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[[第二次世界大戦]]後([[1945年]] - )の[[日本国憲法]]における[[基本的人権]]の尊重の概念により[[日本国政府]]、[[地方公共団体]]・部落解放同盟、自由同和会やその支援者などが主張・提訴・改善・解決しようとする対象に関する問題のこと。 |
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[[第二次世界大戦]]後([[1945年]] - )の[[日本国憲法]]における[[基本的人権]]の尊重の概念により[[日本国政府]]、[[地方公共団体]]・部落解放同盟やその支援者などが主張・提訴・改善・解決しようとする対象に関する問題のこと。1969年の[[矢田事件]]による言いがかりで利益を得た部落解放同盟は以後、全国の地方自治体を「糾弾」によって利権を得る犯罪行為をくり広げた。これを契機に部落出身者を名乗る者が多い地方自治体では同和行政という逆差別が始まった。部落問題解消のために行われた同和対策事業は悪用する部落関係者を名乗る人により、居住地域や「部落」という存在への嫌悪を招いて、その嫌悪を差別主張の種として更に利権を得る仕組みが出来て、同和利権の旨味を深くするという課題を招いた。2000年に大阪府が実施した実態調査では部落とされていた地域の3分の2が地区外から来た人々となっているが、彼らを含めた人数分の補助金も貰いたい民解放同盟の指示を受けた大阪府は旧部落地域の住民全てに部落出身者認定しようとして解放同盟を批判する人々に新たな差別利権作り口実だとして提訴された<ref name=":0">{{Cite web|title=崩れ出した「解同」タブー/不正事件・利権あさり/日本共産党 一貫して追及/同和予算賛成の「オール与党」|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-04/2007010426_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=「部落差別解消法案」について {{!}} 日本共産党 衆議院議員 宮本徹のホームページです。|url=http://miyamototooru.info/2629/|date=2016-07-15|accessdate=2020-04-04|language=ja|first=宮本|last=徹}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|title=差別解消どころか永久化利権狙う「部落差別解消推進法案」運動で必ず廃案に 民権連が学習会開く/日本共産党大阪府委員会|url=http://www.jcp-osaka.jp/osaka_now/3644|website=日本共産党大阪府委員会|accessdate=2020-04-04|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=旧同和地区を調査/学力テストを他地域と比較 中止求め住民提訴/「新たな部落民づくり」の批判/大阪府|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-15/2006051501_02_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref name=":3">{{Cite web|title=大阪市 乱脈同和行政ここまで/「解同」系病院に320億円/使わぬ土地141カ所も購入|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-05/2006050503_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref>{{Cite web|title=大阪市政からの同和利権一掃を迫る |
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日本共産党党大阪市議団長 下田敏人(『議会と自治体』2006年8月号|url=http://archive.is/FyUeO|website=archive.is|date=2020-04-04|accessdate=2020-04-04|publisher=}}</ref>。1974年の教職員60人が襲撃リンチで入院させられた[[八鹿高校事件]]など部落解放同盟による暴力的な「確認・糾弾」や利権漁りが大きな社会問題となっていた。そのため、2002年には同和利権問題への批判の高まりで、根拠法とされた同和対策特別法は終了した。総務省は廃止理由について、差別解消のために特別対策法の継続は有効でないとした。以降に自治体では部落関係部署や関連法が廃止されたが、全ての地方自治体で廃止された訳ではない。逆に部落団体の影響力の強い大阪府などの地方自治体では独自の同様の法案が制定されたほどだった<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref>{{Cite web|title=人権守る決意新た/八鹿高校事件 30周年で集会/「解同」問題解決めざす|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-24/14_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref>。2006年10月には、当時の長野県の御代田町の部落関係者対応する人言同和対策課長が自殺に追い込まれ、公務災害に認定された。同町では解放同盟幹部による海外研修名目の海外旅行費用1100万円を負担し、部落関係者向けの新築住宅貸し付け事業で返済がされない1億3000円も穴埋めしたのに、滞納の請求もしていなかった。その代償に、町民の国民健康保険料は県内で最も高額、介護保険料は二番目の高さであった。発覚後の2007年2月には町民の怒りを買い、町初の共産党町長が誕生した<ref name=":4" />。2007年頃には[[飛鳥会事件]]ではタブーとしていたマスメディアが見出しにも「解放同盟」の名前を出すなど、同和利権が崩れだした。この事件を皮切りに部落解放同盟幹部による窃盗、横領、恐喝などの犯罪が、大阪、京都、奈良などの府県で相次いで摘発され出した。奈良で部落解放同盟幹部の奈良市職員が「病気」を理由に5年間で8日出勤なのに、ほぼ満額の給与である2475万円を受け取っていたという部落団体関係者への特別扱いは国民を驚かせた<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":4">{{Cite web|title=「解同」横暴・利権あさり/どこまで追い込んできたか/不公正な同和行政の完全終結を|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-04/2007030425_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref><ref>{{Cite web|title=「解同」横暴・利権あさり/どこまで追い込んできたか/不公正な同和行政の完全終結を|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-04/2007030425_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2020-04-04}}</ref>。部落利権と政党して唯一戦ってきた日本共産党<ref name=":0" />に所属する[[小池晃]]は2011年の松本龍大臣の脅迫事件の際に「同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すものであり、部落解放同盟による無法な利権あさりを許すわけにはいかない」と指摘している<ref>2011年7月5日 Jcastニュース[http://megalodon.jp/2011-0705-2106-16/www.j-cast.com/2011/07/05100537.html 共産党・小池前参院議員「松本大臣発言は部落解放同盟の地金」]</ref>。しかし、2016年(平成28年)に「'''[[部落差別の解消の推進に関する法律|部落差別解消推進法]]'''」が施行された。共産党や民権連の委員長は法案の目的は差別解消どころか永久化させ、利権狙う「同和行政の新たな根拠法の制定が狙い。乱脈不公正な同和行政を復活させる根拠を与えるもの」とし、[[矢田事件]]以来の運動を振り返りつつ、2002年の同和対策特別法終了以降からは部落問題を一般国民は意識することはなく、「むしろ問題を意識させているのは行政の研修・教育・啓発だ」と指摘している<ref name=":2" /><ref name=":1" />。 |
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==「部落」の概念== |
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「部落(ぶらく)」は本来「集落(しゅうらく)」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ([[穢多]])と称された[[賤民]]の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に[[西日本]]では被差別部落を略した呼び名として定着した。<ref group="注釈">東日本や山間部などでは集落の意味でも普通に使われるので差別発言だと早合点しないように注意すること</ref>2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に'''[[穢多]]'''・'''[[非人]]'''などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている<ref>{{Cite web |url=http://www.bll.gr.jp/aboutus/koryo2011.html |title=綱領 |publisher=部落解放同盟中央本部 |date=2011-03-04 |accessdate=2019-06-17}}</ref>。 |
