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アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アッピウス・クラウディウス・プルケル
Ap. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher[1]
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
一族 プルケル
氏族 クラウディウス氏族
官職 トリブヌス・ミリトゥム紀元前196年
レガトゥス紀元前195年-194年、191年)
プラエトル・ペレグリヌス紀元前188年?)
コンスル紀元前185年
レガトゥス紀元前184年
ラケダイモン人聴取委員紀元前183年
レガトゥス紀元前174年-173年)
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アッピウス・クラウディウス・プルケルラテン語: Appius Claudius Pulcher紀元前2世紀、生没年不詳)は、共和政ローマ政務官紀元前185年執政官を務めた。父は同名のアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟にはプブリウス・クラウディウス・プルケルがいる。

経歴

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紀元前196年ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス配下のトリブヌス・ミリトゥムとしてギリシアに赴き[2]、翌年からはレガトゥスとして紀元前194年まで留まる[3]

紀元前191年、プロプラエトルのマルクス・バエビウス・タンピルス配下のレガトゥスに彼の名があり、その後執政官マニウス・アキリウス・グラブリオの指揮下に入った[4]。グラブリオはセレウコス朝アンティオコス3世テルモピュライで勝利し、続いてアエトリア同盟に遠征している[5]

紀元前188年、外国人担当プラエトルに就任[6]

紀元前185年執政官に選出されると、リグリアで勝利して帰国、翌紀元前184年の執政官を決める選挙で兄弟のプブリウスをサポートした[1]。翌年、ギリシア諸国への使節団の団長として、まずマケドニアピリッポス5世と会談し、アエトリア同盟やクレタ島にも赴いた[7]

紀元前183年スパルタからの4組の使節団がやってきたため、フラミニヌス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルスと共にそれに対応している[8]ポリュビオスによれば、ペロポネソス半島で活動した経験があるため、元老院によって選出され、対応を任されたという[9]

紀元前174年ガイウス・ウァレリウス・ラエウィヌスマルクス・ポピッリウスらと共にアエトリア同盟に派遣され、激化する派閥抗争の仲介を試みたが失敗した[10]。翌年にもテッサリアとペライボイ族の仲裁役を務めている[11]

家族

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出典

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  1. ^ a b MRR1, p. 372.
  2. ^ MRR1, p. 337.
  3. ^ MRR1, p. 344.
  4. ^ MRR1, p. 355.
  5. ^ MRR1, p. 352.
  6. ^ MRR1, p. 365.
  7. ^ MRR1, pp. 376–377.
  8. ^ MRR1, p. 380.
  9. ^ 歴史 (ポリュビオス)』23.4
  10. ^ MRR1, p. 405.
  11. ^ MRR1, p. 409.

参考文献

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  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 
公職
先代
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス
クィントゥス・マルキウス・ピリップス
執政官
同僚:マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス
紀元前185年
次代
プブリウス・クラウディウス・プルケル
ルキウス・ポルキウス・リキヌス