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| 芸名 = 中村 敦夫
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| 本名 = 中村 敦雄(読み同じ)
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| 身長 = 179 cm
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| 事務所 = 中村企画→クロスポイント
| 事務所 = 中村企画→クロスポイント

| 公式サイト = [https://www.monjiro.org/ 中村敦夫 -公式サイト-]
| 公式サイト = [https://www.monjiro.org/ 中村敦夫 -公式サイト-]

| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[春の坂道]]』/『[[木枯し紋次郎]]』<br />『[[おしどり右京捕物車]]』/『[[必殺仕業人]]』<br />『[[翔べ! 必殺うらごろし]]』<hr />'''ドキュメンタリー'''<br />『[[中村敦夫の地球発22時]]』<hr />'''情報番組'''<br />『[[THE・サンデー|中村敦夫のTHE・サンデー]]』<!--皆が認める代表作品を入力-->
| 主な作品 =
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'''テレビドラマ'''
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| アカデミー賞 =
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:[[ブルーリボン賞 (映画)#第37回(1994年度)|1995年]]『[[集団左遷]]』
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| ローレンス・オリヴィエ賞 =
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{{Infobox 作家
{{Infobox 作家
| name = 中村 敦夫<br />(なかむら あつお
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| notable_works = <!--代表作-->『チェンマイの首 愛は死の匂い』(1983年)<br />『ジャカルタの目』(1985年)<br />『マニラの鼻』(1989年)
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{{政治家
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|人名 = 中村 敦
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'''中村 敦夫'''なかむら あつお、[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉[[2月18日]] - は、[[日本]]の[[俳優]]、[[作家]]、[[脚本家]]、[[ニュースキャスター]]、[[政治家]]。[[日本ペンクラブ]]環境委員長。身長179cm。本名は中村 敦雄(読み同じ)<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/giin/pdf/2022giin_lists.pdf 歴代参議院議員一覧] - 参議院</ref>。旧姓は遠藤えんどう。株式会社中村企画(1976年 - 2014年)を経て、クロスポイント所属。
{{読み仮名|'''中村 敦夫'''|なかむら あつお|1940年〈[[昭和]]15年〉2月18日 - }}は、日本の[[俳優]]、[[作家]]、[[脚本家]]、[[ニュースキャスター]]、[[政治家]]。[[日本ペンクラブ]]環境委員長。身長179cm。本名は中村 敦雄(読み同じ)<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/giin/pdf/2022giin_lists.pdf 歴代参議院議員一覧] - 参議院</ref>。旧姓は{{読み仮名|遠藤|えんどう}}。株式会社中村企画(1976年 - 2014年)を経て、クロスポイント所属。


[[勲等]]は[[旭日章|旭日中綬章]]。[[参議院議員]](1期)、[[新党さきがけ|さきがけ]]代表、[[みどりの会議]]代表、[[同志社大学]][[大学院]]総合政策科学研究科で[[大学教員#客員教授・客員准教授・特任教授・特任准教授・特任講師|講師]]などを歴任した。
勲等は[[旭日章|旭日中綬章]]。[[参議院議員]](1期)、[[新党さきがけ|さきがけ]]代表、[[みどりの会議]]代表、[[同志社大学]]大学院総合政策科学研究科で講師などを歴任した。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[東京府]][[東京市]][[豊島区]](現:[[東京都]]豊島区)[[千早 (豊島区)|千早]]に遠藤家の長男として生まれる<ref name="週刊平凡19720427">{{Cite journal | 和書 |author =| journal = 週刊平凡 | volume = 1972年4月27日号 | title = 《おしゃべりジャーナル》 ゲスト・中村敦夫 『あっしがやりてぇのは"子連れ紋次郎"でござんす』 ききて・[[木元教子]] | publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] | pages = 54 - 56 }}</ref>。父親は新聞記者。幼少期の[[1945年]]に[[東京大空襲]]をはじめとする[[連合国軍]]による[[空襲]]があり、[[福島県]][[平市]](現:[[いわき市]][[平地区]])に疎開<ref name="福島県いわき市訪問">{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/福島県いわき市訪問-2/ |title=福島県いわき市訪問 |access-date=2023-06-30 |publisher=クロスポイント |website=中村敦夫公式サイト monjiro.org |archive-date=2023-04-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230430181114/https://www.monjiro.org/福島県いわき市訪問-2/}}</ref><ref name="プロフィール"/>。平市立第一小学校(現:いわき市立平第一小学校)を経て、平市立第一中学校(現:[[いわき市立平第一中学校]])を卒業後<ref name="週刊平凡19720427"/>、[[福島県立磐城高等学校]]に進み、その後[[東京都立新宿高等学校]]へ転校<ref name="プロフィール" />。
東京府東京市豊島区[[千早 (豊島区)|千早]](当時)に遠藤家の長男として生まれる<ref name="週刊平凡19720427">{{Cite journal | 和書 |author =| journal = 週刊平凡 | volume = 1972年4月27日号 | title = 《おしゃべりジャーナル》 ゲスト・中村敦夫 『あっしがやりてぇのは"子連れ紋次郎"でござんす』 ききて・[[木元教子]] | publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] | pages = 54 - 56 }}</ref>。父親は新聞記者。幼少期の1945年に[[東京大空襲]]をはじめとする[[連合国軍]]による空襲があり、[[福島県]][[平市]](現:[[いわき市]][[平地区]])に疎開<ref name="福島県いわき市訪問">{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/福島県いわき市訪問-2/ |title=福島県いわき市訪問 |access-date=2023-06-30 |publisher=クロスポイント |website=中村敦夫公式サイト monjiro.org |archive-date=2023-04-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230430181114/https://www.monjiro.org/福島県いわき市訪問-2/}}</ref><ref name="プロフィール"/>。平市立第一小学校(現:いわき市立平第一小学校)を経て、平市立第一中学校(現:[[いわき市立平第一中学校]])を卒業後<ref name="週刊平凡19720427"/>、[[福島県立磐城高等学校]]に進み、その後[[東京都立新宿高等学校]]へ転校<ref name="プロフィール" />。