「部落(ぶらく)」は本来「集落(しゅうらく)」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ([[穢多]])と称された[[賤民]]の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に[[西日本]]では被差別部落を略した呼び名として定着した。<ref group="注釈">東日本や山間部などでは集落の意味でも普通に使われるので差別発言だと早合点しないように注意すること</ref>2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に'''[[穢多]]'''・'''[[非人]]'''などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている<ref>{{Cite web |url=http://www.bll.gr.jp/aboutus/koryo2011.html |title=綱領 |publisher=部落解放同盟中央本部 |date=2011-03-04 |accessdate=2019-06-17}}</ref>。 |
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2020年4月10日 (金) 03:54時点における版
部落問題(ぶらくもんだい)は、差別に関する、日本の人権問題、利権問題(同和利権を参照)を含む社会問題の一つである。
「同胞融和(どうほうゆうわ)」から略して、同和問題(どうわもんだい)とも称す。
概要
第二次世界大戦後(1945年 - )の日本国憲法における基本的人権の尊重の概念により日本国政府、地方公共団体・部落解放同盟、自由同和会やその支援者などが主張・提訴・改善・解決しようとする対象に関する問題のこと。
「部落(ぶらく)」は本来「集落(しゅうらく)」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別部落を略した呼び名として定着した。[注釈 1]2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に穢多・非人などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている[1]。
ただしその一方で『部落問題事典』(解放出版社、1986年)では「部落民とみなされる人、あるいは自ら部落民とみなす人を部落民という。この同義反復的なことでしか、部落民を定義することはできない」(野口道彦)とも述べられており、「被差別部落」や「被差別部落民」を定義する方法がないことも指摘されている[2]。また、被差別部落には穢多や非人に起源をもつもののほか、夙、鉢屋衆、きよめなど多種多様な起源をもつものがある(雑種賎民)。静岡県では院内という民間陰陽師がもともと被差別民ではなかったところ、明治初期に陰陽師廃止令が発布されたために失職し貧困化して被差別民と同一視されるようになった例が報告されている[3]。また、山窩の集住地を同和対策事業の対象とした自治体もごく少数ある[4]。
被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと考えられることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた[5]。京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある[5]。1937年(昭和12年)に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された[5]。
また、日本統治時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多く、日本の総人口に在日韓国・朝鮮人(在日コリアン)が占める割合は1パーセントに満たないところ、大阪市のある同和地区では住民の13.8パーセントを在日コリアンが占めている[6]。京都市の崇仁地区では1920年代(大正9-昭和4年)以降の人口増加は大半が朝鮮人の増加によるものであり、崇仁学区内の貧困者の比率が京都市内で最も高かった[7]。原則として同和地区在住の外国人は属地属人主義により同和事業の対象とはならないが[8]、自治体によっては完全な属地主義を採り、同和地区在住の在日韓国人を同和対策事業の対象としていることもある(滋賀県草津市の事例)[9]。
部落解放同盟や同和会が同和予算を行政から獲得するため、同和対策事業特別措置法(同対法)のいう「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(被差別部落)が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある(このような地区は「えせ同和地区」と呼ばれる[10])。1976年7月には、もともと被差別部落が存在しない宮崎県児湯郡都農町に同和会が結成され、これに伴って同和会が都農町の一部を同和地区指定させ、支部助成金など同和予算495万円の計上を約束させた[10]。1976年(昭和51年)9月の町議会は同和予算を全額削除したが、宮崎県同和対策室の圧力で最終的に1地区(9世帯、30人)が同和地区として認定させられた[10]。こうして宮崎県では9市9町に36カ所の同和地区が指定されることとなったが、全解連書記長の村尻勝信によると、その3分の1は「えせ同和地区」であるという[10]。大分県でも同和予算目当ての「でっち上げ同和地区」「ニセ同和地区」の存在が報告されている[11]。同じ大分県では、一般地区の貧窮者が「生活保護を受けたいなら○町(同和地区)へ行け。あそこならすぐ手続きしてくれる」と地元の区長から言われ、同和地区に転入した例が多数ある[12]。
同対法施行当時は、個人施策の受給と同和住宅入居を目的として部落解放同盟支部長に認定料を渡し、部落民として認定を受ける「駆け込み部落民」の存在も指摘された[13]。被差別部落民の定義が曖昧であるため、東京都では、自称部落民が部落差別と無関係の傷痕を「被差別部落に生まれたために虐められた痕跡」と偽って同和対策事業の個人給付を申請したケースも報告されている[14]。また、同じ東京都では、ある団体の168人の自称部落民から生業資金貸付申請があったが、最終的に部落民と認められたのは2人だけだったこともある[14]。
被差別部落と被差別部落民の総数について、1946年の部落解放人民大会で採択された宣言では「全国に散在する6000部落300万の兄弟諸君」と呼びかけているが、1965年(昭和40年)の同和対策審議会答申では、日本全国の同和地区数を4160、同和地区人口を111万3043人と述べている。
1982年(昭和57年)の調査では、同和地区数は北海道と東北と沖縄県でゼロ、関東で609、中部で345、近畿で1004、中国地方で1061、四国で676、九州で868とされているが、東北6県にも未指定地区があることは常識となっており[15]、平野小剣や沖田留吉のように福島県の被差別部落から出た水平運動家もいた。なお、被差別部落の最南端は種子島とされている[16]。
呼称の変遷
近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった[17]。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である[18]。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民部落」「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。
歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊部落」「未解放部落」の語に代わって「被差別部落」の語を考案した[19]。なお、井上は、部落問題研究所理事として運営にも関わるなど、部落解放運動に積極的に関わっていた。ただし1966年11月発刊の『世界大百科事典』(平凡社)には「特殊部落」の項目名で記事が立項されており、筆者は井上清その人であった[20]。灘本昌久は「「特殊部落」の使用が自動的に差別発言であるかのごとくにねじ曲げて解釈されるようになるのは、一九七〇年代に入ってからである」[20]と述べている。
蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、「同和行政」という語に由来して「同和」が使われることもある。
灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」、2002年(平成14年)の地対財特法失効後は「旧同和地区」を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「同和地区」(「旧同和地区」)で統一している、と指摘している[21]。ただし「被差別部落」と「同和地区」は同義語ではなく、封建時代の被差別民の集住地でありながら「同和地区」指定を自ら拒否し、同和事業の実施を拒絶した地区(未指定地区)は日本全国で約1000箇所にのぼる[5]。この未指定地区は、同和地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い[5]。
なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差が見られる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独もしくは少数で暮らしている場合もある。たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が隠れ切支丹監視のために一家族ずつ分散して派遣された場合などである。
被差別部落の中では、被差別部落の外(いわゆる「一般地区」)の出身者を指して「ハク」という名称が使われることがある[22][23]。また「部落外」(ムラの外)の意味で「むらそと」という語が使われることもある[24]。高知県宿毛市の部落では、部落外の者を「ネス」「スネグロ」、部落の者を「テコ」と呼ぶ(カラゴ=唐語と呼ばれる地元の部落内隠語)[25]。
