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バレエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モダンバレエから転送)
ドガ画 『バレエのレッスン』
『白鳥の湖』

バレエ: ballet[注釈 1][注釈 2])は、西ヨーロッパで発生し広まった、歌詞・台詞を伴わない舞台舞踊。及びその作品を構成する個々のダンス

音楽伴奏舞台芸術を伴いダンスによって表現する舞台である。物語性をもち、複数の幕をもつ舞踊が多い(「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」など)。しかし20世紀以降には物語性を否定する作品も生まれた。一方で短い小品でありながら優れた物語性をもつものもある(「瀕死の白鳥」など)。事前に振付家によってバレエ独特の所作を指定されたものを演じ、即興作品は少ない。振付の仕方を振付術(コレオグラフィー)という。

バレエに関係する芸術家や専門家たち

バレエの上演に関係する芸術家には、バレエ音楽の作り手である作曲家、踊り方(ダンスも含む)を指定する振付家指揮者を含むバレエ音楽の演奏家、そして舞踊によってバレエを実現し完成させるバレエダンサーなどがいる。→#作曲家#振付家#バレエダンサー

バレエの歴史

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起源

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ルネッサンス期のイタリアに起源を発する。当時、宮廷では余興として詩の朗読、演劇などが演じられていたが、その一部としてバロ(Ballo)と呼ばれるダンスが生まれた。宮廷の広間で貴族たちが歩きながら床に図形を描いていくもので、それをバルコニーから眺めるのが当時の楽しみ方であった。

1463年、グリエルモ・エブレオ『舞踏芸術論』のなかでバレット(Balletto)という語が初めて用いられている。

1496年にはレオナルド・ダ・ヴィンチが衣裳と装置を担当した「楽園」が初演された。

16世紀ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディにより世俗合唱曲が流行すると、その歌に踊りを加えたバレット(Balletto)が生まれ、やがてバレッティ(Balletti)と呼ばれるようになった。

ドメニコ・ダ・ピアチェンツァドイツ語版など舞曲の作曲家や、ドメニコ・ダ・フェッラーラ(フェラーラレオネルロ・デステポーランド語版に仕えた)などの舞踏教師が登場し、イタリアの貴族が盛んに舞踏会を開催したことが分かる。

1582年頃のバレエ

バレエの誕生

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1533年イタリアフィレンツェメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりバレッティがフランスにもたらされ、バレ(Ballet)と呼ばれた。

1573年「ポーランド人のバレエ」(演出・振付:バルタザール・ド・ボージョワイユー)が初めてバレ(Ballet)と称している。

1581年の「王妃のバレエ・コミック英語版」(演出・振付:バルタザール・ド・ボージョワイユー)は、完全に記録に残っている最初のバレエ作品である。これらを皮切りに、バレエは宮廷において盛んに踊られるようになり、16世紀末から17世紀初頭の20年間で約800のバレエが上演されたと言われる。

1643年ルイ14世が4歳でフランス国王に即位した際には、数時間にも及ぶ豪華絢爛なバレエが催され、ルイ14世自らが出演した。ルイ14世はバレエに熱中し、1653年15歳の時に『夜のバレエ』のアポローン役で本格的に舞台デビュー。よりバレエの質を上げようと、1661年王立舞踏アカデミー英語版フランス語版を創立した。ルイ14世の舞踏教師ピエール・ボーシャンによってポジションが定められ、舞踏符が確立されるなど、バレエがダンスとして体系づけられたのもこの頃である。

宮廷から劇場へ

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1670年にルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーのダンスに変化していった。

1671年オペラ座が設立(当時のバレエはオペラと一体であった)。

1681年、『愛の勝利』で最初の女性ダンサー、ラ・フォンテーヌが劇場に登場し、18世紀に入るとマリー・カマルゴマリー・サレなど女性職業ダンサーが続々とオペラ座からデビュー。宮廷バレエでは男性ダンサーが中心だったが、1726年マリー・カマルゴが足先の見える衣装と踵を取り去った靴を用いて、男性のみの技法であった跳躍をし、女性ダンサーが人気を博するようになった。

1700年に最初のバレエ教本、ラウール=オージェ・フイエ による『舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法』が出版され、1713年にはオペラ座にバレエ学校が創設されるなど、バレエ教育が確立。バレエの技法も複雑化していった。