[[1958年]](昭和33年)[[東京外国語大学]][[インドネシア語]]学科に入学。これが後に『チェンマイの首 愛は死の匂い』、『ジャカルタの目』、『マニラの鼻』といった、[[東南アジア]]を舞台とする国際小説執筆へと繋がる。両親の離婚後、母方の中村姓を名乗る<ref>{{Cite journal |和書 |title=現代の肖像 |journal=[[AERA]] |issue=1999年12月13日号 |publisher=[[朝日新聞社]]<!-- 発行当時--> |pages={{要ページ番号|date=2019年2月}} }}</ref>。
1958年(昭和33年)[[東京外国語大学]]インドネシア語学科に入学。これが後に『チェンマイの首 愛は死の匂い』、『ジャカルタの目』、『マニラの鼻』といった、[[東南アジア]]を舞台とする国際小説執筆へと繋がる。両親の離婚後、母方の中村姓を名乗る<ref>{{Cite journal |和書 |title=現代の肖像 |journal=[[AERA]] |issue=1999年12月13日号 |publisher=[[朝日新聞社]]<!-- 発行当時--> |pages={{要ページ番号|date=2019年2月}} }}</ref>。


[[1959年]](昭和34年)、同大学を2年で中退<ref name="週刊平凡19720427"/>、俳優座養成所を経て新劇の[[劇団俳優座]]に入る<ref name="プロフィール">{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/profile/ |title=プロフィール |access-date=2023-06-30 |publisher=クロスポイント |website=中村敦夫公式サイト monjiro.org |archive-date=2023-05-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230528131952/https://www.monjiro.org/profile/}}</ref>。いわゆる「花の12期」であった。若手のリーダー的存在であり有望株であった半面、劇団幹部などが[[左翼]]傾向の強い劇団内では異端児であった。そのため、「[[トロツキズム#レッテルとしての「トロツキスト」|トロツキスト]]」のレッテルを貼られた。その際「ああ、いいですよ、トロでも白身でも」と受け流していたら、今度は[[新左翼]]、[[過激派]]ということになったという<ref>{{Cite book |和書 |author=中村敦夫 |year=2000 |title=国会物語 たったひとりの正規軍 |publisher=[[晩聲社]] |pages=18 - 19 |isbn=4-89188-297-2}}</ref>。[[1965年]](昭和40年)[[ハワイ大学]]に[[留学]]<ref name="週刊平凡19720427"/><ref name="プロフィール"/>。このとき知り合った[[アメリカ人]]と結婚するが3年で離婚<ref name="週刊平凡19720427"/>。[[1971年]](昭和46年)に中村ら中堅・若手が希望した『はんらん狂想曲』の上演に幹部が反対したことで、俳優座首脳との対立が決定的となる。中村は『はんらん狂想曲』を自主公演した後、[[市原悦子]]・[[菅貫太郎]]・[[原田芳雄]]と共に俳優座を退団した。
1959年(昭和34年)、同大学を2年で中退<ref name="週刊平凡19720427"/>、俳優座養成所を経て新劇の[[劇団俳優座]]に入る<ref name="プロフィール">{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/profile/ |title=プロフィール |access-date=2023-06-30 |publisher=クロスポイント |website=中村敦夫公式サイト monjiro.org |archive-date=2023-05-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230528131952/https://www.monjiro.org/profile/}}</ref>。いわゆる「花の12期」であった。若手のリーダー的存在であり有望株であった半面、劇団幹部などが左翼傾向の強い劇団内では異端児であった。そのため、「[[トロツキズム#レッテルとしての「トロツキスト」|トロツキスト]]」のレッテルを貼られた。その際「ああ、いいですよ、トロでも白身でも」と受け流していたら、今度は[[新左翼]]、[[過激派]]ということになったという<ref>{{Cite book |和書 |author=中村敦夫 |year=2000 |title=国会物語 たったひとりの正規軍 |publisher=[[晩聲社]] |pages=18 - 19 |isbn=4-89188-297-2}}</ref>。1965年(昭和40年)[[ハワイ大学]]に[[留学]]<ref name="週刊平凡19720427"/><ref name="プロフィール"/>。このとき知り合ったアメリカ人と結婚するが3年で離婚<ref name="週刊平凡19720427"/>。1971年(昭和46年)に中村ら中堅・若手が希望した『はんらん狂想曲』の上演に幹部が反対したことで、俳優座首脳との対立が決定的となる。中村は『はんらん狂想曲』を自主公演した後、[[市原悦子]]・[[菅貫太郎]]・[[原田芳雄]]と共に俳優座を退団した。


