はてなキーワード: 仲間意識とは
ご質問ありがとうございます。アニメの1話の小さなシーンに引っかかり、そこから作品全体への不信感や自己評価にまでつなげてしまうプロセス、いわゆる「アニメ一話切り」をすること自体は個人の視聴スタイルとして自然なものですが、それをTwitter(現:X)でわざわざ公表する行動に焦点を当てて、その背後にある心理や潜在的な病理を分析してみましょう。以下は、そのような行動を取る人々の精神的な傾向や動機を考察したものです。あくまで一般論としてお読みください。
アニメ一話切りを公表する人は、自分の意見や判断基準を他人に示すことで、自己アイデンティティを強化しようとしている可能性があります。特に、アニメのような趣味的領域では、「自分は独自の視点や鋭い感性を持っている」という自己イメージを築きたい欲求が働いているかもしれません。この場合、以下のような心理が見られます:
優越感の追求: 「他の人が見続けるような作品でも、自分は1話で見限れるほど見る目がある」という感覚。
承認欲求: 「共感」や「いいね」を通じて、自分の判断が正しいと認められたいという願望。
潜在的病理: 自己肯定感が不安定で、他者からの反応を通じて自己価値を補強する必要がある場合。これは軽度のナルシシズムや、社会的孤立感からくる過剰な自己主張として現れることがあります。
小さなシーンに引っかかり、それを作品全体への不信感にまで広げるプロセスを公開することは、「自分は批判的思考を持っている」という姿勢をアピールする手段かもしれません。特にTwitterのような短文プラットフォームでは、過激な意見や断定的な物言いが注目を集めやすいため、この傾向が強調されがちです。
心理的動機: 他者に対して「自分は流されず、冷静に判断できる人間だ」と印象づけたい。
社会的背景: アニメコミュニティ内で「見る目がない人」と見なされるのを避けたいという防衛機制。
潜在的病理: 過剰な完璧主義や、他人への信頼感の欠如(作品や制作者への不信感が、他者全般への猜疑心に繋がる場合)。また、批判を通じて自己を正当化する癖が強い場合、軽度の強迫傾向や対人関係での不安が隠れている可能性も。
1話の小さな引っかかりが自己評価にまで及ぶプロセスを公表することは、内面的な苛立ちや不満を外に吐き出す手段かもしれません。Twitterはそのための手軽な「吐き出し口」として機能します。
心理的動機: 不快感や失望を自分の中で処理しきれず、他者に共有することで感情を解放する。
行動の特徴: 「こんな作品に時間を使いたくない」「自分をこんな気分にさせた作品が悪い」といった責任転嫁的な発言。
潜在的病理: 感情調整の困難さや、ストレス耐性の低さ。自己評価が外的要因(この場合はアニメ)に過剰に依存している場合、内省能力の不足や軽度の抑うつ傾向が関わっている可能性もあります。
アニメファンのコミュニティでは、作品に対する意見が一種の「社会的通貨」として機能します。一話切りを公表することで、特定のグループ(例: 「高級志向のファン」や「ニッチな作品を好む層」)に属していることを示し、仲間意識や帰属感を得ようとしている可能性があります。
心理的動機: 「自分はマジョリティとは違う」という差別化を図る。
行動の特徴: 一話切りを過剰に理論化したり、作品の瑕疵を大げさに語る傾向。
潜在的病理: 集団への過剰な依存や、逆に孤立感を隠すための過剰演技。自己と他者の境界が曖昧で、他者の反応に過敏すぎる場合、社会的不安や自己愛的傾向が関与しているかもしれません。
Twitterの構造自体が、この行動を助長する要因です。140字(現在は280字)という制限の中で目立つためには、強い言葉や断定的な意見が有利になります。そのため、アニメ一話切りをただの個人的選択で終わらせず、「作品の欠点を暴く批評家」として振る舞う傾向が強まる可能性があります。
心理的動機: 注目を集めるための誇張や、フォロワーとの対話を通じた自己重要感の確認。
潜在的病理: 現実世界での自己表現の不足や、オンラインでの過剰な自己開示が、現実と仮想のギャップを埋めようとする逃避行動に繋がる場合。これは軽度のインターネット依存や社会的孤立感と結びつきやすいです。
アニメ一話切りをTwitterで披露する人々の背後には、以下のような心理的傾向や病理が潜んでいる可能性があります:
自己肯定感の不安定さ: 他者の反応で自己価値を補強しようとする。
これらがすべて「病気」と呼べるほど深刻であるとは限りませんが、極端な場合、ナルシシズム、社会不安障害、軽度の抑うつ傾向、またはインターネット依存症の兆候として現れる可能性があります。
ただし、こうした行動は多くの場合、単なる「自己表現の癖」や「趣味コミュニティ内での振る舞い」として説明可能な範囲にとどまるでしょう。
生きていけるって前向きやね
あそこまでの対応だと同性でも支障きたしそうだけど本当に問題ないのかね
そのうち、住む場所もなくなりそう
そういう不安はないわけ?