1760年ジャン=ジョルジュ・ノヴェールが『舞踊とバレエについての手紙』にてバレ・ダクシオンballet d'action)を提唱した。これにより、バレエはオペラから独立し、台詞のない身振り(ミーム)による舞台演劇として確立した。

1845年頃、タリオーニら「パ・ド・カトル」

ロマンティック・バレエ

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18世紀後半にフランス革命が起こると、伝統や権威に反発し自由で神秘的なものを重んじるロマン主義がヨーロッパを席巻し、ロマンティック・バレエ(ロマン主義に基づくバレエ)が誕生した。「ラ・シルフィード」「ジゼル」に代表され、妖精や悪魔が登場する幻想的なもの、エキゾチックな異国趣味のものが多い。くるぶし丈のふんわりとしたチュチュを着た女性ダンサーの、ポワント(つま先立ち)の技法による軽やかな動きが特徴。ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは、特にロマンティック・チュチュと呼ばれる。

ロマンティック・バレエは現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものであり、ロマンティック・バレエによりバレエは現在のものとほぼ同じものに完成した。バレエ・ダクシオンの提唱もあり、後に誕生するクラシック・バレエよりも、踊りによってストーリーを表現する演劇としての要素は強い。

エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。

1832年「ラ・シルフィード」でマリー・タリオーニが本格的にポワントで踊り、オペラ座で大成功をおさめた。この作品によりロマンティック・バレエが確立されたと言われる。ヨーロッパ中で人気を博すも、フランスのバレエの低俗化と、ロマン主義の衰退と共にロマンティック・バレエは衰退し、1870年の「コッペリア」などを最後にフランスではバレエそのものが演じられないようになる。

クラシック・バレエ

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ロシアではフランスの宮廷バレエが伝わり、1730年頃にはフランスのジャン=バティスト・ランデ英語版によりサンクトペテルブルクにバレエ学校が創立された。フランスでロマン主義が衰退した19世紀後半、後進国であるロシアではロマンティック・バレエが踊り続けられており、その後独自の発展をした。ドラマ主体のロマンティック・バレエに、物語とは無関係のダンスシーンを取り入れたことから、クラシック・バレエ古典主義のバレエ)と言う。

クラシック・バレエでは技法はどんどん複雑になり、動きやすいように丈の短いチュチュが考案された。これをクラシック・チュチュと呼ぶ。ロマンティック・バレエでは1回回るのがやっとだったが、32回のフェッテ(連続回転)まで演じられるようになった。2人で踊るグラン・パ・ド・ドゥなどの様式も成立。ダンス(ディヴェルティスマン)とマイムが分離されて演じられるようになり、現在のバレエの構成が完成した。

1888年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の監督であるウセヴィロジュスキーは、フランスから招いた振付家マリウス・プティパの振付けのもと、ピョートル・チャイコフスキーに「眠れる森の美女」の作曲を依頼した。この作品が1890年に上演、大成功をおさめると、続いて「くるみ割り人形」(1892年、振付:レフ・イワノフ、台本:マリウス・プティパ)、「白鳥の湖」(1895年、振付:レフ・イワノフ、マリウス・プティパ)が上演された。これらは3大バレエと呼ばれる。チャイコフスキーの3大バレエであると同時に(彼はこの3つしかバレエ音楽を書いていないが)、上演・演奏人気において、すべてのバレエにおける3大バレエでもある。

モダン・バレエ

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ロシアのバレリーナ
アンナ・パヴロワ

マリウス・プティパにより確立されたクラシック・バレエだが、その古典的な世界に不満を持つ者もいた。その1人、ミハイル・フォーキンイサドラ・ダンカンモダン・ダンスの祖)に衝撃を受け、クラシック・バレエにない新しいステップや民族舞踊を採り入れた、革新的な振付をした。そのモダン・ダンスの要素を取り込んだバレエをモダン・バレエと言う。

ミハイル・フォーキンはセルゲイ・ディアギレフに見出され、1907年にバレエ発祥の地・パリで公演を行い、バレエ・ブームを巻き起こした。アンナ・パヴロワヴァーツラフ・ニジンスキータマーラ・カルサヴィナなどのダンサーたちが大人気となり、セルゲイ・ディアギレフはバレエ・リュスを結成する。

