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今川一策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今川 一策(いまがわ いっさく、1894年明治27年)5月15日[1][2] - 1977年昭和52年)12月26日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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新潟県出身[1][2][3]。新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第21連隊付となる[1][4]。1920年(大正9年)4月、騎兵中尉に昇進した[1]

1922年(大正11年)2月から10月まで陸軍航空学校操縦学生となる[1]。同年11月、飛行第1大隊付に発令され、1924年(大正13年)11月、下志津陸軍飛行学校教官に異動し、1925年(大正14年)5月、兵科航空兵に転じ航空兵中尉となる[1]。同年6月、航空兵大尉に進む[1]。1931年(昭和6年)3月、飛行第3連隊中隊長に就任し、陸軍航空本部員、陸軍航空技術研究所員、第2飛行団司令部員を務め、1937年(昭和12年)11月、航空兵中佐に昇進し陸軍航空士官学校教官に就任した[1]

1938年(昭和13年)7月、飛行第59戦隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1939年(昭和14年)12月、飛行実験部実験隊長に就任した[1][3]。1940年(昭和15年)3月、陸軍大佐に進んだ[1][3]。1941年(昭和16年)2月、第13飛行団長に就任し、その後、陸軍航空審査部員、飛行実験部長を務めた[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進級して明野教導飛行師団長に就任し、同年5月、独立第15飛行団長に発令され満州に赴任[1][2][3]。終戦後、シベリア抑留となり、1950年(昭和25年)4月に帰国した[1]

戦後は民間航空の復興に尽力した。1975年12月26日、脳硬症のため神奈川県藤沢市の自宅にて死去[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』101頁では昭和50年没。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』101頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』396-397頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、396-397頁。
  5. ^ 訃報欄『朝日新聞』1976年1月15日朝刊、13版、23面

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。