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西ゴート王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西ゴート王国
Regnum Visigothorum
西ローマ帝国
スエビ王国
418年 - 720年 ウマイヤ朝
アストゥリアス王国
西ゴートの位置
500年頃の西ゴート王国の領域(橙色)
言語 ゴート語
俗ラテン語
バスク語族
ヘブライ語
アラム語
宗教 カルケドン派
アリウス派
首都 トロサ
(418年 - 507年)
バルセロナ
(507年 - 542年)
トレド
(542年 - 711年)
国王
395年 - 410年 アラリック1世
415年 - 419年ワリア
466年 - 484年エウリック
710年 - 711年ロデリック
714年 - 721年アルド
面積
484年500,000km²
580年600,000km²
変遷
ローマ略奪 410年
建国418年
カタラウヌムの戦い451年
ヴイエの戦い507年
スエビ王国を併合585年
グアダレーテ河畔の戦い711年
ウマイヤ朝によるセプティマニア征服720年
現在スペインの旗 スペイン
フランスの旗 フランス
ポルトガルの旗 ポルトガル
スペインの歴史
スペイン国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代英語版

スペイン ポータル

西ゴート王国(にしゴートおうこく、ラテン語: Regnum Visigothorum、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国である。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国ともいう[1]

ガリア統治時代

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ダキアを経てローマ領内に移動した西ゴート族は、5世紀初頭の指導者アラリック1世のもとイタリア半島に侵入した。ローマ帝国の首都ローマを寇略しローマ人に衝撃を与えた。しかし皇帝の在所であったラヴェンナには手が出せず、西ゴート族は食料を求めシチリアを経由してアフリカ渡航を企図したが失敗に終わった[2]。イタリアでの将来の見通しが立たなくなると、アラリック1世の死後、後継者となったアタウルフ幕下で西ゴート族はガリアへと移動した。西ローマ帝国海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族はヒスパニアへと追われた[3][2]

建国

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415年ワリア王は西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していたヴァンダル族スエビ族らを討ち、418年にホノリウス帝から正式に属州アクイタニアアキテーヌ)の一部(ガロンヌ川沿いの土地)を与えられた[4][5]。彼は南ガリアで勢力を拡張し、トロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴート王国が建国された。

西ローマ帝国とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領し東ゴート王国を建国する東ゴート族とは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。451年にはパリ西方のカタラウヌムでフン族を撃退した(カタラウヌムの戦い)。456年には西ローマ帝国の実権を掌握し、西ローマ帝国の名でヒスパニアでの勢力を拡大した。

476年に西ローマ帝国で西方正帝が廃止されると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。フランス北部では興ったばかりのフランク王国と争った。

宮廷官職

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西ゴート族の間では、5世紀までは制度的な宮廷会議が開かれることはなく、事実上数人の重臣 (princeps) が王の決定に助言を与える会合に参加していた。その後、国の統治に関する王の意志決定に参与する宮廷官職が形成され、有力貴族をもって充てられた。代表的な官職としては、王室及び国の財政を担当するcomes patrimoniiや王の警護を担当するcomes spatariorum、王の書記職であるcomes notariorumなどがある。このような官職に就く貴族は宮中伯 (comes, conde) という称号を帯びていた。

やがて王の側近だけでなくカトリック教会の司教や、宮廷会議参加資格を有さない貴族や地方官をも含めた大規模な合議体である王会 (Aula regia) が形成され、中心的な国王の顧問会議となった。これはトレド教会会議が国政に関与するようになるまでは大きな影響力を持っていたが、会議の主導権はあくまで国王の側にあり、王が召集し、その議決は王を拘束するものではなかった[6]

イベリア半島時代

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700年頃の西ゴート王国の領域

507年クローヴィス率いるフランク族に敗れ、西ゴート王国は宮廷を南フランスからイベリア半島に移した。西ゴート王国は、531年にも再び敗れガリアの領地のほとんどを失った。560年に首都をピレネー山脈の北のトロサからトレドへと移した。

アリウス派からカトリックへの改宗

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西ゴート族はアリウス派を信仰していた。イシドールスによれば、西ゴート族がローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝ウァレンスがアリウス派だったためである[7][8]。ウァレンス帝はニケーア信条を奉じるアタナシウス派を弾圧し、アリウス派信仰を正統としていた[9]。西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止され、背景には信仰の相違があったと考えられている。レオヴィギルド王の時代にゴート人とローマ人の通婚は許可された[10]

ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、カトリック勢力との軋轢は目立たない。イスパニア定住後に軋轢が増加するがその原因はカトリック聖職者の側にあったとされる[7]。イシドールス『ゴート人の歴史』には西ゴート王の異端の過去には配慮が見られ、彼らがカトリックに寛容であったことが強調されている。そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している[11]

西ゴート中興の英主レオヴィギルド王はガリアを喪失して以降分裂傾向にあった国内を再統一した。宗教政策上もカトリックには弾圧を加える一方、アリウス派の教義をカトリックが入信しやすいよう一部改変し、統一をはかった。カトリックに改宗したヘルメネギルド王子の反乱があったが[12]、反乱の翌580年に王はアリウス派の教会会議を開き、従来「父」より下位に置かれていた「子」を、「父」と同格とした。これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した[13]

つづくレカレド王は587年に、メロヴィング朝と同じくカトリックに集団改宗した[14]レカレド王の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが[15]589年の第三回トレド教会会議にて西ゴート王国は公式にアリウス派からカトリックへ改宗した[16][15]。これによりアリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強め、西ゴート王国はカトリック国家となった。会議では、教義だけでなく世俗的な問題も議題とされ、世俗の高官も臨席した。首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。レカレド王以降の王は589年から701年の約110年の間に18回の宗教会議を召集し、6世紀中頃からは神権政治の色彩を帯びるようになる。

イベリア半島制圧 〜再征服と統一〜

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フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝であるスエボス王国ユスティニアヌス1世の下で西方領土の回復を目指す東ローマ帝国としばしば争った。555年には東ローマ帝国が西ゴートの内乱に乗じてカルタゴ=ノヴァマラガコルドバなどを占領している[17]。これ以後、東ローマ帝国のヘルメネギルドの乱(579年から584年)への関与、589年597年に起きた東ローマ皇帝マウリキウスとの戦い(どちらの戦いも東ローマ帝国が領土を幾らか奪った)というようにカトリック改宗前後も戦乱が絶えることは無かった。レカレド1世の次々代ウィテリック、ウィテリックの後継者グンデマルも東ローマ帝国と交戦、グンデマルの後を継いだシセブトの時代にようやく東ローマ帝国に対して優勢となり、620年代にはスウィンティラ王の下、イベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。但し、634年までアルガルヴェ地方(現在のポルトガルの最南端部)に東ローマ帝国の拠点が維持されていたとする史料も残っている為、634年以降、つまりスウィンティラ王から王位を簒奪したシセナンド王の時代以降に統一が完了したと見ることもできる。

滅亡

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711年にイスラーム勢力のウマイヤ朝がイベリア半島に上陸、最後の王であるロデリックグアダレーテ河畔の戦いで戦死して滅亡した[18]。一部の残党は718年まで抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。

滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込みアストゥリアス王国を建国[19]、後のカスティーリャ王国レオン王国のもととなった。西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。

法制

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西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法とローマ法(のちにはキリスト教の要素も加味された)に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。

618年ないし619年第2回セビリャ教会会議および633年第4回トレド公会議ではイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。

630年代におこなわれた3回の公会議は世俗の問題についての議決を多く含むが、『西ゴート統一法典』にはこの時期の王の名を冠する法は採録されていない。公会議が王国会議と見なされ、議決が王国法として機能したためとされる[20]。玉置さよ子は、この時期の王、シセナンドとキンティラの名を冠した法が『西ゴート統一法典』に採録されていないのはキンダスイント王以降西ゴート王の王権強化の意図が見えるとする。たとえば反ユダヤ人立法では、シセナンド・キンティラ両王の時代に王の名による世俗法の立法が見られず、カノンの決定に反ユダヤ規定があることに鑑みると、世俗的なシセナンド・キンティラ期のカノンは世俗法の代わりを果たしていたと思われる。キンダスイント王以降、西ゴート王は世俗法制定を通じて王権強化を図ろうとしたが、シセナンド王とキンティラ王の時期に公会議によって世俗法が決定された前例はこれと対立する事実である。したがって、キンダスイント王の子であるレケスイントは、『西ゴート統一法典』において意図的にこの2王の名を冠した章を設けなかった。『西ゴート統一法典』により立法に対する西ゴート王の絶対的権限が確立された。[21]