[[1968年]](昭和43年)に起きた[[陳玉璽事件]]に衝撃を受けて、[[アムネスティ・インターナショナル]]日本支部設立に携わる。
1968年(昭和43年)に起きた[[陳玉璽事件]]に衝撃を受けて、[[アムネスティ・インターナショナル]]日本支部設立に携わる。


[[1971年]](昭和46年)の [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[春の坂道]]』で[[石田三成]]を演じ、マスコミに大きく取り上げられた<ref name="週刊平凡19720427"/><ref name=":0">{{Cite news|和書 |title=(語る 人生の贈りもの)中村敦夫:10 人生決めた紋次郎との出会い |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2021-12-10 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15138747.html?iref=pc_ss_date_article |access-date=2023-05-07 |page=26}}</ref>。
1971年(昭和46年)の NHK大河ドラマ『[[春の坂道]]』で[[石田三成]]を演じ、マスコミに大きく取り上げられた<ref name="週刊平凡19720427"/><ref name=":0">{{Cite news|和書 |title=(語る 人生の贈りもの)中村敦夫:10 人生決めた紋次郎との出会い |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2021-12-10 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15138747.html?iref=pc_ss_date_article |access-date=2023-05-07 |page=26}}</ref>。


[[1972年]](昭和47年)に[[市川崑]]監修のテレビ時代劇『[[木枯し紋次郎]]』で主役の渡世人・紋次郎役に{{読み仮名|抜擢|ばってき}}される。それまでも、準主役級の二枚目俳優として活躍していたが、同作品の大ヒットにより一躍人気を獲得した<ref name="週刊平凡19720427"/>。
1972年(昭和47年)に[[市川崑]]監修のテレビ時代劇『[[木枯し紋次郎]]』で主役の渡世人・紋次郎役に{{読み仮名|抜擢|ばってき}}される。それまでも、準主役級の二枚目俳優として活躍していたが、同作品の大ヒットにより一躍人気を獲得した<ref name="週刊平凡19720427"/>。


[[1984年]](昭和59年)から3年半にわたり、[[毎日放送]]製作・[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送されたドキュメンタリー『[[中村敦夫の地球発22時]]』(のち『〜23時』、中村の降板後は『地球発19時』とそれぞれ改題)の司会を務めた<ref name="プロフィール"/>。その後[[1989年]](平成元年)[[10月1日]]から[[1992年]](平成4年)[[9月27日]]までは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[情報番組]]『[[THE・サンデー|中村敦夫のザ・サンデー]]』などで司会を務めていた。この間は[[ジャーナリスト]]活動に専念し、俳優活動からは一旦身を引く。作家としても「チェンマイの首」を発表している<ref name="プロフィール"/>。
1984年(昭和59年)から3年半にわたり、ドキュメンタリー『[[中村敦夫の地球発22時]]』の司会を務めた<ref name="プロフィール"/>。その後1989年(平成元年)10月1日から1992年(平成4年)9月27日までは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の情報番組『[[THE・サンデー|中村敦夫のザ・サンデー]]』などで司会を務めていた。この間はジャーナリスト活動に専念し、俳優活動からは一旦身を引く。作家としても「チェンマイの首」を発表している<ref name="プロフィール"/>。


『ザ・サンデー』を降板し、[[1993年]]に映画『[[帰って来た木枯し紋次郎 (映画)|帰ってきた木枯し紋次郎]]』で俳優復帰、以後は俳優活動と政治活動を平行して行う。
『ザ・サンデー』を降板し、1993年に映画『[[帰って来た木枯し紋次郎 (映画)|帰ってきた木枯し紋次郎]]』で俳優復帰、以後は俳優活動と政治活動を平行して行う。


