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リチャード・カーゾン=ハウ (初代ハウ伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代ハウ伯爵。サー・フランシス・グラント英語版の作品に基づくメゾチント、1859年出版。

初代ハウ伯爵リチャード・ウィリアム・ペン・カーゾン=ハウ英語: Richard William Penn Curzon-Howe, 1st Earl Howe GCH PC、出生名リチャード・ウィリアム・ペン・カーゾンRichard William Penn Curzon)、1796年12月11日1870年5月12日)は、イギリスの貴族、廷臣トーリー党所属[1]

生涯

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ペン・アシュトン・カーゾン閣下(1757年 – 1797年、初代カーゾン子爵アシュトン・カーゾンの息子)と第2代ハウ女男爵ソフィア・シャーロット・カーゾン(1762年 – 1835年、初代ハウ伯爵リチャード・ハウの娘)の息子として、1796年12月11日にレスターシャーゴップサル英語版で生まれた[2]

1820年3月21日に父方の祖父が死去すると、カーゾン子爵位を継承した[2]。1821年7月7日に国王ジョージ4世の認可状を受けて母の旧姓「ハウ」を姓に加え[2][3]、15日に連合王国貴族であるハウ伯爵に叙された[2][4]

1829年11月20日に国王ジョージ4世の寝室侍従英語版に任命され、1830年7月17日までに辞任した[5][6]。1830年7月23日に王妃アデレード宮内長官英語版に任命されたが、第1回選挙法改正に反対票を投じたため、1832年までに解任された[2][7]。1830年にロイヤル・ゲルフ勲章英語版ナイト・グランド・クロスを授与され[2]、1831年1月31日に枢密顧問官に任命された[8]

1834年に国王ウィリアム4世によりホイッグ党内閣が罷免され、トーリー党が与党になった。ハウ伯爵は1834年12月26日に再び王妃アデレードの宮内長官に任命され、以降1849年12月2日にアデレードが死去するまで務めた[7]

1835年12月3日に母が死去すると、ハウ男爵位を継承した[2]

1870年5月12日にメイフェアのカーゾン・ハウス(Curzon House)で死去、息子ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイスが爵位を継承した[2]

家族

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ハウ伯爵夫人ハリエット。マーガレット・サラ・カーペンター画、1834年。

1820年3月20日、ハリエット・ジョージアナ・ブルーデネル(Harriet Georgiana Brudenell、1799年12月13日 – 1836年10月25日、第6代カーディガン伯爵ロバート・ブルーデネルの娘)と結婚[2]、7男3女をもうけた[1]

  • ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ルイス(1821年1月16日 – 1876年2月4日) - 第2代ハウ伯爵
  • リチャード・ウィリアム・ペン(1822年2月14日 – 1900年9月25日) - 第3代ハウ伯爵
  • フレデリック(1823年7月16日 – 1881年9月23日)
  • ヘンリー・ダグデイル(Henry Dugdale、1824年9月21日 – 1910年3月22日) - 1857年10月22日、イリナ・ヤング・スウィンバーン(Eleanor Young Swinburne、1887年8月28日没、ジョン・スウィンバーンの娘)と結婚、子供あり
  • ジョージアナ(1825年9月29日 – 1906年5月14日) - 1845年7月3日、第8代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットと結婚、子供あり
  • ウィリアム・ヘンリー(1827年6月1日 – 1914年1月5日) - 1870年10月26日、ベアトリス・ルイーザ・マーガレット・ページ(Beatrice Louisa Margaret Page、1873年7月10日没、アレクサンダー・ページの娘)と結婚。1874年11月3日、エミリー・クーパー(Emily Cowper、1924年12月21日没、フレデリック・クーパーの娘)と再婚、子供あり
  • アーネスト・ジョージ(1828年8月12日 – 1885年3月5日) - 1856年1月14日、オーガスタ・ラサム・ハリファックス(Augusta Latham Hallifax、1835年ごろ – 1917年12月24日)と結婚、子供あり
  • レスター英語版(1829年10月25日 – 1891年1月27日) - ジブラルタル総督。1866年2月12日、アリシア・マリア・イライザ・スミス(Alicia Maria Eliza Smyth、1898年7月13日没、ロバート・スミスの娘)と結婚
  • アデレード・アイダ(Adelaide Ida、1835年7月12日 – 1903年3月22日) - 1857年7月18日、第12代ウェストモーランド伯爵フランシス・フェイン英語版と結婚、子供あり
  • エミリー・メアリー(1910年12月9日没) - 1856年2月5日、サー・ロバート・キングスコート英語版(1830年2月28日 – 1908年9月22日、トマス・ヘンリー・キングスコートの息子)と結婚、子供あり

1845年10月9日、アン・ゴア(Anne Gore、1817年3月8日 – 1877年7月23日、サー・ジョン・ゴア英語版提督の娘)と再婚、2男1女をもうけた[1]

出典

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  1. ^ a b c "Howe, Earl (UK, 1821)". Cracroft's Peerage (英語). 4 July 2019. 2021年1月27日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 270.
  3. ^ "No. 17731". The London Gazette (英語). 31 July 1821. p. 1580.
  4. ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1461.
  5. ^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "Index of officers: He - Hy". Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 1096–1149. British History Onlineより。
  6. ^ "No. 18631". The London Gazette (英語). 24 November 1829. p. 2157.
  7. ^ a b Sainty, John Cristopher; Bucholz, Robert Orland. "Household of Princess Adelaide, Duchess of Clarence(1818-1830), Queen(1830-1837),and Queen Dowager (1837-1849) 1818-1849" (PDF). The Database of Court Officers: 1660-1837 (英語). pp. 5–6. 2021年1月27日閲覧
  8. ^ "No. 18772". The London Gazette (英語). 1 February 1831. p. 194.

外部リンク

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宮廷職
新設官職 王妃アデレード宮内長官英語版
1830年 – 1831年
空位
次代の在位者
デンビー伯爵英語版
先代
デンビー伯爵英語版
王妃アデレード宮内長官英語版
1834年 – 1849年
王妃アデレード死去
イギリスの爵位
爵位創設 ハウ伯爵
第2期
1821年 – 1870年
次代
ジョージ・カーゾン=ハウ
先代
アシュトン・カーゾン
カーゾン子爵
1820年 – 1870年
グレートブリテンの爵位
先代
ソフィア・カーゾン
ハウ男爵
1835年 – 1870年
次代
ジョージ・カーゾン=ハウ