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イワン・プトスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イワン・プトスキー
イワン・プトスキーの画像
1982年
プロフィール
リングネーム イワン・プトスキー
(アイヴァン・パッツキー)
ジョー・ベドナルスキー
本名 ユゼフ・ベドナルスキ
ニックネーム ポーリッシュ・パワー
岩石男
身長 175cm[1] - 178cm[2]
体重 113kg(全盛時)[1]
誕生日 (1941-01-21) 1941年1月21日(83歳)
出身地 ポーランドの旗 ポーランド
マウォポルスカ県クラクフ
デビュー 1968年
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イワン・プトスキーIvan Putski、本名:Józef Bednarski1941年1月21日 - )は、ポーランドクラクフ出身の元プロレスラーリングネームは、英語圏ではアイヴァン・パッツキーと発音される。

ポーリッシュ・パワーThe Polish Power)のニックネームを持つベビーフェイスのパワーファイターとして、1970年代から1980年代中盤にかけて、WWFを主戦場に活躍した[2]

1974年新日本プロレスに来日した同名選手(リック・フェララ)とは別人[3]。来日経験はないが、その筋骨隆々の肉体から、日本では「岩石男」の異名で呼ばれた[4]

来歴

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少年期にポーランドより家族と共にアメリカ合衆国に渡り、移住地のテキサスでプロレスラーとしてデビュー[2]。ポーランドの童話の怪力キャラクターである「イワン・プトスキー」をリングネームに、イゴール・ボディックを模したキャラクターとなって[5]フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)にて活動する。1973年にはタイトルを返上したミル・マスカラスに代わり、ホセ・ロザリオのパートナーに起用されてNWAテキサス・タッグ王座を獲得した[6]

1974年からはAWAに参戦。ザ・クラッシャーラリー・ヘニングビル・ロビンソンらのパートナーとなり、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦した[7]アンドレ・ザ・ジャイアントクリス・テイラーとも組み、ラーズ・アンダーソンブラックジャック・ランザボビー・ヒーナンバロン・フォン・ラシクホースト・ホフマンボリス・ブレジニコフなどのヒール勢と対戦している[8]

1977年

1975年より、ニューヨークWWWFに進出。以降、1970年代全般に渡ってWWWF(WWF)を主戦場に、ポーランド移民の肉体労働者をイメージしたブルーカラーベビーフェイスとして活躍する[2]。身長180cmにも満たない小兵ながら、その頑強な肉体から繰り出すパワーを武器に、ブラックジャック・マリガンスタン・ハンセンブルーザー・ブロディらスーパーヘビー級の巨漢を相手に一歩も退かない果敢なファイトを展開[2]。悪党王者スーパースター・ビリー・グラハムWWWFヘビー級王座にも再三挑戦した[9]1979年10月22日にはティト・サンタナと組んでジョニージェリーバリアント・ブラザーズを破り、WWFタッグ王座を獲得している[10]

1981年は古巣のテキサスに戻り、サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング(SCW)にてタンク・パットンと抗争[11]。4月にはワフー・マクダニエルと組んでドリー・ファンク・ジュニア&ラリー・レーンからSCW世界タッグ王座を奪取、以降もジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャードのダイナミック・デュオとタイトルを争った[12]

1982年末にWWFへ戻り、1983年からはイワン・コロフとの「ポーランド対ソビエト」の抗争を開始[13]1984年よりスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻サーキットにも中堅ベビーフェイスのポジションで参加した[14]1985年11月7日に開催されたWWF最初期のPPVイベント "ザ・レスリング・クラシック" では16人参加のトーナメントに出場したが、1回戦でランディ・サベージに敗退している[15][16]

その後はセミリタイアし、1980年代末に地元テキサスのヒューストンプロレスリング・スクールを開校。ヘッド・トレーナーのスコット・ケーシーと共に、ブッカー・Tアーメッド・ジョンソンらを指導した[17][18]。過去の功績をたたえ、1995年にはWWF殿堂に迎えられている[2]1997年には息子の スコット・プトスキー英語版[19]のパートナーとしてWWFのリングに復帰、ジェリー・ローラー&ブライアン・クリストファーとの親子タッグ対決が行われた[20]

引退後はテキサス州オースティンにて学校のセキュリティ・ガードに転身[21]。インディー団体にも時折参戦しており、2007年3月24日にはペンシルベニア州のIWC(International Wrestling Cartel)にサンタナとの元WWFタッグ王者チームで出場、グレッグ・バレンタイン&ラリー・スウィーニーから勝利を収めた[21]

日本には1980年11月、新日本プロレスの第1回MSGタッグ・リーグ戦アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして参加が予定されていた(事前にキャンセルとなり、代打でザ・ハングマンが出場)[22]。来日が待たれた「まだ見ぬ強豪」の一人だったが、日本参戦は一度も実現することはなかった。

得意技

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獲得タイトル

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NWAビッグタイム・レスリング
ワールド・レスリング・フェデレーション
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング

脚注

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  1. ^ a b Ivan Putski”. Wrestlingdata.com. 2016年7月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g "The Polish Power" Ivan Putski”. WWE.com. 2009年9月10日閲覧。
  3. ^ 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P69(2002年、日本スポーツ出版社
  4. ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P247(1996年、日本スポーツ出版社)
  5. ^ The Mighty Igor Dead At 70”. The Wrestling Gospel (January 13, 2002). 2011年7月6日閲覧。
  6. ^ a b NWA Texas Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
  7. ^ The AWA matches fought by Ivan Putski in 1974”. Wrestlingdata.com. 2016年7月28日閲覧。
  8. ^ The AWA matches fought by Ivan Putski in 1975”. Wrestlingdata.com. 2016年7月28日閲覧。
  9. ^ Billy Graham vs. Ivan Putski”. Wrestlingdata.com. 2016年7月28日閲覧。
  10. ^ a b History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月12日閲覧。
  11. ^ The SWCW matches fought by Ivan Putski in 1981”. Wrestlingdata.com. 2016年7月28日閲覧。
  12. ^ a b SCW World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
  13. ^ WWE Yearly Results 1983”. The History of WWE. 2016年7月28日閲覧。
  14. ^ WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2016年7月28日閲覧。
  15. ^ The Wrestling Classic Results”. pWw Everything Wrestling. 2010年7月17日閲覧。
  16. ^ WWF The Wrestling Classic”. Cagematch.net. 2016年7月28日閲覧。
  17. ^ Booker T: Wrestling's consummate performer”. Slam Wrestling (2000年6月18日). 2023年8月25日閲覧。
  18. ^ The Rise and Fall of Ahmed Johnson”. The Signature Spot (2022年3月6日). 2023年8月25日閲覧。
  19. ^ Scott Putski”. Online World of Wrestling. 2021年2月26日閲覧。
  20. ^ WWF RAW is WAR #218”. Cagematch.net. 2016年7月28日閲覧。
  21. ^ a b Ivan Putski”. Online World of Wrestling. 2010年10月4日閲覧。
  22. ^ 『別冊ゴング』1980年11月号 P121(1980年、日本スポーツ出版社)

外部リンク

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