「もうグループホームも考えておくように」と言われるはずだよね
私も30代半ばで未婚で人と付き合ったこともない。
同僚を飯に誘ったものの断られた。
マチアプは待ち合わせ場所に行ったら爆笑しながら「チェンジ!」と言い放たれたり、待ち合わせ場所に相手が来なくてその後無言でブロックされたり、飯の後に相手が退会したりなどで、2回目以降に繋がらなかった。穴モテって言葉にもどうやら限界はあるらしい。
思い返してみれば、小学校の頃から◯◯菌が伝染ると机をくっつけてもらえなかったり、階段から突き落とされたりもしたので、顔面がものすごく悪かったり雰囲気がおかしかったり態度がやばかったりしたんだろう。
でもどれも男だけで女は問題なかったので、女子はなんとなく性別が同じという仲間意識で受け入れてくれてたのかも。
こんなんでも恋愛対象には全くならない顔面からしてアウトな人間なだけで生きていけるもんな。
男さんを恋愛対象にはせずとも普通に生きていく分には不都合ないし、男さんの人生の恋愛対象としての登場人物にさえならなければ悪いことは特に無い。
大学のクラスメイトと3人で帰ってる時に、先輩にコムドット好きそうって言..
https://www.tumblr.com/tagged/%E6%97%A5%E8%A8%98
tumblrは一つのメールアドレスに紐付いたメインブログ一つ作れる。そしてそれのサブブログを1日10個まで作れる。
メインブログは非公開にできない代わりにフォローやブロックやスキができる。
サブブログは非公開にできるけどメインとは別にフォローとかスキすることはできない。フォローされることはできる。
自分は10年以上前にtumblrのサブブログで日記を書いてた。非公開、フォロワー0で自分だけが読むブログだった。(結局書き途中でアプリが落ちることが多くて使わなくなったけど)
お互いに日記読んでる人たちが楽しそうで羨ましい気持ちも0ではなかったんだけど、非公開にできないメインブログに私的なことを書くのは、万が一知り合いに見つけられた時に逃げ遅れそうで抵抗があった。
スキしたりフォローしたりなどの交流はメインブログでしかできないから日記アカウント同士で相互フォロー関係を気付いていいねを飛ばし合う日記界隈に参入するにはサブブログでは難しかった。
だからtumblrの日記界隈の人たちは度胸がすごいなと思ってたんだけど普通にサブブログに日記書いて、それと同定できるプロフィールに仕上げたメインブログでフォローといいね飛ばしてたりとか工夫してたんですかね。と元増田の転載元を見て懐かしく振り返ったりしました。特に今からやりたいわけじゃないんだけどね。誰も見ないしお金も発生しない長文書く元気ってもうないな。
tumblrの日記界隈、(自分もそんな感じでしたが)鼻持ちならないイキった文章とかポエミーな文章とかそのマリアージュが多かったけど、別に本人たちもその痛さに自覚がないわけではなく、敢えてtumblrをそういう欲求の捌け口にしてのびのび痛々しさを解放してるのがみんな楽しそうでよかった。
「当たり前だ」で終わるこの話が、また何故か話題になっていたので真面目に書いてみる。
一番分かりやすいのは「顧客を晒すようなフリーランスに依頼をしたがる奴は少ない」という点。
そんな口が軽くて晒すことに全く躊躇が無い奴は、トラブルが起きた際に自分の非を隠して曝露する可能性が高い。晒し行為は「見えてる地雷」と同じような物で、誰も好き好んで近づこうとは思わん。
