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マルティニーク島侵攻 (1759年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マルティニーク島侵攻
戦争七年戦争
年月日1759年1月16日 - 1月19日
場所西インド諸島マルティニーク
結果:フランスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
グレートブリテン王国の旗 ペレグリン・ホプソン英語版
グレートブリテン王国の旗 ジョン・バリントン英語版
グレートブリテン王国の旗 ジョン・ムーア英語版
フランス王国の旗 フランソワ5世・ド・ボアルネ英語版
戦力
戦列艦10隻
正規軍4,500-5,000
損傷した戦列艦1隻
正規軍250
民兵数千

マルティニーク島侵攻(マルティニークとうしんこう、英語: Invasion of Martinique)は七年戦争中の1759年1月、ペレグリン・ホプソン英語版率いるイギリス軍による、フランス領マルティニークの占領を目的とする水陸両用作戦[1]

経過

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マルティニーク島に着いたイギリス艦隊はフォール=ロワイヤルの要塞に砲撃したが、要塞が高台にあったため効果が薄く、また近くに上陸に適する場所もなかった。イギリスの指揮官たちは知らなかったが、この時点ではマルティニーク総督のフランソワ5世・ド・ボアルネ英語版が数か月間補給を受けていなかったため、要塞は短期間の包囲だけで降伏するであろうもろいものであった。しかし、ムーアとホプソンは包囲せず、当時のマルティニークの中心地で貿易港であったサン・ピエールの攻撃を計画する始末であった。1月19日の砲撃が再び失敗すると、イギリス軍は撤収して、代わりにフランス私掠船の本拠地グアドループ島を攻撃した[2]

その後

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イギリス軍はグアドループに攻撃を加え、同年5月に降伏させた[3]。マルティニークは1762年に再び侵攻され、今度はイギリス軍が占領に成功した。

関連項目

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脚注

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  1. ^ Anderson p.312–313
  2. ^ Dull, pp. 138–139
  3. ^ Simms p.451

参考文献

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  • Anderson, Fred. Crucible of War, Faber and Faber, 2000
  • Dull, Jonathan The French Navy and the Seven Years' War
  • McLynn, Frank. 1759: The Year Britain Became Master of the World. Pimlico, 2005
  • Simms, Brendan. Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire. Penguin Books, 2008