有末次
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有末 次 | |
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生誕 |
1897年2月7日 日本 北海道 |
死没 |
1943年8月28日(46歳没) ビスマルク諸島付近 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1919 - 1943 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日[1][2] - 1943年(昭和18年)8月28日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]北海道出身[1]。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる[1]。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業[1][3]。
参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった[2]。
太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する[2]。 同年8月要務打ち合わせのため一時帰国し、ラバウルへ飛行機で戻る途中で戦死。陸軍中将に進級[2][3]。
年譜
[編集]※出典:『日本陸海軍総合事典』第2版、10-11頁。
- 1919年(大正8年)5月 - 陸軍士官学校(31期)卒
- 1922年(大正11年)11月 - 陸軍砲工学校高等科(28期)卒
- 12月 - 砲兵中尉
- 1929年(昭和4年)3月 - 砲兵大尉
- 11月 - 陸軍大学校(41期)卒
- 12月 - 独立山砲兵第1連隊付
- 1930年(昭和5年)12月 - 参謀本部付勤務
- 1931年(昭和6年)12月 - 参謀本部員(作戦班)
- 1933年(昭和8年)12月 - イギリス駐在
- 1934年(昭和9年)6月 - イギリス大使館附武官補佐官
- 8月 - 砲兵少佐
- 1936年(昭和11年)6月 - 陸大教官
- 1937年(昭和12年)5月 - 東南アジア出張
- 1939年(昭和14年)7月 - 参謀本部教育課長兼大本営参謀(教育課長兼研究班長)
- 1940年(昭和15年)10月 - 参謀本部附・大本営参謀(第20班長、 - 1942年1月19日)
- 1941年(昭和16年)2月 - 兼軍令部員
- 1942年(昭和17年)2月 - 香港占領地総督部参謀長
- 1943年(昭和18年)8月2日 陸軍少将・第8方面軍参謀副長