無論、晒している人間が「超一流企業からも依頼を受けた有名絵師で、その人に描いてもらえば大ヒット間違いなし」「超絶技巧の持ち主で、唯一無二の存在」くらいのステイタスを持っているなら話は別だが、実際に晒しているのは他を探そうと思えば代替はいるような人ばかりで、あえて依頼をする理由はない。こうやって玉石関係なく依頼者は減っていくから仕事としては当然成り立たなくなっていく。
もう一つ重要なのが、「まともな同業者からも距離を置かれる」という点。
晒している本人は「同業のために晒しているんだ」と仲間意識からやっているようだし、実際に感謝リプをしている奴もいる。自分も絵師やデザイナーならありがたいと思うかもしれんが、それと同時に「こいつとは一緒に仕事はできないし、仕事も紹介できない」と強く思い、リプも絶対にしないのは間違いない。
もし共同作業をしていて、そいつが暴走して顧客とのやり取りをあること無いことをツイートしたら自分も周りや顧客から共犯のような扱いになる。あるいは、自分が紹介した仕事で不適切な行為をされたら紹介した自分の信用が著しく落ちる。はっきり言ってそいつに近づくのはリスクでしかない。
また、仮に感謝リプして「晒しを良しとする姿」を公開するのは百害あって一利なし。誰が見ているか分からんし、絡みも減っていくでしょうよ。
こうやって仕事は減っていき、同業者からも距離は置かれ、コネもツテも増えず、逆に減っていくような行為が「SNSでの晒し行為」というもの。少なくとも「これから絵で飯を食っていきたい!」「そのためには仕事に少しでも繋げたい繋がりたい」と覚悟を決めたようなフリーランスがいとも簡単におこなうような行為ではない。
私たちはいわゆる今で言う港区女子。5年以上前に読んだきりだが東京カレンダーに出てくるような女たちだった。
ひょんなことから電通博報堂の営業マンと知りあい、飲み会に呼ばれる日々が続いた。(彼ら彼女らはなぜか合コンと言わない)
金土日に限らず平日もあり、二次会三次会タクシー代ごっちゃんですということも稀にあった。
なんだか良い雰囲気の2人が同じタクシーに乗っていくのも見た。トイレの前の通路でキスしてたな。
なお、昨晩の彼は先週別の女と一緒に帰っていたことが女子会で噂され、みんなで笑うこともあった。今度あの女には忠告しておこう、なんつってな。
きっと男性らも「先日はどうも」とニヤニヤと仲間意識を高めていたに違いない。
これまではこう思っていた。最初に知り合ったのがフジ担当の代理店の営業マンなんだから、飲み会がフジ系ばかりになるのは当然だろうと。
しかし、よく考えるとあれだけ飲み会をやっていて、あれだけ飲み友達を増やしても、驚くほどフジの営業に遭遇したのだ。
飲み友達といっても、コマを揃えるための女友達だ。たいていの人がフジの営業と飲んだことがあったので、狭い世間だなと思っていた。
しかしそうではなく、単純にフジの社員が飲み会市場に多かったんだと思いなおすようになった。最近の報道を見て。
港区っぽいところで言うと、経営者や美容外科医や外銀の飲み会もあった、多局の飲み会もあったが割合は低い。
「珍しくメーカーか」と呼ばれていくとフジの営業が居たりする。
メーカー男に人間関係を聞くと、フジの飲み会の輪にメーカーの物好きがくっついてるだけだった。
たまに営業ではなく、プロデューサーやクリエイティブ系、アナウンサーも居たがやはり珍しかった。
ちなみに私たちは芸能人ではない。ただ、美人で下品でノリが分かるだけの女だった。
だから汚い飲み会に誘われるんだと思っていたし、営業ばかり出てくるんだと思っていた。いっときの地域の一部のお祭りだと思っていた。