現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお、年配者や東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味を持たない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。一例として、成田空港問題で反対運動を行っている成田市東峰地区の住民らは、広報紙で、特殊部落ではない同地区を東峰部落と称している。
歴史
起源
被差別部落の起源については諸説が存在するが、研究者で近世起源説を唱える者はいないとされ、中世あるいは古代以前から存在したとみられているが、人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない。
政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。
近世の身分制度は社会的地位であり、血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。
しかし、部落差別に関しては、明確に「穢多(えた)」という言葉が使われていた鎌倉・室町の時代から、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料[要出典]が現れており、その血統的な差別の起源は古く、最近あるいは今日まで、職業・地域を離れた血統差別の様相を示してきた。
なお、江戸時代の慣習により「士農工商」と呼ばれる四身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在しており、また「四民」のうち武士以外の上下関係については疑問が呈されており、2016年4月現在の歴史教科書においては採用されていない。
身分制度の廃止
明治4年に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命を成し遂げた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。
そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。部落民の呼称はたびたび換えられた。1905年、奈良県教育委員会における文書では「特種部落」が使われ、同時期の三重県の公用文書にもこの語が使われている。また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「特殊部落」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、1903年の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。次に出てきたのが「細民部落」である。これは1912年に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分けが必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉も一時的には使われた。
滋賀県の郡役所で村長会議が催された席上、特殊部落改善が話題になった際、一村長は、「明治4年に解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを[26]」と放言している。
解放令によって法的な地位においては、身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚だった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。
また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。
1896年(明治29年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。
佐賀市外に神野の御茶屋がある[26]。旧藩主の郊外別園だったが、お茶屋付近の若者は部落民に出入りさせない[26]。ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らずの生意気(なまいき)な奴だ”と入園を拒まれ、血みどろにされた[26]。
部落民の心理的発達は極めて暗い[27]。ながい間、部落民は卑屈にされていた[27]。部落民に対する侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる[27]。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである[27]。
特徴
大正末期から昭和初期にかけての社会運動家高橋貞樹の著書『被差別部落一千年史』によれば「同情的差別撤廃の運動者は、部落の欠点について言う[28]。部落の生活は不潔である[28]。狭い屋内に密集群棲(ぐんせい)して非衛生的である[28]。トラホームが多い[28]。彼らはとかく猜疑心(さいぎしん)に富んで穢多根性(こんじょう)なるものがある[28]。貯蓄心がなくていつまでも貧乏である[28]。犯罪者が多い[28]。とかく団結して社会に反抗しようとする傾きがある[29]。かような事実が改善できぬ限り社会が部落を嫌うのは当然と言うべきである[29]。われわれはこの事実を否定することはできぬ[29]。そして部落の欠点というものを考えて見るとき、貧ゆえに起こりくるものばかりである[29]。部落の不潔、密集的な非衛生生活、トラホーム、猜疑心(さいぎしん)、穢多根性(こんじょう)、貯蓄心の欠如、犯罪、反抗、一つとしてこれ貧窮と社会の圧迫とから醸(かも)されたやむをえざる情勢ではないか[29]。」
ただし今日の部落問題研究者は、被差別部落が貧しくなった原因は「社会の圧迫」ではなく松方デフレであったと指摘している。灘本昌久は次のように述べている。
重要なことは、部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争で、明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである[30]。
部落産業の一つに三味線製造用の猫の捕獲があり、このことから、関西地方では被差別部落民を「猫殺し」と呼ぶこともある[31]。
大正時代(1912年 - 1926年)に兵庫県神戸市長田区の番町部落を視察した畑道雄は
此長田村につきて調査せるも血族結婚の数は実に一割二分の多きに達せるなり。
概して早婚早熟にして女は十二三歳の頃より男は十五六歳にして異性を知る。
現に余が聞き知れるには十三歳にして姙娠せる女のありしが如きは実に驚くべき事実といふべし。
近親従兄妹の婚姻は普通にして中には叔父姪、叔母甥の関係に及べる者稀ならずと聞く。
と記している[32]。
ただし、番町部落は1899年(明治32年)の条約改正にともなう外国人居留地制度の廃止による中心市街地改造のために兵庫県が宿屋営業取締規則を改正し、それまで中心市街地区に密集していた木賃宿の営業許可地域を旧葺合区の新川スラムおよび旧林田村の番町部落に限定指定したことでこれらの地域に低廉で劣悪な木賃宿や長屋が集中することとなった。この結果、これらの地区を中心とする地域へ低廉な住居を求める下層労働者が神戸市外から流入し、下層労働者の居住地域となった。他に木賃宿営業許可区域に指定された地域に東京の山谷、大阪の釜ヶ崎などがある。この中心市街地スラムの解体を目的として成立した制度により番町部落では人口の急膨張を生み、1868年に戸数85戸、388名だった人口が1888年には2,208人へと急増する。結果、従来農業従事者の多かった番町部落が典型的な都市型部落へ変貌していった。その急膨張を生んだ移住者のすべてが他地域の被差別部落出身者であるとは考えられず、番町部落の被差別部落民の多くは、都市政策によって肥大化したスラムに吸収された被差別部落出身外者が被差別部落民化していったと見られている[33][34][35]。
『中央新聞』大正7年(1918年)9月13日は次のように報じている。
それから更に部落には早婚の弊があり、十七八の少年や十三四の未だ乳臭い小娘だと思つてゐると意外にも二人は人の親で蝶々髷の小さい母親が赤ん坊を抱いてゐたと云ふ悲惨な話をよく耳にした。部落民に子供の多い事生れた子供が兎角不完全である事などは是等の関係で略想像する事が出来るが、又一面には部落民の女に貞操観念の薄いこと、従つて男女の野合が多いこと、殊に大阪の特殊部落に於て此の風習が盛んな事は全く想像の外で淫猥な極彩色の浮世絵に描かれた有りの儘の事実を最も赤裸々に見る事が出来る。(略)尤もこれは普通の細民部落にも多い現象だが殊に社会と隔絶して自由の天地を局限された特殊民は常に娯楽が少く、仲間同志が互に密集して淋しい心を慰め合ふといふ特有の風習から男女の接近する機会が多く、又同居を好んで赤の他人の男女が雑然と狭い一家に起臥を続けてゐる事が如何に彼等の醜悪な劣情を唆る事であらう。部落の下級民の間に全く貞操観念が爪の垢ほどもなく、更に甚だしいのは親子姦、兄妹姦といふあるまじき不倫が行はれるのも敢て珍しくないといふに至つては戦慄せざるを得ない。[36]
留岡幸助は明治時代(1868年 - 1912年)に北海道の空知集治監で教誨師をしていた折、主として関西の部落出身の受刑者に多数接した経験から「挙動が野卑であつて、其罪質を調べて見ると随分猛悪なものが多い。例へば辻強姦をするとか、辻強盗をするとか、或は殺人をしても眼を繰抜いて、手足を寸断するとか、一種名状すべからざる惨酷な性情を有つて居る。さうしてなかなか犯罪の比例が多い、普通民の犯罪が人口千人に対して一・三位であれば、特殊部民の犯罪は人口千人に対して約八以上もある。非常に多い処では人口千人に十人位もある所がある」と述べている[37]。
軍隊と部落民
部落民にとって兵役の負担は一般社会に比してさらに一層の重税であった[38]。それにも関わらず、部落出身者の国民男子は大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍への兵役中においてあらゆる侮辱を忍び、成績が良好であっても進級することは甚だ困難であった[38]。すでに入営の際に部落出身者という旨を記入し、劣等扱いをした[38]。軍隊内の凌辱に堪えきれず自ら銃台をもって頭を打ち割った兵士や、脱営して古沼に投じた兵士がいた[38]。
