キース・エマーソン
キース・エマーソン Keith Emerson | |
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南カリフォルニアにて (2008年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1944年11月2日 |
出身地 | イングランド ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー、トッドモーデン |
死没 | 2016年3月11日(71歳没)[1] |
ジャンル |
プログレッシブ・ロック ロック クラシック音楽 クラシック・ロック アート・ロック |
職業 |
ミュージシャン シンガーソングライター キーボーディスト 作曲家 |
担当楽器 |
ピアノ ハモンドオルガン モーグ・シンセサイザー キーボード ハープシコード オルガン アコーディオン チェレスタ クラビネット |
活動期間 | 1967年 - 2016年 |
レーベル |
Edel Records (Germany/Europe) ビクターエンタテインメント (Japan) Shout! Factory Manticore Records J!MCO Records サンクチュアリ・レコード EMI ライノ・エンタテインメント Varèse Sarabande Gunslinger Records Cinevox Records |
共同作業者 |
Gary Farr & The T-Bones The V.I.P.'s P.P.アーノルド ナイス Free Creek ELP エマーソン・レイク&パウエル 3 Keith Emerson Band Boys Club |
公式サイト | www.keithemerson.com |
キース・ノエル・エマーソン(英語: Keith Noel Emerson、1944年11月2日[2] - 2016年3月10日[1][2])は、イングランド出身のキーボーディスト、作曲家。ロックにクラシックやジャズの要素を取り入れ、シンセサイザー奏者の草分け的存在としてシンセサイザーを楽曲の中心に導入した先駆者とされる[3][4]。
概要
[編集]1970年代前半にイングランドのプログレッシブ・ロック・バンド「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」(Emerson, Lake & Palmer, ELP) のメンバーとして活動し、本国イギリスやアメリカを初め、世界的な人気と知名度を獲得した[5]。また、ロバート・モーグに開発されて間も無いシンセサイザー(モーグ・シンセサイザー)を世界に知らしめた功績でも知られる[6][7]。モーグからは「ロックという分野においてシンセサイザーをどう使うかという方法論を提示した最初の人物」と評されている[8]。
略歴
[編集]ヨークシャー州のトッドモーデン生まれ[9]。終戦後にウェスト・サセックス州のワージングに転居。8歳半よりピアノのレッスンを始める。15歳の時、地元で開催されたワージング・ミュージック・フェスティバルに出場し、バッハの部で2位を獲得。本人によると、これが人生初のライブ・ステージである。
その後、ワージングで編成されたスウィング・オーケストラでジャズ・ピアノを弾き始め、同オーケストラのベーシスト/ドラマーとともにジャズ・トリオを結成し、ジャズ・クラブなどでの演奏を手がけ、1963年末にはキース・エマーソン・トリオとしてピアノトリオ演奏で初レコーディング。この時の音源が2015年に限定発売されている。学校を卒業後[注釈 1]、地元の銀行電算機課に就職したが、バンド演奏を優先したことで解雇された。
父親に頭金を手伝ってもらいハモンドオルガンを購入すると1965年にジョン・ブラウンズ・ボディーズというバンドを結成し、ブライトンのクラブ、ポップ・インに出演し始める。共演バンドであったTボーンズのドラマーのブライアン・ウォーキーに誘われ、ロンドンに出てゲイリー・ファー&T・ボーンズに加入。マーキークラブなどで演奏するようになる。1966年にはスプーキー・トゥースの前身に相当するヴィップス (The V.I.P.'s) に引き抜かれドイツのスタークラブなどで演奏活動をしていた。しかしヴィップスは出演していたクラブオーナーに最後のコンサートの後で金を持ち逃げされてしまった。彼は英国に帰国する直前、最後のライブでP.P.アーノルドの売り出しをしていたミッキー・ザ・オー(Mickey the 'O')と知り合った。
帰国後の1966年暮れ、解散したT・ボーンズのファーのアパートを引き継ぐと、ほどなくフランスで知り合ったミッキー・ザ・オーが住み始めた。彼の紹介でアーノルドに会いに行き、居間に置いてあったフェンダー・ローズを演奏すると、彼女にバック・バンドの結成を持ちかけられた。そこでT・ボーンズ時代の同僚のリー・ジャクソンらと4人編成のバンドを結成し、移動中の車中で彼女からナイスと名づけられた。1967年5月からパット・アーノルド・アンド・ザ・ナイスとして活動し、9月に彼女がアメリカに帰国したのを機に独立した。