[[1995年]](平成7年)の[[第17回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]で、[[新党さきがけ|さきがけ]]公認、[[生活者ネット]]推薦で出馬したが落選する。[[1998年]](平成10年)7月に[[第18回参議院議員通常選挙|同選挙]]さきがけの推薦及び[[市民の党]]の応援を受ける[[無所属]]候補として立候補し、[[東京都選挙区]]から初当選、政治家となる。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議<!-- 曖昧さ回避のページへのリンクであるためここではリンク設定しない -->」を1人で旗揚げする。
1995年(平成7年)の[[第17回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]で、[[新党さきがけ|さきがけ]]公認、[[生活者ネット]]推薦で出馬したが落選する。1998年(平成10年)7月に[[第18回参議院議員通常選挙|同選挙]]さきがけの推薦及び[[市民の党]]の応援を受ける[[無所属]]候補として立候補し、[[東京都選挙区]]から初当選、政治家となる。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議<!-- 曖昧さ回避のページへのリンクであるためここではリンク設定しない -->」を1人で旗揚げする。


[[2000年]](平成12年)7月に「さきがけ」代表就任{{efn|さきがけはかつては「新党さきがけ」として[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[日本社会党]]とともに[[自社さ連立政権]]の連立与党であり、閣僚も送っていたが、主要議員の多くが離党した上、1998年の参議院選挙以降は所属国会議員がいなくなっていたため、[[エコロジー]]を中心とした党への変革を進めていた。}}、同年8月議員連盟「[[公共事業チェック議員の会]]」会長就任、[[静岡空港]]建設反対運動<ref>{{Cite web|和書|url=http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/monzirousisatu.htm |title=9・5「紋次郎」議員視察模様 |accessdate=2018-11-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081029064230/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp:80/monzirousisatu.htm |archivedate=2008-10-29}}</ref>などに取り組む。[[2002年]]1月さきがけと国民会議が合流し、院内[[会派]]「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「[[みどりの会議]]」に変更した。
2000年(平成12年)7月に「さきがけ」代表就任{{efn|さきがけはかつては「新党さきがけ」として[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[日本社会党]]とともに[[自社さ連立政権]]の連立与党であり、閣僚も送っていたが、主要議員の多くが離党した上、1998年の参議院選挙以降は所属国会議員がいなくなっていたため、[[エコロジー]]を中心とした党への変革を進めていた。}}、同年8月議員連盟「[[公共事業チェック議員の会]]」会長就任、[[静岡空港]]建設反対運動<ref>{{Cite web|和書|url=http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/monzirousisatu.htm |title=9・5「紋次郎」議員視察模様 |accessdate=2018-11-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081029064230/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp:80/monzirousisatu.htm |archivedate=2008-10-29}}</ref>などに取り組む。2002年1月さきがけと国民会議が合流し、院内[[会派]]「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「[[みどりの会議]]」に変更した。


[[2004年]](平成16年)[[7月11日]]の[[第20回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では[[比例区]]に転向して、みどりの会議は中村をはじめとする10人の候補者を立て、90万を超える票を得るも全員落選した。これにより、みどりの会議は国会での議席を失うことになった。みどりの会議は同年11月に解散し、一部メンバーが[[みどりのテーブル]]を設立したが、中村は参加していない。
2004年(平成16年)7月11日の[[第20回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では[[比例区]]に転向して、みどりの会議は中村をはじめとする10人の候補者を立て、90万を超える票を得るも全員落選した。これにより、みどりの会議は国会での議席を失うことになった。みどりの会議は同年11月に解散し、一部メンバーが[[みどりのテーブル]]を設立したが、中村は参加していない。


政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰。[[2008年]](平成20年)に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ『[[CHANGE (テレビドラマ)|CHANGE]]』では与党・日本政友党[[幹事長]]・小野田朝雄を演じて、[[2009年]](平成21年)には[[サントリー]]「[[ボス (コーヒー)|BOSS]]食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっている。
政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰。2008年(平成20年)にドラマ『[[CHANGE (テレビドラマ)|CHANGE]]』では与党・日本政友党幹事長・小野田朝雄を演じて、2009年(平成21年)には[[サントリー]]「BOSS食後の余韻」のシリーズ広告で政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっている。


いっぽう評論活動も続けており、[[2007年]](平成19年)から2009年(平成21年)まで[[同志社大学]]で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を[[2011年]](平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、[[近代経済学]]に代わる新しい哲学の必要性を主張した。
いっぽう評論活動も続けており、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで[[同志社大学]]で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を2011年(平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、[[近代経済学]]に代わる新しい哲学の必要性を主張した。


[[2020年]](令和2年)8月から[[日刊ゲンダイ]]でコラム「末世を生きる辻説法」を連載開始。
2020年(令和2年)8月から[[日刊ゲンダイ]]でコラム「末世を生きる辻説法」を連載開始。


