーダーメイドスーツチェーン店。銀座界隈のオーダーメイドスーツ店は他に、上記銀座英國屋、銀座SAKAEYA、銀座テーラーなどがある。
- ^ 1928年(昭和3年)現在地で創業、太宰治、坂口安吾、川端康成ら文豪も通った。「警視庁殺人課」などTVドラマ等の舞台設定にも用いられた。
- ^ 第二次世界大戦後、流行の先端を牽引した婦人服や雑貨を取り扱う小松ストアーがあった地。小松ストアーを開業した小坂武雄の父小坂梅吉は日比谷松本楼開業者で、松本楼の発祥地である銀座松本楼(小松食堂)があった地にもなる。
- ^ 銀座では他に、マロニエゲート2に店舗がある。
- ^ サクレ・クール寺院南側のパリ9区マルティル(殉教者)通りに、イギリス人夫婦が2002年に開店したカフェのライセンスブランド店になる。
- ^ 1947年、数寄屋橋で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、元の本店であった銀座4丁目店がある。
- ^ 1948年、銀座すずらん通り(現在地裏手付近)で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、マロニエゲート銀座2店がある。
- ^ 1907年、尾張町(銀座6丁目)で創業した靴専門店。
- ^ 1903年、現在地で創業した、パイプ等の喫煙具専門店。
- ^ 元の場所にあった松坂屋銀座店は2013年6月30日を以って閉店。ただし、公式サイトでは「一旦営業を終了」という記述があり、公式見解では営業再開を前提としていると思われたため、"完全閉店"ではないと一部で見られていた。
- ^ 1960年、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ (en) がローマで創業したイタリア発のブランド Valentino SpA(「ヴァレンティノ / VALENTINO」 VOGUE)。その他銀座三越、阪急メンズ東京の他、表参道ヒルズなどに店舗がある。2003年から展開しているカジュアルラインのレッドヴァレンティノが神宮前のGYRE(ジャイル)裏手にある。
- ^ 銀座では他に、松屋銀座にある。
- ^ 銀座では他に、銀座三越にある。
- ^ 1824年を起源とする、グラスゴーで創業したスコットランド発のレインコートなどのブランド。イギリスでのレインコートの総称の由来となった。2007年、日本の八木通商の所有ブランドになって以降、ウェスト・エンド・ロンドンのメイフェア地区マウント・ストリート、南青山5丁目や阪急メンズ大阪、ミッドタウン・マンハッタンのマディソン街に路面店や直営店等を開店(「MACKINTOSHマッキントッシュ」 Fashion Press、「マッキントッシュ NYに初出店 リブランディング計画進行中」 WWD 2017年10月6日)。
- ^ 1924年、イングランドストーク=オン=トレントで創業したバイク用パイロット用ジャケット製作から始まるイギリス発のファッションブランド Belstaff。拠点をイタリアモリアーノ・ヴェーネトにも置いていた(「ベルスタッフ」 GQ JAPAN)。アラビアのロレンス、チェ・ゲバラ、アーサー・ミラーらが着て有名になった(「Dizionario della moda(イタリア語)」)。
- ^ 1988年、パリで創業したファッションブランド。「反モード」を掲げ、リメイク品に白ペンキを塗るスタイルは「ポペリズム」(貧困者風)と呼ばれた(「Dictionary メゾンマルタンマルジェラ」 GQ JAPAN)。その他店舗は、銀座三越、神宮前のGYRE(ジャイル)や表参道ヒルズなどにある。
- ^ 1994年、ミラノ創業の革アイテム中心のイタリアブランド。海外ではパリ8区モンテーニュ大通り等にある他、日本上陸は2002-12年南青山にあった旗艦店から(「マルニ / MARNI」 VOGUE)。銀座・有楽町・丸の内界隈では他に、松屋銀座、銀座三越、阪急メンズ東京にある。