群馬県の一部の村では、入営のとき次のような出来事があった[38]。その村から帝国軍人として徴兵された十幾人のうちに部落の青年が二人あった[38]。十二月の入営期がきて、部落出身以外の壮丁は、在郷軍人からも町民からも送別の歓待至れり尽くせりで、在郷軍人会からは軍服を貸し渡した[38]。ところが部落の両青年にはそれを貸してくれなかった[38]。仕方なく一人は新調して間に合わせたが、もう一人は貧しかったため、ようやくにして一着の古いぼろぼろの軍服を町の軍人会に哀訴(あいそ)嘆願して借りた[38]。軍人会は「穢多の奴(やつ)に貸す服はない[38]。奴らにはこれでたくさんだ[38]。」と述べたという。
選挙権付与
明治天皇は、部落民、アイヌ民族、ハンセン病患者を含む臣民男性に対し、平等に兵役義務を課し選挙権及び被選挙権を与えた[39]。ただし当初は納税額による制限選挙で、法律で全国統一の金額が定められたため、マイノリティーには経済格差のため参政が困難であった。沖縄県では、県民所得が全国平均の3分の2程度で有権者比率は少なかった。制限は徐々に緩和され、1920年(大正9年)の時点では鹿児島県の部落民の有権者は衆議院選で154名、地方選で383名に達していた[40]。また、1920年には内地在住で兵役義務対象外の朝鮮人及び台湾人にも選挙権が与えられたが、納税要件を満たしたのは裕福な貿易商等の資産家に限られていた。1925年(大正14年)に普通選挙が始まり、25歳以上の全国民男性に選挙権が与えられた。ただし有権者当人が投票用紙に自書する必要があるので、非識字者はメモ書きした候補者名を書き写すなどして投票した。ハンセン病患者も徴兵検査を受ける義務があり、投票所へ行けば選挙権を行使できた。1930年(昭和5年)には日本語識字力の無い朝鮮人のために、ハングル(朝鮮語)での投票が可能となった[注釈 2]。
第二次世界大戦降伏による連合国軍占領下の日本で、1945年(昭和20年)10月に兵役法が治安維持法などと同時に廃止され、12月に衆議院選挙法が改正され選挙権は「20歳以上の全国民男女」であり男女平等となった。一方で、植民地籍者の選挙権は保留となった。1950年(昭和25年)に公職選挙法が施行され、投票立会人による代理投票や不在者投票が実現した。
水平社運動
このような状況を改善するために、かつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」することを恐れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。
「国民の融和」を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多であることを誇る時が来たのだ。」と宣言した。今でこそ「特殊部落」は差別用語として扱われ部落民も避ける傾向があるが、水平社結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる
「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。實質が變化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。
当時は1917年(大正6年)のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人々によく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った左派を弾圧した。1920年代(大正9-昭和4年)後半の低迷を経て、1930年代(昭和5-14年)以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年(昭和8年)の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せることもあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争(大東亜戦争)突入後の1942年(昭和17年)に消滅してしまった。
戦後に、「同胞融和」という言葉から、部落問題のことを「同和問題」とも呼ぶようになった。
戦前の同和教育開始
1942年(昭和17年)8月に文部省(当時:→文部科学省)社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、初めて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。
戦後の同和対策事業
1951年(昭和26年)、在日朝鮮人の生活を扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのは全員が在日朝鮮人、その「特殊部落」に居住していれば「部落者」と呼ばれ差別されるが、その地域から住民異動すればそれは解消されるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容[41]で、地域の住民たちは事実を歪めて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。
部落解放同盟(部落解放全国委員会から1955年(昭和30年)に改称)や全日本同和会(旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと自民党と日本社会党との間で合意が形成された結果として、1969年(昭和44年)に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。また、1982年(昭和57年)には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。
このように、部落解放同盟を始めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラストラクチャーの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。「同和地区」と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。
教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」(逆差別)と主張されるが、これらの措置は移民国家のアメリカ合衆国で女性やアフリカ系黒人、先住民など社会的少数者である非ヨーロッパ系・非白人への雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)とも捉えることが出来るが、アメリカにおける人種差別と本邦における部落問題を同列化して捉えることの正当性について議論が呈されている。
一連の同和対策事業の一部は1987年(昭和62年)3月31日に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、2002年(平成14年)にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。
教科書の無償化運動
1961年(昭和36年)、高知県の同和地区の父母が、学習会において日本国憲法を学んでいたが、第26条に「義務教育は、これを無償とする」と言う条文を見つける。この事で、それまで有償だった教科書に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。
結果、1963年(昭和38年)「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し1969年(昭和44年)までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。
八鹿高校事件
1974年(昭和49年)11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校の教職員約70名に総評系労組などで構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議の部落解放同盟が襲撃する事件が起こった。この事件により教職員48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のケガをした。刑事事件では起訴された部落解放同盟員全員が有罪で確定、民事裁判でも解放同盟の暴行障害に協力した県、教育委員会が被害者に謝罪し賠償金を支払い、解放同盟は判決確定後かなり経ってから法定の遅延利息を含む判決の金員を支払っているが、今も教師たちに対する集団暴行・障害の正当性を主張し続けて謝罪を拒否している。
同和事業に関わる不正・腐敗
同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。とりわけ1981年(昭和56年)の北九州土地転がし事件、2001年(平成13年)に表面化したモード・アバンセ事件、2006年(平成18年)に発覚した飛鳥会事件や奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件、八尾市入札妨害恐喝事件など、運動団体の幹部と行政の癒着が報道されている。
特に一部の地方自治体で同和対策事業に関する不正が発覚した2006年以降、大阪市を始め各地方自治体では同和行政の大幅な見直しが行われることになった。
2008年(平成20年)鳥取県では、部落解放同盟鳥取市協議会の元会計責任者が架空の人権コンサートをでっちあげて平成17年度の市教委の補助金50万円を不正受給していたことも発覚した。
また、関係者の自作自演による差別事件なども複数発覚している。これは実際には差別事件など起こっていないにもかかわらず、さも差別事件が発生しているように見せかけた悪質なもので、滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件や解同高知市協「差別手紙」事件などがその一例である。これは、現在でも行われており、2009年(平成21年)7月7日には、福岡県で、同和地区の出身者である立花町(現・八女市)の嘱託職員の男が、自宅にカッターナイフの刃を同封した差別的な文書を、町役場にも差別的な記述があるはがきを匿名で送るという事件が発生した。「被害者になれば町が嘱託の雇用契約を解除しにくくなると思った」と男は話しており、県警は偽計業務妨害の疑いで逮捕した[42]。