== 人物 ==
== 人物 ==
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* 「[[世界平和統一家庭連合]](旧統一教会)」の問題に長年取り組んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/profile2/ |website=中村敦夫 公式サイト |title=プロフィール -参議院議員時代- |publisher=株式会社クロスポイント |accessdate=2018-11-26}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=旧統一教会追い50年、中村敦夫さん「安倍氏への忖度で右往左往」 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2022-09-18 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9J4KBJQ8ZUTFK01T.html?iref=pc_ss_date_article |access-date=2023-05-07}}</ref>。
* 「[[世界平和統一家庭連合]](旧統一教会)」の問題に長年取り組んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.monjiro.org/profile2/ |website=中村敦夫 公式サイト |title=プロフィール -参議院議員時代- |publisher=株式会社クロスポイント |accessdate=2018-11-26}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=旧統一教会追い50年、中村敦夫さん「安倍氏への忖度で右往左往」 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2022-09-18 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9J4KBJQ8ZUTFK01T.html?iref=pc_ss_date_article |access-date=2023-05-07}}</ref>。
* 中村企画所属で、同社の社長も務める。父は[[読売新聞]]記者の[[遠藤節]](えんどう さだむ、1907年 - 1969年)<ref>{{Cite journal |和書 |title=我が父を語る |journal=[[婦人画報]] |issue=2003年2月号 |publisher=[[ハースト婦人画報社]] |pages={{要ページ番号|date=2019年2月}} }}</ref>。弟は[[脚本家|シナリオライター]]の[[中村勝行]]。
* 中村企画所属で、同社の社長も務める。父は[[読売新聞]]記者の[[遠藤節]](えんどう さだむ、1907年 - 1969年)<ref>{{Cite journal |和書 |title=我が父を語る |journal=[[婦人画報]] |issue=2003年2月号 |publisher=[[ハースト婦人画報社]] |pages={{要ページ番号|date=2019年2月}} }}</ref>。弟は[[脚本家|シナリオライター]]の[[中村勝行]]。
* [[競輪]]ファンとして知られ、前述の『ジャカルタの目』等の小説の主要な登場人物は、ほとんど実在の競輪選手の名前をそのまま使用している。また、解説の[[寺内大吉]]とともに、1970年代後半頃から[[特別競輪]](現在のGI)決勝戦中継のレギュラーゲストとして出演。寺内が1992年の[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯]]決勝戦中継を最後に出演から退いた後も出演を続けたが、参議院議員としての職務を全うするため、[[1998年]]の高松宮記念杯競輪決勝戦中継を最後に退いた。
* [[競輪]]ファンとして知られ、前述の『ジャカルタの目』等の小説の主要な登場人物は、ほとんど実在の競輪選手の名前をそのまま使用している。また、解説の[[寺内大吉]]とともに、1970年代後半頃から[[特別競輪]](現在のGI)決勝戦中継のレギュラーゲストとして出演。寺内が1992年の[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯]]決勝戦中継を最後に出演から退いた後も出演を続けたが、参議院議員としての職務を全うするため、1998年の高松宮記念杯競輪決勝戦中継を最後に退いた。


== 政策 ==
== 政策 ==
* 選択的[[夫婦別姓]]制度導入に賛成する<ref>mネット、2004年2月 国会議員への民法改正に関するアンケート{{Full citation needed|date=2018-11-26 |title=これが収録されている資料名や出版年、出版社などが不明。}}</ref>。第147回国会法務委員会では、選択的夫婦別姓制度に反対する議員は、後援の[[神道政治連盟]]が反対の意見を持っているため反対しており、[[政教分離]]の面から言って問題であると主張した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114715206X01720000525 |title=参議院会議録情報 第147回国会 法務委員会 第17号 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-11-26}}</ref>。
* 選択的[[夫婦別姓]]制度導入に賛成する<ref>mネット、2004年2月 国会議員への民法改正に関するアンケート{{Full citation needed|date=2018-11-26 |title=これが収録されている資料名や出版年、出版社などが不明。}}</ref>。第147回国会法務委員会では、選択的夫婦別姓制度に反対する議員は、後援の[[神道政治連盟]]が反対の意見を持っているため反対しており、[[政教分離]]の面から言って問題であると主張した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114715206X01720000525 |title=参議院会議録情報 第147回国会 法務委員会 第17号 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-11-26}}</ref>。
* [[1998年]][[7月12日]]の参議院選挙に出馬した際、[[文部省]](2001年以後は[[文部科学省]])の廃止と、教育行政権の地方や民間への移管を主張した<ref>朝日新聞東京都ローカル版と読売新聞東京都ローカル版の、1998年参議院選挙候補者アンケートにて。{{Full citation needed|date=2018-11-26 |title=当該新聞記事の掲載日付、ページ番号が不明。}}</ref>。
* 1998年7月12日の参議院選挙に出馬した際、[[文部省]](2001年以後は[[文部科学省]])の廃止と、教育行政権の地方や民間への移管を主張した<ref>朝日新聞東京都ローカル版と読売新聞東京都ローカル版の、1998年参議院選挙候補者アンケートにて。{{Full citation needed|date=2018-11-26 |title=当該新聞記事の掲載日付、ページ番号が不明。}}</ref>。
* {{要出典範囲|date=2024年6月|[[1999年]]8月、参院本会議の[[国旗及び国歌に関する法律|国旗・国歌法]]に反対した。}}
* {{要出典範囲|date=2024年6月|1999年8月、参院本会議の[[国旗及び国歌に関する法律|国旗・国歌法]]に反対した。}}