654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。

政治・文化

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指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったもので有力者や合議・選挙に参加する貴族の利害が絡んだため、王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった[注釈 1]。イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。アギラ1世に対するアタナギルドの反乱も、「血筋」に「実力」を優先する伝統的概念によって正当化されるものであり、カトリック改宗後のウィテリックによるリウヴァ2世殺しもそれに含まれる。更に、時の王が息子を共同王に指名したことによって次王即位の望みを失った有力者が、父王の生前に陰謀を企てる場合も考えられる。

シセブト王の治世の奇妙な終わり方[注釈 2]は著明な例と考えられる(『ゴート人の歴史』は、そのようにして即位したスウィンティラへの遠慮から表現を抑えたと思われる)。王座にある者は常に息子に位を継がせようとしそれに反発した有力者が剣を取る。D.クラウデが分析したこの力学によって、王権は王国滅亡の直前まで不安定な側面を持ち続けた[注釈 3]

レカレド王の改宗

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当時のゲルマン人の集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない[14]3世紀までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し4世紀以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた[22]。また西ゴート王国は改宗以前に、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[23]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある[15]

宗教政策

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589年のレカレド1世によるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。レカレド1世は同時にローマ貴族であるフラウィウス氏を名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。

第4回トレド公会議で定められた75のカノンの最後のカノンにおいて、イスパニアの君主と教会の関係に言及している。このカノンはのちの公会議で繰り返し言及され、西ゴート王国における聖俗の権力関係を規定していくことになった。カノンは西ゴート古来の選挙王制に言及し、ゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきと述べる。さらに王に正義と敬虔を要求し、法による支配を求め、法に反した支配をおこなった王は破門されると記す。このような規定により、イスパニアの教会はここにおいて西ゴート王国の現実政治に直接的な責任を負う存在と自らを位置づけたのである。[24]

王権と教会の関係

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西ゴート王国の王権と教会の関係については、特に王のカトリック改宗後の両者の関係を「神権政治」ないし「神政政治」と見る見方が18世紀以来支配的であったが1930年代に国王の側に主導権を認め、君主専制国家として教会を従属させていたと見る見方が提起された。[25][26]

また改宗前の西ゴート王国については、フランク王国を除く他のゲルマン民族国家と同様、支配者と被支配民の間で信仰が異なる「二重国家」の典型として見られてきたが、そのことが過去の日本において、カトリック改宗後の西ゴート王国について研究を滞らせてきた[27]

年表

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系図

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文献[28][29][30][31]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アラリック1世1
 
 
アタウルフ2
 
ガッラ・プラキディア
(ローマ皇女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(子または婿)
テオドリック1世5
 
 
 
 
 
 
 
テオドシウス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トリスムンド6
 
テオドリック2世7
 
フレデリック
 
エウリック8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アラリック2世9
 
テオデゴンダ
(東ゴート王テオドリック娘)
 
 
 
クローヴィス1世
フランク王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(庶子)
ゲサリック10
 
アマラリック11
 
クロティルダ
 
クロタール1世
フランク王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リウヴァ1世16
 
テウドシア
 
レオヴィギルド17
 
ゴイスウィンタ
 
アタナギルド15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レカレド1世18
 
ブルンヒルド
 
シギベルト1世
アウストラシア王
 
ガルスウィント
 
キルペリク1世
ネウストリア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘルメネギルド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イングンド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アタナギルド
 
リウヴァ2世19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シセブト22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スウィンティラ24
 
テオドラ
 
レカレド2世23
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キンダスウィント28
 
 
 
 
 
?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シセナンド25
 
キンティラ26
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レケスウィント29
 
テオデフレード
 
娘(ゴダorゴド)
 
アルデバルト
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥルガ27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ロデリック34
 
 
 
エルウィグ31
 
リウヴィゴート
 
?
 
ワムバ30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キクシロ
 
 
 
エギカ32
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィティザ33
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アギラ2世35
 