2009年(平成21年)、福岡県では、2月、立花町役場に採用された被差別部落出身の男性から、県議に「差別問題を県議会で取り上げてほしい」との電話があった。2003年(平成15年)から、この男性に対する44通の差別的なはがきが役場などに郵送されていた。県議は、電話を受け、県警に徹底捜査を要請した。しかし、3ヵ月後、逮捕されたのは「被害者」であるはずの男性だった(立花町連続差別ハガキ事件)。この男性は、44通すべての関与を認めており、会合で話をして、講演料まで受け取っている。県警は、町に雇用を継続させることが目的だったと見ている[43]。
現在の部落差別
かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかし、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落のリスト(特殊部落「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件がたびたび起こっている。結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間のイデオロギーの差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。
少なくとも高度経済成長による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく転入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。ただし、部落解放同盟委員長の組坂繁之は「差別は自然にはなくならない。それどころか、『寝た子を起こすな』というので自分の家が部落民であることも部落問題のことも何も教えられずに育った子供が、家の外で聞いてきた社会の偏見を鵜呑みにして家族の前で平気で差別発言をしたという例がある」と述べている[44]。
一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている[45]。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある[46]。
政界においては野中広務が被差別部落の出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。野中が出馬するという説があった2001年の総裁選では、部落出身であるから内閣総理大臣にはなれないという話も出てきていた(結局野中が所属する平成研究会は橋本龍太郎を擁立した)。こうした中、野中は同党の麻生太郎が差別発言を行ったとして名指しで非難し(野中の著書によれば、新聞記者からの情報があったとされている)、麻生が否定するという一幕もあった[47][48][49]。
部落問題とマスメディア
部落問題は、現代の日本において一種のタブーであると言われる。そのためマスメディアなどでは「荊タブー」と呼ばれ正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられる番組は『朝まで生テレビ』など少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。
「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正、もしくは「集落ですね」などとその場で言い換えられる。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事もなく放送が進む場合が多い。
21世紀に入って『同和利権の真相』(寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21著・別冊宝島Real、宝島社文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられたハンナン株式会社の浅田満元会長が2004年(平成16年)4月17日にBSE対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。
なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文[50]や、宮崎学、角岡伸彦など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』(解放出版社)がある。
部落差別の実状
結婚差別
部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢(けが)れるから」と反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに妨げがあった。そのため部落民は部落民同士で結婚することや、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであるなどのことが多かった。
また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、結婚に反対する傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。この問題があるため、現在はどの探偵業者も、“差別につながる身元調査はしません”と広告(主として電話帳)に注記している。
なお、部落民による結婚差別もあったことを畑道雄が報告している[32]。それによると、神戸市の部落の娘に部落外の会社員が求婚したところ、娘の親が会社員の血統の調査をおこない、「もし男が同じ穢多の生まれなら喜んで娘を嫁がせるが、そうでなければ断る」との理由で破談になったという[32]。
就職差別
1975年(昭和50年)11月に、被差別部落とされる地域を一覧で記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備したとされる「部落地名総鑑事件」が発覚した。しかし法務省人権擁護局は、被差別部落ではない地名も含まれている、としている。2007年(平成19年)には、部落地名総鑑の内容を収録したフロッピーディスクが出回っていることが発覚した[51]。
差別とされた表現の例
- 1956年(昭和31年)1月、小説家石上玄一郎が『朝日新聞』文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。これに対して部落解放同盟が朝日新聞社を糾弾。朝日新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず、前向きに差別の現実を書く」ことを約束した[52]。この結果、朝日新聞は1年後の人権週間に『部落 三百万人の訴え』と題する連載記事を掲載した[53]。
- 1962年(昭和37年)、小説家灰谷健次郎が短編小説『笑いの影』(『新潮』1962年12月号)で被差別部落出身の中学生による暴力・セックス・強姦・殺生・犬肉食などを描く。この作品における、被差別部落出身の中学生のセリフ「どうせオレたちは差別教育を受けて、ドカチン(土方)か、アンパン(日雇)になるんだ。センコにおべんちゃらをして泣きついて、せいぜい町工場に就職させてもらうんじゃわりにあう話やない。暴れるだけ暴れてよオ、したいことをして出ていってやる」などが部落解放同盟から「少年非行を通して権力の姿を浮き彫りにするという図式を装いつつ、その実やたらと暴力的な行動と、やたらと猟奇的な行動を、卑俗な興味の中で描こうとした」「いわれもない差別の中に生きている人たちの実態が何もなく、恣意的にしかも偏見に満ちて描かれている」と批判され、糾弾に至った[54]。
- 1962年(昭和37年)7月、劇画家平田弘史が劇画『血だるま剣法』(日の丸文庫)で江戸時代の被差別部落出身剣士の復讐を描く。このため、「部落民を残酷な人々と描くことで部落解放運動をゆがめている」などの理由により部落解放同盟大阪府連合会の糾弾を受け、同書は発売後1カ月で回収・絶版に追い込まれた[55]。
- 1967年(昭和42年)1月と2月、小説家で精神科医のなだいなだが『毎日新聞』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の劣等感によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。
- 1967年(昭和42年)1月、NHK連続テレビ小説『おはなはん』(脚本は小野田勇)の中で、駅前の肉屋のある地域を指して「柄の悪いところ」「こわいところ」という台詞を使い、その「こわいところに乗り込む主人公」を勇敢な女性に見立てた場面が部落解放同盟中央本部から問題視され、NHKが糾弾を受けた[53]。
- 1968年(昭和43年)、日本社会党の中央理論誌『月刊社会党』10月号に「社会党中央執行委員会では通ずるかも知れないが、普通の感覚を持ち合わせているものには奇異をさえ覚える。中執委は特殊部落かと頭をかしげざるを得ない」との文章が登場。筆者の松井恒子は日教組本部調査部副部長で社会党員であった。これに対して部落解放同盟は社会党委員長の成田知巳に抗議し、反省と陳謝の回答を得た[56]。
- 1969年(昭和44年)、経済学者大内兵衛が、岩波書店刊行の雑誌『世界』3月号に論文「東大は滅してはならない」を発表。この論文における「大学という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表[57]。
- 1969年(昭和44年)、評論家竹中労が、『週刊明星』連載の「書かれざる美空ひばり」で「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げたこと、あたかもそれは、世阿弥、出雲のお国が賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」と書き、部落解放同盟大阪府連に糾弾された。
