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小森光生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小森 光生
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県松本市
生年月日 (1931-12-02) 1931年12月2日(93歳)[1]または (1931-11-02) 1931年11月2日(93歳)[2]
身長
体重
174 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1954年
初出場 1954年
最終出場 1966年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

小森 光生(こもり こうせい[1][2][注 1]1931年12月2日[1]または11月2日[2] - )は、長野県松本市[4]出身の元プロ野球選手内野手外野手)・コーチ監督解説者

経歴

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河野旭輝とのクロスプレー(1956年7月)

旧制松本市立中学校(学制改革により1948年から松本市立高等学校に再編)では1946年、戦後初の中等学校野球大会に控え選手としてベンチ入りするが、準々決勝で東京高等師範付中に惜敗。1949年の夏の甲子園には四番打者、三塁手として出場し、準々決勝に進むが、佐々木信也らを擁する湘南高に9回サヨナラ負けを喫す[5]。高校卒業後は早稲田大学に進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に4回優勝。同期の広岡達朗と三遊間を組み[4]、華麗な守備で人気を博す。リーグ通算78試合に出場し、290打数74安打、0本塁打、44打点、打率.255。広岡以外の大学同期に投手福嶋一雄がいる。

大学卒業後の1954年に大学先輩の荒川博沼澤康一郎がいる毎日オリオンズへ入団[4]。1年目から三塁手として活躍し、規定打席(45位、打率.208)にも達する。1957年には葛城隆雄に定位置を譲ったが、その後は二塁手外野手もこなすユーティリティプレイヤーとして起用される。1960年は故障もあって先発はわずか4試合、同年の大洋との日本シリーズも出場できなかった。翌1961年には復活し、主に右翼手として48試合に先発出場。1962年には近鉄バファローズへ移籍[4]し、三塁手、外野手、二塁手として活躍。1963年には4月7日南海戦(大阪)に徳久利明の代打で出場し、先発の高橋栄一郎から満塁本塁打を放つ。1965年は開幕から右翼手の定位置を得て自己最高の打率.271を記録し、五番打者としても11試合に起用されるが、1966年には北川公一の台頭で出場機会が激減し、同年限りで現役を引退[4]

引退後は近鉄(1967年一軍コーチ)、広島1968年 - 1970年一軍コーチ→1971年二軍コーチ)、ヤクルト1974年 - 1975年一軍コーチ→1976年 - 1981年二軍監督)、大洋1982年 - 1984年一軍守備・走塁コーチ)で監督・コーチを歴任[4]。監督・コーチ業の合間を縫って、フジテレビニッポン放送解説者(1972年 - 1973年)を務めた。

近鉄コーチ時代はキャンプの企画、立案も引き受けるなど小玉明利選手兼任監督を支え、野手に転向した伊勢孝夫関根潤三根本陸夫の打撃理論を教え込んだ[6]。小森は伊勢に素振りの構えからテークバック、ステップまでを延々と繰り返しやらせたが、スイングをさせなかった[6]。体重のかけ方や捻り方をキープしてトップの位置を確認するものであり、伊勢は「なんでこんなことばかりするんだ」と思ったが、下半身が鍛えられ、下半身でボールを捉える意識付けになった[6]。後に伊勢は指導者として大成するが、この理論をずっと教えている[6]

広島時代は若手の育成を最重点に据えたチーム作りを打ち出した根本に招聘[7]され、関根や広岡と共に若手にチームプレーとは何かを徹底的に仕込む[8]。小森の指導でチーム全員が足を使えるようになり、1970年にはリーグでは群を抜くチーム109盗塁を記録[9]

ヤクルトではコーチ時代に荒川、広岡、沼澤と共に「早稲田カルテット」の一角を担ったほか、1975年オフの11月8日には東京六大学野球連盟結成50周年記念試合プロOB紅白戦[10]メンバーに選出され、1年先輩である荒川率いる白軍の選手として出場。二軍監督時代には近藤昭仁をコーチに推薦し、1979年にはチームをイースタン・リーグ優勝に導く。

大洋退団後は球界から離れ、静岡県伊豆ペンションのオーナーとなった[4]

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1954 毎日
大毎
121 436 390 40 81 15 5 1 109 35 14 10 10 5 31 -- 0 38 11 .208 .266 .279 .546
1955 126 526 462 62 107 16 5 6 151 32 19 18 12 2 47 0 2 51 8 .232 .305 .327 .632
1956 122 519 463 62 106 16 4 12 166 34 12 16 16 2 36 0 2 70 3 .229 .287 .359 .646
1957 96 340 306 40 79 13 3 4 110 20 12 11 2 2 29 0 1 37 3 .258 .324 .359 .684
1958 68 156 142 16 28 7 2 0 39 10 6 2 0 0 14 1 0 35 1 .197 .269 .275 .544
1959 64 196 180 12 48 9 2 4 73 16 6 1 0 2 12 0 2 32 8 .267 .320 .406 .725
1960 22 30 26 3 3 1 0 0 4 2 0 0 1 0 3 1 0 6 2 .115 .207 .154 .361
1961 98 217 205 17 44 7 1 6 71 19 2 1 1 0 11 0 0 43 6 .215 .255 .346 .601
1962 近鉄 83 183 174 14 35 6 0 4 53 12 0 2 4 0 4 0 1 34 4 .201 .223 .305 .528
1963 83 175 162 16 37 6 3 3 58 17 3 1 4 0 8 1 1 29 4 .228 .269 .358 .627
1964 34 67 62 5 12 5 0 2 23 3 2 0 1 0 4 0 0 15 1 .194 .242 .371 .613
1965 132 432 410 25 111 23 2 7 159 39 0 5 2 2 17 0 1 46 10 .271 .301 .388 .689
1966 11 12 12 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 6 0 .000 .000 .000 .000
通算:13年 1060 3289 2994 312 691 124 27 49 1016 240 76 67 53 15 216 3 10 442 61 .231 .285 .339 .625
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

記録

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  • 1000試合出場:1965年8月5日 ※史上100人目

背番号

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  • 2 (1954年 - 1961年)
  • 4 (1962年 - 1966年)
  • 65 (1967年 - 1971年、1974年 - 1984年)

脚注

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注釈

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  1. ^ こもり みつお とする資料もある[3]

出典

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  1. ^ a b c "小森 光生(近鉄バファローズ) - 個人年度別成績". NPB.jp 日本野球機構. 2020年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月26日閲覧
  2. ^ a b c "「長野」遊撃手・小森光生 名前こもり・こう…:「全国」 夢のベストナイン特集". 時事ドットコム. 2020年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月26日閲覧
  3. ^ "(こもり・みつお) 小森光生 (コード 1981011700056)の写真・画像:報道写真の共同通信イメージリンク". KYODO NEWS IMAGELINK. 17 January 1981. 2021年10月16日閲覧
  4. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、230ページ
  5. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  6. ^ a b c d "関根潤三さん93歳死去 伊勢孝夫氏が叩き込まれたセキネモ打撃理論". 東スポ web. 2021年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月26日閲覧
  7. ^ 【永山貞義よもやま話】野間の躍進に見る根本監督の「若者優秀論」
  8. ^ 衣笠祥雄『野球の夢一途に』日本放送出版協会1998年3月1日ISBN 4140803576、p169。
  9. ^ 『野球の夢一途に』、p168。
  10. ^ 昭和43年~|球場史|明治神宮野球場

関連項目

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外部リンク

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