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菰田康一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

菰田 康一(こもだ こういち、1888年明治21年)10月8日[1][2] - 1974年昭和49年)11月22日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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本籍静岡県[1][3]。熊本区(現熊本市)で陸軍砲兵中佐・菰田安節の長男として生まれる[1]。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を7番/418名の成績で卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる[1][4]。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業[1]。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を優等で卒業した[2][3][5]

1919年(大正8年)4月、砲兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となり、参謀本部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)などを経て、1924年(大正13年)4月、砲兵少佐に進級[1]。参謀本部員、陸大教官を務め、1928年(昭和3年)8月、砲兵中佐に昇進[1]陸軍野戦砲兵学校教官、第9師団司令部付を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵大佐に進級し山砲兵第11連隊長に就任[1][3]。野戦砲兵学校教官、フランス大使館武官を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進んで参謀本部付となる[1][2][3]

1937年(昭和12年)11月、砲兵監部付となり、1938年(昭和13年)8月、陸軍防空学校長に転じ、1939年(昭和14年)10月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。1940年(昭和15年)12月、第104師団長に任じられ日中戦争に出征[1][2][3]。1942年(昭和17年)8月、参謀本部付となり、翌月予備役に編入され、同月から1943年(昭和18年)6月まで東京市防衛局長を務めた[1][2][3]。1945年(昭和20年)1月に召集され留守第20師団長となり、同年4月、京城師管区司令官に転じ終戦を迎えた[1][2][3]。1946年(昭和21年)2月に復員 [1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

戦後、1969年(昭和44年)1月から死去するまで偕行社会長を務めた[1]

栄典

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位階
勲章

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、68頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』317頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』261頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、261頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。68、567頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  7. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  8. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  9. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  10. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  11. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  12. ^ 『官報』第1709号「叙任及辞令」1932年9月8日。
  13. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  14. ^ 『官報』第1900号「彙報-陸海軍-学生退校」1918年12月3日。
  15. ^ 『官報』第4108号「叙任及辞令」1940年9月13日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。