- 1970年(昭和45年)、児童文学者今江祥智が長篇童話『ひげのあるおやじたち』(福音館書店)の中に非人を登場させ、「非人たちは、いつもどこか死人のにおいがした」(pp.112-113)、非人部落の描写として「なんともかともいえぬにおいが、下のほうからむっとのぼってきたのだった。目のなかにまでしみるようなにおいだった」(p.116)などと記述。これらの表現が部落差別を助長しているとされたため、今江は部落解放同盟から糾弾を受け、1971年(昭和46年)4月、『日本児童文学』誌に「わたしの中の"差別"」と題する反省文を発表。『ひげのあるおやじたち』は直ちに絶版・回収・裁断処分となり、2008年(平成20年)に『ひげがあろうが なかろうが』に併録される形で解放出版社から復刊されるまで公刊されなかった。
- 1973年(昭和48年)7月19日、司会者玉置宏がフジテレビのワイドショー『3時のあなた』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、1973年(昭和48年)8月16日、部落解放同盟が玉置とフジテレビと関西テレビを相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。
- 1973年(昭和48年)4月1日、日本テレビ『ドキュメント73』の「この若き官僚たち」の中で、出席した外務省アメリカ局北米二課の谷内正太郎が「われわれを特殊部落的にみてもらいたくない」と発言[58]。このことが部落解放同盟から問題視され、4月19日、日本テレビ本社で糾弾会が開かれた[58]。7月13日、日本テレビ側が部落解放同盟中央本部に自己批判書を提出[58]。日本テレビは反省の意味で、12月9日、『ドキュメント73』の枠で結婚差別問題(住吉結婚問題)をとりあげた「あるたたかいの記録」を放映した[58]。この住吉結婚問題は、部落出身の女性が結婚差別で自殺したとされる事件であったが、女性の婚約者側は「遺書により初めて部落出身と知った」と主張しており、本当に差別事件だったかどうかは疑問がもたれていた[58]。しかし番組の内容はあくまで部落解放同盟の立場にたったものであった[58]。このため、部落解放同盟正常化連(当時)の中西義雄は、12月12日、日本テレビに「事実無根のデマ報道」との抗議を申し入れている[58]。
- 1973年(昭和48年)9月、映画評論家の淀川長治が『サンケイ新聞』のインタビュー記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」、「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らのエリート意識をさらけ出すもの」「エセ・ヒューマニズム」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った[59]。この事件の後、サンケイ新聞社は1974年(昭和49年)11月から1975年(昭和50年)3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。部落解放同盟は、部落解放同盟大阪府連合会制作による狭山事件告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう淀川に要求した。
- 1974年(昭和49年)、大正製薬の強壮ドリンク剤「リポビタンD」の広告のキャッチフレーズが「ヨッ! お疲れさん」から「ヨォ! お疲れさん」に変更された[60]。「ヨッ」が被差別部落民の蔑称である「四つ」に通じるため、関西の被差別部落関係者から抗議があり、あわてた大正製薬が広告取扱店の電通に改稿を求めたというのが真相であった[60]。
- 1974年(昭和49年)1月、共同通信による記事が福岡の『夕刊フクニチ』に掲載された[61]。記事の内容は森敦の『月山』を紹介するもので、「密造酒をつくり飲み交わす雪に閉ざされた部落の人々の生活は外界の俗世間とは隔絶した別世界である」と書かれていた[61]。この「部落」は被差別部落の意味ではなかったが、部落解放同盟八幡地協が差別表現として問題視。『フクニチ』の編集局長が八幡地協に呼び出され、「掲載したフクニチの姿勢が問題だ」「社長を呼べ」「部落は被差別部落と同一語だ」「おまえは被差別者か。そうでなければ差別者だ」などと吊るし上げを受け、掲載紙の回収を迫られる事態に発展した[61]。
- 1977年(昭和52年)、作家の臼井吉見が展望に連載した『事故のてんまつ』に、川端康成の家政婦や川端自身について被差別部落出身を想起させる描写をしたため、川端家からは販売差止め仮処分の民事訴訟が提起されると共に、部落解放同盟からは糾弾を受けた[62]。
- 1977年(昭和52年)12月14日、日本社会党委員長の飛鳥田一雄が日本テレビの『おはようニュースワイド』で「国会が特殊部落のようにならなければよいが」と発言[63]。これに対し部落解放同盟が抗議し、一度は社会党から陳謝を得たものの納得せず、さらに2年間にわたって抗議を続け、1979年11月23日、飛鳥田が部落解放同盟主催の「松本治一郎死去13年記念集会」で謝罪講演を行い、その全文を社会党機関紙『社会新報』に掲載することでようやく一応の決着をみた[63]。
- 1979年(昭和54年)8月、曹洞宗宗務総長で全日本仏教会理事長(当時)の町田宗夫が、米国ニュージャージー州プリンストンにおける第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。これをきっかけとして同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議が1981年に結成された。
- 1981年(昭和56年)2月、政治学者で東京大学社会科学研究所教授(当時)の有賀弘が、ベルリン自由大学における日本学研究室の金子マーティン講師(当時)の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「日本語の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。
- 1982年(昭和57年)、俳優座がブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』を上演した折、「屠殺」という表現が部落差別とされ、改題してもなお激しい糾弾に遭い、上演は困難を極めた。
- 1984年5月24日、日本テレビ系『ルックルックこんにちは』でゲストの政治評論家の宮川隆義が「国会は特殊部落のようなもの」と発言。部落解放同盟から糾弾を受けた[64]。
- 1986年(昭和61年)、『旅の手帖』誌(弘済出版)が山陰観光キャンペーンの記事で「ミニ独立国」へ「税金」を払うと特産品が送られてくる企画を紹介。金額によって「くにびき」「オロチ」などと名付けられた金額別のコースを「平民向け」「富豪向け」「大富豪向け」と記した表現が島根県当局によって「『平民』など差別的な表現」とされ、出版社への抗議や雑誌の回収に至った。この事件は部落解放同盟広島県連合会発行の『部落解放ひろしま』5号(1986年12月)でも論評抜きに肯定的紹介がなされたが、「『平民』が『庶民』とでもいいかえられておれば、問題化しなかったのであろうが、笑止の沙汰である」「本来、解放同盟が差別の矮小化として注意を喚起すべきところ」[65]という批判を呼んだ。
- 1987年1月19日、日本テレビ系『11PM』にて、早坂茂三が「永田町という特殊部落」と発言。部落解放同盟中央本部から糾弾を受けた[64]。
- 1987年10月5日、フジテレビ系『おはよう!ナイスデイ』にて、映画監督の斎藤耕一が「大学のような特殊部落」と発言。フジテレビ社長の日枝久ともども部落解放同盟から糾弾を受け、フジテレビは部落解放同盟の意向に沿って「部落差別の現在進行形」と題する番組を放映させられた[64]。
- 1988年(昭和63年)、山口県新南陽市当局が同和事業執行の必要から市営住宅に関する条例を改め、市営住宅の入居資格における「寡婦、引揚者、炭鉱離職者」という従来の制限に「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という条項を加えた。これが部落解放同盟から「部落民を特殊な者として差別した表現」と問題視されて糾弾に発展、市当局者は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったのは遺憾」と陳謝し、条例を改めた[66]。これに対して灘本昌久は、「水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったこと」「『特殊』という言葉に、これほどこだわることは驚くほかない。『特殊』の代わりに、『特別』とでも書いておけばよかったのだろうか。これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、運動史上の汚点のひとつである」と批判した[67]。
- 1989年(平成元年)10月、ニュースキャスターの筑紫哲也がTBS『ニュース23』の第1回目の放送でビートたけしと対談し、アメリカ軍がコロンビアの麻薬密売を取り締まる麻薬戦争について「いま麻薬の値段を吊り上げたら、ニューヨークの街も多分屠殺場だね」と発言した。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため(批判的な意味で言葉狩りとも呼ばれた)、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切だったとして翌日に謝罪をした。しかし一部の屠場労組から抗議があり、部落解放同盟も加わっての糾弾会が合計9回にわたって行われた[68][注釈 4]。
- 1989年(平成元年)、岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)における「戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述における「屠殺」の語句が問題とされ、回収処分となった。
- 1991年、月刊誌『山と溪谷』1月号(山と溪谷社)の連載企画「論争のうちとそと──第13回・田淵行男〜安曇野のナチュラリスト」(筆者は近藤信行)の中に「山岳写真家という『特殊部落』の住人」など、4ヶ所で「特殊部落」の語が使われていることが問題視され、同社は部落解放同盟から糾弾を受けた[69]。
