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土屋操

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年5月1日 - 昭和22年(1947年4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。

略歴

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山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。

卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。

1915年(大正4年)に若尾財閥の三代目・若尾謹之助により企図された「山梨県志」の編纂事業では広瀬廣一赤岡重樹らと編纂委員として参加する。「山梨県志」の刊行は関東大震災と若尾家の没落により頓挫するが、編纂事業で調査、蒐集された史料は土屋と功刀亀内により「甲州文庫」として集成され、今日に伝わっている。また、土屋は広瀬、赤岡らとともに「山梨県志」の事業を受けて1920年(大正9年)に山梨県により実施された「史跡名勝天然記念物」調査にも参加し、1930年(昭和5年)9月に設立された「甲斐郷土研究学会」にも参加している。

著作

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  • 『年代基準甲斐国史解』徴古堂 明治40年(1907年)刊
  • 『歴史地理の甲斐』徴古堂 明治43年(1910年)刊
  • 『悲壮史談 武田落』磯部甲陽堂 大正2年(1913年)刊
  • 『甲斐史』郎月堂 大正4年(1915年)刊
  • 『武田史跡』柳正堂 大正8年(1919年)刊
  • 『趣味の甲斐史』柳正堂 大正13年(1924年)刊
  • 『日本歴史と郷土史との連絡』山梨県 昭和8年(1933年)刊
  • 『国史連絡甲斐郷土史』柳正堂 昭和8年(1933年)刊
  • 『甲斐の勤皇家山縣大弐』柳正堂 昭和18年(1943年)刊

親族

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脚注

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参考文献

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  • 『山梨人事興信録』山梨興信所、1918年。 
  • 『山梨人事興信録』 第二版、山梨興信所、1928年。 
  • 『山梨人事興信録』 第三版、山梨興信所、1940年。