ジャムチ
ジャムチ(モンゴル語: Өртөө,ᠡᠣ᠊᠊ᠢ᠊᠊ᠷᠳ᠋ᠠᠭᠡᠡ᠋ ,中国語: 站赤)とは、モンゴル帝国及びその後継国家で施行された駅伝制度。モンゴル語圏ではジャム/ジャムチ (J̌am/J̌amči)、テュルク語圏ではヤム (Yam) と表記され、同時代のペルシア語史料ではテュルク語形に基づいて یام (yām)、漢文史料ではモンゴル語形に基づいて站赤と記される。
モンゴル帝国は帝国全土の交易路を整備し、また20〜30kmおきに宿舎・食料・換え馬を備えた宿駅を設置することで交通の円滑化を図り、この制度をモンゴル語でジャムチと呼称した。ジャムチの整備は使者(イルチ)を介した情報伝達の迅速化をもたらしたのみならず、商人による長距離交易の振興にも貢献し、モンゴル帝国の経済的繁栄の要因の1つと評されている。また、モンゴル帝国時代の著名な旅行者、長春真人(丘処機)、プラノ・カルピニ、ルブルック、マルコ・ポーロらは皆ジャムチ制度を利用することで長距離移動を成功させており、しばしばジャムチ制度の有用性について言及している[1]。
歴史
[編集]ジャムチ制の起源
[編集]駅伝制度は中国では春秋戦国時代より用いられており、モンゴル帝国も中国の駅伝制を参考にジャムチ制を整備したと考えられるが、具体的にいつ頃から駅伝制を導入したかは記録がなく不明である。
ジャムチ制の整備について記録されるようになるのは第二代皇帝オゴデイの時からで、『元朝秘史』はジャムチ制度の制定について、以下のように記述している:
また、オゴデイ・カアンの宣うよう、「……また、使臣を馳せやる時、[所定めず]国民から取り立てて馳せてきたが、[そのため]馳せる使臣は行程が遅れがちであり、国民は苦しんでいた。今、我らがしかと一定の場所を定め、各地の千(ミンガン:千人隊)・千からジャムチ(駅站戸)やウラアチン(舗兵)を出させ、[然るべき]場所場所にジャム(駅站)を置き、心安んじて、[国民からの徴発]に頼ることなく、駅站に頼って馳らせれば、よかろうぞ……」とのジャルリグ(聖旨)があった。 — 『元朝秘史』
この記述から、一般的にジャムチ制度は第二代皇帝オゴデイが創始した制度と紹介されることもある。しかし、実際には駅伝制の整備は初代皇帝チンギス・カンの時代から進められており、オゴデイは既存の駅伝制度を大々的に整備したものと考えられている。
チンギス・カンの中央アジア遠征中、モンゴル高原を経由して中央アジアを訪れた長春真人は魚児濼駅路(後のテレゲン道)というルートを用いたと記録しており、この頃既に駅伝制度の整備は始まっていた[2]。
オゴデイ・カアンによる整備
[編集]チンギス・カンの後を継いで即位したオゴデイ・カアンはまず金朝遠征を行うことを決定し、これと同時にジャムチ制を整備するよう勅令を発した[3]。1229年(オゴデイの即位年)に発布された勅令では、「各ジャムチごとに米倉を置き、百戸(ジャウン)は車を10、十戸(アルバン)は米一石を毎年納入し、使者(イルチ)が来た時には毎日肉一斤、麺一斤、米一升、酒一瓶を支給せよ」と定められていた[4]。ここで挙げられる百戸・十戸のように、ジャムチを維持するための奉仕を義務づけられた民戸を中国では「站戸」と呼称した。
金朝遠征を成功させた翌年の1235年には更なるジャムチの整備・拡大が進められた。この年のクリルタイでオゴデイ・カアンはジャムチの設置について以下のように語った:
使者たちが、諸王たちの下から、またカアン陛下から彼等の下へ、不可欠な用事や重要事のために往来するので、全ての国々にヤム(yām)を設置し、それをタヤン・ヤム(Tāyān yām)と読んだ。そのヤムを設置するために、使者たちを諸王たちの側から、次のように定めた……上述のアミールたちが行って、全ての地方や国々において、その地域に縦横にタヤン・ヤムを敷いた。 — 『集史』「オゴデイ・カアン紀」
