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水尾嘉孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水尾 嘉孝
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県橿原市[注 1][1]
生年月日 (1968-05-02) 1968年5月2日(56歳)
身長
体重
177 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト1位
初出場 1992年5月9日
最終出場 2003年4月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

水尾 嘉孝(みずお よしたか、1968年5月2日 - )は、奈良県橿原市出身[注 1][1]の元プロ野球選手投手・左投左打)。

現役時代は日本のプロ野球 (NPB) で13年間にわたり、主にリリーフ左腕として活躍[5]。通算269試合に登板し、引退後はイタリア料理のシェフに転身した[6]

来歴

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プロ入り前

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1968年5月2日に香川県坂出市で生まれたが、小中学校時代は奈良県大阪府で育った[7]。小学校3年の時に五条ドンキーズ(奈良県)で野球を始め、県大会ベスト4になった[4]。橿原市立八木中学校[1]から豊中市立第五中学校へ進学[4]し、中学卒業後には高知県明徳義塾高校に野球留学した[7]。高校2年春には学校関係者の不祥事で推薦取り消しとなり、3年春は補欠校だった[1]。3年(1986年)夏は高知大会の決勝戦に進出したが、岡林洋一を擁する高知商業相手に[8]、9回二死から逆転サヨナラ3点本塁打により敗退した[1]

東京の大学へ進学することを希望していたが、それは叶わず[7]、高校卒業後は福井工業大学経営工学部に進学した[4]。左肘の故障で2度手術を行い[注 2][4][8]、1年半をリハビリに費やし[1]、投球再開は大学2年秋になった[4]。その後は左のエースとして活躍[2]北陸大学野球リーグ[4]では在学中8回の優勝を経験する。1989年から2年連続で日米大学野球日本代表に選出され[注 3][1]、4年時は1990年6月の全日本大学野球選手権大会2回戦で福岡大学を延長11回16奪三振完封[4]、注目を集めた[1]。準々決勝で小池秀郎高津臣吾らのいた亜細亜大学に2対3で惜敗した。また1990年秋のリーグ最終戦(金沢大学戦)では17奪三振・3失点で完投勝利し、最優秀選手となり[9]、同年11月の明治神宮大会でも先発したが初戦敗退[4]ワールドカップ日本代表にも選出されている。大学時代の通算成績は11勝1防御率1.48[1]

プロ入り後

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大洋・横浜時代

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同年11月24日に開催されたドラフト会議の前には、小池秀郎亜細亜大学)とともに「大学球界の左の2枚看板」と高い評価を受け[10]、小池や長谷川滋利(立命館大学)や「社会人ナンバーワン投手」と評された木村恵二(日本生命)とともに即戦力投手の目玉の一人と評されていたが、本人は上京志向が強かったことから在京球団への入団を希望していた[7]。本人の第一希望はヤクルトスワローズ、第二希望は読売ジャイアンツ(巨人)だったが、前者は小池を1位指名することを決めていたことから水尾を指名することはなく、後者も獲得の積極意思は見せなかった。そのような中で小池の争奪戦を回避することを決めた横浜大洋ホエールズから1位指名を確約されたことから、大洋以外から指名された場合は熊谷組に就職することを決め、同月19日までに事前調査で対面していた中日ドラゴンズ広島東洋カープ阪神タイガース近鉄バファローズ日本ハム・ファイターズロッテ・オリオンズの6球団に対してはそれぞれ入団拒否の意向を伝えた[7]。そしてドラフト会議当日に大洋から1位指名を受け[10]、入団した。福井工業大学からのドラフト指名選手は当時4人目だったが、社会人野球を経由せず直接ドラフト1位指名を受けた選手は水尾が初だった[11]。なお、意中の大洋以外から指名された場合は内定していた熊谷組に就職することを表明していた[12]。プロ1年目の年俸は840万円(推定額)[13]。また推定契約金額は1億円だったが、この額は当時、前年に近鉄バファローズに入団した野茂英雄の1億2,000万円に次ぐ金額で、大洋球団としては契約金・年俸とも当時最高額[注 4]であった[13]。プロ入り当時は「球威、スピード、コントロールをすべて兼ね備えた投手になりたい」と目標を掲げていたほか、尊敬する投手として桑田真澄巨人)、対戦を希望する打者として落合博満中日)の名前を挙げていた[11]