== 栄典 ==
== 栄典 ==
* [[2010年]][[4月29日]] - [[旭日章|旭日中綬章]]
* 2010年4月29日 - [[旭日章|旭日中綬章]]


== 受賞 ==
== 受賞 ==
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* 新春時代劇特別企画 / [[赤西蠣太#1999年版|赤西蛎太 伊達騒動醜男と美女の純愛]](1999年、[[テレビ東京]]) - ナレーター
* 新春時代劇特別企画 / [[赤西蠣太#1999年版|赤西蛎太 伊達騒動醜男と美女の純愛]](1999年、[[テレビ東京]]) - ナレーター
* [[御家人斬九郎#テレビドラマ|御家人斬九郎]] 第4シリーズ 第9話「追われもの」(1999年、フジテレビ / [[映像京都]]) - [[大塩平八郎]]
* [[御家人斬九郎#テレビドラマ|御家人斬九郎]] 第4シリーズ 第9話「追われもの」(1999年、フジテレビ / [[映像京都]]) - [[大塩平八郎]]
* [[金曜エンタテイメント]] / 鞍馬天狗 ([[2001]]、フジテレビ) - [[近藤勇]]
* [[金曜エンタテイメント]] / 鞍馬天狗 (2001年、フジテレビ) - [[近藤勇]]
* [[国盗り物語]] (2005年、テレビ東京) - [[武田信玄]]
* [[国盗り物語]] (2005年、テレビ東京) - [[武田信玄]]
* [[水曜ミステリー9|BSミステリー]] / [[渡された場面#2005年版|松本清張特別企画・渡された場面]] (2005年4月17日、テレビ東京) - 磯貝五十六
* [[水曜ミステリー9|BSミステリー]] / [[渡された場面#2005年版|松本清張特別企画・渡された場面]] (2005年4月17日、テレビ東京) - 磯貝五十六

2024年10月27日 (日) 11:36時点における最新版

中村なかむら 敦夫あつお
本名 中村 敦雄(読み同じ)
生年月日 (1940-02-18) 1940年2月18日(84歳)
出生地 日本の旗 日本・東京府東京市豊島区(当時)
職業
ジャンル
  • テレビドラマ
  • 映画
活動期間 1964年 -
活動内容
配偶者
  • 女性
著名な家族
事務所 中村企画→クロスポイント
公式サイト 中村敦夫 -公式サイト-
主な作品

ドキュメンタリー


受賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1995年集団左遷
その他の賞
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中村なかむら 敦夫あつお
ペンネーム 中村 敦夫
誕生 日本の旗 日本東京府東京市豊島区(当時)
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京外国語大学外国語学部中途退学
ジャンル 小説
評論
エッセイ
代表作 『チェンマイの首 愛は死の匂い』(1983年)
『ジャカルタの目』(1985年)
『マニラの鼻』(1989年)
デビュー作 『渡世人気質』(1972年)
公式サイト 中村敦夫 -公式サイト-
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中村なかむら 敦夫あつお
生年月日 (1940-02-18) 1940年2月18日(84歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市豊島区(当時)
出身校 東京外国語大学外国語学部中途退学
所属政党
  1. 新党さきがけ
  2. 無所属(国民会議)
  3. さきがけ
  4. みどりの会議
称号 旭日中綬章
公式サイト 中村敦夫 -公式サイト-

選挙区 東京都選挙区
当選回数 1回
在任期間 1998年7月26日 - 2004年7月25日
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中村 敦夫なかむら あつお1940年〈昭和15年〉2月18日 - )は、日本の俳優作家脚本家ニュースキャスター政治家日本ペンクラブ環境委員長。身長179cm。本名は中村 敦雄(読み同じ)[1]。旧姓は遠藤えんどう。株式会社中村企画(1976年 - 2014年)を経て、クロスポイント所属。

勲等は旭日中綬章参議院議員(1期)、さきがけ代表、みどりの会議代表、同志社大学大学院総合政策科学研究科で講師などを歴任した。

来歴

[編集]

