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顕子女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
顕子女王

身位 女王
配偶者 徳川家綱
父親 伏見宮貞清親王
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顕子女王(あきこじょおう、寛永17年2月13日1640年4月4日)- 延宝4年8月5日1676年9月12日))は、江戸幕府第4代将軍徳川家綱御台所(正室)。伏見宮貞清親王の第三王女。幼称は浅宮(あさのみや)。法名高巌院(こうげんいん)。

姉は紀州家の第2代藩主徳川光貞の正室(御簾中)の安宮照子(天真院)。後に第8代将軍となる徳川吉宗がまだ紀州藩第5代藩主だったころに御簾中に迎えた真宮理子の伯母にあたる。

生涯

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伏見宮貞清親王の娘として京都で生れた。母は宇喜多秀家の娘(豊臣秀吉の養女)[1]

東福門院の人選によって将軍家綱と婚約[2]明暦3年(1657年)4月5日に京都を発ち、同月23日に江戸城本丸・大奥に入った[3]。お付き上臈として、京より姉小路局飛鳥井局などが付き従った。7月10日に江戸城西の丸にて婚儀が執り行われた[4]

万治2年(1659年)9月5日に本丸大奥に入り御台所を称した。延宝元年(1673年)には従三位に叙された。

延宝4年(1676年)に乳癌を発症。家綱より直接医師の診察を受けるように進められたが「簾外の者に対面するのは、公家方の礼を乱すことになる」と言って[5]医師による触診を拒否した。病に苦しみながらも一度も「苦しい」とは言わなかったという[6]。同年8月5日に37歳で薨去。東叡山寛永寺に葬られる。戒名は高厳院殿月潤円真大姉。家綱との間に子はなかった。

延宝5年(1677年)8月2日、従一位が追贈された。

関連作品

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脚注

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  1. ^ 歴史読本「徳川将軍家の正室」蒲生眞紗雄著『浅宮顕子』(新人物往来社)P99
  2. ^ 高柳金芳『徳川妻妾記』(雄山閣)P121-P122
  3. ^ 竹内誠『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)P204
  4. ^ 西の丸で婚儀が行われたのは、同年1月に起きた明暦の大火により本丸御殿が焼失し、再建が間に合わなかった為である
  5. ^ 卜部典子『人物事典 江戸城大奥の女たち』(新人物往来社)P171
  6. ^ 中江克己『江戸城の迷宮「大奥」の謎を解く』(PHP文庫)P100

参考文献

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  • 「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)