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塩屋秋貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
塩屋 秋貞
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永元年(1521年
死没 天正11年3月2日1583年4月23日
戒名 光明院殿州金満越大居士[1]
墓所 富山県富山市猪谷
官位 筑前守
主君 三木良頼自綱上杉謙信織田信長佐々成政
氏族 塩屋氏
監物、三平
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塩屋 秋貞(しおや あきさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将飛騨国尾崎城主、のち飛騨国古川城主、越中国猿倉城主。

略歴

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前半生

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大永元年(1521年)、誕生。大野郡大八賀郷塩屋村の出身とされるが定かではない[2][注 1]。その姓から元は塩の流通を主体とする馬借であったと考えられており[4]、『大八賀村史』などによると、秋貞は初め越中より塩を仕入れて財を成すと、大八賀郷塩屋村臼本に城を築いて近郷から年貢を取り立てるなど次第に勢力を伸ばし、天文の終わり頃には小八賀郷に尾崎城を築いて居城としたという[2][5]

秋貞が三木氏被官となった過程は不明だが、岡村守彦三木良頼姉小路家(古川氏)を襲った後、古川城の守将に抜擢されたことで古川周辺に勢力を持つようになったとしており[4]永禄12年(1569年)に上杉輝虎(上杉謙信)が2月10日付けで秋貞に宛てた書状には、昨年来音信が途絶えていた良頼に対して秋貞に仲介を依頼していることから、秋貞が良頼の重臣であったことが窺われる[6][7]

永禄7年(1564年)、武田信玄の部将である山県昌景が飛騨に侵攻すると、秋貞は千光寺の衆徒とともに戦うが敗れて古川城に退いた[注 2]。『大八賀村史』によると、武田軍の撤退後、三木自綱(姉小路頼綱)に小八賀郷を押領されたため、秋貞は吉城郡塩屋へ居を移したという[10]

上杉氏と関係を深める

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越中に進出していた輝虎は一向一揆の抑えとして飛騨の諸将を必要とするようになり、秋貞も三木軍の一員として越中に派遣されるようになる[11][注 3]元亀2年(1570年)もしくは元亀3年(1571年4月23日、上杉軍に従軍していた秋貞が突然陣を離脱して猿倉山に立て籠もっているが、飛騨では一向宗の勢力が強かったことから秋貞が一向一揆と戦うことを避けるためであったものと考えられている[13]

その一方で秋貞は謙信に接近すべく、元亀2年(1570年)10月に家臣の後藤内記(内膳とも)・和耳藤兵衛を謙信に遣わして熊の皮十枚、鉛十斤を、天正元年(1573年)9月には再び後藤を遣わして熊の皮百枚、鉛千斤、真綿三百把を献上している(『飛騨編年史要』)。

また、河田長親が天正元年(1573年)4月晦日付けで吉江資賢に宛てた書状によると、江馬輝盛より信玄が急死したとの注進があったため、秋貞は長親の命令によって飛騨に帰国し情報を集めている[14][15]

自綱との決別

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自綱との関係について岡村守彦は、度々越中に派遣されたことで秋貞は上杉氏との交流を深め、のちに自綱が織田氏への転向をはかったのに対して秋貞は上杉氏寄りの態度を変えず、後述の謙信急死までは自綱と対立していたことは確実であるとしている[4]。『北越軍談』によると、天正4年(1576年)7月下旬または8月、謙信による飛騨征伐ではその先鋒となって飛騨に侵攻し、三木自綱・江馬輝盛・内ヶ島氏理を降伏させた功により飛騨の目代に任じられたとされるが、自綱が拠っていたという松倉城は当時存在しなかったことから信憑性は薄いとされており、岡村守彦も完全に否定は出来ないものの、謙信による飛騨征伐は創作であるとしている[1][16]

織田氏に臣従する

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天正6年(1578年)2月下旬より謙信による上洛の準備が進められ、飛騨でも秋貞を中心に兵が集められていたが(『飛騨編年史要』)[17]、同年3月に謙信が急死したため上洛は立ち消えとなった。また、越中では謙信の死を契機に織田信長の後ろ盾を得た神保長住が入国するなど織田氏の勢力が強まったことから、この年のうちに秋貞も織田方に転向したものと考えられている[4]