東京府東京市豊島区千早(当時)に遠藤家の長男として生まれる[2]。父親は新聞記者。幼少期の1945年に東京大空襲をはじめとする連合国軍による空襲があり、福島県平市(現:いわき市平地区)に疎開[3][4]。平市立第一小学校(現:いわき市立平第一小学校)を経て、平市立第一中学校(現:いわき市立平第一中学校)を卒業後[2]福島県立磐城高等学校に進み、その後東京都立新宿高等学校へ転校[4]

1958年(昭和33年)東京外国語大学インドネシア語学科に入学。これが後に『チェンマイの首 愛は死の匂い』、『ジャカルタの目』、『マニラの鼻』といった、東南アジアを舞台とする国際小説執筆へと繋がる。両親の離婚後、母方の中村姓を名乗る[5]

1959年(昭和34年)、同大学を2年で中退[2]、俳優座養成所を経て新劇の劇団俳優座に入る[4]。いわゆる「花の12期」であった。若手のリーダー的存在であり有望株であった半面、劇団幹部などが左翼傾向の強い劇団内では異端児であった。そのため、「トロツキスト」のレッテルを貼られた。その際「ああ、いいですよ、トロでも白身でも」と受け流していたら、今度は新左翼過激派ということになったという[6]。1965年(昭和40年)ハワイ大学留学[2][4]。このとき知り合ったアメリカ人と結婚するが3年で離婚[2]。1971年(昭和46年)に中村ら中堅・若手が希望した『はんらん狂想曲』の上演に幹部が反対したことで、俳優座首脳との対立が決定的となる。中村は『はんらん狂想曲』を自主公演した後、市原悦子菅貫太郎原田芳雄と共に俳優座を退団した。

1968年(昭和43年)に起きた陳玉璽事件に衝撃を受けて、アムネスティ・インターナショナル日本支部設立に携わる。

1971年(昭和46年)の NHK大河ドラマ『春の坂道』で石田三成を演じ、マスコミに大きく取り上げられた[2][7]

1972年(昭和47年)に市川崑監修のテレビ時代劇『木枯し紋次郎』で主役の渡世人・紋次郎役に抜擢ばってきされる。それまでも、準主役級の二枚目俳優として活躍していたが、同作品の大ヒットにより一躍人気を獲得した[2]

1984年(昭和59年)から3年半にわたり、ドキュメンタリー『中村敦夫の地球発22時』の司会を務めた[4]。その後1989年(平成元年)10月1日から1992年(平成4年)9月27日までは日本テレビの情報番組『中村敦夫のザ・サンデー』などで司会を務めていた。この間はジャーナリスト活動に専念し、俳優活動からは一旦身を引く。作家としても「チェンマイの首」を発表している[4]

『ザ・サンデー』を降板し、1993年に映画『帰ってきた木枯し紋次郎』で俳優復帰、以後は俳優活動と政治活動を平行して行う。

1995年(平成7年)の参議院選挙で、さきがけ公認、生活者ネット推薦で出馬したが落選する。1998年(平成10年)7月に同選挙さきがけの推薦及び市民の党の応援を受ける無所属候補として立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となる。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を1人で旗揚げする。

2000年(平成12年)7月に「さきがけ」代表就任[注釈 1]、同年8月議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動[8]などに取り組む。2002年1月さきがけと国民会議が合流し、院内会派「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「みどりの会議」に変更した。

2004年(平成16年)7月11日の参議院選挙では比例区に転向して、みどりの会議は中村をはじめとする10人の候補者を立て、90万を超える票を得るも全員落選した。これにより、みどりの会議は国会での議席を失うことになった。みどりの会議は同年11月に解散し、一部メンバーがみどりのテーブルを設立したが、中村は参加していない。

政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰。2008年(平成20年)にドラマ『CHANGE』では与党・日本政友党幹事長・小野田朝雄を演じて、2009年(平成21年)にはサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズ広告で政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっている。

いっぽう評論活動も続けており、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで同志社大学で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を2011年(平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、近代経済学に代わる新しい哲学の必要性を主張した。

2020年(令和2年)8月から日刊ゲンダイでコラム「末世を生きる辻説法」を連載開始。

人物

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  • 好きな言葉は「攻めの人生」。
  • 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の問題に長年取り組んでいる[9][10]
  • 中村企画所属で、同社の社長も務める。父は読売新聞記者の遠藤節(えんどう さだむ、1907年 - 1969年)[11]。弟はシナリオライター中村勝行
  • 競輪ファンとして知られ、前述の『ジャカルタの目』等の小説の主要な登場人物は、ほとんど実在の競輪選手の名前をそのまま使用している。また、解説の寺内大吉とともに、1970年代後半頃から特別競輪(現在のGI)決勝戦中継のレギュラーゲストとして出演。寺内が1992年の高松宮杯決勝戦中継を最後に出演から退いた後も出演を続けたが、参議院議員としての職務を全うするため、1998年の高松宮記念杯競輪決勝戦中継を最後に退いた。

