リチャード・カーゾン=ハウ (初代ハウ伯爵)
初代ハウ伯爵リチャード・ウィリアム・ペン・カーゾン=ハウ(英語: Richard William Penn Curzon-Howe, 1st Earl Howe GCH PC、出生名リチャード・ウィリアム・ペン・カーゾン(Richard William Penn Curzon)、1796年12月11日 – 1870年5月12日)は、イギリスの貴族、廷臣。トーリー党所属[1]。
生涯
[編集]ペン・アシュトン・カーゾン閣下(1757年 – 1797年、初代カーゾン子爵アシュトン・カーゾンの息子)と第2代ハウ女男爵ソフィア・シャーロット・カーゾン(1762年 – 1835年、初代ハウ伯爵リチャード・ハウの娘)の息子として、1796年12月11日にレスターシャーのゴップサルで生まれた[2]。
1820年3月21日に父方の祖父が死去すると、カーゾン子爵位を継承した[2]。1821年7月7日に国王ジョージ4世の認可状を受けて母の旧姓「ハウ」を姓に加え[2][3]、15日に連合王国貴族であるハウ伯爵に叙された[2][4]。
1829年11月20日に国王ジョージ4世の寝室侍従に任命され、1830年7月17日までに辞任した[5][6]。1830年7月23日に王妃アデレードの宮内長官に任命されたが、第1回選挙法改正に反対票を投じたため、1832年までに解任された[2][7]。1830年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを授与され[2]、1831年1月31日に枢密顧問官に任命された[8]。
1834年に国王ウィリアム4世によりホイッグ党内閣が罷免され、トーリー党が与党になった。ハウ伯爵は1834年12月26日に再び王妃アデレードの宮内長官に任命され、以降1849年12月2日にアデレードが死去するまで務めた[7]。
1835年12月3日に母が死去すると、ハウ男爵位を継承した[2]。
1870年5月12日にメイフェアのカーゾン・ハウス(Curzon House)で死去、息子ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイスが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1820年3月20日、ハリエット・ジョージアナ・ブルーデネル(Harriet Georgiana Brudenell、1799年12月13日 – 1836年10月25日、第6代カーディガン伯爵ロバート・ブルーデネルの娘)と結婚[2]、7男3女をもうけた[1]。
- ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイス(1821年1月16日 – 1876年2月4日) - 第2代ハウ伯爵
- リチャード・ウィリアム・ペン(1822年2月14日 – 1900年9月25日) - 第3代ハウ伯爵
- フレデリック(1823年7月16日 – 1881年9月23日)
- ヘンリー・ダグデイル(Henry Dugdale、1824年9月21日 – 1910年3月22日) - 1857年10月22日、イリナ・ヤング・スウィンバーン(Eleanor Young Swinburne、1887年8月28日没、ジョン・スウィンバーンの娘)と結婚、子供あり
- ジョージアナ(1825年9月29日 – 1906年5月14日) - 1845年7月3日、第8代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットと結婚、子供あり
- ウィリアム・ヘンリー(1827年6月1日 – 1914年1月5日) - 1870年10月26日、ベアトリス・ルイーザ・マーガレット・ページ(Beatrice Louisa Margaret Page、1873年7月10日没、アレクサンダー・ページの娘)と結婚。1874年11月3日、エミリー・クーパー(Emily Cowper、1924年12月21日没、フレデリック・クーパーの娘)と再婚、子供あり
- アーネスト・ジョージ(1828年8月12日 – 1885年3月5日) - 1856年1月14日、オーガスタ・ラサム・ハリファックス(Augusta Latham Hallifax、1835年ごろ – 1917年12月24日)と結婚、子供あり
- レスター(1829年10月25日 – 1891年1月27日) - ジブラルタル総督。1866年2月12日、アリシア・マリア・イライザ・スミス(Alicia Maria Eliza Smyth、1898年7月13日没、ロバート・スミスの娘)と結婚
- アデレード・アイダ(Adelaide Ida、1835年7月12日 – 1903年3月22日) - 1857年7月18日、第12代ウェストモーランド伯爵フランシス・フェインと結婚、子供あり
- エミリー・メアリー(1910年12月9日没) - 1856年2月5日、サー・ロバート・キングスコート(1830年2月28日 – 1908年9月22日、トマス・ヘンリー・キングスコートの息子)と結婚、子供あり
1845年10月9日、アン・ゴア(Anne Gore、1817年3月8日 – 1877年7月23日、サー・ジョン・ゴア提督の娘)と再婚、2男1女をもうけた[1]。
- モンタギュー(1846年9月21日 – 1907年9月1日) - 庶民院議員。1886年10月19日、エスメ・フィッツロイ(Esmé FitzRoy、1939年5月25日没、フランシス・ホレイショ・フィッツロイの娘)と結婚、子供あり
- メアリー・アンナ(1848年7月23日 – 1929年5月10日) - 1869年1月7日、第2代アバコーン公爵ジェームズ・ハミルトンと結婚、子供あり
- アシュトン・ゴア(1850年8月10日 – 1911年3月1日) - 海軍軍人。1892年2月25日、アリス・アン・コウェル(Alice Anne Cowell、1948年11月5日没、サー・ジョン・クレイトン・コウェルの娘)と結婚、子供あり
出典
[編集]- ^ a b c "Howe, Earl (UK, 1821)". Cracroft's Peerage (英語). 4 July 2019. 2021年1月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 270.
- ^ "No. 17731". The London Gazette (英語). 31 July 1821. p. 1580.
- ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1461.
- ^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "Index of officers: He - Hy". Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 1096–1149. British History Onlineより。
- ^ "No. 18631". The London Gazette (英語). 24 November 1829. p. 2157.
- ^ a b Sainty, John Cristopher; Bucholz, Robert Orland. "Household of Princess Adelaide, Duchess of Clarence(1818-1830), Queen(1830-1837),and Queen Dowager (1837-1849) 1818-1849" (PDF). The Database of Court Officers: 1660-1837 (英語). pp. 5–6. 2021年1月27日閲覧。
- ^ "No. 18772". The London Gazette (英語). 1 February 1831. p. 194.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the 1st Earl Howe
- リチャード・カーゾン=ハウ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "リチャード・カーゾン=ハウの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
宮廷職 | ||
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新設官職 | 王妃アデレードの宮内長官 1830年 – 1831年 |
空位 次代の在位者 デンビー伯爵
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先代 デンビー伯爵 |
王妃アデレードの宮内長官 1834年 – 1849年 |
王妃アデレード死去 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | ハウ伯爵 第2期 1821年 – 1870年 |
次代 ジョージ・カーゾン=ハウ |
先代 アシュトン・カーゾン |
カーゾン子爵 1820年 – 1870年 | |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ソフィア・カーゾン |
ハウ男爵 1835年 – 1870年 |
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