竹岡和宏
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 滋賀県栗東市 |
生年月日 | 1975年1月25日(49歳) |
身長 体重 |
192 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2003年 ドラフト8巡目 |
初出場 | 2004年3月28日 |
最終出場 | 2008年7月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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竹岡 和宏(たけおか かずひろ、1975年1月25日 - )は、滋賀県栗東市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]プロ入り前
[編集]守山高等学校では1991年秋季県大会で準々決勝に進むが、瀬田工に延長11回裏逆転サヨナラ負け。翌1992年春季県大会でも準決勝に進出、先発するが比叡山高との乱打戦の末に9回裏逆転サヨナラ負け。近畿大学に進学。関西学生野球リーグでは4回の優勝を経験するが、1学年上に大塔正明、同期に今井圭吾、1学年下に清水章夫と好投手がおり、4年秋に3勝を挙げてリーグ戦優勝に貢献した以外はあまり活躍の場はなかった。卒業後は地元・日本IBM野洲に入社。チームが1999年の社会人野球日本選手権準決勝で敗退した後に退部。数球団のプロテストを受けるものの不合格に終わる。2000年には中山硬式野球クラブに入団した。
米国でのプレー
[編集]会社を退職して渡米し、同年秋にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結ぶ。
2001年、2Aグリーンビルからキャリアをスタート。
2002年には3Aリッチモンドに昇格を果たす(このとき元巨人のデーモン・ホリンズとチームメイトとなる)が、シーズン途中で再び2Aグリーンビルに降格。その後、独立リーグへ移籍した。
社会人野球、クラブチーム、米マイナーリーグ、米独立リーグと、さまざまな球団を渡り歩き、2003年秋に福岡ダイエーホークスからドラフト8位で指名を受け、入団。29歳でのプロ入りとあって、同期で27歳で入団した三瀬幸司と共にオールドルーキーとして注目を集めた。
ソフトバンク時代
[編集]2004年は開幕から一軍に上がり、主に中継ぎとして13試合に登板。
2006年は自己最多の22試合に登板して防御率1.88の好成績を残した。
2007年も2年連続の防御率1点台を記録するが、登板機会は僅かであった。
2008年は19試合に登板し、防御率は2点台だったが、同年オフに戦力外通告を受ける。その後12球団合同トライアウトに参加したが、日本の球団から声は掛からなかった。
ソフトバンク退団後
[編集]米球界への復帰を目指し、アメリカ・ロサンゼルス郊外のアーバン・ユース・アカデミー[1]やメサにあるシカゴ・カブスの施設等で自主トレを行い、かつて所属したブレーブスなど[2]各球団のトライアウトを受け、さらに台湾プロ野球のLa Newべアーズ入団テストも受験したが、契約はならなかった。
2009年5月からは社会人野球のクラブチーム、OBC高島に入部。選手兼任コーチとして、同年の全日本クラブ野球選手権大会ベスト4進出・社会人野球日本選手権大会の初出場に貢献した。大会でも登板した。その後、自身のブログで2009年限りで現役を引退することを表明した。引退後は野球教室や講演会活動などを行っていた[3]。
2012年11月、西麻布にストレッチスタジオ『トリム西麻布』を開業した[3]。
2017年6月28日の埼玉西武ライオンズ対千葉ロッテマリーンズ戦(沖縄セルラースタジアム那覇)では、琉球放送制作のラジオ中継『RBCiラジオ エキサイトナイター』に野球解説者として出演した。
2018年5月21日に株式会社スマイ印刷(現:スマイディア)に入社。2023年10月20日に退社[4]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2004 | ダイエー ソフトバンク |
13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 132 | 28.0 | 31 | 1 | 18 | 1 | 3 | 10 | 3 | 0 | 21 | 19 | 6.11 | 1.75 |
2005 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | .333 | 97 | 23.1 | 22 | 1 | 9 | 0 | 2 | 12 | 1 | 0 | 10 | 6 | 2.31 | 1.33 | |
2006 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 118 | 28.2 | 31 | 1 | 6 | 1 | 2 | 10 | 0 | 1 | 6 | 6 | 1.88 | 1.29 | |
2007 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 46 | 12.0 | 7 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 2 | 1.50 | 0.83 | |
2008 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 97 | 24.0 | 19 | 3 | 11 | 0 | 1 | 15 | 0 | 0 | 9 | 6 | 2.25 | 1.25 | |
通算:5年 | 77 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 2 | .571 | 490 | 116.0 | 110 | 6 | 47 | 2 | 8 | 52 | 4 | 1 | 49 | 39 | 3.03 | 1.35 |
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
記録
[編集]- 初登板:2004年3月28日、対オリックス・ブルーウェーブ2回戦(福岡ドーム)、9回表に6番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回表に村松有人から空振り三振
- 初先発:2004年4月14日、対大阪近鉄バファローズ3回戦(福岡ドーム)、6回無失点
- 初勝利:2004年4月21日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(Yahoo!BBスタジアム)、6回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初ホールド:2005年6月2日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、5回裏2死に2番手で救援登板、1/3回無失点
背番号
[編集]- 68 (2004年 - 2008年)
脚注
[編集]- ^ 菊地慶剛 (2009年2月5日). “アメリカでチャンスを探す日本人たち。”. Number Web. MLB Column from West. 2022年3月28日閲覧。
- ^ “元ソフトB竹岡、ブレーブス入団テストへ”. 日刊スポーツ. (2009年2月6日) 2022年3月28日閲覧。
- ^ a b 週刊ベースボール2013年2月4日号 P41
- ^ 「終わりの始まり」『竹岡和宏 note』2023年10月20日。2024年5月9日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 竹岡和宏 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 竹岡和宏 (@kazootakeoka) - X(旧Twitter)
- 竹岡和宏 (kazuhirotakeoka) - note