1970年、元キング・クリムゾンのグレッグ・レイク、アトミック・ルースターのカール・パーマーとエマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP) を結成。著名なバンドのメンバーとして名を知られた3人が集結したELPはスーパーグループと呼ばれた[9]。彼等は同年にデビューアルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』を発表。全英1位に到達した『タルカス』(1971年)、代表作とされる『恐怖の頭脳改革』(1973年)など計9枚のアルバムを発表した[1]。
ELPの解散後、1980年代にはエマーソン・レイク・アンド・パウエル、3(スリー)などのトリオを結成して活動した。1989年にはアルメニア地震の被害を受けた人々を助けるチャリティー「ロック・エイド・アルメニア」によるシングル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のレコーディングに参加した[10][11]。1992年および2010年にはELPを再結成した。
ソロ・アルバムに加えて、ダリオ・アルジェント監督のホラー映画『インフェルノ』(1980年)、シルヴェスター・スタローン主演のスリラー映画『ナイトホークス』[7](1981年)、SFアニメーション映画『幻魔大戦』(1983年)、特撮怪獣映画『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)などのサウンドトラックを制作した[12]。
2011年3月11日の東日本大震災では、イギリスでニュースを見た同日に『The Land Of Rising Sun/日出ずる国へ』をサセックス州のスタジオで録音し、3月20日にYouTubeで公開[13]、被災者に曲を捧げるとともに被災地への寄付を呼び掛けた[14]。
2012年、ELPの組曲『タルカス』[注釈 2]が吉松隆によってオーケストラ化され、NHK大河ドラマ『平清盛』の劇中音楽に採用された[15][16]。彼はコンサートマスターを務めた荒井英治に同曲の弦楽四重奏曲への編曲を提案した。この編曲は荒井が第一ヴァイオリンを担当するモルゴーア・クァルテットの演奏によりCD化されている[17]。
2016年3月11日未明、カリフォルニア州サンタモニカの自宅で倒れているのを同居の日本人女性が発見し通報、死亡が確認された。71歳没[5][4][18]。当初は死因は不明とされていたものの[19]、サンタモニカ警察は頭部を銃で自ら撃ったことによる自殺と判断、ロサンゼルス郡検視局によって自殺と断定された[7][20][21]。訃報を受け、レイク、パーマーを初め多くのミュージシャンやアーティストから追悼コメントが寄せられた[22][23]。
音楽性
[編集]エマーソンの音楽性の根本にはジャズ、クラシック、ロックの3本の柱がある[1][7][24]。これらの柱は、歌詞を含めて各楽曲が意図するところによってウェイトが変わるものの常に見え隠れしており、作曲から楽器の選択と使用法,奏法に至るまで彼独自の音楽の全てを大きく支配した。彼はジャズとクラシックの伝統を愛して楽器の個性に尊重と愛着の念を抱いていると公言したが、一方ではロックの独創性を追求するあまり時として後述するような奇抜で暴力的な演奏すら試み、その結果楽器を破損することも厭わなかった。
シンセサイザーを導入してからは、キーボードやフットペダルも含めて時には計10台を超える機材を段状に積み上げて三方に並べ、それらを全身を駆使して演奏するスタイルを確立。このスタイルは1980年代以降の彼のトレードマークになり、多くのライブやプロモーション・ビデオでも見ることができる。
ハモンドオルガン
[編集]ハモンドオルガンは、彼がデビューした1960年代半ばには主にジャズで使用されていた。彼はエレクトリック・ギターに匹敵するロック向けのヘビーな音を出すというハモンドオルガンの新しい可能性を模索して、音を歪ませ、2ndまたは3rdパーカッションの音を敢えて強調するという手段をとった[注釈 3]。
ナイス時代の初期にはL-100を用いていたが、やがてC-3を導入してレコーディングのメインキーボードとして使用し、L-100にはステージ用キーボードとしての役割を受け持たせた。また、C-3の下段鍵盤にはパーカッションが装備されていないのでC-3とL-100の間に立って両者のパーカッシヴ機能を利用した、とプレイヤー誌に答えていた[25][注釈 4]。C-3には後年、MIDIの改造を施して使用し続けた。