1912年のバレエ・リュスの公演で、ヴァーツラフ・ニジンスキーが「牧神の午後」で振付家としてデビューすると、モダン・バレエは決定的な革新を迎える。これまでの美しいバレエとは異なる、独自の表現は非常に衝撃を与え、イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」では警官が介入するほど論議の的となった。

20世紀以降

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モダン・バレエが確立してからも、ドラマティック・バレエ、アブストラクト・バレエなどの革新的なバレエが誕生している。これらのバレエは、モダン・ダンスポスト・モダンダンスコンテンポラリー・ダンスコンタクト・インプロヴィゼーションなどのダンスに含まれることもあり、曖昧である。20世紀以降はそれらの現代的なバレエと古典的なバレエが踊られている。現代的なバレエの振付家としては、モーリス・ベジャールローラン・プティウィリアム・フォーサイスイリ・キリアンがいる。またフィギュアスケートの動きはバレエの影響を強く受けており、フィギュアスケートの選手はバレエの訓練も受けることが多い。さらにバレエの影響はフィギュアスケートにとどまらず、新体操アーティスティックスイミングの選手もバレエの訓練を受けることがある。また、宝塚音楽学校をはじめとして、舞台俳優を養成する組織ではバレエの基礎は必修に近い扱いを受けている。

バレエの技法

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トウシューズ

バレエはフランスで発達したため、バレエの振付用語は基本的にはフランス語である。近代バレエの特徴は爪先立ちを多用することにある。これをポワント(fr. pointe)または英語のトー(トウ)(en. toe)という。このために履く特製の靴がトウシューズ(fr. chaussons à pointes)である。その性質上、足首が固いと非常にバレエには不向きとなる。また、爪先立ちを多用するために、爪先を様々な形で痛めることがあり、日常生活に影響が出るレベルにまでなり、バレエダンサーとしても活動できなくなるケースは少なくない。

爪先立ちを多用することから、摩擦が小さすぎると転倒してしまうが、大きすぎると回れないため、バレエスタジオやステージの床には適度な摩擦があるリノリウムが使われている[1]

ポワントで立たず足を舞台につけて立つ立ち方は6つに分類される。これをポジション(fr. position)と呼ぶ。振付においては特に詳述せずポジション名で呼ぶ。

バレエ舞踏の重要な技法としては跳躍と回転がある。これもフランス語で呼び、たとえば片足を前方に投げ出しその方向へ飛ぶことをジュテ(fr. jeté)と呼び、空中での足の位置や跳躍の大きさによってジュテは細分される。一方物語り進行上の感情を表すのにはマイムを用いる。マイムが過度に多い作品はしばしば「バレエ的でない」と批判されることからも、バレエが舞踊芸術であることが理解される。

バレエ作品

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眠れる森の美女
初演時のキャスト
くるみ割り人形
1900年頃

著名なバレエの作品には以下のものがある。詳細はCategory:バレエ作品も参照のこと。

バレエ団

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総合舞台芸術であるバレエ作品の上演には、観客が注目するバレエダンサーだけでなく、そのダンス(踊り方)を指定する振付家、バレエ音楽をかなでる楽団(オーケストラ演奏家指揮者など)の存在も欠かせず、さらに舞台装置づくりの専門家(舞台美術)、照明の専門家(照明技術者)など、さまざまな専門家の能力が必要である。そのため、一般にバレエ団を運営しバレエを上演するには多額の費用(固定費、主に人件費)が必要となる。このためバレエの本場の国々では、バレエ団は国家によって運営されている。民間のバレエ団では、資金はさまざまな方法で得ているが、著名なものは多額の寄付を集めて運営することが多い。

バレエ団には以下のものがある。(詳細なリストは Ballet companyを参照。) バレエの本場はロシアやフランスであるので、まずはそれらから紹介する。

ロシアでは、バレエ公演が無くても固定給で、ダンサー寿命が短いのでバレエ年金が35歳から支給され、バレエ公演の入場料は日本の10分の1で、バレエ専用劇場では、ダンサーの足元が見られるように舞台床が客席に向かって斜めになっている。

