松平直矩
松平直矩像(孝顕寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永19年10月28日(1642年12月19日) |
死没 | 元禄8年4月25日(1695年5月27日) |
改名 | 藤松丸(幼名)、直規(初名)、直矩 |
戒名 | 天祐院殿鐵船道駕大居士 |
墓所 | 福島県白河市円明寺の白河藩大名家墓所 |
官位 | 従四位下侍従、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 播磨姫路藩主→越後村上藩主→播磨姫路藩主(再)→豊後日田藩主→出羽山形藩主→陸奥白河藩主 |
氏族 | 結城松平家 |
父母 | 父:松平直基、母:堀氏 |
妻 |
正室:松平直政の長女・駒姫 継室:東園基賢の娘・丁 側室:村上氏 |
子 | 基知、宣富、知清、本多忠貞、伊玖ら |
松平 直矩(まつだいら なおのり)は、江戸時代前期の大名。官位は従四位下・侍従、大和守。結城松平家2代。
生涯
[編集]寛永19年(1642年)、越前国大野藩主・松平直基の長男として誕生。
父・直基は出羽国山形藩、さらに播磨国姫路藩に国替を命じられるが、姫路の封地に赴く途上で死去し、慶安元年(1648年)8月17日にわずか5歳で家督を相続した。
ところが、姫路は江戸幕府にとって西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後国村上藩に国替となる。成人後の寛文7年(1667年)8月19日、転封により姫路に復帰した。
親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲国広瀬藩主・松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を幕府に指摘され、領地を半分以下の7万石に減らされたうえ閉門。天和2年(1682年)2月7日には豊後国日田藩に国替を命じられた。
4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥国白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた[1]。
逸話
[編集]『土芥寇讎記』には「美小人を愛せらること、この体の事は非とすべからず。聖人にも一失あり、況や凡人をや。その上偏愛の心なしといえば害あるべからず。」と書かれており、「美少年好きではあるがこのようなことは非とは言えない。“聖人ですら一失ある”ものでありましてや凡人(聖人などではない一般人)であるから。それに極端にその道を暴走しているわけでもないので(藩政上)大した問題になることではない」とされている。また、「当時誉の将と世以(て)沙汰す」ともされている。
日記
[編集]17歳(万治元年(1658年))から54歳(元禄8年(1695年))で死去するまで自身が書き残した『大和守日記』には、藩主の仕事の他、お家騒動、鷹狩りや観劇などの記録が書き記されている。
官歴
[編集]系譜
[編集]- 父:松平直基(1604-1648)
- 母:堀氏
- 正室:駒姫 - 松平直政長女
- 継室:丁 - 東園基賢娘
- 女子:伊玖 - 堀田正親正室
- 側室:田中氏
- 次男:松平基知(1679-1729)
- 側室:村上氏
- 生母不明の子女
- 養子
- 女子:佐天 - 東園基賢娘、京極高住正室