趙国標
趙 国標 | |
---|---|
生誕 |
1908年11月12日 清 浙江省諸曁県 |
死没 |
1987年3月24日(78歳没) 中華民国 台北市 |
所属組織 | 中華民国空軍 |
軍歴 | 1928 - 1966 |
最終階級 | 空軍少将 |
趙 国標(ちょう こくひょう / チャオ・クォピャオ、趙國標、1908年(光緒33年)11月12日 - 1987年(民国76年)3月24日)は中華民国空軍の軍人。原名は臬[1]。最終階級は空軍少将[2]。
経歴
[編集]諸曁県新璧郷千秋橋村(現:紹興市諸曁市)の農家の家庭に生まれる[3]。1928年4月、南京の中央陸軍軍官学校第6期生として入学、第一総隊工兵第4中隊の所属。1929年2月、南京小営内に設置された中央軍校航空班(中央航空学校第1期)に選抜される。 1931年3月19日卒業後、中央軍校第十期第一総隊航空教官。1932年12月、陸軍大学第11期正則班に入り、1935年12月卒業。空軍第一大隊飛行員、飛行教官。
抗日戦争(日中戦争)勃発後、中央航空学校教務処科長、航空委員会第四処処長、空軍站務人員訓練班副主任、代理主任、陸軍大學空軍系上校教官、空軍航空站勤務団団長、勤務処処長を歴任[3]。
戦後、空軍総司令部副参謀長、陸軍大学系空軍主任を経て1947年2月、陸軍大学将官班乙級第二期班兵学教官。空軍総司令部参謀長、空軍総司令部第三署署長を歴任[3]。
1949年8月、陸軍の楊業孔中将、海軍の楊元忠少将とともに東南軍政長官公署(長官:陳誠、参謀長:張秉鈞)副参謀長兼任。1950年2月、空軍指揮参謀学校校長。1953年10月よりアメリカの視察に派遣される[3]。
1954年10月、台湾に戻り、空軍総司令部秘書処処長、1957年11月、国防部参謀総長弁公室副主任、防空司令部司令官兼任。また、1960年10月に空軍指揮参謀学院院長に就任したとの記述もあるが[3]、公式サイトの歴代院長に該当の記録はない[4]。1962年12月陸軍金門防衛指揮部(長:王多年中将)副司令官、兼任防空司令部司令官。1966年(民国55年)1月1日退役。
同年11月1日、国軍退除役官兵輔導委員会第二処初代処長(~1975年12月1日)。また、中央陸軍軍官学校第六期在台湾同学連誼会の活動にも参加した。晩年は台北市南京東路二段に居住し[3]、民国76年3月24日に病死[2]。
栄典
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 陳予歡『激流勇進: 黄埔軍校第六期生研究(下冊)』獵海人、2018年。ISBN 978-9869622776。
- 劉化宇、江榮坤、鄭陽光ほか『輔導會真情故事--會本部篇』國軍退除役官兵輔導委員會、2018年。ISBN 978-986-01-1853-7。
軍職 | ||
---|---|---|
先代 徐康良 |
空軍指揮参謀大学校長 第8代:1950.2.1 - 1954.6.30 |
次代 魏崇良 |