二百近いカンパニー付劇場を誇るドイツでは、三点劇場と呼ばれるオペラ、バレエ、演劇の兼用劇場か、オペラ劇場にバレエ団が付属する形が多数だが、バレエ専用劇場はフランクフルトが唯一である。ドイツ圏は演奏会音楽、オペラ、宗教音楽、舞踏音楽とあらゆる音楽分野で世界を先導する中で「バレエなき国」と呼ばれたほどこの分野の作品だけが空白となってきた国であるが(モーツァルトやベートーヴェンのような大家の作品ですら上演機会がほとんどない。ただし、「白鳥の湖」「ジゼル」「くるみわり人形」など、作品の舞台に選ばれることは非常に多く、オペラにおけるスペインに似た位置にある)、上演の活発さは随一で、ロシアと並ぶ世界のバレエ大国である。新書館「バレエ2002」によれば、国内で240人の振付師、バレエマスター、1600人の劇場所属バレエダンサーのほか、多数のフリーのバレエダンサーが活動しているとされている。

アメリカ合衆国

※日本のバレエ団については、下の「日本のバレエ」を参照のこと。

バレエダンサー

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バレエを踊ることを職業としている人をバレエダンサーと言う。

ロシアではバレエダンサーは国家公務員である。

バレエ学校

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ロシアの場合

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ロシアでは基本的に、バレエダンサーになろうとする人は8年間、バレエダンサー養成学校に通う。

毎年20人程度の新入生を迎えるが、年齢が同一でないので、該当年齢相当の初等教育~中等教育(日本の小中高校程度)の授業とバレエ教育を授けており、バカロレア(大学入試資格)を得ることができる。

毎年1回行われる進級テストや、最高学年で18歳まで受験できるオペラ座バレエ団入団テストで落第すると、退学しなければならない。生徒に対してバレエ教育のみならず初等~中等教育を施しているのは、才能に恵まれずに退学となっても、普通学校に転入したり他の職業教育を受けるなど、早い段階で別の進路を選べるようにするためである。これはオペラ座バレエ団が国家機関であり、オペラ座バレエ学校がその養成校であることを踏まえれば当然のことであり、成功する見込みもないのにバレエダンサーの夢を追い続けた結果、バレエ以外の教育も職業訓練も不十分なために職が得られず生活困窮者になる、といったことを防ぐ意味合いがある。

オペラ座バレエ団の入団には、男性は体格条件として身長175センチメートル~180センチメートル以上であることが課せられており、女子は栄養管理教育を学びダイエットが必要となる。

学校生活は、生徒同士の助け合いと同時に、競争による淘汰もある。生徒であるうちから、客から料金を取れるプロとなるのだという意識を持たせ、プロのバレエダンサーとしてのレベルを落とさない工夫がされている。

ダンサーの階級

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バレエ団によっては、ダンサーの階級について固有の呼び方がある。主役級のエトワールプリンシパルバレリーナ、それに次ぐ準主役級のソリストコール・ド・バレエ(群舞)を踊るカドリーユアーチストなどがある。

バレエ団に入団しても、エトワールを頂点とするバレエダンサー、プリマバレリーナを支えるバレエ団の組織運営であるが、新たなダンサーが階級を登ることで組織の新陳代謝を図っている。[2]

  • フランスのオペラ座バレエ団の場合
    • エトワール
    • プルミエ・ダンスール(女性の場合はプルミエール・ダンスーズ)
    • スジェ
    • コリフェ
    • カドリーユ
  • ロイヤル・バレエ団の場合
    • プリンシパル
    • ソリスト(トップはファースト・ソリスト)
    • アーチスト(トップはファースト・アーチストまたはコルフェ)
  • アメリカン・バレエ・シアターの場合
    • プリンシパル
    • ソリスト
    • コール・ド・バレエ

著名なバレエダンサー

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著名なバレエのダンサーにはたとえば以下の者がいる。

詳細はCategory:バレエダンサーを参照のこと。


※括弧内は生誕と死去年、出身国(日本人の場合は県)、所属バレエ団(現役ダンサーのみ)を表す。

女性

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男性

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作曲家

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著名なバレエの作品の作曲家には以下の者がいる。詳細はCategory:バレエ作曲家も参照のこと。

振付家

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著名なバレエの振付家には以下の者がいる。詳細はCategory:バレエの振付家も参照のこと。

バレエコンクール

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国際的なバレエコンクールにはプロを対象にした競技会が多いが、才能のある青少年を発掘するコンクールもあり、日本では後者のほうが知られている。有名なバレエコンクールには以下のものがある。

日本国内では以下のものがある。[3]

