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大友義統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大友 義統 / 大友 吉統
「太平記拾遺四十八:大友侍従義統(落合芳幾作)」
時代 戦国時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄元年(1558年
死没 慶長10年7月19日1605年9月2日
改名 長寿丸(幼名)、義統→吉統→宗巌(→義統)
別名 吉統、羽柴吉統、通称:五郎、豊後侍従
法号:宗巌
戒名 法鐘院殿中庵宗巌大禅定門
霊名 コンスタンチノ
官位 従四位下・侍従、参議[要出典]従五位下左兵衛督
幕府 室町幕府豊後守護江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼
氏族 大友氏
父母 父:大友義鎮(宗麟)、
母:奈多夫人奈多鑑基の娘)
兄弟 義統親家親盛、ジュスタ(一条兼定室のち清田鎮忠室)、テクラ(久我三休室)、女(奈多鎮基室)、女(一萬田鎮実室)、女(母里友信室)、女(臼杵統尚室)、レジナ (伊東義賢室)、桂姫小早川秀包室)、女
正室:尊寿院吉弘鑑理娘、洗礼名:ジュスタ)
側室:伊藤氏[注釈 1]
側室:立花宗茂の娘[異説あり][2][3]
義乗貞勝[4]、女(一尾通春室)、佐古局松野正照、女(伊藤氏室)
または異説によると
義乗、政鎮(正照)、貞勝[注釈 2]義親[2][5][6]
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大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後戦国大名大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。

生涯

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足利幕府との決裂・織田との同盟

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永禄元年(1558年)、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として生まれる。将軍足利義昭偏諱を受け、義統と名乗った。

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる[7]。家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同体制が行われていた[8]

毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。

さらに天正7年(1579年11月27日織田信長の推挙によって天皇から従五位下左兵衛督に叙位・任官された[注釈 3]

島津氏との戦い

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ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を過熱させることとなった。

天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。

重臣・立花道雪が病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる。かつては大友氏の版図であった肥後筑後筑前は次第に肥前国龍造寺氏薩摩国島津氏に侵食されていった。

天正14年(1586年)、豊後武宮親実臼杵城大津留氏松ヶ尾城(城将橋爪某)などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ[9]島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦、天正の役)が始まる。宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。

豊臣家の家臣として

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父で隠居の大友入道こと宗麟は豊臣秀吉に嘆願し豊臣軍の九州下向を請うた(これにより豊臣傘下の大名となる)。援軍として派遣された長宗我部元親仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣の利光宗魚戸次統常を失う。義統は宗麟や家臣の立花宗茂志賀親次佐伯惟定山田宗昌朝倉一玄、吉岡妙林尼吉岡統増柴田礼能臼杵鎮尚阿南惟秀木付鎮直狭間鎮秀帆足鑑直朽網鑑康森鎮生田北統員清田正成若林鎮興若林統昌問註所統景らがそれぞれの居城において奮戦するのをよそに、府内を退去し、島津軍が豊後を席捲するのを許してしまう。

しかし、天正15年(1587年)秀長軍は先着していた毛利輝元宇喜多秀家宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。

高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。豊臣軍は根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎小早川隆景黒田孝高宇喜多秀家の家臣戸川達安らが後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死、義久・義弘は都於郡城に退却。後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。

この後、義統は島津氏に降った家臣や逃亡した家臣を徹底的に粛清し、朽網鎮則志賀親度戸次鎮連志賀鑑隆らが追討を受ける等して自害に追い込まれ、連座で一萬田鑑実鎮実親子も自害に追い込まれた。また讒言などもあって狭間鑑秀鎮秀親子ら無実の者も殺害された。生き残ったのは、島津に降ったまま豊後に戻らなかった入田義実程度であった。

同年4月に、義統は隣国の豊臣大名・黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した[注釈 4]

豊臣一家となる

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天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の一字)を与えられて義統から吉統へと改名した[10]。大友家の桐紋については祖父義鑑の代に足利義晴より賜紋され、父義鎮の代に足利義輝より一族の証であるとして改めて桐紋の使用を認める御内書が発給されているが、秀吉から賜紋されたともされており、伝記「豊鑑」にも吉統が桐紋を用いていたとあることから、将軍家とは別に秀吉が桐紋を下賜した可能性もある。

また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の正月には参議ともなった[要出典]

天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している[9]

天正20年(1592年)、文禄の役黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。

豊後府内改易

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文禄2年(1593年)、平壌城の戦いの大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。

吉統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成らの意見を聞いた秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。

改易の後

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吉統は、江戸徳川氏)、水戸佐竹氏)、山口毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死により、慶長4年(1599年)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。

関ヶ原の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康から嫡子義乗が徳川家預かりの身で嫡男徳川秀忠の近侍を許されていたことから絶対に東軍に味方すべきだと言う忠臣吉弘統幸の諫止を退けた。それは大坂城下に側室と庶子の松野正照が西軍によって軟禁されていたためだとされている。西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。

戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。

豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。今度は徳川家から幽閉される身となった。

晩年

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関ヶ原の後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めたという咎で、吉統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。

慶長10年(1605年)7月19日、吉統は死去した。戒名は中庵宗巌。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。

人物・逸話

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  • 『九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である。
  • 天正遣欧少年使節が帰国した際、宣教師たちに棄教のことを謝罪したが、この中で「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と言及している。(『フロイス日本史』)
  • 相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多くの宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身も自覚していたのか、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒めを記している。
  • 父・宗麟がキリスト教に傾倒し神社仏閣を破壊したという話が知られているが、大友氏の本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。
  • 島津氏の一軍が豊後府内に侵攻してきたとき、義統は府内の大友館を捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元に仕えたという。
  • 文禄の役の失態に関しては、同じように小西行長からの救援要請が小早川秀包や黒田長政にも出されており、両者ともこれを拒否している。にもかかわらず、黒田・小早川は何の処罰も受けず、義統(当時は吉統)のみが改易処分と厳しい処置を取られたのは、秀吉家臣の讒言を受けた為とも、梅北一揆に大友氏の一族が加担していたとの風説があった事などにより秀吉が不信感を前々から抱いていたという説がある。
  • 父・宗麟との対立は、隠居後、自由奔放にキリスト教へ極端に傾倒していった宗麟に対し、反感を抱いていた反キリスト教の家臣団と、離別後も強い影響力を持った実母・奈多夫人の影響が強かった為とされる。特に奈多夫人は義統に対して影響力が強かったようで、宗麟と後妻との間に子が出来た事を知ると、その子供が男・女に関わらず殺すようになどと進言し、関係はさらに悪化したとされる。
  • 耳川の戦いは父・宗麟主導によるものとされているのが通説であったが、宗麟は隠居後の天正5年(1577年)や天正6年(1578年)は領国関係に関する文書・史料が発見されていないため、義統主導によるものとされている。

家系

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家臣

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大友義統の家臣団の一覧

以下、義統(吉統)が偏諱を与えた人物を中心に、義統期の主な家臣を掲載する。太字の字を含む人物は義統から偏諱を賜った人物である[注釈 6]。尚、( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 大和国宇田の城主の娘であったと伝わる[1]
  2. ^ 『群書系図部集』では貞勝と義親の母を立花統虎の娘とする[2]。大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂(統虎)の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  3. ^ 任左兵衛督 口宣案 大友家文書[要出典]
    上卿 勸修寺中納言
    天正七年十一月廿七日宣旨
    從五位下源義統
    宜任左兵衞督
    藏人頭右中辨藤原兼勝
    (訓読文) 上卿 勧修寺中納言(勧修寺晴豊 36歳 正三位 権中納言) 天正7年(1579年)11月27日宣旨 従五位下源義統(大友義統 22歳) 宜しく左兵衛督に任ずべし 蔵人頭右中弁藤原兼勝(広橋兼勝 22歳 正四位上)奉(うけたまは)る
  4. ^ つまりキリスト教に帰依したのは、僅か2ヶ月である。
  5. ^ 彼女の経歴は大友宗麟の次女・テクラの娘「マセンシア」と混同される。また、「桑姬」という人物について、実には宗麟の長女・「ジュスタ」(一条兼定室のち清田鎮忠室)のことだが、義統の次女・「マキシマ」やテクラの娘・「マセンシア」や宗麟の長女・ジュスタの娘・「マダレイナ」など「桑姬」として混同される[11]
  6. ^ 義統から偏諱を賜った家臣の子孫が「統」の字を用いるようになった例もみられるのでそれに該当するであろう人物には※印で示してある。これらの人物は年代的に義統死後の人物で義統から直接偏諱を賜っていない者と考えて良い。また、「統」時代と「統」時代での区別は特にしていない。

出典

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  1. ^ 小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典』 3巻、新人物往来社ISBN 4404024231 
  2. ^ a b c d 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764 
  3. ^ 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年、139頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879314/77 国立国会図書館デジタルコレクション ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義統や義乗の室ではない。また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂(統虎)の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されているなので、『群書系図部集』や『系図綜覧』に立花左近統虎の娘という記述は統虎妹の誤記かもしれない。
  4. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  5. ^ 中野等『立花宗茂』吉川弘文館、2001年、278頁。 の系図によると、義親は高橋紹運女と義乗の子。
  6. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』424頁の系図によると、義親と貞勝は紹運女の子。
  7. ^ 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館〈人物叢書〉、1975年、143-144頁。 
  8. ^ 福川一徳 著「大友義統の家督相続をめぐっての一考察」、渡辺澄夫先生古稀記念事業会 編『九州中世社会の研究』1981年。 
  9. ^ a b c d e #唐橋p.p.89
  10. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年、9・29・38頁頁。 偶然によるものだが読み方に変更はない。
  11. ^ 隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
  12. ^ #唐橋p.p.242

参考文献

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関連項目

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