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井上一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上 一次いのうえ かずつぐ
生誕 1873年7月28日
石川県
死没 没年不詳
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1894 - 1927
最終階級 陸軍中将
指揮 サガレン州派遣軍司令官
第2師団
近衛歩兵第1連隊
戦闘 日清戦争
日露戦争
*奉天会戦
第一次世界大戦
シベリア出兵
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井上 一次(いのうえ かずつぐ、1873年明治6年)7月28日[1][2] - 没年不詳[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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石川県出身[1][2]。石川県士族・井上盛重の二男として生れる[1]第四高等中学校を経て、1894年明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業[1][2][3]。同年9月、陸軍少尉に任官され[3]日清戦争では歩兵第20連隊付として出征[1]1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業[1][2][4]

歩兵第20連隊中隊長、参謀本部出仕、大本営参謀を経て、日露戦争鴨緑江軍参謀として出征し奉天会戦に参加[1][2]。陸大教官、シンガポール差遣、参謀本部付、フィリピン差遣、アメリカ大使館付、参謀本部付などを歴任し、1914年大正3年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第26連隊長に就任[1][4]近衛歩兵第1連隊長、第4師団参謀長を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級し、青島守備歩兵隊司令官として第一次世界大戦に出征した[1][2][4]

1918年11月、アメリカ大使館付武官となり、第5師団司令部付を経て、シベリア出兵時に発生した尼港事件後のサガレン州派遣軍司令官として、北部樺太占領に従事した[1][2][4]1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進級[1][2][4]。参謀本部付を経て、1926年(大正15年)3月、第2師団長に親補された[1][2][4]1927年(昭和2年)7月、待命となり、同年9月、予備役編入[1][2][4]1940年(昭和15年)4月に退役した[1]。のち、興南協会長に就任[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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位階
勲章

親族

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著書

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  • 『会津鶴ヶ城の血戦』会津弔霊義会、1927年。
  • 『日米戦争の勝敗』一元社、1932年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、11頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』93頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』111、113頁。
  4. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』113頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  6. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
  7. ^ 『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。
  8. ^ 『官報』第4101号「敍任及辞令」1926年4月28日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。