シラ・バートル
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シラ・バートル(モンゴル語: Šira baγatur,中国語: 失剌抜都児,? - ?)とはアスト部出身で、13世紀末に大元ウルスに仕えた人物。『元史』などの漢文史料では失剌抜都児(shīlàbádōuér)と記される。
概要
[編集]シラ・バートルの父はオルク・テムル(月魯達某)と言い、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの治世よりモンゴル帝国に仕えるようになった人物であった。モンケは即位以前、ヨーロッパ遠征にてカフカース地方の攻略を担当し、征服地で多くのアス人(アラン人=後のオセット人)を臣下として取り立てていた。オルク・テムルもそのような先達にならい、配下のアス人10名を率いてカフカース地方から移住し、モンケに仕えるようになった人物であると見られる[1]。東アジアに移住したオルク・テムルはクビライを総司令とする雲南・大理遠征に従軍して多くの軍功を挙げ、副将のウリヤンカダイの報告によって捕虜一口を褒賞として下賜された。しかし、間もなく刀傷のために亡くなった。
シラ・バートルは1284年(至元21年)の南宋遠征に従軍して功績を挙げ、1287年(至元24年)-1288年(至元25年)のナヤン・カダアンの乱鎮圧にも活躍した。シラ・バートルは1302年(大徳6年)に亡くなり、息子のノガイ(那海)が後を継いだ。
脚注
[編集]- ^ 赤坂2010,157-159頁
- ^ 『元史』巻135列伝22失剌抜都児伝、「失剌抜都児、阿速氏。父月魯達某、憲宗時領阿速十人入覲、充阿塔赤、従世祖至哈剌章之地、戦数勝、兀里羊哈台以其功聞、賜所俘人一口以賞之、後以金瘡発卒。 失剌抜都児至自脱別之地、帝特賜白金・楮幣・牛馬等物。至元二十一年、従丞相伯顔南征有功、仍充阿塔赤。帝嘗命放海青、曰『能獲新者賞之』。失剌抜都児即援弓射一兔二禽以献、賞沙魚皮雜帯及貂裘、且命於尚乗寺為少卿・於阿速為千戸。二十四年、授武略将軍、管阿速軍千戸、賜金符。乃顔叛、従諸王和元魯往征之、力戦有功。乃顔平、帝賞以金腰帯及銀交床等。二十五年、進武徳将軍・尚乗寺少卿、兼阿速千戸。征哈荅安等、敗之、獲其駝馬等物。成宗嘉其功、以軍二千益之。討叛王脱脱、擒之、以功受賞。大徳六年卒。 子那海産、襲其職。至大二年、進宣武将軍・右衛阿速親軍都指揮使、賜三珠虎符。泰定二年、覃加明威将軍」
参考文献
[編集]- 赤坂恒明「モンゴル帝国期におけるアス人の移動について」塚田誠之編『中国国境地域の移動と交流』有志舎、2010年
- 『元史』巻135列伝22昔都児伝