- ^ 1994年に発表した10点のカシミアニットからメジャーになったパリ発のブランド(「ルシアン ペラフィネ / LUCIEN PELLAT FINET」 VOGUE)。その他六本木の東京ミッドタウンやシブヤ西武に店舗がある。
- ^ 2003年、コペンハーゲンでマレーネ・ビルガーが創業したデンマーク発のブランド。日本では八木通商とアーバンリサーチが代理店となり、2013年12月、上記南青山のアニヤ・ハインドマーチ隣で開店したが2018年8月閉店。2017年4月にGINZA SIXで開店(「本格上陸バイ マレーネ ビルガー旗艦店にデンマークCEO来日」 Fashionsnap.com 2013年12月14日、「コペンハーゲン発のコレクションブランド バイ マレーネ ビルガーがGINZA SIXにオープン」 VOGUE 2017年4月20日)。
- ^ 2015年9月からのジル・スチュアートによる新店舗。GINZA SIXと東急プラザ表参道原宿店の2店で展開。
- ^ 銀座では他に、銀座三越、下記7丁目の銀座本店がある。
- ^ ピエール・エルメ監修のディオールのカフェないしブラッスリー。
- ^ フランス語でオートクチュールの性格を美容院に置き換えたような"高級美容院"の意。1957年にパリ8区フォーブール=サントノレ通り120番地で開店した美容サロンが発祥。2017年、南青山5丁目とGINZA SIXに直営店を開店。銀座では他に、松屋銀座に店舗がある。現在は、ヘアアクセサリーブランドやコスメ(ロレアル製造)も展開。ウィンザー公爵夫人、グレース・ケリーモナコ大公妃、ローレン・バコール、マリア・カラス、ミシェル・モルガン、オードリー・ヘップバーン、グレタ・ガルボ、ソフィア・ローレン、ロミー・シュナイダー・・らが顧客だったとのこと。2016年から日本の八木通商の所有ブランド(公式HP「アレクサンドルドゥパリ 美しい物語」「同 about」「同 ブランド紹介」、仏公式HP「Alexandre de Paris」、fashionsnap.com. 「八木通商 アレクサンドルドゥパリ株取得 」2016年9月17日 ・・など参照)。
- ^ 現在はロレアル傘下の化粧品コスメブランド。
- ^ 銀座・有楽町界隈では他に、路面の銀座松屋通り店、ルミネ有楽町店がある。
- ^ 1938年創業、米国発のブリーフケース等のブランド。2006年から日本のエース社の傘下。界隈では、丸の内や大丸東京に店舗がある。
- ^ パリのサントノレ通りなどに店舗があるトランクなど革製品のフランス老舗高級ブランド。
- ^ 1936年、パリ8区ロワイヤル通りで創業したジュエリーブランド Fred。後にヴァンドーム広場のラ・ペ通りに店舗を構えた。第二次大戦後、ジャン・コクトーやベルナール・ビュッフェらによるデザインで有名になり、顧客にはメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス夫妻、マレーネ・ディートリッヒ、戦後は若きグレース・ケリーモナコ大公妃らがいた。銀座では他に、下記並木通りのフレッドブティック銀座本店、銀座三越店がある。
- ^ 施設の老朽化等を理由に、2017年に渋谷の松濤から移転。
- ^ 2018年1月20日、1981年以来ルイ・ヴィトン日本初の直営店舗があった7丁目から店舗建て替えに伴い、6丁目に移転した(「ルイ・ヴィトン銀座並木通り店が移転オープン!限定バッグも発売 ELLE SHOP」 ハースト婦人画報社 2018年1月19日、「ルイ・ヴィトン 銀座並木通り店が移転オープン - ”おみくじ”から着想を得た新作バッグを限定発売」 Fashion Press 2018年1月18日)。
- ^ 1978年創業、イタリア発のカシミアニットのブランド Brunello Cucinelli。1985年からウンブリア州中部ペルージャ近郊ソロメオ村にある14世紀の古城に本社を移転し、同村の環境から職に至る復興に取り組んでいるとのこと(「ブルネロ クチネリ / BRUNELLO CUCINELLI」 VOGUE、「ブルネロ・クチネリ 本社のあるソロメオ村修復事業を完成」 Apparel Web 2018年9月7日)。並木通り裏手、銀座三越、南青山みゆき通り先根津美術館通り並び等に店舗がある。