しかし、プロ入り直前に腰を痛め[16]、プロ1年目の1991年は同年一軍登板はなく、二軍イースタン・リーグ)でも打ち込まれて19試合登板・6勝4敗・防御率5.69の成績[注 5]に終わった[18]

1992年(年俸740万円)は一軍入りが予想され[18]、一軍戦8試合に登板したが、0勝3敗・防御率5.04の成績に終わった[19]

1993年(年俸740万円)は[19]、4月22日の対広島東洋カープ戦で先発登板したが、打者4人相手に一死も取れず3被安打・1死球・4失点の成績に終わって降板し、そのまま二軍落ちした[注 6][21]

1994年(年俸720万円)[21]は二軍(イ・リーグ)で10勝を挙げて最多勝利投手[注 7]となったが[1]、一軍では11試合登板・0勝1敗・防御率6.28の成績に終わる[23]。また大洋・横浜時代は故障により満足な投球ができなかった中で、当時の監督からサイドスロー転向を命じられたが、「自分が後悔する」と考えてこれを拒否したところ、二軍でも練習をさせてもらえなくなった[16]。しかしこのころ、バッテリーコーチに指導を乞うたところ、そのコーチから「力任せに投げるな」と指摘を受け、フォーム改造に取り組んだ[16]

オリックス・西武時代

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1994年11月11日には大学の先輩にあたる伊藤敦規飯塚富司との2対3の交換トレードにより、渡部高史堀江賢治と共にオリックス・ブルーウェーブへ移籍することが発表された[24]。これは当時、先発投手が不足していた横浜が[24]、先発・救援の双方に対応できる伊藤[25]の獲得を希望し、水尾との1対1のトレードを申し入れていたものだが、オリックス側が1対1のトレードに難色を示したため、横浜が左投手の渡部と内野手の堀江をトレード要員に追加し、オリックス側も飯塚をトレード要員に加えたことにより成立したものだった[24]。オリックス移籍後は仰木彬監督の指示を受けて中継ぎに転向[26]。本人は後年、中継ぎとして活躍したオリックス時代について「活躍できたのは仰木監督のおかげ。仰木監督はベンチの選手全員を戦力と考え、チャンスを与えようとする人だった」と述べている[27]

1995年は、シーズン最終戦(消化試合)[28]の10月2日に対近鉄バファローズ戦で移籍後初登板・初先発すると、プロ入り5年目で初勝利を記録した[29]

1996年は一軍ではわずか1試合の登板に終わった。同年オフには腰を手術したため、翌シーズンの契約は術後の経過を観察しつつ、春季キャンプ後まで保留することとなった[30]

1997年以降は中継ぎ投手として活躍し[31]、同年は橋本武広西武ライオンズ)とともにセ・パ両リーグ最多となる68試合に登板して1勝2敗2セーブ・防御率2.26の成績を残し[32]、シーズンオフには年俸が2,200万円と大幅に増額された[33]

1998年もチーム最多となる55試合に登板し、3勝0敗・防御率1.89の成績を残し[34]、中継ぎエースの座を築いた[35]

1999年は年俸3,300万円でシーズンに臨み[34][35]、30試合にリリーフとして登板(投球回数:12回/0勝0敗・防御率3.00)したが[36]、左肘を痛めて9月に軟骨除去手術を受けた[31]

2000年シーズン(推定年俸2,700万円)[36]は8月に対西武戦で1,711日ぶりに先発登板したが[31]、わずか9試合の登板(0勝1敗・防御率5.19)に終わった[37]。同シーズン終了後(10月6日)にオリックスから戦力外通告を受け[38]、西武へテスト入団[31]

2001年(推定年俸:1,800万円)はチーム3番目となる48試合[注 8]に登板して2勝1敗・防御率3.99の成績を残した[39]

