有田貞勝
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有田 貞勝(ありた さだかつ、元文2年(1737年) - ?)は、江戸時代中期から後期の旗本。赤松氏の支族。有田基敦の子。母は筒井政虎の娘。初名は基輔。通称は与九郎。官位は従五位下、播磨守。室は細井正利の養女。子に有田貞周、有田貞英ら。
宝暦2年(1752年)に父が没し家督を継ぐ。宝暦13年(1763年)2月小納戸となり、同年12月に布衣を許される。天明3年(1783年)西丸広敷用人となって、寛政元年(1789年)2月本丸台所用人、同年7月禁裏付を歴任し、同年9月従五位下播磨守に叙任された。寛政6年御三卿清水家家老となった。寛政7年(1795年)日光奉行( - 享和2年(1802年))となり、東照宮および霊屋の修復を行った。文化8年(1811年)勘定奉行( - 1812年)となった。
参考文献
[編集]- 日本人名大辞典(講談社)
- 新訂寛政重修諸家譜8(高柳光寿監修)