彼はL-100を使って過激なステージングを行ったことから「オルガン(キーボード)のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれた[26]。電源を切ったり入れたりを繰り返してピッチを不安定にさせたり[注釈 5]、鍵盤にナイフ[27][注釈 6]を突き立てて音を鳴りっぱなしの状態にしたり、本体を傾けたり持ち上げ、上に乗って揺さぶりながら前に進んだり、挙句の果てに本体を放り投げたり蹴り飛ばしていたりした。過度の衝撃を与えてスプリング・リバーブの特性である爆発音を出したり、スプリング・リバーブに手を突っ込み爆音を鳴らしたり、L-100のスピーカーとオルガンのすぐ脇にあるキーボードのモニターとして使用されているPAスピーカーを近づけてハウリングを起こさせたり、本体の下敷きになって弾いた[24]。彼は「ピート・タウンゼントが(ギターで)やっていることと別に変わらない」「扱い方を知られるまでは嫌がらずに修理してもらえたが、知られてからは断られ続けた」と懐述している。彼が毎回壊すためスタッフが金属で本体を覆って強化したところ、重さが350ポンドぐらいから450ポンドぐらいに増え、自力では持ち上がらなくなったという[24]。2005年のインタビューでは3台を修理不可能にしたと語っている[24]。
自伝には、その昔マーキークラブの常連バンドだったザ・ソウル・エージェンツ(The Soul Agents)[28][29]のドン・シン[30]というオルガニストの演奏を見て刺激を受けたと書かれている[注釈 7]。シンがオルガンを分解しながら演奏しているのを見て、意図的に痛めつける方法を思いついたという。目的はそれまで地味な存在だったキーボードとキーボーディストを目立たせるためで、ショーアップとして必要だったと述べている[31]。音とビジュアルの相乗効果に関して試行錯誤を重ねた結果、あのようなパフォーマンスを考えだした。
ナイス時代の1968年6月26日、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたビアフラ救済チャリティーコンサートに出演して、オルガンを蹴り飛ばして裏返しにした上にアメリカ国旗をのせて火を放ったので、同ホールから締め出されてしまった[注釈 8][33]。ELPが1972年7月に後楽園球場で開催した東京公演では、日本刀を振り回して鍵盤に突き刺した[注釈 9][34]。
シンセサイザー
[編集]シンセサイザーを初めてロックに持ち込んだ一人として音楽史に功績を残している。その音色が初めて明らかになったのはELPのデビューアルバムの「タンク」および「ラッキー・マン」のエンディング部分でのソロにおいてであった。ライブでは、ハモンドオルガンの場合と同様に、リアルタイムで音色を作るという作業が「テクノロジーと人間との格闘」という図式を演出した。現在の音楽シーンにおいては格闘の部分は影を潜め、つまみをいじって音色を変える行為が、一つの表現形態として昇華されている。
「ピアノなどのアコースティック楽器は、音の強弱が表現できても、音質が変えられない。一方、ハモンドオルガンなどは、ある程度音質が変えられるが、鍵盤を弾くタッチで音の強弱が変えられない」と、常にフラストレーションが溜まっていたという。一説には、モーグ・シンセサイザー開発のモニター兼スタッフの一人だった[注釈 10]。しかし『ELP四部作』(1977年)以降はもっぱらヤマハのGX-1を愛用するようになり[24]、それ以降は様々なメーカーのシンセサイザーを使用した。彼のオリジナリティ溢れる音色も存在するのだが、1990年代になってハモンドオルガンやピアノが再び重要な位置を占めてくる。その理由として「シンセサイザーは誰が使っても同じ音が出るが、ピアノやオルガンはそうではない」と語った。
サンプラーには否定的な立場を取っていた。エマーソン・レイク&パウエルのレコーディング準備中にフェアライトCMIを試してみたが、「不純だ」との理由で結局レコーディングでもライブでも使用しなかった。メロトロンについても「ただテープレコーダーを鳴らしているみたいだ」と否定的だった[24]。ELPは一時期、メロトロンをライブで使用したが、弾いたのはレイクだった[注釈 11]。
エレクトーン
[編集]ヤマハのGX-1を使用。
ピアノ
[編集]最初の鍵盤楽器はピアノだったことから「ピアノに一番思い入れがある」と語っていた[24]。クラシック奏法を極めると同時に、オールドジャズにも大きく影響を受け、ソロで様々なジャズアーティストのフレーズを即興で弾いてからバンド演奏へと引き継ぐことも頻繁に行なった。左手のアルペジオを延々と繰り返し、右手でソロを弾くことも行なった。ラグタイムも取り上げた。
主な活動
[編集]時折ジャズオーケストラなどのコンサートに飛び入りし、スタンダード曲やELPの曲をジャズ風アレンジしたものなどを演奏する。
- 2002年 - 2003年
- 元ナイスのメンバー、ベースとボーカルのリー・ジャクソン (Lee Jackson)とドラムスのブライアン・デイヴィソン (Brian Davison 1942-2008)との再結成ツアーをイングランドとスコットランドで敢行。サポートメンバーはギターとボーカルのデイヴ・キルミンスター (Dave Kilminster)、ベースのフィル・ウィリアムス (Phil Williams)、ドラムスのピート・ライリー (Pete Riley)
- 2004年
