第96師団 (日本軍)
表示
第96師団 | |
---|---|
創設 | 1945年(昭和20年)2月6日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 京城-済州島 |
編成地 | 京城 |
通称号/略称 | 玄22001 |
補充担任 | 久留米師管・久留米師管区 |
最終上級単位 | 第58軍 |
最終位置 | 済州島 |
戦歴 | 太平洋戦争 |
第96師団(だいきゅうじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。太平洋戦争の末期に済州島の防備強化を目的に編成された師団である。
沿革
[編集]1945年(昭和20年)2月10日、軍令陸甲下令により、留守第56師団において編成業務に入り仮編成を完結し、第17方面軍隷下に編入され朝鮮に向け出発した。3月30日、留守第20師団・留守第30師団において編成を完結した。
当初の計画では混成旅団を編成する予定だったのが、急遽師団へ変更となった経緯から、師団兵力は師団長以下約8600人足らずで野砲や対戦車兵器を持たず、代わりに迫撃砲と高射機関銃を装備していた。機動力も乏しく、輸送用の自動貨車(トラック)はほとんどなかった。師団迫撃砲隊は3個中隊の編制で構成され、各中隊ごとに歩兵連隊へ分属されていた。
師団は、同月下旬から4月にかけ逐次済州島へ向け出発し、同島北部の済州に到着した。上陸配置直後に同地区警備隊を師団指揮下へ配属、なかでも独立速射砲第32大隊の配属を受け、対戦車砲を装備することが出来た。師団兵力は防衛の重点拠点として主力を北部山麓地帯に配備し、済州飛行場(済州の西方)警備、一部を南西部の海軍の摸瑟浦飛行場へ、さらに漢拏山東方の天然洞窟地帯へ遊撃戦部隊を配備することとした。同年4月には第58軍戦闘序列へ編入となり、北部防衛兵団として対空戦闘および陣地構築に従事した。以後、連合国軍の上陸に備えて防禦陣地の構築などを行っていたが、戦闘を交えることなく終戦を迎えた。その後、米軍の武装解除を受け、同年11月上旬に大部は福岡市博多へ復員した。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]参謀長
[編集]- 清水孝太郎 大佐:1945年(昭和20年)2月20日 - 終戦[1]
最終司令部構成
[編集]- 参謀長:清水孝太郎大佐
- 参謀:八坂繁広中佐
- 参謀:小岩井光夫少佐
- 兵器部長:吉川慶治中佐
- 経理部長:川村雄次郎主計中佐
- 軍医部長:桜田正雄軍医中佐
最終所属部隊
[編集]- 歩兵第292連隊(福岡、玄22002):菅道教大佐
- 歩兵第293連隊(大村、玄22003):越智鶴吉大佐
- 歩兵第294連隊(大村、玄22004):菊池安一大佐
- 第96師団迫撃砲隊(玄22005):進士正吉少佐
- 第96師団工兵隊(玄22007):江崎秀作少佐
- 第96師団通信隊(玄22008):桂一正大尉
- 第96師団野戦病院(玄22009):斎藤孝平軍医大尉
脚注
[編集]- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』450頁。
参考文献
[編集]- 防衛研修所戦史室『関東軍(2) - 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1974年。
- 宮田節子編・解説『十五年戦争極秘資料集15 朝鮮軍概要史 』不二出版、1987年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。