舟木錬太郎
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舟木 錬太郎(ふなき れんたろう、1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1923年(大正12年)10月20日)は、日本の軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲四等・功四級。加賀国金沢城下(現在の石川県)の加賀藩士出身。
官歴
[編集]- 1856年2月11日(安政3年1月6日) - 加賀藩士で知行60石の御料理人である舟木伝内の家系の、舟木重高の長男として生まれる。
- 1871年(明治4年)8月2日 - 海軍兵学寮に入寮
- 1875年(明治8年)6月9日 - イギリス留学
- 1876年(明治9年)5月26日 - 海軍少尉補、地中海にて英国軍艦「サルタン」乗組み[1]
- 1880年(明治13年)6月 - イギリス海軍大学校卒業
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年)9月8日 - 任 海軍大尉[1]
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)
- 1890年(明治23年)1月13日 - 免 海軍大臣秘書官、補 扶桑副長、免 イングルス氏雇入中海軍大学校御用掛兼務[7]
- 1891年(明治24年)
- 1892年(明治25年)12月21日 - 任 海軍大佐、叙高等官四等[11]、免 赤城艦長、補 海軍兵学校教頭[12]
- 1893年(明治26年)12月20日 - 補 大和艦長[13]
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)4月22日 - 威仁親王イギリス皇帝即位六十年祝典参列に随行[16]
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)10月1日 - 免 富士艦長、待命[22]
- 1902年(明治35年)5月28日 - 任 海軍少将、予備役[23]
- 1914年(大正3年)
- 1923年(大正12年)10月20日 - 死去。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1882年(明治15年)11月21日 - 正七位[1]
- 1889年(明治22年)11月15日 - 従六位[24]
- 1893年(明治26年)1月31日 - 正六位[25]
- 1895年(明治28年)2月1日 - 従五位[26]
- 1900年(明治33年)3月10日 - 正五位[27]
- 1923年(大正12年)10月27日 - 従四位[28]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[29]
- 1891年(明治24年)10月3日 - 褒状[30]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲六等瑞宝章[31]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[34]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[1]
- 1923年(大正12年)10月27日 - 勲四等瑞宝章[35]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 「海軍少将舟木錬太郎叙勲ノ件(4-5頁「履歴書」)」 アジア歴史資料センター Ref.A10112968400
- ^ 『官報』第773号「官庁事項」1886年2月2日。
- ^ 『官報』第913号「官庁事項」1886年7月17日。
- ^ 『官報』第1302号「叙任及辞令」1887年10月29日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1887年10月28日。
- ^ a b 『官報』第1307号「叙任及辞令」1887年11月5日。
- ^ 『官報』第1960号「叙任及辞令」1890年1月14日。
- ^ 『官報』第2384号「叙任及辞令」1891年6月12日。
- ^ 『官報』第2422号「叙任及辞令」1891年7月27日。
- ^ 『官報』第2544号「叙任及辞令」1891年12月21日。
- ^ 『官報』第2848号「叙任及辞令」1892年12月23日。
- ^ 『官報』第2849号「叙任及辞令」1892年12月24日。
- ^ 『官報』第3145号「叙任及辞令」1893年12月21日。
- ^ 『官報』第3826号「叙任及辞令」1896年4月4日。
- ^ 『官報』第4018号「叙任及辞令」1896年11月18日。
- ^ 『官報』第4140号「叙任及辞令」1897年4月24日。
- ^ 『官報』第4406号「叙任及辞令」1898年3月14日。
- ^ 『官報』第4611号「叙任及辞令」1898年11月11日。
- ^ 『官報』第4714号「叙任及辞令」1899年3月23日。
- ^ 『官報』第4788号「叙任及辞令」1899年6月19日。
- ^ 『官報』第5231号「叙任及辞令」1900年12月7日。
- ^ 『官報』第5476号「叙任及辞令」1901年10月2日。
- ^ 『官報』第5668号「叙任及辞令」1902年5月29日。
- ^ 『官報』第1921号「叙任及辞令」1889年11月21日。
- ^ 『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。
- ^ 『官報』第3476号「叙任及辞令」1895年2月2日。
- ^ 『官報』第5005号「叙任及辞令」1900年3月12日。
- ^ 『官報』第3357号「叙任及辞令」1923年10月30日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第3450号「褒賞」1894年12月26日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第3358号「叙任及辞令」1923年11月1日。
- ^ 『官報』第1265号「叙任及辞令」1887年9月14日。
- ^ 『官報』第1288号「叙任及辞令」1887年10月12日。
- ^ 『官報』第1774号「叙任及辞令」1889年5月31日。
- ^ 『官報』第4263号、1897年9月15日。
外部リンク
[編集]- 兵科草創期(参拾壱 頁) - archive.today(2011年1月1日アーカイブ分)