2002年(推定年俸:2,100万円)[39]も35試合に登板して防御率1.80(勝敗なし)の成績を残した[40]。しかし、このころには腰痛を抱えながら投げていたことで首にしびれが出るようになっていった[27]

2003年シーズン(推定年俸:3,000万円)[40]は2試合の登板に終わり[27]、同年10月9日に再び西武から戦力外通告を受けた[41]。12月2日付でNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[42]、同年限りで西武を退団[43]

西武退団後、複数球団の入団テストを受験したが、日本 (NPB) ではどの球団からも高年齢(当時35歳)を理由に採用されず[27]、学生時代からの夢だったメジャー (MLB) 挑戦を目指して渡米[注 9][45]2004年3月22日に行われたアナハイム・エンゼルスの入団テストに合格し、同月29日に33万5,000ドル(約3,685万円)のメジャー契約(1年契約)を結んだ[45]。傘下のAAA級ソルトレイク・スティンガーズで開幕を迎えるが、メジャーに昇格することなく5月2日に40人枠から外れる。本拠地ソルトレイクの標高が1,288 mと高かったことから高山病の症状に悩まされ、腰痛・首痛・手のしびれから満足な投球をできなくなった[46]。ソルトレイクでも24試合の登板で0勝4敗、防御率6.18、WHIP1.80の成績を喫し、7月17日にAA級アーカンソー・トラベラーズに降格し、アーカンソーでは9試合の登板に終わった。

2006年2月3日に首痛の悪化から現役引退を表明[47]。最終的には左肘の手術回数は7回におよんだ[46]

現役引退後

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現役引退後は生涯にわたって続けられる職に就くことを志し、大阪の洋食屋でアルバイトしながら夜間に料理学校へ通い続けた[注 10][49]。やがて腕を上げると自らが志願していたイタリアン料理店に移り、やがて大阪から東京へ拠点を移し[49]2010年8月には東京都目黒区自由が丘でカフェテラス&レストラン「ケチャップ自由が丘」を開店し、翌2011年4月29日には同店舗をレストラン「Torattoria Giocatore(トラットリア・ジョカトーレ)」としてリニューアルオープンした[50]。その後、店舗移転のため2019年1月限りで同店を閉店して物件を探していたところ、母校の福井工業大学を運営する学校法人金井学園から統括コーチ[注 11]への就任を要請され、同年3月から学生指導を行っている[6]

選手としての特徴

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投球フォームはスリークォーター[51]。プロ入り当初は球速150 km/h近い速球と多彩な変化球で注目されていた[15]

オリックス時代はストレートが主体でスライダーフォークボールシュートも持ち球としていた[28]。球速はないが、球のキレ・コントロールが持ち味で、左のワンポイント・リリーフとして活躍した[51]クロスファイヤー気味に投げ込むクセ球が特徴で、特に左打者に強かった[注 12][53]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1992 大洋
横浜
8 5 1 0 0 0 3 0 -- .000 112 25.0 27 4 14 0 1 18 1 0 15 14 5.04 1.64
1993 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 4 0.0 3 2 1 0 0 0 0 0 4 4 ---- ----
1994 11 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 71 14.1 24 4 7 0 0 12 2 0 13 10 6.28 2.16
1995 オリックス 1 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 23 6.0 5 1 0 0 0 8 0 0 1 1 1.50 0.83
1996 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
1997 68 0 0 0 0 1 2 2 -- .333 219 51.2 46 2 21 2 0 33 2 0 14 13 2.26 1.30
1998 55 0 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 139 33.1 30 2 11 2 1 31 1 0 8 7 1.89 1.23
1999 30 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 58 12.0 14 2 9 2 1 9 1 1 4 4 3.00 1.92
2000 9 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 80 17.1 20 1 8 0 0 13 0 0 12 10 5.19 1.62
2001 西武 48 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 222 49.2 51 5 20 6 4 25 1 1 23 22 3.99 1.43
2002 35 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 176 40.0 47 2 8 1 2 26 2 0 10 8 1.80 1.38
2003 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 14 3.0 4 2 1 0 0 1 0 0 3 3 9.00 1.67
通算:12年 269 10 1 0 0 7 9 2 -- .438 1119 252.1 272 27 100 13 9 176 10 2 107 96 3.42 1.47
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