しかし最近の報道を見るとあれは「フジの文化」だったのだなと。文化が浸透、フジだけにその空気があったんだな。
そのくだらない文化を醸成する一端を担ってしまっていたのだな。
なお、祭りが催さればその後は献上も何もない、あとは男女の普通の合コンだ。
気の合った者が気の合った者と帰る。
ただ、友達から1度聞いたことがあるのは、電話でホテルの部屋に呼ばれて行ったら某俳優の居る乱交が行われていたという話。
だまし討ちだったらしい。フジから呼ばれたのか、フジの社員が居たかは知らない。そういう世界にも繋がってたんだね。
不倫を正当化していないと口では言っているけど、完全に正当化していると思うよ。
体の関係を持っただけで、信頼関係は薄い人間のことを大事な友達みたいに語っているのが完全にそれだよね。
大事な友達だから、不倫というよりも交友関係に近いって文面は正当化じゃなければなんなのだろうか。
共犯の仲間と一線を越えた後に深まる仲間意識みたいなやつを大事な友達とか言い始めるのは、認知が歪みまくっている証拠だと思う。
不倫が問題ってよりも、目的が一致しただけの仲間を大事な友達というほうが圧倒的に問題。
分かったうえで罪を背負うのならば、その罪で裁かれても言い訳しない人間であるべき。許しを請うことはしなくとも、その関係に期待するのは浅はかが過ぎる。
この関係性を男は通常どうおもっているの?とかじゃない、その質問がおかしいのに気づいて、性別故と考えるな。本間に認知を正すために病院行ったほうがいいと思うくらいだ。
その言葉を初めて見たとき、思わず目を疑った。「チー牛に人権はない」――ネットの掲示板に大きく貼りついたスレッドタイトル。挑発的で攻撃的な文言に、私は激しく嫌悪感を覚えた。投稿者は何を求めてこんな言葉を並べるのか。誹謗中傷なのか、ただの炎上商法なのか。それとも誰かに対する歪んだ復讐心があるのか。
そのスレッドには、いわゆる「チー牛」と揶揄される人々の画像が貼りつけられ、「こういうオタクっぽい奴らには人権なんていらないんだよ」といった書き込みが連なっていた。特定のファッション、髪型、メガネや細い体型――そんなステレオタイプを指差して笑い、それだけで「価値がない」と切り捨てる。誰かを非難することでしか自分を肯定できない人間が、ここにはたくさん集まっているように見えた。
私はそのスレッドを開く前から、少し胸騒ぎを覚えていた。なぜなら、私自身も昔から「チー牛」と言われるようなタイプだったからだ。部屋に引きこもりがちでゲームや漫画が大好き。容姿に気を配るのもあまり得意ではなく、クラスの派手なグループとはほとんど接点がなかった。だからこそ、この掲示板に書き込まれているような心ない言葉に心がえぐられるような思いがした。
しかも、投稿者たちは一様に「単なるジョーク」だと言い張る。言葉の暴力を軽々しく扱っているのだ。「チー牛は努力しないから悪い」「自分でカッコよくなろうとしないのがいけない」――そんな論調で一方的に断罪する。確かに、どんな見た目や趣味を持とうと、当人が幸せであれば他人が口を挟む筋合いはないはずなのに、それを叩くことで優越感を得る人たちがいるという事実に、私は言いようのない虚しさを感じた。
あるとき、同じ講義を受けている知人が、このスレッドについて面白そうに話していた。「チー牛って要はオタクっぽい見た目の奴らだろ? そんなやつらに人権なんかないって、ある意味真理じゃね?」と、半ば冗談交じりに言う。私が「それ、本気で言ってるわけじゃないよね?」と問い返しても、彼は本心を隠すかのように笑い、話をそらしてしまった。
