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中山仁 (体育学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山 仁(なかやま じん、1921年大正10年)1月18日 - 2004年平成16年)4月26日)は、日本体育学者。新潟大学名誉教授。

略歴

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新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1938年昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京高等師範学校体育科を卒業[1]

1942年(昭和17年)に埼玉県立熊谷中学校教諭に就任、1946年(昭和21年)に新潟高等学校教授に就任、1949年(昭和24年)に新潟大学教育学部助教授に就任[注 1]1971年(昭和46年)に新潟大学教育学部教授に就任[1][注 2]

1986年(昭和61年)に新潟大学を定年退官[2]、新潟大学名誉教授の称号を受称[1]関東学園大学教授に就任、1994年平成6年)に退職。

2004年(平成16年)4月26日午前6時24分に入院中の病院で膵臓癌のため死去[3]

体操体育測定、特に運動能力の評価などについて研究を行った[4]

東京高等師範学校時代に全日本体操選手権大会で個人総合第3位に入賞した。1940年(昭和15年)に開催が予定されていた東京オリンピック体操日本代表候補選手になったが、日中戦争のため東京オリンピックは中止となった[1][3][5][6][注 3]

戦後は新潟県代表の体操選手として国民体育大会に10回連続で出場した[1][3][5]。また、新潟県体操協会会長や新潟市スポーツ振興審議会会長などを務め[1][3][5]、新潟県体育協会、新潟市体育協会、日本体育協会から功労賞を受賞した[3]

栄典

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著書

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共著

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 新潟高等学校教授を兼任。
  2. ^ 1983年昭和58年)から新潟大学教育学部附属新潟小学校中学校校長を兼任。
  3. ^ 中山仁を知る1976年モントリオールオリンピック体操男子団体総合金メダリスト五十嵐久人体育学者、新潟大学名誉教授)は、「体操選手として、ちょうどピークのころだっただろう。悲運としか言いようがない」と語っている[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f 現代 物故者事典 2003〜2005』444頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』551頁。
  2. ^ 新潟大学五十年史 部局編』274頁。
  3. ^ a b c d e 新潟日報』2004年4月27日付朝刊、29面。
  4. ^ 新潟大学二十五年史 部局編』195頁。『新潟大学五十年史 部局編』273頁。
  5. ^ a b c 新潟市体育協会会報 躍動』第24号、8面。
  6. ^ a b 新潟日報』2018年8月19日付朝刊、28面。
  7. ^ 「叙位・叙勲」『官報』号外第210号、2頁、大蔵省印刷局、1995年11月6日。
  8. ^ 「叙位・叙勲」『官報』第3864号、10頁、国立印刷局、2004年6月4日。

参考文献

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  • 「中山仁」『現代 物故者事典 2003〜2005』444頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2006年。
  • 「中山仁」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』551-552頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
  • 中山仁さん (PDF) 」「訃報」『新潟市体育協会会報 躍動』第24号、8面、新潟市体育協会[編]、新潟市体育協会、2004年。
  • 「幻の五輪体操選手 中山仁氏」『新潟日報』2004年4月27日付朝刊、29面、新潟日報社、2004年。
  • 「幻の東京五輪 開催返上で代表夢に 悲運ばねに体操界けん引」「消えたスポーツ 戦時下の新潟〈6〉」『新潟日報』2018年8月19日付朝刊、28面、新潟日報社、2018年。
  • 『新潟大学二十五年史 部局編』新潟大学二十五年史編集委員会[編]、新潟大学二十五年史刊行委員会、1980年。
  • 『新潟大学五十年史 部局編』新潟大学五十年史編集委員会[編]、新潟大学五十年史刊行委員会、2000年。

関連文献

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