アルド36
 

脚注

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注釈

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  1. ^ ヘルメネギルドの乱など。
  2. ^ 『ゴート人の歴史』によればシセブト王は、「自然死とも、薬の飲み過ぎとも、ある人は毒殺ともいう」と記され、「父王(シセブト)の死後、息子レカレド(2世)が数日間統治して死んだ」と続いている。
  3. ^ 実際、レカレド2世から王位を奪ったと考えられているスウィンティラも631年に有力者シセナンド(一説に息子)がフランク王ダゴベルト1世の支援を受けて蜂起し、王座を追われ、修道院で死去した。他にも642年のトゥルガ王に対するキンダスウィントの蜂起=成功、653年のキンダスウィントの死の前後、既に共同王となっていたレケスウィントに対するサラゴサを中心としたフロイアの乱=失敗、ワムバ王は共同王からの即位ではなかったが、即位直後(672年)にバスコ地方のイルデリコの反乱(=失敗)とパウルスの反乱(=元々パウルスはワムバ配下の将軍で反乱鎮圧の為にナルボンヌに派遣されたが、到着するや自ら反乱の中心に立ち、王位を要求したが失敗、捕らえられたが、エルウィグの時代に恩赦)に見舞われ、680年にエルウィグの陰謀によって毒薬を飲まされ、瀕死の状態でいる時に髪を剃り落とされ、気がついた時には既に修道服を纏わされていた。第4回トレド宗教会議で「王は髪を長くすること及び僧職の衣服を纏ってはならない」と定められていた。ワムバは一度は復位を要求したが却下されて、エルウィグが王位を簒奪した。ワムバはブルゴスの修道院で余生を送り、688年に没した。エルウィグからエギカ(娘婿)、エギカからウィティザ(息子=共同王)はスムーズに王位継承が成ったが、王国滅亡直前にはアギラ2世(ウィティザの息子)に対してロデリック(キンダスウィント・レケスウィント父子の親類)が蜂起して王座を得、王国が二分されている。両者の対立に乗じてイスラム勢力がイベリア半島に進出し、711年のロデリックの戦死で事実上、西ゴート王国は滅亡した(アギラ2世は714年頃まで王を名乗って抵抗を続け、アギラ2世の死後はアルドが王位を引き継いだとみられるが、721年頃にイスラムの侵略の最中に死去したと考えられる)
  4. ^ 東ローマ帝国領であるスパニア属州を征服し統一が完了。統一年に関しては史料が少なく、研究者の間で621年624年625年628年629年など複数の説が唱えられており確定することができていない。但し、シセブト王の時代(612年 - 621年)に完全に優勢となって、ほぼ征服事業が終わりに近づきその子レカレド2世(621年)の短期間の統治の後、スウィンティラ王の時代(621年 - 631年)に統一が果たされたという見解が主流であるが、前述の通り、634年以降とする見解もある。

出典

[編集]
  1. ^ 五十嵐ミドリ 1992, pp. 245–247.
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  13. ^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, pp. 48–49.
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  28. ^ 下津、p. 209
  29. ^ ミュソ=グラール、p. 102
  30. ^ 関 他、p. 37-64
  31. ^ 鈴木、43-84

参考文献

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日本語文献

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  • 五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』牛島信明他監修、平凡社、1992年5月、245-247頁。ISBN 978-4-582-12618-1 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年2月。ISBN 978-4-486-01431-7 
  • 鈴木康久『西ゴート王国の遺産 - 近代スペイン成立への歴史』中央公論社中公新書 1283〉、1996年1月。ISBN 978-4-12-101283-8 
  • 関哲行、立石博高、中塚次郎『スペイン史 1 古代-近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、2008年7月。ISBN 978-4-634-46204-5 
  • 柴田三千雄樺山紘一福井憲彦『フランス史』 1巻、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。ISBN 978-4-634-46090-4 
  • 『岩波講座世界歴史19 移動と移民』岩波書店、1999年8月。ISBN 978-4-00-010839-3 
    • 足立広明「古代末期地中海世界における人の移動と社会変容」『岩波講座世界歴史19 移動と移民』1999年8月。 
  • ブライアン・ウォード=パーキンズ 著、南雲泰輔 訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるという事』白水社、2014年6月。ISBN 978-4-560-083543 
  • 玉置さよ子『西ゴート王国の君主と法』創研出版、1996年。ISBN 978-4915810084 
  • 橋本龍幸「西ゴートの改宗とビザンツ」『人間文化 - 愛知学院大学人間文化研究所紀要』第3巻、愛知学院大学、1988年9月20日、11-35頁、NAID 110001056119 
  • 阪西紀子異教からキリスト教へ - 北欧人の改宗を考える」『一橋論叢』第131巻第4号、一橋大学、2004年4月1日、304-315頁、NAID 110007642792 
  • 保坂高殿『ローマ帝政中期の国家と教会』教文館、2008年。ISBN 978-4-7642-7272-9 
  • 山田信彦『スペイン法の歴史』彩流社、1992年1月。ISBN 978-4-88202-215-2 
  • ルネ・ミュソ=グラール 『クローヴィス』 白水社、2000年
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
  • 西川和子 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』 彩流社、2016年

非日本語文献

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