Nothing Special   »   [go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

金曜夜席

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金曜夜席
「金曜夜席」の収録が行われていた
よみうりホール(読売会館7階)
ジャンル 演芸番組
出演者 7代目立川談志
5代目三遊亭圓楽
桂歌丸
柳亭小痴楽
三遊亭円弥
柳家きん平
林家こん平
西〆子
製作
プロデューサー 小里光
制作 日本テレビ
放送
映像形式モノクロ放送(1965年10月22日まで[1]) → カラー放送(1965年11月5日から[2]
音声形式モノラル放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1965年3月12日 - 1966年4月22日
放送時間毎月第2・第4金曜日22:30 - 23:15
放送分45分
番組年表
次作笑点
テンプレートを表示

金曜夜席』(きんようよるせき[3]𫞂夜席)は、日本テレビ1965年(昭和40年)3月12日から1966年(昭和41年)4月22日までの第2・第4金曜日の22時30分から放送されていた、寄席風の演芸番組である。当初はモノクロ放送だったが、1965年11月5日からカラー放送となった[2]

日本テレビの長寿番組笑点』の前身番組である。

概要

[編集]

1965年(昭和40年)3月12日に放送がスタート。もともとはテレビラジオの普及で寄席閑古鳥の鳴く状況に危機感を抱いていた7代目立川談志が「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かないと駄目だ。かといって落語では噺の最中にコマーシャルが入れられないから、大喜利をやったら良い」[3]と第1・第3(・第5)金曜日に放送されていた『日本プロレス中継』の隔週不足分の穴埋め番組[4]を探していた小里光プロデューサー[5]のところへ談志が企画を持ち込んだのがきっかけで始まった。[6]

『金曜夜席』から『笑点』草創期まではブラックユーモア満載の玄人好みの内容であった。[6]

収録場所は当時の有楽町そごうの上にあった読売ホール(読売会館7階)で行われ、1回の収録で2本撮りするのも『笑点』と同じである。

番組名の正式な表記は「金𫞂夜席」であり、「曜」には略字の「𫞂」(日へんに玉())が使用され、舞台上部に飾られている額にも表記が見られたが、当時のテレビ欄などは「曜」と表記されていた。

『金曜夜席』から『笑点』誕生へ

[編集]

当時日曜日夕方のスポンサー枠を持っていた龍角散から「視聴率が取れる番組が欲しい」と依頼があり、深夜[7]で好評を得ていた『金曜夜席』を発展解消して始まったのが『笑点』(金曜夜で無くなるため改題)であった[8]

ちなみに、『金曜夜席』の抜けた放送時間の後枠に入った番組は『プロ野球アワー』であった。

そんな折、柳家きん平が番組放送終了後の1966年(昭和41年)4月24日自殺。そのため『笑点』放送開始において三遊亭金遊(後の4代目三遊亭小圓遊)が加入[9]することとなった。

放送時間

[編集]

第2・第4金曜日の22:30 - 23:15(1965年3月 - 1966年4月)

※前述にある通り「穴埋め番組」として始まったため、プロ野球録画中継巨人戦)などでしばしば休止することがあった。

出演者

[編集]

7代目立川談志5代目三遊亭圓楽真打、それ以外の落語家は二つ目であった。

最終回時点の出演者

[編集]
司会者
名前 出演期間
7代目立川談志 1965年3月12日 - 1966年4月22日
  • 「演芸」「インタビュー」「大喜利」司会。
  • 1965年3月12日から1965年4月9日までは大喜利メンバーとして出演。
大喜利メンバー
名前 出演期間
5代目三遊亭圓楽 1965年3月12日 - 1966年4月22日
  • 1965年3月12日から1965年4月9日までは「大喜利」の司会として出演。
桂歌丸 1965年3月12日 - 1966年4月22日
柳亭小痴楽 1965年3月12日 - 1966年4月22日
柳家きん平 1965年3月12日 - 1966年4月22日
林家こん平 1965年4月9日 - 1966年4月22日
座布団運び
名前 出演期間
西〆子 1965年3月12日 - 1966年4月22日

放送期間中に降板した出演者

[編集]
大喜利メンバー
名前 出演期間
三遊亭円弥 1965年3月12日・1965年3月26日

番組構成

[編集]

最終回までは、「演芸」、「インタビュー」、「大喜利」の三部構成であり、後の『笑点』にもこのコーナー進行が受け継がれている。元々この番組は談志の持込み企画であり、出演者でありながら番組構成も談志が携わっていた[10]

1965年3月12日 - 1966年4月22日
  1. タイトルバック
  2. 提供クレジット
  3. CM
  4. オープニング
  5. 演芸
  6. CM
  7. インタビュー
  8. CM
  9. 大喜利
  10. CM
  11. エンディング
  12. エンドカード

主なコーナー

[編集]
  • 演芸
ゲストによる芸を披露するコーナー。様々なゲストが出演していた。
  • インタビュー
談志がゲストにインタビューするコーナー。
  • 大喜利
出演者による大喜利のコーナー。

舞台装置

[編集]

