宮崎茂三郎
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宮崎 茂三郎(みやざき もさぶろう、1892年(明治25年)11月18日[1] - 1972年(昭和47年)6月28日[1])は、日本の剣道家。大日本武徳会剣道範士。武道専門学校教授。
身長5尺9寸、体重25貫の大柄な体格であり、200匁以上の竹刀を使用した。左上段からの強烈な横面は「弾丸」といわれ恐れられた。
経歴
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三重県津市に生まれる。少年の頃から剣道を修練し、1909年(明治42年)、大日本武徳会内藤高治の内弟子となる。
1912年(明治45年)、大日本武徳会講習所を卒業。その後武道専門学校教授に就任。
1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。リーグ戦で志賀矩、檜山義質を破ったが、堀正平に敗れ、リーグ敗退。
1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会指定選士の部に出場。リーグ戦で千頭直之、近藤知善、菅原融を破ったが、準決勝で白土留彦に敗退。
1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合に出場。銃剣術範士伊藤精司との異種試合を披露した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』大日本雄弁会講談社編、1934年、747頁。
- 庄子宗光『剣道百年』時事通信社、1966年。
- 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。