私はあらためて思い知った。人は、自分とは異なるタイプの人間を見下し、コミュニティの外側に追いやることで仲間意識を高めることがある。そこに“いじり”や“からかい”の形で差別が忍び寄っても、当人たちは悪気を感じにくい。だからこそ、こんな言葉がネットで無邪気に飛び交ってしまうのだろう。
だが、「チー牛に人権はない」という言葉は、単に“冗談”で済ませられる問題ではない。誰かの存在や生き方そのものを否定する言葉は、確実に深い傷を与える。日頃から自分の外見や性格にコンプレックスを抱えている人ほど、その言葉に大きく心を痛める。ジョークやネタだと笑われても、言われた側は笑えない。ましてや、その揶揄を心のどこかで真に受けてしまい、自分に価値などないのではと追い詰められてしまうかもしれないのだ。
私にとっての救いは、同じ思いをした友人たちと出会えたことだった。大学のオタク系サークルで仲良くなったメンバーは、みんな漫画やアニメ、ゲームを愛し、自身の“チー牛っぽさ”をむしろ誇っていた。メガネ、地味な服装、インドアな趣味……それらを理由に誰かから嘲笑されるときもあったが、私たちは互いに励まし合って「そんなの気にしなくていい」と言い合っていた。そこで初めて、私は「自分が好きなものを大事にしたっていいんだ」と心から思えたのだ。
結局、ネット上で飛び交う「チー牛に人権はない」などという言葉を完全に消し去ることは難しい。世の中には、誰かを嘲笑うことでしか自分を保てない人がいるのも事実だ。けれど、それに屈してしまう必要はない。たとえどんな趣味や外見をしていても、誰もが自分なりの人生を生きる権利がある。自分の好きなものを語り合える仲間がいれば、その言葉こそが小さな灯火になって、どんな攻撃的な言葉にも打ち勝てるはずなのだ。
タイトルにあるような言葉を目にすると、胸が痛む。悲しみや怒りを感じる。でも、その気持ちを正面から認めつつ、自分が大切にしてきたものを、さらに誇りをもって抱きしめられる自分でありたい。何者であっても、何を好きであっても、私たちは自分の人生の主役なのだから。
だからこそ、私は声を大にして言いたい。「チー牛に人権はない」なんて言葉は、ただの差別であり、歪んだ思い込みでしかない。実際には、どんな人もそれぞれの人権を持つし、それぞれが生きる価値を持っている。ネット上で罵られても、それがすべてではない。誰かに“いらない存在”扱いされても、私たちは自分の居場所を見つけ、好きなものを共有し、共に笑い合って生きていくことができるのだ。
んんwwww増田氏、Node.js界隈が孤独に感じるとは、拙者には理解しがたいことですぞ。確かに、Ruby/Railsのコミュニティは非常に結束しているイメージがありますが、Node.jsの開発者たちもまた、独自の活力と熱量を持っていると拙者は認識していますぞ。
Node.jsはJavaScriptの流れを受けており、そのため、よりダイナミックで多様なコミュニティがあります。それは自由であり、むしろオープンな環境です。Rubyと比べてNode.jsは常に進化し続け、多くの新しいアイデアやプロジェクトが生まれていますぞ。
もちろん、増田氏が「仲間意識」を求めるのであればチャンスがあるかどうか参加してみるのも手です。しかし拙者は、その「個」としての自由がNode.jsの魅力だと感じているのですぞ。集団幻想に囚われず、Node.jsの可能性を追求するのも一興かと思いますな。是非とも、多くのNode.jsコミュニティに参加し、多様な人々と触れ合ってみることをお勧めしますぞ!