『飛騨編年要史』によると、天正7年(1579年6月28日、信長の命を受けた自綱が武田氏や上杉氏に与した輝盛や秋貞を攻撃したとされているが、岡村守彦は『飛州志』以外に同様の記述がないことから正確な時期は不明であるとしており、また、輝盛や秋貞討伐が信長にとって何ら意味をなさないことから、この一件は自綱の逆恨みによる復讐戦だと見なしている[18]

最後

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天正10年(1582年6月2日本能寺の変によって信長が横死すると、秋貞は佐々成政に臣従した[19]。翌天正11年(1583年3月2日、秋貞は城生城主・斎藤信利を攻撃するが、斎藤方の救援に応えた上杉景勝の来援によって敗北した。その後、秋貞は飛騨への敗走を試みるが、国境付近の西猪之谷で上杉方の将・村田修理亮に鉄砲で狙撃され、逃亡先の戸谷村で死去した。享年63[20][注 4]

人物

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  • 秋貞が吉城郡に立ち退いた後、尾崎城は間もなく廃城となったが、明治39年(1906年)、尾崎城跡地を整地した際に秋貞が埋めていったと思われる古銭六十余貫匁が出土している。また、自綱が秋貞に借金をした文書が残っている事や、先述の謙信への貢ぎ物などから、秋貞が理財に長けた武将である事が窺われる[22]
  • 飛騨紅かぶの原種となった「八賀かぶ」は、秋貞が持ち込んだものと伝えられている[23]

注釈

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  1. ^ 他にも小島郷塩屋村、小八賀郷塩屋村などがあり、いずれにしても、秋貞はこれらの 村々と関係があったと云われている[3]
  2. ^ 『大八賀村史』によると、当時古川城は古川次郎富氏が在城しており、秋貞は客分として滞在していたものとしているが、『宮川村誌』によれば、富氏は享禄4年(1531年)に三木直頼によって滅ぼされているため辻褄が合わず[8]、岡村守彦も秋貞が古川城に居住するようになった経緯や時期については不明確としている[9]
  3. ^ 永禄6年(1563年)3月以降、上杉軍に従軍するようになったという[12]
  4. ^ 秋貞が開基となった光明寺にある位牌には「天正六年五月十二日戸谷字山之口ニ戦歿」とあるが、これは誤りとされる[21]

脚注

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  1. ^ a b 荒川, p. 139.
  2. ^ a b 荒川, p. 137.
  3. ^ 宮川村, p. 372.
  4. ^ a b c d 岡村, p. 299.
  5. ^ 宮川村, p. 373.
  6. ^ 岡村, p. 255.
  7. ^ 谷口, p. 141-142.
  8. ^ 宮川村, p. 356.
  9. ^ 岡村, p. 304.
  10. ^ 荒川, p. 138.
  11. ^ 岡村, p. 252-253.
  12. ^ 岡村, p. 253.
  13. ^ 岡村, p. 261-262.
  14. ^ 岡村, p. 268-269.
  15. ^ 谷口, p. 171.
  16. ^ 岡村, p. 292-293.
  17. ^ 岡村, p. 297.
  18. ^ 岡村, p. 302-303.
  19. ^ 葛谷, p. 164.
  20. ^ 宮川村, p. 379.
  21. ^ 宮川村, p. 380.
  22. ^ 荒川, p. 140-141.
  23. ^ 宮川村, p. 373-375.

参考文献

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  • 荒川喜一『大八賀村史』大八賀財産区、1971年。 
  • 岡村守彦『飛騨中世史の研究(復刻版)』戎光祥出版、2013年。ISBN 978-4-86403-099-1 
  • 宮川村誌編纂委員会 編『宮川村誌 通史編』宮川村誌編纂委員会、1981年。 
  • 谷口研語『飛騨三木一族』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4404034489 
  • 葛谷鮎彦『中世江馬氏の研究』岐阜県神岡町、1970年。