記録

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背番号

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  • 34 (1991年 - 1994年)
  • 12 (1995年 - 2000年)
  • 43 (2001年 - 2003年)

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 香川県坂出市生まれ[1]。『中日新聞』 (1990) および『ホームラン』 (1991) では「大阪府豊中市出身」とされている[2][3]
  2. ^ 高校3年の秋に2度目の手術をしている[1]
  3. ^ 1990年の日米大会では第2戦で7回を9奪三振の無失点に抑えた。
  4. ^ 前年のドラフト1位だった佐々木主浩東北福祉大学)の契約金は6,000万円[14]ないし8,000万円[15]
  5. ^ 同年は二軍戦で74回1/3イニングを投げてイ・リーグの規定投球回に到達したが、投手成績は規定投球回到達者18人中最下位だった[17]。同年5月29日の対日本ハムファイターズ戦では1対0で完封勝利を記録した[18]
  6. ^ 同年は二軍戦で76回1/3イニングを投げてイ・リーグの規定投球回に到達し、17試合登板・2勝5敗・防御率4.36(リーグ投手成績25人中19位)の成績を残した[20]
  7. ^ 松谷竜二郎読売ジャイアンツ)・南竜次(日本ハム)と同数[22]。同年はイ・リーグで28試合に登板(投球回数:122回1/3)して10勝6敗2セーブ・防御率2.20の成績(リーグ投手成績は規定投球回到達者23人中3位)だった[22]
  8. ^ 橋本武広、デニーに次ぐ試合数で、古巣のオリックスと千葉ロッテマリーンズから勝利を挙げた[39]
  9. ^ 水尾本人は「オリックス時代の同僚で、当時MLB(シアトル・マリナーズ)で活躍していたイチローから大きな刺激を受けた」と回顧している[44]
  10. ^ 料理人としての修行時代は右手でも包丁を使えるように訓練した[48]
  11. ^ 福井工大硬式野球部に加え、附属福井高校・中学校の指導も担当している[5]
  12. ^ 1997年シーズンの左右別被打率は右打者が.294、左打者が.194で[52]、1998年は対右打者で被打率.326、対左打者で被打率.195だった[28]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 森岡浩プロ野球人名事典 2003』(第1刷発行)日外アソシエーツ、2003年4月25日、547頁。ISBN 978-4816917714https://www.nichigai.co.jp/cgi-bin/nga_search.cgi?KIND=BOOK1&ID=A1771 
  2. ^ a b 中日新聞』1990年6月14日朝刊福井中日「【福井県】日米大学野球に2年連続出場 福井工大の水尾投手 “賞とり”にも闘志」(中日新聞福井支社
  3. ^ ホームラン 1991.
  4. ^ a b c d e f g h i j 日外アソシエーツ 2002, p. 787.
  5. ^ a b 菊地慶剛「オーナーシェフの道を一時休業し球界に復帰した水尾嘉孝氏が果たそうとしている野球界への恩返し」『Yahoo!ニュースYahoo! JAPAN、2019年4月17日。オリジナルの2019年4月17日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  6. ^ a b 元オリックス水尾嘉孝さん異色の転身 シェフ経て母校の福井工大投手コーチ」『福井新聞ONLINE』福井新聞社、2019年6月9日。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  7. ^ a b c d e 中日スポーツ』1990年11月21日付第5版3頁「1位確約「ボクを一番評価してくれた」 水尾(福井工大)は大洋逆指名 他球団なら熊谷組へ ヤクルトへの未練もチラリ」(中日新聞社
  8. ^ a b ホームラン 1991, p. 55.
  9. ^ 北陸大学野球2021秋季リーグ戦
  10. ^ a b 『中日新聞』1990年11月25日朝刊第一運動面25頁「90ドラフト 1位指名の12選手」(中日新聞社)
  11. ^ a b 『中日新聞』1990年11月25日朝刊福井中日「【福井県】ははは…水尾“一本釣り” プロ野球ドラフト 大洋1位交渉権 意中の球団ホッと 自信?ありません、まず体づくりを 落合さんと対戦したい 福井工大で会見」(中日新聞福井支社)
  12. ^ 『中日新聞』1990年11月21日朝刊第二運動面24頁「水尾、大洋を逆指名」(中日新聞社)
  13. ^ a b 『中日新聞』1990年12月5日朝刊第一運動面25頁「水尾契約金1億円 大洋1位 野茂に次いで2人目の大台 入団決まる」(中日新聞社)
  14. ^ 「'90プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第14巻第4号(通算:第138号 / 1990年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1990年3月31日、88頁。 