人形町末廣[11]を参考に「昔ながらの寄席の高座をスタジオに再現したい」というコンセプトでデザインされており、後の『笑点』にそのまま受け継がれている。

『笑点』との相違点は、舞台上部の額が「𫞂夜席」となっている程度で、題字を担当した橘右近は『笑点』でも引き続き担当している。

番組史

[編集]
  • 1965年(昭和40年)
    • 3月12日:『金曜夜席』放送開始。放送時間は22:30 - 23:15。
    • 4月23日:圓楽が大喜利の司会からメンバーに、談志が全てのコーナーの司会に。
  • 1966年(昭和41年)
    • 4月22日:通常放送のまま『金曜夜席』最終回[12]、『笑点』へ移行。

エピソード

[編集]
  • 当初の大喜利は圓楽が司会を担当していたが、圓楽が自らの司会の出来に納得が行かずに司会降板を申し出た。そのため、1965年(昭和40年)4月23日の放送分から大喜利司会も談志が担当することとなった。僅か3回で大喜利の司会を降板した圓楽だったが、『笑点』に移行してから17年後の1983年(昭和58年)1月9日から再び大喜利の司会を担当し、2006年(平成18年)5月14日に勇退するまで約23年間、大喜利の司会を担当した。
  • 本番組当初に出演していた三遊亭円弥(後の三遊亭圓彌)は、レギュラーではなく代役としての出演であった。本来のレギュラーだった三遊亭さん生(後の川柳川柳)が収録をすっぽかしたため、弟弟子にあたる円弥が急遽呼ばれたのである。結局さん生は、出演することなく談志からクビを宣告される。代わって林家こん平がレギュラーに加わった。
  • 大喜利で座布団をやり取りするルールを始めたのは本番組が初であり、「江戸時代牢屋の牢名主がを積み上げて威張っている」ところからヒントを得たという。スタッフ間では番組プロデューサーであった小暮美雄が、回答の褒美をどうするか悩んだ挙句、寄席で演者ごとに座布団を裏返す所作にヒントを得た、というのが通説。ただし、談志は「自らのアイデア」と語っていたようである。[13]
    • 座布団を10枚貯めると豪華賞品がもらえるということだったが、本番組の放送期間に10枚貯めたメンバーはいなかった。「番組予算的に豪華賞品は無理、あくまで場を盛り上げるためのでまかせだった」とのことでメンバーもこのことを承知していた。これが後の大喜利における賞品関連ネタ(ケチ・司会者の制作費着服など)に繋がった。実際に豪華賞品を出したのは『笑点』に移行してから約1年後である。
  • 「昼間のレギュラー番組として昇格する」の報に出演者一同大喜びするが、「日曜日夕方」だと聞かされた途端、一気に落胆した。それは、当時の日曜日夕方の時間帯は「砂嵐枠」[14]と言われるくらいの悪条件であったため。そんな中、圓楽は前向きに「未開の土地を開拓しようじゃないか!それで業績が上がったら、それこそ俺たちの本当の実力だよ!」と励まして奮い立たせたという。こうした経緯で『笑点』は始まったが、現在では放送2900回を超え、放送期間55年を超えた超長寿番組となっている。
  • 『笑点』レギュラーとなる三遊亭金遊(後の4代目三遊亭小圓遊)は、JRN系列で月-土の午後1時から午後6時まで放送していた昼ワイドラジオ番組オーナー』内の「落語天気図」コーナーにて人気を得ていた期待の新鋭であった。本番組立ち上げ当時のレギュラー候補の1人でもあったが、スケジュールの関係でご破算となっていた。
  • 大喜利メンバーで最後の存命者だったこん平が2020年12月17日に永眠(77歳没)した[15][16]ことにより、本番組のレギュラー出演者全員が鬼籍に入った。

脚注

[編集]
  1. ^ 朝日新聞 1965年10月22日 朝刊 P.9 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチで閲覧)
  2. ^ a b 朝日新聞 1965年11月5日 朝刊 P.9 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチで閲覧)
  3. ^ a b 『NTV火曜9時 アクションドラマの世界 「大都会」から「プロハンター」まで』(2015年、DU BOOKS)p.18
  4. ^ ボクシング中継番組『ファイティングパンチ』が、放送曜日変更により空いたため。
  5. ^ 後に『笑点』番組立ち上げの際、初代プロデューサーとなる。
  6. ^ a b ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』102ページ
  7. ^ 1960年代まで(昭和40年代半ば)は、午後10時台も深夜帯という見方をされていた。午後10時台もゴールデンタイム同格の扱いを受けるようになったのは視聴率調査により「プライムタイム」という定義がされた1971年(昭和46年)からである。
  8. ^ 『笑点』40周年記念本より。なお、このタイトルは当時大人気だったドラマ『氷点』をもじって命名された。
  9. ^ 「きん」つながりでの起用とも言われているが、元々『金曜夜席』のレギュラー候補でもあった。
  10. ^ 後の『笑点』の司会降板まで続く。
  11. ^ 1970年(昭和45年)に閉鎖。
  12. ^ 字幕表示のみ。
  13. ^ ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』103ページ
  14. ^ あまりの低視聴率のため放送休止するテレビ局もあったことから言われていた俗称
  15. ^ "林家こん平さん死去 77歳「笑点」で人気「1、2、3、チャラ~ン」". スポーツ報知. 報知新聞社. 21 December 2020. 2020年12月21日閲覧
  16. ^ "林家こん平さん、17日に死去 77歳、「笑点」で人気者". サンケイスポーツ. 産経デジタル. 21 December 2020. 2020年12月21日閲覧
日本テレビ 第2・第4金曜日22:30(1965年3月12日 - 1966年4月22日
前番組 番組名 次番組
金曜夜席