- ^ 並木通り沿いのみゆき通りとの角にある。銀座2丁目中央通り沿いに東京風月堂があるが、銀座風月堂とは別資本になる。
- ^ 神戸岡本に本店があるショコラパティスリー。東京では他に、南青山6丁目や麻布十番に路面店がある。
- ^ 現在はドラッグストアとしては閉店。暫く空きテナントとなっていたが、再び「くすりの福太郎」が入居し、調剤薬局として営業している。銀座では他に、銀座1丁目店、銀座5丁目店がある。
- ^ 銀座では他に、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ 銀座では他に、松屋銀座にある。
- ^ 2008年9月13日に開店した同銀座店は同社の日本第一号店であったが、2018年7月16日をもって閉店。
- ^ アシックスのラインかつナイキの元祖たる日本のシューズ等のブランド。2018年1月に表参道、2月に同銀座路面店が開店した(オニツカタイガーの直営店が銀座に誕生。 VOGUE 2018年2月13日)。
- ^ パリのベル・エポックに触発された1924年、イタリアのヴァレンツァで創業したジュエリーブランド。
- ^ 従来のセイコープレミアムブティックを改装し、2019年2月15日にグランドセイコー専門店として開店(「セイコーウオッチ、日本初となるグランドセイコー専門店「グランドセイコーブティック 銀座」をオープン」 Fashion Press 2019年2月4日)。
- ^ 1898年ケルン創業、ドイツ発のトランクやスーツケースのブランド。銀座では他に、1丁目、6丁目の路面店や松屋銀座店があり、その他丸の内、神宮前などにある(「リモワの国内初フラッグシップストアが銀座にオープン」 Fashion Press 2018年12月25日)。
- ^ 1945年にパリで創業し、パリ8区フランソワ1世通りに本店を置くファッションブランド Balmain。銀座の路面店は並木通りの金田中ビルにあり、その他阪急メンズ東京や表参道ヒルズに店舗がある。
- ^ 金田中が1953年(昭和28年)に創業した店舗。
- ^ 割烹(カウンター)の金田中 庵は並木通りの同金田中ビル内にあり、料亭しんばし金田中本店は東銀座浜離宮側、上記新橋演舞場隣にある。
- ^ オンワード樫山のオリジナルブランド。銀座では他に、松屋銀座、大丸東京に、23区・組曲バッグがマロニエゲート2に店舗がある。
- ^ 2015年9月に開店した三陽商会のレーベル(ブランド)を集積したビル(「三陽銀座タワーがオープン - マッキントッシュ ロンドンなど三陽商会の展開ブランドが集結」 Fashion Press)。
- ^ 三陽商会のレーベル(ブランド)の一つになり、三陽銀座タワー内にある旗艦店。銀座・有楽町界隈では他に、松屋銀座や阪急メンズ東京に店舗があり、また、1981年以来神宮前の表参道に路面店がある。
- ^ 2007年から八木通商が所有する英ブランドマッキントッシュの、三陽商会によるライセンスブランド。銀座界隈では他に、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ a b 2015年にバーバリーとのライセンスが切れた三陽商会が同社との契約から新たにメンズのブラックレーベル・クレストブリッジ、ウィメンズのブルーレーベル・クレストブリッジとして出店(「バーバリー後継 クレストブリッジの人気モデル(ブラックレーベル&ブルーレーベル)」 カシカリ 2015年11月25日、「バーバリー失った三陽商会、赤字転落&大量人員削減でも新本社ビル建設…銀行は呆れ声」 文=森岡英樹・ビジネスジャーナル 2016年8月27日)。銀座界隈では他に、松屋銀座、銀座三越にある。
- ^ 銀座では他に、アシックスウィメンマロニエゲート銀座2、アシックスウォーキング銀座インズ、同イグジットメルサ(期間限定店)に店舗がある。