  15. ^ a b 元永知宏「「期待はずれのドラフト1位」は、 なぜイタリア料理のシェフになったか」『Sportiva集英社、2016年10月15日、1面。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  16. ^ a b c 元永知宏「「期待はずれのドラフト1位」は、 なぜイタリア料理のシェフになったか」『Sportiva』集英社、2016年10月15日、2面。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  17. ^ ホームラン 1992, p. 220.
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  22. ^ a b ホームラン 1995, p. 214.
  23. ^ ホームラン 1995, p. 124.
  24. ^ a b c 中日新聞』1994年11月12日朝刊第12版第二運動スポーツ面22頁「オリックスの伊藤敦、横浜へ 複数トレード成立」(中日新聞社
  25. ^ ホームラン 1995, p. 94.
  26. ^ 【アスリート飯】 (2)シェフの左腕は元球界最高契約金 洋食屋アルバイトで“盗んだ”技が繰り出す本格イタリアンのお味は?」『産経ニュース産業経済新聞社、2014年11月29日、1面。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  27. ^ a b c d 元永知宏「「期待はずれのドラフト1位」は、 なぜイタリア料理のシェフになったか」『Sportiva』集英社、2016年10月15日、3面。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
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  33. ^ 『'98プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社〈日刊スポーツグラフ〉、1998年4月18日、48頁。ISBN 978-4817205421 
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  35. ^ a b 『'99プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社〈日刊スポーツグラフ〉、1999年4月13日、101頁。ISBN 978-4817250582 
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  40. ^ a b 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2003」『ホームラン』第27巻第3号(通算:第270号 / 2003年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2003年3月31日、115頁。 
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  47. ^ 元西武水尾が引退「体調が戻らなかった」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2006-02-29。オリジナルの2006年3月24日時点におけるアーカイブ。2021年9月5日閲覧。
  48. ^ 田中周治「元大洋ドラフト1位左腕 自由が丘のイタリアンシェフに」『NEWSポストセブン小学館、2016年1月20日。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。 - 『週刊ポスト』2016年1月29日号。
  49. ^ a b 【アスリート飯】 (2)シェフの左腕は元球界最高契約金 洋食屋アルバイトで“盗んだ”技が繰り出す本格イタリアンのお味は?」『産経ニュース』産業経済新聞社、2014年11月29日、2面。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  50. ^ 自由が丘に「トラットリア・ジョカトーレ」-カフェが改装、ディナー客獲得へ」『自由が丘経済新聞』みんなの経済新聞ネットワーク、2011年5月6日。オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。2020年11月3日閲覧。
  51. ^ a b 大石大二郎(オリックスコメント担当解説者) 著、フジテレビ『プロ野球ニュース』 編『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑2000』(第1刷発行)ザ・マサダ、2000年4月1日、160頁。ISBN 978-4883970148 
  52. ^ 江川卓二宮清純『江川卓・スカウティングレポート'98』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1998年3月25日、250頁。ISBN 978-4915977572 
  53. ^ 『プロ野球選手名鑑2000 公式戦全日程 プロ野球記録集』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社(編集・発行)、2000年3月10日、239頁。ISBN 978-4583036304 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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