更にこの後、オゴデイ・カアンは新たなる首都カラコルムの建設にあわせて、カラコルムと旧金朝領(ヒタイ)を結ぶ「37站」の整備に着手した。この時のジャムチの整備について『集史』は以下のように伝えている:
この「37站=ナリン・ヤム(後述するナリン道とは別物)」がどのルートであるかは諸説あるが、いずれにせよモンゴル本土-中国を結ぶ駅伝はこの時に在来ルートを元に大量の輸送が可能な駅伝として再整備されたと考えられる。
また、1238年には燕京・宣徳・西京の3路を通るジャムチを整備するよう、イェケ・ジャルグチのシギ・クトクにジャルグチ(聖旨)が降された。これら一連の整備によってモンゴル本土-中国を結ぶジャムチは大幅に拡充されて草原のメトロポリス・カラコルムの食料供給を支える要となった。後にクビライとアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が勃発した際、クビライはこのモンゴル本土-中国を結ぶジャムチを閉ざしたが、その結果カラコルムは急速に食料不足に陥ったという[5]。
主要道路
[編集]モンゴル帝国本土、元代における嶺北等処行中書省が管轄する領域内には3つの主要な幹線道路があったことが知られている[6]。これら3つの路線はそれぞれテレゲン(帖里干)道・モリン(木憐)道・ナリン(納憐)道と呼ばれていた。
テレゲン道
[編集]突厥時代から存在し、キタイ帝国(遼朝)の時代には南モンゴル(上京臨潢府)と北モンゴル(辺防城)を繋いだ路線を前身とする。モンゴル帝国時代には金の上都(後には元の大都)を出発し、北西に向かってシリンゴル草原を越え、ケルレン河流域に出るルートであった。カラコルムに向かう際にはケルレン河流域から更に西に進む。
チンギス・カンの時代には魚児濼駅路とも呼ばれ、長春真人が用いたことで知られる[7]。
モリン道
[編集]唐代には突厥の民が唐の皇帝(=天可汗)に参詣するため「参天可汗道」という名称で知られた路線を前身とする。オルドス地方方面から北方に向かい、ゴビ沙漠を越えて直接オルホン河流域に出るルートであった。
長期間に渡って中国とモンゴルを結ぶ路線として用いられ、清代においても軍道として用いられた。
ナリン道
[編集]アルタイ山脈・陰山山脈の北麓を進むルートで、前2者が「南北の道」であるのに対し、これは「東西の道」である。モリン道とはツェツィー山(ウムヌゴビ県)で交差する。
長春真人が帰路に用いたルートとしても知られる[8]。
脚注
[編集]- ^ 白石2017,20-24頁
- ^ 白石2017,192-194頁
- ^ 『元史』巻2太宗本紀,「元年……始置倉廩、立驛傳」
- ^ 『元史』巻46兵志1,「太宗元年十一月、敕『諸牛鋪馬站、毎一百戸置漢車一十具。各站倶置米倉、站戸毎年一牌内納米一石、令百戸一人掌之。北使臣毎日支肉一斤・麺一斤・米一升・酒一瓶』」
- ^ 宇野1989,189-191頁
- ^ 『元史』巻58地理1,「和寧路……北方立站帖里干・木憐・納憐等一百一十九処」
- ^ 白石2017,140頁
- ^ 白石2017,189-191頁
参考資料
[編集]- 宇野伸浩「モンゴル帝国の駅伝制に関する一考察」『内陸アジア史研究』第5号、1989年
- 太田彌一郎「元代における站戸の形態: 馬站戸と水站戸を中心として」『東洋史研究』36、1977年
- 白石典之『モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る』講談社、2017年
- 杉山正明『羽田博士史学論文集 上巻歴史篇』東洋史研究会、1957年
関連項目
[編集]- ジャムチ制における各駅宿(ヤム)についてはen:Yam (route)を参照。