- ^ 銀座では他に、銀座5丁目に銀座5th店がある。
- ^ 銀座界隈のその他の老舗カフェには、同8丁目の1948年(昭和23年)創業のカフェ・ド・ランブルなどがある。
- ^ 「軍艦巻き」発祥店として知られている。
- ^ 1921年(大正10年)、築地創業の寿司岩が本店。築地本店の他に、銀座では同店と銀座三越店がある。
- ^ 略称SOS、現在はSOSモデル・エージェンシーとも、1957年に菅原文太、岡田眞澄ら総勢8名で発足した日本初の男性専門モデル・クラブ、後年には女性も所属。
- ^ 旧:東京南部小包集中局。さらに遡って明治時代には旧逓信省もここにあった。
- ^ 銀座ファイブ内にある。その他に、パリ6区・パリ7区境界界隈セーヴル通りなど国内外で店舗展開している。1987年、アントワープ創業のベルギー発のカジュアルバッグのブランド。
- ^ その他、表参道交差点界隈北青山等にも路面店がある。大阪ミナミ発のイタリアンスタイルの靴のブランド。その各百貨店等にある。
- ^ 銀座ファイブ内にある。日本刀、刀装具、火縄銃、甲冑・・等の武具を銀座で販売している店舗としてメディアに取り上げられることが多い。
- ^ 銀座ナイン内にある。
出典
編集- ^ a b “町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
- ^ “歌舞伎座|歌舞伎美人”. 歌舞伎美人. 2022年7月12日閲覧。
- ^ aceoffice. “スタバ上陸20周年!スターバックス日本1号店の銀座松屋通り店|TapTrip”. TapTrip. 2022年7月12日閲覧。
- ^ “「H&M」日本上陸、銀座に1号店-オープン待ちわびる長蛇の列”. 銀座経済新聞. 2022年7月12日閲覧。
- ^ “銀座4丁目交差点 | 東京とりっぷ”. tokyo-trip.org (2017年1月31日). 2022年10月3日閲覧。
- ^ “都心に並び立つ超高層ビル、なぜ銀座にはほとんどないのか?…「銀座らしい」景観守るルールとは”. 読売新聞オンライン (2024年10月7日). 2024年10月7日閲覧。
- ^ 日本経済新聞社・日経BP社. “銀座にナゾの番外地 秘めた歴史に迫る|エンタメ!|NIKKEI STYLE”. NIKKEI STYLE. 2019年7月3日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 岡本 (2006), p.12.
- ^ “江戸の道路と地形-地図趣味のすすめ”. 2012年12月25日閲覧。
- ^ 岡本 (2006), p.26.
- ^ 田谷 (1963)『近世銀座の研究』, pp.12-18.
- ^ ヒストリー銀座Tokyo Ginza Official
- ^ The Ginza in the late 19th century, with Japanese narration - YouTube(藤森照信、Massachusetts Institute of Technology, 2009)
- ^ 小野一成(2006)「繁華街としての銀座」『銀座 街の物語』, p81.
- ^ 大石 (2003)『駅名で読む江戸・東京』, p.237.
- ^ 1930s film clip of parasol girls walking in the Ginza - YouTube 1930年代の銀座 - 銀座を練り歩く資生堂石鹸のキャンペーンガールたち(Massachusetts Institute of Technology所蔵)
- ^ 講演会解散命令に憤慨し銀座で大暴れ『東京朝日新聞』大正15年2月1日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p193 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 三枝 (2006)『銀座 街の物語』, p.119.