- 1991年9月30日、経済学者の村田昭治は日本テレビ『EXテレビ』にコメンテーターとして登場し、「デパートの中で、宣伝部だけが特殊部落だというイメージをつくっちゃったら駄目なんですね」と発言。村田と日本テレビは部落解放同盟から糾弾を受け、謝罪と反省文提出に追い込まれた[64]。
- 1996年(平成8年)、講談社が発行した少女漫画誌『別冊フレンド』3月号の連載漫画『勉強しまっせ』(みやうち沙矢)の中に大阪市西成区が登場。西成について、副編集長の手により「大阪の地名。気の弱い人は近づかない方が無難なトコロ」との解説が付された。このため、みやうちと講談社は部落解放西成区民共闘会議などに糾弾された。
- 2004年(平成16年)、代々木ゼミナール講師(古文担当)の吉野敬介が講義の中で「鑑別所にランクってあるんです……俺なんか暴走族の特攻隊長のとき、入ってんだよ。鑑別所に入った瞬間に、天皇陛下級なの、ほんとに……レイプとかな、強姦なんかで入っちゃった日にゃ、な、エタ・ヒニンだ。ほんとに」などと発言。このため吉野と代々木ゼミナール法人総括本部長ら計6人が共に部落解放同盟から糾弾を受け、吉野は反省文の提出を、代々木ゼミナールは「人権研修」の実施などを要求された[70]。
- 2005年(平成17年)、テレビ朝日系の番組「サンデープロジェクト」において、ハンナン偽装食肉事件に関する報道VTRの放映の直前に生放送中のスタジオ内で田原総一朗が「この人(浅田満)をやらないマスコミが悪いんですよ。この人が被差別部落のなんとかといってね、恐ろしがっている。何にも恐ろしくない。本当はね。それを大谷さんがやるんだよね。この人は被差別部落をタブー視しないからできる」と発言し、それを受ける形で高野孟が「大阪湾に浮くかもしれない」、うじきつよしが「危ないですよ2人とも」と発言。これらの発言を部落解放同盟が「部落への強烈な予断と偏見を視聴者に植えつける」ものと位置づけたため、糾弾に至った(サンデープロジェクト糾弾事件)。
- 2009年(平成21年)、朝日新聞の社員が2ちゃんねるの掲示板で差別的な書き込みをしたとして懲戒処分が下された。朝日新聞社員2ちゃんねる差別表現書込事件を参照
- 2012年(平成24年)、NHKのテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」(5月7日放送)にて、俳優の谷原章介がみずからの祖先を探るために寺院を訪ね、過去帳を見せてもらう様子が放送された[71]。すると「過去帳はお寺に行けば簡単に見せてもらえるものだという考えを視聴者に与える」と部落解放同盟が抗議[71]。NHKは「差別への認識の甘さ」に対する反省文を出すよう要求された[71]。
- 2012年(平成24年)、佐野眞一と『週刊朝日』取材班(今西憲之、村岡正浩)の共同執筆による橋下徹大阪市長の評伝『ハシシタ 奴の本性』の連載第1話が『週刊朝日』10月26日号に掲載された。記事の内容は、父方を通じて被差別部落にルーツを持つ橋下の血脈を探るものであり、10月18日、橋下徹から定例記者会見で抗議を受けた[72]。同日、自由同和会中央本部が『週刊朝日』編集長に抗議文を提出[73]。10月19日には『週刊朝日』編集部がこの連載の打ち切りを決定[74]。10月22日、部落解放同盟中央本部も抗議声明を出した[75]。10月26日には同誌編集長の河畠大四が更迭され[76]、11月12日には3カ月の停職処分を受けた[77]。同じ11月12日には『週刊朝日』の発行元である朝日新聞出版社長の神徳英雄が引責辞任している[78]。なお、11月12日付で佐野眞一が「見解とお詫び」と題する謝罪文を発表し、「差別や身分制度を助長する考えは毛頭ありません。しかしながら、ハシシタというタイトルが、不本意にも橋下氏の出自と人格を安易に結び付ける印象を与えてしまい、関係各位にご迷惑をかけてしまいました」と述べている[79]。本件についての詳細は「週刊朝日による橋下徹特集記事問題」を参照。
差別とされなかった表現の例
- 松本治一郎は、1952年(昭和27年)7月、徳川夢声との対談で「『部落』と書こうが『エタ』といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを糾弾するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」[80]と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、1948年(昭和23年)には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」[81]と述べ、特殊部落という語を差別的文脈で使用していた。しかしこれは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった[82]。
- 1952年(昭和27年)8月20日、『解放新聞』は「おじいさん達も斗つた─八十一回目の解放令記念日を迎え」と題する山村槙之助の記事を載せた。この記事の中では「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、『解放新聞』も山村も自己批判しなかった[83]。
- 1966年、丸山眞男が鼎談集『現代日本の革新思想』(河出書房新社)の中で「とかく左翼インテリの論議は、現実の勢力配置をそっちのけにして、せまいイデオロギー的"部落"のなかでワイワイやることになりがちですからね」と発言。しかし糾弾の対象とならず、読者の呉智英は「釈然としない気持ちだった」と回想している[84]。
- 1970年、大江健三郎はルポルタージュ『沖縄ノート』の中で、集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した。この件について、「世界屠畜紀行」(解放出版社)の作者・内澤旬子は「誤植……じゃないよなあ」「屠場労働組合がまさに糾弾対象としている使われ方にドンピシャリ」と驚きを示した(2007年12月3日付の著者ブログ)。また、評論家の呉智英は「部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した」「だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい」[85]と問題提起した。しかし、今日に至るまで部落解放同盟は大江を一度も糾弾しておらず、その理由も説明していない。
- 1971年、塚本邦雄が『悦楽園園丁辞典』(薔薇十字社、1971年)p.38で「商業美術といふ画壇の特殊部落で、お前はつひぞ劣等感を感じなかつた」と記述。しかし糾弾には至らなかった。
- 1981年、中野孝次が『文藝』1981年4月号における対談で「闇を意識しないで、明るみの中だけで書いていると、言葉はどうしても特殊部落的な言葉になっちゃうでしょ、インテリ語というか」と発言。絓秀実はこの発言を自己批判するよう促したが、中野はこれを拒否。その後、部落解放同盟と友好関係にある野間宏が中野孝次と部落解放同盟の間に入り、中野を糾弾しないよう話をつけた、という[86]。
- 2010年、森功は講談社発行『g2』12月号の「同和と橋下徹」で橋下徹が同和地区出身であることに言及。一連の橋下同和報道の嚆矢であり、具体的な同和地区名も挙げていたが、糾弾を免れた。
地域較差
被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には、大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んに行われる傾向が強い。
一方、関東地方では、残存した被差別部落が極めて少ない上に、1960年代以降の人口移動の継続的な増加[87]と、大規模な都市再開発が進められたため、1970年代半ばには、住民とその居住する地域の関連性が見出せなくなった。これにより、被差別部落も曖昧な「過去の概念」に変化し、自律的な被差別部落の解消が急速に生じた。
北陸地方や東北地方でも、残存した被差別部落はごく少数であったことから[88]、明治時代中期には、既に被差別部落への意識は希薄なものとなっていた。このような状況から、戦後の学校教育で、部落問題を敢えて取り上げる必要性も無くなった。また、並行して「部落」という言葉は「被差別」の意味を失い、「一般的な集落」や「町内会」といった本来の語義に戻った。差別用語としての認識は全く無く、むしろ地域の仲の良さを象徴する言葉となっている。現在の東北出身者のほとんどは住む地域や職業による差別が存在すること自体知らず、理解に苦しむ者がほとんどである。
このように、東日本では1980年代初頭までに、被差別部落の解消が広い範囲で進展したため、解放運動も局所的かつ小規模なものに留まるようになった。なお、北海道や南西諸島には、この項でいう「被差別部落」は存在していない。(琉球における宮古・八重山に対する差別と、この項で述べるものとでは、その背景が異なっている。)
北陸地方で部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因である。浄土真宗では武士、猟師、そして被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生は、忌避の外としていた。浄土真宗ででは自力で本願を遂げられると信じる「善人」よりむしろ「悪人」こそが、阿弥陀如来によって救われる存在であるという「悪人正機説」が唱えられた。ここでいう「悪人」とはは自力で本願を遂げられないもの、煩悩や迷いがあり悟りを開けぬものものといった意味であるが、鎌倉時代の辞書『塵袋』によると当時の「悪人」という言葉には賤業と考えられていた猟師・商人の意味もあった。このような教義から浄土真宗は全国の被差別民の救済にも熱心にとりくみ、被差別民の大半が浄土真宗に帰依していくことになる。浄土真宗が殺生とどう向き合っていたのか例を挙げると越中(富山県)に残る「念仏行者心得か条」には「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」(仕事ではない殺生はしないようにしましょう)と書かれている。代々の指導者は繰り返し生きるために必要な殺生の必要性を説いている。開祖親鸞は「海川に、網を引き、釣をして、世をわたるものも、野山に、猪を狩り、鳥を取りて、生命を継ぐともがらも、商いもし、田畠を作りて優る人も、たゞ同じことなり」と言っている。また本願寺中興の祖といわれる本願寺第8世の蓮如が越前(福井県)吉崎御坊を拠点としていた際に書いたと思われる手紙(御文)の一節に「ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」とある[89]。