Ruby/Rails界隈ってさ、俺たち仲間だよな助け合っていこうぜ!みたいな感じがあるよね
新人が勉強するにしてもRailsチュートリアルみたいなところあるし
あと基本的に腐る部分が少なくて、Railsはずっとこれみたいな老舗の安心感みたいなものがある
開発者に当事者意識あるのか、盛り上げていかなきゃみたいな自負があってコントリビューターになる人もいる
でもNode.js界隈は仲間みたいな意識はなくて、殺伐としている
トレンド追いかけて周りを出し抜いて、相手に「まだそれ使ってんだ、いまはこれだけど?」みたいなこと言いがち
Node.jsに愛があるわけでもなく文句を言い続けてDenoやBunとか、もっといいのねーかなって探し回ってる
フロントエンドもバックエンドも出入り自由で流行り廃りが続いて結局なにが正解?みたいな感じが続いてる
フロント部分ならRails使ってても同じ問題があったんだけど、Hotwire登場で解決の兆しが出てきた
Node.js界隈はNode.jsをベースにはしてるけどみんなが別々のライブラリ使ってるから、「この解説は俺のケースには合わないなぁ」ってなりやすい
ひとりの開発者のためだっけ?なんかコンセプトがそうらしいじゃん
https://pr.forkwell.com/career_navi/dhh-rails-large-scale-development/
この人のすごいところは口だけじゃないんだよ
じっさいやるからすごいよな
omakubだっけそういうところもすごい
大学時代にバイト先の先輩から告白されて、それを断ったら毎日LINEを送ってくるようになって、終いには定期的に家まで来るようになった。バイト先の人たちはみんな優しくて好きな仕事だったから半年後にお店を閉めることが決まってたのもあってただ耐えた。
でも家がバレてていつ来るか分からないって結構精神的にしんどくて、どこにも安心できる場所がない。大学生でお金もなかったから簡単に引越しなんてできなかったし。毎日送られてくるLINEも「今家の前にいる」とか「どこで(私)を見た」とか来るから動向確認のためにもブロックできなかった。
そんなことがあって、まぁその前にもいろいろあったんだけどそれをきっかけにより男性が怖くなってしまって、大学を卒業して社会人になっても数年はできる限り男性と関わらないように生きた。けど、ある日ひょんなことから男性の友達ができた。
取引先ではないけど同業者で、ある会社関係の集まりで出会った。お互いあまり大人数が得意じゃないのもあって、テキトーに2.3人で集まって挨拶して、話して、解散しての繰り返しに疲れて隅で休んでいる時に、「こういうの、疲れちゃいますよね」なんて言ったのが最初の会話だったと思う。
その時は仕事の話がメインだったけど、少しだけ趣味の話もして、それで連絡先を交換した。
LINEでやりとりをはじめたら映画の話ですごく盛り上がって、今公開されている映画を後日2人で観に行くことになった。お互い1人で観に行くタイプで、感想はフィルマークスに吐き出すしかなかったから映画を観た後にその話ができるのが楽しくて、映画館のあとに行った飲食店ではひたすら話をした。
それからはお互いが好きなものを勧め合ったり、日常的に連絡を取り合いながらたまに会うような関係になって、お互いの趣味以外の個人的なことも話すようになって、真面目な話もバカみたいな話もできる友達になった。お互い今までの友達に話せないようなことでも話せて「1番の友達だわ笑」とか言って笑いあってた。
2.3年その関係が続いて、ある日その人の家でとあるシリーズ作品の一気観をすることになった。もしかしたら俳優か監督の縛りだったかもしれない。どちらにせよそういうことは前にも何度かしていたし、別にいつも通りのことだった。
何本か映画を観終わって、休憩を挟んでいたときに急に告白された。
タイミングが意味が分からなかったし、そもそも向こうにそんな意識があるなんて思いもしてなかったから驚いた。私にはそういう気持ちがなかったからすごく申し訳ないと思いつつ、この後どうすればいいんだろうと考えながら、このまま友達でいようと返事をした。
そこからは最悪だった。
とにかく目が怖かったし、力は強いし、知らない人に見えて、でもこれもこの人の一部なんだというのが受け入れられなかった。今ならまだ冗談で済ませられるって何故か私もへらへらしてしまったり、本当に気持ち悪い空間だったと思う。