- キース・エマーソン・バンドとしてギターとボーカルのデイヴ・キルミンスター (Dave Kilminster)、ベースのフィル・ウィリアムス (Phil Williams)、ドラムスのピート・ライリー (Pete Riley)のメンバーで全米ツアー。
- 2005年10月
- キース・エマーソン・バンドとして来日。 2004年のツアーと同メンバー。
- 2006年6月16日〜7月20日
- メンバー・チェンジをしたキース・エマーソン・バンドとしてアメリカとヨーロッパをツアー。ギタリストのデイヴ・キルミンスターが抜け、マーク・ボニーラ(Marc Bonilla)がギターとボーカルを担当。
- 2007年初期
- 2007年12月10日
- ロンドンのO2で開催されたレッド・ツェッペリン再結成コンサート / アーメット・アーティガン・トリビュートに参加し、イエスのクリス・スクワイア、アラン・ホワイト、元フリー・バッド・カンパニーのサイモン・カークとのスーパーグループでアーロン・コープランド作曲の「市民のためのファンファーレ」を斬新なアレンジで演奏し、イベントのオープニングを飾った。近年には時折ジャズ・オーケストラとスタンダードジャズやELPの曲をジャズ風にアレンジしたナンバーを演奏する。
- 2008年4月13日
- ロン=ティボー国際コンクールなどで優勝経歴のあるアメリカのピアニスト、ジェフリー・ビーゲル (Jeffrey Biegel) が米イリノイ州のシャンペーン゠アーバナ・交響楽団 (Champaign Urbana Symphony Orchestra)をバックに『ELP四部作』(Works, Vol.1)に収録されているエマーソン作曲のピアノ協奏曲第1番 (Piano Concerto No. 1) を演奏。エマーソンはコンサートの前に自ら曲を紹介した。
- 2008年8月20日
- キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラ(Keith Emerson Band Featuring Marc Bonilla) としてJVCからソロ・アルバムをリリースした。
- 2008年8月22日 - 9月7日
- メンバー・チェンジをしたキース・エマーソン・バンドとしてバルト三国、ロシア、ブルガリアをツアー。マーク・ボニーラ(Marc Bonilla)に加え、新メンバーはベースのトラヴィス・デイヴィス (Travis Davis) とドラムスのトニー・ピア (Tony Pia)(ブライアン・セッツァー・オーケストラ)。エマーソンとボニーラはツアー後新譜プロモーションのためにドイツ、イギリス、イタリアを廻る。
- 2008年10月15、16、18、20日
- 2009年12月16日
- ノキア・シアターで行われた、ロサンゼルスのラジオ番組95.5KLOSマーク・アンド・ブライアン主催の恒例クリスマス・コンサートにゲスト出演。Karn Evil 9「悪の教典#9」とレッド・ツェッペリンのBlack Dog 「ブラック・ドッグ」の二曲をマーク・ボニーラ、トラヴィス・デイヴィス、グレッグ・ビソネット、エド・ロス、ロブ・ハルフォード(ジューダス・プリースト)、スラッシュ(ヴェルヴェット・リヴォルヴァー、ガンズ・アンド・ローゼズ)、ジェイソン・ボーナム(レッド・ツェッペリン ジョン・ボーナムの息子)、スティーヴ・ルカサー(TOTO)、リー・スクラー(TOTO)などのメンバーと共演。
- 2010年1月8日
- ハリウッドでのチャリティーイベントで長男アーロン(1970年生まれ)と初共演。これに触発されたアーロンは初めてオリジナル曲のシングルをリリースする。
- 2010年4月1日〜25日
- 2010年7月25日
- エマーソン・レイク・アンド・パーマーの一夜限りの再結成コンサートがロンドンでのイベント「ハイ・ヴォルテージ・フェスティバル (High Voltage Festival)」で実現。今後のELPとしての活動の予定はないが、その後にエマーソン&レイクとしてのヨーロッパでのツアー、および日本公演の予定が発表されている。
- 2011年3月20日
プライベート
[編集]子供はアーロン (Aaron、1970年生まれ)とデーモン (Damon、1976年生まれ)。孫は2人。元妻エリノア (Elinor)とは1993年に公式離婚。彼女は「キャロル」のドキュメンタリー映画『キャロル』(1974年)に「キース・エマーソン夫人」として出演している。
晩年は日本人のガールフレンドと共にカリフォルニア州ロサンゼルス郡サンタモニカに居住していた。
ディスコグラフィ
[編集]アルバム
[編集]- 『ホンキー』 - Honky (1981年)
- 『ザ・クリスマス・アルバム』 - The Christmas Album (1988年)
- 『チェンジング・ステイツ』 - Changing State (1995年)
- 『エマーソン・プレイズ・エマーソン』 - Emerson Plays Emerson (2002年)
- 『ハマー・イット・アウト』 - Hammer It Out: The Anthology (2005年)
- 『オフ・ザ・シェルフ』 - Off The Shelf (2006年)
