岩戸山4号墳
岩戸山4号墳 / 下茶屋古墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
所属 | 八女古墳群(うち岩戸山古墳群) |
所在地 | 福岡県八女市大字吉田1380-3(字下山) |
位置 | 北緯33度13分47.40秒 東経130度33分0.42秒 / 北緯33.2298333度 東経130.5501167度座標: 北緯33度13分47.40秒 東経130度33分0.42秒 / 北緯33.2298333度 東経130.5501167度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
直径30m 高さ4m |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
出土品 | 須恵器片 |
築造時期 | 7世紀初頭 |
史跡 | 八女市指定史跡「岩戸山4号古墳(下茶屋古墳)」 |
地図 |
岩戸山4号墳(いわとやまよんごうふん)または下茶屋古墳(しものちゃやこふん)は、福岡県八女市吉田にある古墳。形状は円墳。八女古墳群(うち岩戸山古墳群)を構成する古墳の1つ。八女市指定史跡に指定されている(指定名称は「岩戸山4号古墳(下茶屋古墳)」)。
概要
[編集]福岡県南部、八女丘陵上の岩戸山古墳の前方部から浅い谷を隔てて西150メートルの位置に築造された古墳である[1]。1986年(昭和61年)に発掘調査が実施されている。
墳形は円形で、現在は墳丘周囲を削平されているが、元の直径は約30メートルで現在高さ約4メートルを測る[1]。埋葬施設は横穴式石室で、南方向に開口する。玄室・中室・前室からなる3室構造の石室で、石室の石材には結晶片岩の一枚石の巨石を使用する。石室内は盗掘に遭っており、調査では須恵器片のみが検出されている。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀初頭頃と推定される[1][2]。石室の形態としては、古い複室構造を保ちながら、終末期古墳の切石石室に近い様相である。八女古墳群では最も新しい時期(最後の時期)の大型古墳として、八女古墳群の終焉を考察するうえで重要視される古墳になる[1]。
古墳域は1994年(平成6年)に八女市指定史跡に指定されている。
遺跡歴
[編集]- 中世-近世、信仰地として再利用。
- 嘉永6年(1853年)の矢野一貞『筑後将士軍談』に石室形態および正面壁に卍字の記述[1]。
- 1986年(昭和61年)12月、発掘調査(八女市教育委員会、1987年に報告書刊行)[1]。
- 1994年(平成6年)、八女市指定史跡に指定。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。玄室・中室・前室からなる3室構造の石室である。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:7.5メートル
- 玄室:長さ2.30-2.55メートル、幅2.45-2.55メートル
- 中室:長さ1.55-1.65メートル、幅1.95-2.05メートル
- 前室:長さ1.45-1.50メートル、幅1.65-1.85メートル
石室の石材は結晶片岩で、一枚石の巨石を使用する。玄室の平面形はほぼ正方形、中室・前室の平面形はやや横長の長方形である。玄室の奥壁中央には卍字が刻まれる(江戸時代の文献にも記述)。天井は玄室から前室まで同じ高さで、天井石は4枚。前室前面の前庭部には低い石積がハ字状に開いて続き、床面には河原石を敷く[1]。
早くから開口し、石室内は盗掘に遭っているが、調査では須恵器片(平瓶・脚・甕)が検出されている。また後世の信仰に伴う遺物として、中世-近世の北宋銭(景徳元宝)・寛永通宝・青磁・白磁・瓦質土器が出土している[1]。
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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中室(開口部方向)
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中室(玄室方向)
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前室(開口部方向)
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前室(玄室方向)
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開口部
文化財
[編集]八女市指定文化財
[編集]- 史跡
- 岩戸山4号古墳(下茶屋古墳) - 1994年(平成6年)指定。
関連施設
[編集]- 岩戸山歴史文化交流館(いわいの郷)(八女市吉田)
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(八女市教育委員会、1992年設置)
- 「岩戸山四号古墳(下茶屋古墳)」『八女市史』 上巻、八女市、1992年。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『岩戸山古墳群 -福岡県八女市吉田所在古墳の調査-』八女市教育委員会〈八女市文化財調査報告書第15集〉、1987年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 岩戸山4号古墳(下茶屋古墳) - 八女市ホームページ