政策

[編集]
  • 選択的夫婦別姓制度導入に賛成する[12]。第147回国会法務委員会では、選択的夫婦別姓制度に反対する議員は、後援の神道政治連盟が反対の意見を持っているため反対しており、政教分離の面から言って問題であると主張した[13]
  • 1998年7月12日の参議院選挙に出馬した際、文部省(2001年以後は文部科学省)の廃止と、教育行政権の地方や民間への移管を主張した[14]
  • 1999年8月、参院本会議の国旗・国歌法に反対した。[要出典]

栄典

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受賞

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出演作品

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映画

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テレビドラマ

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情報番組

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CM

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著作

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小説

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  • 渡世人気質』ブロンズ社、1972年11月20日。
  • 『チェンマイの首 愛は死の匂い』(1983年、講談社)のち講談社ノベルス講談社文庫
  • 『ジャカルタの目』(1985年、講談社)のち文庫 
  • 『マニラの鼻』(1989年、講談社)
  • 『コーカサスの風 My silk road』(1989年、全国朝日放送
  • 『結婚しましょ!』(1993年、講談社)
  • 『狙われた羊』(1994年、文藝春秋
    • 『狙われた羊』講談社〈講談社文庫〉、2022年11月15日。ISBN 978-4-06-529882-4 (電子版あり)
  • 『時よ、怒れ!』(1996年、近代文芸社
  • 『ドブねずみを撃て!』(1997年、近代文芸社)
  • 『ごみを喰う男』(2007年、徳間書店
  • 『暴風地帯』(2010年、角川書店

評論・エッセイ

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  • 『この国の八百長を見つけたり』(1999年、光文社
  • 『政治家になろう!』(1999年、日本短波放送
  • 『国会物語 たったひとりの正規軍』(2000年7月、晩聲社ISBN 4-89188-297-2
  • 『俳優人生 振り返る日々』(2000年、朝日新聞社
  • 『さらば、欲望の国』(2004年、近代文芸社新書)
  • 『簡素なる国』(2011年、講談社)

朗読劇

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  • 『線量計が鳴る 元・原発技師のモノローグ』(2018年10月、而立書房) ISBN 978-4-88059-411-8

脚本

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翻訳

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  • グレッグ・ノーマン『ゴルフ100マジック』(1996年、ゴルフダイジェスト社)

作詞

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脚注

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注釈

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  1. ^ さきがけはかつては「新党さきがけ」として自由民主党日本社会党とともに自社さ連立政権の連立与党であり、閣僚も送っていたが、主要議員の多くが離党した上、1998年の参議院選挙以降は所属国会議員がいなくなっていたため、エコロジーを中心とした党への変革を進めていた。

出典

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  1. ^ 歴代参議院議員一覧 - 参議院
  2. ^ a b c d e f g 「《おしゃべりジャーナル》 ゲスト・中村敦夫 『あっしがやりてぇのは"子連れ紋次郎"でござんす』 ききて・木元教子」『週刊平凡』1972年4月27日号、平凡出版、54 - 56頁。 
  3. ^ 福島県いわき市訪問”. 中村敦夫公式サイト monjiro.org. クロスポイント. 2023年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月30日閲覧。
  4. ^ a b c d e f プロフィール”. 中村敦夫公式サイト monjiro.org. クロスポイント. 2023年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月30日閲覧。
  5. ^ 「現代の肖像」『AERA』1999年12月13日号、朝日新聞社[要ページ番号] 
  6. ^ 中村敦夫『国会物語 たったひとりの正規軍』晩聲社、2000年、18 - 19頁。ISBN 4-89188-297-2 
  7. ^ a b (語る 人生の贈りもの)中村敦夫:10 人生決めた紋次郎との出会い」『朝日新聞デジタル』2021年12月10日、26面。2023年5月7日閲覧。
  8. ^ 9・5「紋次郎」議員視察模様”. 2008年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月26日閲覧。
  9. ^ プロフィール -参議院議員時代-”. 中村敦夫 公式サイト. 株式会社クロスポイント. 2018年11月26日閲覧。
  10. ^ 旧統一教会追い50年、中村敦夫さん「安倍氏への忖度で右往左往」」『朝日新聞デジタル』2022年9月18日。2023年5月7日閲覧。
  11. ^ 「我が父を語る」『婦人画報』2003年2月号、ハースト婦人画報社[要ページ番号] 
  12. ^ mネット、2004年2月 国会議員への民法改正に関するアンケート[要文献特定詳細情報]
  13. ^ 参議院会議録情報 第147回国会 法務委員会 第17号”. 国立国会図書館. 2018年11月26日閲覧。
  14. ^ 朝日新聞東京都ローカル版と読売新聞東京都ローカル版の、1998年参議院選挙候補者アンケートにて。[要文献特定詳細情報]

関連項目

[編集]

外部リンク

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