Nothing Special   »   [go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

光延東洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
光延みつのぶ 東洋とうよう
生誕 1897年10月9日
日本の旗 日本岡山県高梁市
死没 (1944-06-09) 1944年6月9日(46歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国フィレンツェ
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1920年 - 1944年
最終階級 海軍少将
テンプレートを表示

光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年明治30年)10月9日 - 1944年昭和19年)6月9日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

人物

[編集]
光延 東洋の似顔絵、上海、1939年

岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。

イタリアバドリオ政権連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキイタリア語版率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる[1]。 同行していた妻トヨと子供たちは、ドイツ、スイスを経てアメリカ合衆国へ逃れ、同地で日本の敗戦を知ることとなる。

光延の遺体は荼毘に付され、ドイツ・ドレスデン郊外のケーニッヒシュタインドイツ語版に埋葬されたが、50年後の1994年に長女の孝子が母のトヨと共に日本へ持ち帰り、改葬された。

家族・親族

[編集]

年譜

[編集]

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 同時期にヴェネツィアからミラノに移動のためアッペンニーノを通行していた三菱商事社員牧瀬裕次郎と大倉商事社員浅香光郎もパルチザンの襲撃を受け、使役ののち殺害されている。

外部リンク

[編集]