浄土真宗への帰依が深い越中(富山)において被差別民にあたる職業を担っていた「藤内」は一般集落から隔離されること無く、各集落内に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。加えて、1980年代後半以降、これらの地域では急速な過疎化が進み、1990年代以降は被差別部落も含め消滅集落になる集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。そのため、北関東地方も含めたこれらの地域では、通常の学校教育では現代の部落問題に関して教えることはまずないことから、関西以西に進学する学生を対象に、部落問題についての禁忌、タブーといったものを特別に講義する事態になっている。
東北地方は、戦国時代などでも雪が多いため、戦いには不利で冬には食糧を生産することが困難なため、欲しがる武将もおらず、安定した場所であった。しかしその分、他の地方からの食べ物が入らないために冬を越すためには地域による助け合いが必要不可欠であり、部落差別をする余裕すらなかった。しかし反面で地域の助け合いを行わない・働かない者は排除されていた。地域的な差別こそないものの、家主が非協力的な態度であれば、周囲からも援助を得られなかった。そういった者は子供の世代が幼少期の苦労や成長しても煙たがられて仕事をもらえないため、他県に移住し、二度と故郷に帰ることは無かった。
現在の部落問題(関連団体とインターネット)
「最近、都会やその近郊では近隣の住宅や人の移動などで存在が薄れ、部落差別は現在はほとんど意識されることがなくなった」とも言われるが、最近でもその存在その物をタブーとする人においては差別意識が改善されたのではなく、単に忌避意識が潜在化しているだけであるという解釈もある。
また、糾弾闘争に対して、近年では、「差別とされる内実も、被差別部落出身だからというよりも、強力な圧力団体がバックについているがゆえに敬遠され、差別解消を建前とする部落解放同盟が、反対に真の意味での差別解消を妨げている。自己目的化した団体は、本来の目的を達成することでその存在意義を失うことを恐れている」と言われている。小池晃も「同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すもの」とし、部落解放同盟による無法な利権あさりを批判し、またこのような批判を「差別」とされるのは完全な筋違いであると述べている[90]。
その一方で、出版物やインターネットなどでアンダーグラウンド情報などとして、差別を煽動するような情報が流されるという事実もある(アマチュアパケット無線での「地名総鑑」流布事件)。
被差別部落と暴力団
「苛烈な『糾弾』への忌避感情」を利用して押し売りや恐喝などを行うえせ同和行為や、一部の関係者が暴力団化することも部落問題の解決を遅らせている一因となっている。群馬県の被差別部落の出で部落解放同盟埼玉県連に所属していた詩人植松安太郎は野間宏との対談で部落民の気質を、
- 惰民的土着体質(上昇志向を持たず、差別されることに諦めを持ち、部落で育ち部落で生涯を終える。長男に多い)
- 奴隷的丑松体質(立身出世欲が強く、教師や警官などになって故郷を捨て、島崎藤村『破戒』の主人公の丑松のように部落民としての出自を隠して過ごす。次男以下に多い)
- 反逆性造反有理体質(戦闘的な野心家で無法者。極右になったり極左になったりヤクザになったりする)
の3類型に分類し[91]、この中の第3類型の部落民について「ご承知のとおり山口組のなかの70%は部落民だといわれているけれど、関東だって切った張ったのやくざの手下や用心棒のなかには部落民がいっぱいいるわけですよ」と語っている[92]。会津小鉄会会長の高山登久太郎も「うちの若い者としては、同和関係が大体70%」と発言している[93]。この70%という数値は、アメリカのジャーナリストのカプランとデュブロによる報告、すなわち「山口組の構成員25,000人のうち約70%の者がいわゆる『部落』出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人であった」と一致している[94]。
部落解放同盟中央本部事務局長などを歴任した中西義雄は「わたしは、福岡市内に横行するやくざ、不良、チンピラあるいはパチンコ屋の用心棒の多くが、部落民であることを否定しない」と記しつつ、「だが、彼とても好んで、やくざや用心棒になったのではない。根本的な原因は、部落民であるということだけで、就職の自由がないからである」[95]と弁護した。また、大阪の右翼団体のトップは「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」と発言している[96]。これに対して鈴木智彦は「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」[96]、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」[97]と述べている。
また、部落解放同盟中央本部執行委員をつとめた西岡智は「僕の解放理論は、入れ墨のお父さん、お兄さんを尊敬する教育をやれというもんです」「就職口がなかったから極道で生きるしかなかったんや」と述べている[98]。
米国のリベラル系ニュースサイト『Daily Beast』は「日本のヤクザの多くは、帰化した韓国・朝鮮系(または在日韓国・朝鮮人)と、かつての被差別部落出身者だ」と指摘し、「山口組(山健組・関西派)には被差別部落出身のメンバーが多く、『弘道会』は韓国(・朝鮮)系の割合が高い。これが2つの派閥の緊張を作り出している」と分析している[99]。
山口組の顧問弁護士をつとめた山之内幸夫は「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」[100]「山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」[100]「暴力団の構成員は主に在日朝鮮人と賤民出身者である」[101]と発言している。
山口組6代目組長の司忍こと篠田建市は「山口組には家庭環境に恵まれず、いわゆる落ちこぼれが多く、在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない」と発言している[102]。
ヤクザ取材歴20年のタケナカシゲルは「じっさいにヤクザの親分のインタビューで『出身地は同和ですから』という自己紹介がふつうに行われる。部落解放運動において、血の叫びといわれる部落民宣言を、ヤクザの親分は軽やかに言ってのける。ヤクザ組織において部落出身者はめずらしくない」と述べている[103]。
社会学者の八木正は「実際、山口組の組員には、〔差別を受けている〕「在日朝鮮人」や「被差別部落」の出身者が多い」と発言している[104]。
山口組に限らず「ヤクザの世界では、ヤクザ組員全体の三分の一は被差別部落出身者、三分の一は在日コリアンであると言い習わされてきた。私が聞いたかぎりでも、岡山のある親分などは、一九七○年代の時点で、はっきりと「三、三、三やな」といっていた。おおよそ三分の一が部落出身、三分の一が在日、あと三分の一がほかのドロップアウト層だという意味である」、「私がその内部をある程度知っている関西のヤクザ組織に関するかぎり、一九八○年代までは、だいたいそんなところだった」と、暴力団寺村組初代組長の息子の宮崎学は述べている[105]。
鈴木智彦は大阪の同和地区に住み込んで暴力団を取材した上で「驚いたのは、暴力団と住民の距離が圧倒的に近いことだ。町内会の事務所にしょっちゅう顔を出し、会議に出席するばかりか、バザーや旅行などの行事にも積極的に参加する。というより、実質的な仕切りを暴力団がしていた。彼らは住民の代表なのだ。さすがにいまはもうないだろうが、祭りの際、山口組の代紋が入った法被を着ている5歳くらいの女の子がいた。そんな子供が御輿を担いでいるのに、誰もそれを気にしない」とも述べている[106]。鈴木は、暴力団員に在日コリアンや被差別部落民が多いことを指摘しつつ[107]、「我々の年代でこうした差別を暴力団になった理由には出来ないと思う。現代で差別というエクスキューズは通用しない」とも評している[97]。
脚注
注釈
- ^ 東日本や山間部などでは集落の意味でも普通に使われるので差別発言だと早合点しないように注意すること
- ^ 2008年(平成20年)大学入試センター試験日本史の問題参照。植民地でのみ通用しない全くの異種文字を、支配国(宗主国)の国政選挙の投票に認めたという史実は先進国でほとんど例が無い。
- ^ 「杉山が描いた「特殊部落」は、現実におこる朝鮮人に対する差別や被差別部落に向けられる差別を反映したものではないのです。この「特殊部落」はあくまでも杉山が偏見をもって作り出した虚構の世界なのです。」
- ^ その糾弾会は1回から4〜5回までは"人格が破壊されかねない"ほど激しいもので「ある時は『差別とは何か、いってみろ』といわれ、あまりにも漠然とした問いに戸惑っていると、『なぜ黙っているんだ、いえないのか』とやられ、考えがまとまらずに何かをいうと、次から次へと揚げ足とりで突っ込まれる。何をいっても吊るし上げられる、一事の過激派学生の大衆団交と同じだったという。(略)よく、解同関係者は『糾弾は教育の場』というが、筑紫糾弾会は拷問に等しい」と批判している。
出典
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- 『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年。ISBN 9784582131055。
- 論文
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- “『別冊宝島Real 同和利権の真相』への見解”. 解放新聞 (部落解放同盟中央本部). (2003年4月14日) 2007年8月25日閲覧。