- 『キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラ』 - Keith Emerson Band featuring Marc Bonilla (2008年)
- 『スリー・フェイツ・プロジェクト』 - The Three Fates Project (2012年) ※マーク・ボニーラ、テリエ・ミケルセンと連名
サウンドトラック・アルバム
[編集]- 『インフェルノ』 - Inferno (1980年) ※『インフェルノ』(ダリオ・アルジェント監督)サントラ
- 『ナイトホークス』 - Nighthawks (1981年) ※『ナイトホークス』(ブルース・マルムース監督)サントラ
- 「アイム・ア・マン」では原作者の一人であるスティーヴ・ウィンウッドがヴォーカルを担当する予定だったが、彼の都合がつかないまま締め切りが迫ったので、エマーソンは自暴自棄になって泥酔状態で自分で歌った(『ミュージック・ライフ』のインタビューより)。現在入手可能なほとんどのビデオ商品では別の曲に差し替えられている。
- 『幻魔大戦』 - Harmageddon (1983年)
- 『ベスト・リヴェンジ』 - Best Revenge (1985年)
- 『マーダーロック』 - Murder Rock (1986年) ※ルチオ・フルチ監督作
- Iron Man Vol1 (2002年) ※「アイアンマン」(1994年のテレビシリーズ)サントラ
- 『ザ・チャーチ(デモンズ3)』 - La Chiesa (2002年) ※『デモンズ3』(ミケーレ・ソアヴィ監督・1989年)サントラ
- 『ゴジラ FINAL WARS』 - Godzilla: Final Wars (2004年) [2]※『ゴジラ FINAL WARS』(北村龍平監督)サントラ
- CDのライナーノーツには、本作品の音楽を担当したことを「名誉なこと」と書いている。ただし時間的な制約が厳しかったため出来栄えには不満があるという。
関連人物
[編集]- グレッグ・レイク - エマーソン・レイク・アンド・パーマーのメンバー。
- カール・パーマー - エマーソン・レイク・アンド・パーマーのメンバー。
- コージー・パウエル - エマーソン・レイク・アンド・パウエルのメンバー。
- ロバート・ベリー - スリーのメンバー。
- ロバート・モーグ - モーグ・シンセサイザーの開発者。
- 小室哲哉 - エマーソンに大きな影響を受けた。ナイス時代からのファンを自称。音楽雑誌で対談した。
- エマーソン北村(シアターブルック) - エマーソンから影響を受けた。
- 吉松隆 - 作曲家。「タルカス」をオーケストラ版に編曲[注釈 12]。
- リー・ジャクソン - ナイスのメンバー。
- ブライアン・デイヴィソン - ナイスのメンバー。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ GCE(大学入学に必要な資格)を履修するための予備校。化学と数学と英語を専攻していたが、資格は取得出来なかった。
- ^ 7曲中、6曲を作曲。うち2曲はレイクとの共作。
- ^ 同じような可能性を模索していたオルガニストには、ディープ・パープルのジョン・ロードがいた。
- ^ ザ・ナイスのステージでは客席に向かって右側にA-105、左側にL-100を置いて、両者の間に立った。またL-100にはファズフェイス(Dallas Arbiter Fuzz Face)を接続した。
- ^ 電源を切っても構造的にトーンホイールの回転はすぐには止まらないので、音程が不安定になりながら回転が遅くなり、最後には回転が止まると共に音も鳴らなくなる。逆に電源を入れると、徐々にピッチが上がって、一定のピッチで安定する。
- ^ ザ・ナイスに在籍していた1967年に、イアン・キルミスターという新しいローディーが、彼がナイフをオルガンの鍵盤に突き刺すのを見て、ヒトラーユーゲント・ナイフを提供した。キルミスターは、後のレミー・キルミスターである。
- ^ 1965年にドン・シン・アンド・ザ・ソウル・エージェンツの名義で発表されたシングル曲'A-Minor Explosion'では、ハモンドオルガンを揺らして内蔵のリバーブユニットに衝撃を加えることによって爆発音を生み出したり、電源を落としてベンディングする技が披露されている。
- ^ エマーソンは後に、このパフォーマンスについて「マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムにそそのかされた」と明かしているが、オールダムは「あのバカ(エマーソン)が勝手にやったこと」と否定している[32]。因みに、ナイスは同年4月にオールダムのマネージメント契約を解消することを決めて、トニー・ストラットン・スミスをマネージャーに迎える交渉を始めていた。