日本のバレエ

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1912年イタリア人指導者が帝国劇場歌劇部のバレエマスターに起用されたのが日本のバレエの始まり。ロシア革命で日本に亡命したエリアナ・パブロワ1927年鎌倉にスタジオを開いたのが日本のバレエ学校1号。[4]

※ 日本のバレエの歴史については、新国立劇場情報センター「日本洋舞史年表」並びにチャコットサイト掲載「ダンズ・エッセイ」を参照のこと。

特徴

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欧米の国では国立のバレエ学校を持つ国もあるが、日本には国立のバレエ学校はない。これに代わり、2016年時点で約4600[5]の民間のバレエスタジオが約35.8万人[5]のバレエダンサーの養成を行っている。日本でバレエを習っている全ての子どもがプロのダンサーになることを目指しているわけではないが、プロのダンサーを志す子どもも増えてきている。またバレエ・ダンサーの中には、古典としてのバレエからコンテンポラリー・ダンス・現代舞踊や舞踏の分野へと進出する人もいる。 日本のバレエダンサーの詳しい情報は、バレエダンサーを参照。

劇場

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日本で付属のバレエ団がある劇場には新国立劇場東京都渋谷区初台)がある。バレエ研修所も併設されている。新国立劇場以外に国内でバレエ公演が行われる主な劇場には以下のものがある。

バレエ団

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国内の著名なバレエ団には以下のものがある。

バレエでの化粧

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バレエの化粧

彫りの深さ、立体感を強調するのが特徴。役柄による多少の違いはあるが、おおむね、自然の肌色より若干明るめ(ロシア系は、かなり白め)のファンデーションを顔全体に塗る、茶色がかったほほ紅、ノーズシャドーを入れる、色の濃いアイシャドーをまぶた一杯に差す、上下のまぶたにアイライナーを、思いっきり太く入れる、付けまつげを付ける、柳眉を描く、鮮やかな口紅を、輪郭をはっきり描く、という場合が多い。但し、子供の場合は若干略式になる場合が多い。

バレエを扱った作品

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漫画

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 (五十音順)

アニメ

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映画

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テレビドラマ

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小説

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イラスト

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脚注

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注釈

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  1. ^ フランス語発音: [balɛ] バレ
  2. ^ 英語発音: [ˈbæleɪ] レイ

出典

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  1. ^ バレエを裏で支える人々Vol.2リノリウムの役割と重要性:バレエスタジオ施工専門 アテールに聞く~日々のレッスンをより充実したものにするために~”. バレエナビ (2018年12月14日). 2021年6月24日閲覧。
  2. ^ 地球ドラマチック~エトワールをめざして~パリ・オペラ座バレエ学校の子どもたち - NHKEテレ 前編2013年3月16日19時放送、後編2013年3月23日19時放送
  3. ^ 2014年5月11日中日新聞朝刊サンデー版
  4. ^ a b c 2014年2月3日中日新聞朝刊1面
  5. ^ a b 『バレエ教育に関する全国調査2016』調査結果” (PDF). 昭和音楽大学バレエ研究所. 2020年7月23日閲覧。
  6. ^ くだん書房”. www.kudan.jp. 2023年4月24日閲覧。
  7. ^ 『バレエ星』(谷ゆき子)ロングレビュー! バレエの稽古で滝行!? ありえない超展開でも、読めば一気に谷ワールドに引きこまれてしまう幻のバレエマンガが、50年の時を経て完全復刻!!”. 宝島社「このマンガがすごい!」編集部. 2022年12月3日閲覧。

参考文献

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  • 『バレエの歴史』 M・フランソワーズ・クリストウ著 (佐藤俊子訳) 白水社文庫クセジュ 1970年 ISBN 4560054819
  • 『バレエの歴史』 フェルディナンド・レイナ(小倉重夫訳)、音楽之友社、1974年
  • 『バレエとモダンダンス-その歴史』 J・アンダソン著 音楽之友社 1993年 ISBN 4276250501
  • 『バレエ 誕生から現代までの歴史』 薄井憲二著 音楽之友社 1999年 ISBN 4-276-25013-7
  • 『バレエ入門』 三浦雅士著 新書館 2000年 ISBN 4403230822
  • 『ワガノワのバレエ・レッスン』 アグリッピナ・ワガノワ著 新書館 1996年 ISBN 4403310079

関連項目

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外部リンク

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