終わった後に、私にこんなことをしておいてそれでも尚好きだと言ってくる心理が分からなくてただただ怖かった。
その日その後どうやって家を出たのかは覚えてないけど、後から懺悔のようなLINEが来て、もうこのまま会わない方がお互いのためだと思ったし連絡を返すことはなかった。それで終わり。
自分に非はあると思う。
これまで異性の友達を作ったことはなかったし、男性を避けていた期間があったせいで余計に適切な距離感が分かってなかった。これまでに好意を寄せてくれた人とも付き合ったことはなかったから交際経験もゼロだし。でもこの経験をこうやって出会いから書き出してみると、最後に付き合っていればよくあるハッピーエンド。私がフラグを折ったから脚本がバグった。
そんなことがあって、昔語り合った映画や勧められた映画、その当時自分が好きだった映画は色々思い出してしまうから観れなくなって、映画を観ることは趣味じゃなくなった。
でも数年経って、最近ふと映画が観たくなってそのままの勢いで映画館に足を運んだら本当に面白くて、それから時間を取り戻すようにサブスクに登録したりしてまた映画を観漁ってる。
映画を観るたびに当時のことを思い出してしまったりするんだけど、自分の中で消化できている部分とできていない部分がある。
あの日彼が私の気持ちを考えずにあんなことをしたことに対しては怒っているし悲しいけど、それまでは人として尊敬していたし、なにより一緒にいた時間は楽しかったし、でも私の中でどうしても人と付き合うっていうことに抵抗があって、もしそんな私じゃなければ相手もあの選択をしなかったかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになったり。
自分が友だちだと思って信頼してきた人が、あんなことをした時点であの人は所詮そういう人だったんだと思いたくないのかもしれない。
趣味がきっかけで親友ができて、親友じゃなくなって、もしかしたら向こうは最初から友達だと思ってなかったのかもしれないけど、でもあの時本当に楽しかったことだけは事実だった。
◾️追記
自分がはっきり書かなかったせいで解釈の違いとかで変に対立させてしまったのが申し訳ないです。
告白を断った後に、向こうから一回だけさせてほしいって言われて断ったけどそのままされただけ。相手の力強さとかこうなってしまった悲しさとかで正直途中から諦めてたところもあるし、避妊具を付けずにされるのが1番怖かったから自分から伝えたし、"無理やり"っていう言い方は適さないかも。
コメントの方で書いたんだけど、相手も私と同じく恋愛が苦手って言ってたことを真に受けて勝手に仲間意識持ってたから裏切られた思いが強かったのと過去に色々あったせいで男性が苦手だって話をしてて経験もないって言ってたのにそこに踏み切ってきた失望があって少し被害者意識も強くなったんだと思う。
とにかく怖かったし悔しくて涙が止まらなかったんだけど向こうは私がはじめてだから痛いのかもしれないってやけに身体を気遣ってて、そんなこと思えるなら今すぐやめろよって思うのにやめる気はないし、その状況で勃つのが信じられなかったし軽蔑した。当時はそんな怒りでいっぱいだったんだけど、その怒りの熱も冷めて、時間を置いて今思い出したら楽しかった思い出もたくさん出てきてしまって心情がぐちゃぐちゃだったから書いた。
この出来事自体は2.3年前のことで、直後はまた男性不信になったりしたけど皆が皆性欲をぶつけてくるような人じゃないって少しずつ進んだり戻ったりしながら今は割と普通に接することができてると思う。割り切れたとも言えるかも。今でも付き合うとかは抵抗感があって相変わらず恋愛経験はゼロだし今後もないと思うけど。
男女間の友情なんて成立しないんだって怒って、でもそれって捻くれた考え方なのかもしれないなって思って。でもそれを確かめるためにまた異性の友人を作るほどの勇気はもうない。次に同じようなことがあったら私は今度こそ男性を信じられなくなってしまいそうだから。友人になったところで私相手だとその先で付き合えないし、セフレにもなれないから向こうとしても良くないと思うしね。
でも今後異性と関わる際はちゃんと距離感を意識します。私と相手のために。
※こういう話現実で話せないし、ただ書き散らした文章にせっかく意見貰ったので返信とかしながら改めて考えたりしてたんですが、勢いで書いて後悔してるのでもう返信はしません。ありがとうございました。