- ^ 日本公演初日の1972年7月22日。アンコールの「ロンド」でパーマーのドラム・ソロの後に行なった。ナイフでは小さすぎて球場の聴衆には見えないと考えたと察せられる。自伝ではSamurai swordを振り回して鍵盤の間に差し込んだとされているが、当時の音楽雑誌には玩具と記されていた。2日後の7月24日に甲子園球場で大阪公演が催されたが、ドラム・ソロの途中に聴衆がなだれ込んだので中止になり、彼が日本刀を使う機会はなかった。
- ^ エマーソンは「ボブ・モーグ博士とポリモーグを一緒に開発した」と主張している[24]。
- ^ ドイツでのコンサートで、テープ・レコーダーによる再生音に合わせて、エマーソンがモーグ・シンセサイザー、レイクがメロトロン、カール・パーマーがドラムスを演奏して「奈落のボレロ」を披露した。
- ^ 2010年3月14日に初演。2013年3月20日、吉松の還暦を祝う演奏会で再演。どちらも指揮は吉松と親交の深い藤岡幸夫、管弦楽演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、コンサートマスターはプログレッシブ・ロックマニアの荒井英治。再演された時はエマーソン本人が聴きに訪れ、ピアノ演奏で吉松を祝した。
出典
[編集]- ^ a b c d “Keith Emerson of Emerson, Lake & Palmer Dead at 71 of Suicide”. billboard (2016年3月11日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「11月2日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、313頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ “ELPのキース・エマーソン氏が死去、シンセ奏者の草分け”. AFP通信 (2016年3月12日). 2016年3月15日閲覧。
- ^ a b “キース・エマーソンさん死去 銃で自殺か 英バンドELP創設メンバー 映画「幻魔大戦」音楽も担当”. 産経ニュース (2016年3月12日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ a b “人気バンドELPのキース・エマーソンさん死去”. NHK (2016年3月12日). 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月13日閲覧。
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- ^ a b c d “Keith Emerson of Emerson, Lake & Palmer dead at 71”. CNN (2016年3月12日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ リットー・ミュージック刊「キース・エマーソンズ・インタビュー」への寄稿文より。
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- ^ Rock Aid Armenia (CD liner notes). United Kingdom: Live-Aid Armenia Records. 1990. p. 2. Arment T001。
- ^ “The Making of Smoke on the Water - Full Documentary”. YouTube. 3 January 2024閲覧。
- ^ “『ゴジラ』最新作サントラ、音楽監督はELPのK・エマーソン”. CDJournal (2004年11月16日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ Keith Emerson "The Land Of Rising Sun"/キース・エマーソン「日出ずる国へ」 - YouTube 2016年3月18日閲覧。
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- ^ “キース・エマーソン来日インタビュー[吉松隆還暦コンサート・リハーサル]”. ジャパン・アーツ (2013年3月19日). 2016年3月18日閲覧。
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- ^ Emerson (2003), pp. 101–104.
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- ^ 映画パンフレット文「ハルマゲドンの予告」
引用文献
[編集]- Emerson, Keith (2003). Pictures of an Exhibitionist. London: John Blake. ISBN 9-781904-034797
- Hanson, Martyn (2014). Hang on to a Dream: The Story of the Nice. London: Foruli Classics. ISBN 978-1-905792-61-0