- ^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
- ^ 銀座商店街、木造で一斉に店開きへ(昭和20年10月7日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p319
- ^ 「40分100円ナリ パーキングメーター都心にお目見え」『朝日新聞』昭和47年(1972年)2月1日夕刊、3版、11面
- ^ 学生ゲリラ 火炎ビン市民を巻添え『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月14日朝刊 12版 15面
- ^ 銀座の免税店競争が過熱、ラオックス、三越にロッテも参入 週刊ダイヤモンド編集部 2015年8月25日
- ^ “暴力団排除特別強化地域”. 警視庁 (2019年). 2022年8月22日閲覧。
- ^ “東京都暴力団排除条例”. 東京都ホームページ (2019年). 2022年8月22日閲覧。
- ^ “超一等地の商業ビルがガラ空き! 銀座、渋谷、新宿、秋葉原でじわじわ進む経済の“破壊””. ITmedia ビジネスオンライン. 2023年3月21日閲覧。
- ^ 東京都編『東京市史稿 市街編50』「街衢分合称呼改正 己巳布令」640ページ、1961年
- ^ 東京都編『東京市史稿 市街編50』「街衢分合称呼改正 町銘唱替帳」661ページ、1961年
- ^ 1968年(昭和43年)12月28日自治省告示第243号「住居表示が実施された件」
- ^ 1969年(昭和44年)7月2日自治省告示第113号「住居表示が実施された件」
- ^ “区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年9月23日閲覧。
- ^ 三枝 (2006)「銀座の未来」『銀座 街の物語』, p.111.
- ^ 堺観光ものがたり 観光案内版「堺の昔ばなし」[リンク切れ]
参考文献
編集- 浅井建爾『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日。ISBN 4-534-03315-X。
- 大石学『駅名で読む江戸・東京(PHP新書)』PHP研究所、2003年。ISBN 978-4569625720。
- 岡本哲志『銀座四百年 都市空間の歴史』講談社、2006年。ISBN 978-4062583770。
- 国史大辞典編集委員会 編「川崎房五郎「銀座」」『国史大辞典』 4巻、吉川弘文館〈国史大辞典〉、1984年。ISBN 978-4-6420-0504-3。
- 「正井秦夫「銀座」」『世界大百科事典』 7巻、平凡社〈世界大百科事典〉、2009年。
- 三枝進ほか『銀座 街の物語』河出書房新社、2006年。ISBN 978-4309727486。
- 田谷博吉『近世銀座の研究』吉川弘文館、1963年。ISBN 978-4-6420-3029-8。
関連項目
編集- 江戸前島 - 日比谷入江にあり、その先端部が現在の銀座にあたる。
- 両替町 - 銀座のルーツ(「銀座 (歴史)」参照)。金座が本両替町、銀座は新両替町。
- 銀座煉瓦街 - 銀座大火により造成された。
- 銀座四丁目交差点 - 銀座の中心地であり、ランドマーク的なスポット。
- 新橋(花街) - 銀座にある花街の名称。
- 銀ぶら - 銀座をそぞろ歩くこと。
- クラブ・ホステス
- 北新地(キタ)・心斎橋(ミナミ) - 大阪の商業中心地区。西の高級飲食店街や高級ブランド店集積地域。
- 栄 - 名古屋の商業中心地区。
- 表参道 - 銀座同様に東京の高級ブランド店集積地域。
- 読売ジャイアンツ - 優勝パレードを当地で行っている。
- 築地警察署 - 銀座周辺界隈を管轄とする所轄署。
- 旧築地川 - 現在の首都高速都心環状線であり、晴海通りが交差する地点は万年橋が架かっている。
- 旧数寄屋橋 - 1958年に外堀が埋められ東京高速道路が建設されるのに伴い取り壊された。同名交差点はランドマーク的なスポット。
- アーケード・地下街 - 当地に大規模なものは存在しない。晴海通りと銀座通り(中央通り)との目抜き通りの地下にかけて、つまり数寄屋橋交差点や銀座四丁目交差点界隈から三原橋界隈にかけての地下に、地下鉄各駅や各ビルをつなぐ「地下通路」のみがあり、小規模な商店街を作っている。
- 東京都の観光地
- 台風銀座 - 台風がよく通過する地域。
外部リンク
編集- 中央区ホームページ
- 銀座・銀座西地区 町名の由来 - 中央区ホームページ内
- 銀座東地区 町名の由来 - 中央区ホームページ内
- GINZA OFFICIAL - 銀座公式ウェブサイト
- 銀座街づくり会議 銀座デザイン協議会
- "銀座". TripAdvisor. 2020年4月22日閲覧。