はてなキーワード: 一円とは
本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権が天皇の権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的・象徴的次元から多角的に検証する。
日本史上の権力構造が「権威(天皇)」と「権力(武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理が機能したことを論証する。
鎌倉幕府の創始者・源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権の法的根拠が朝廷の官位授与に依存していたことを端的に示す。
この官職は律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権の公認を得た。
特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝が東国における荘園・国衙領の警察権を公式に認められたことが、朝廷との制度的紐帯を強化した。
承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府が朝廷の荘園管理システムに介入する手段となった。
地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府の経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷へ一定の税収を保証する相互依存関係を形成した。
この共生関係は、幕府が朝廷の経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。
鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統と大覚寺統)において、幕府が皇位継承に介入した背景には、三種の神器の所在が正統性の根拠とされた神権政治の論理が存在した。
例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程を監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。
朝廷が主宰する新嘗祭や大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇の神聖性を可視化する装置として機能した。
幕府はこれらの儀式への供御人派遣や財政支援を通じて、伝統的権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。
特に伊勢神宮や賀茂社への寄進は、武家が宗教的権威を利用して支配を正当化する典型的手法であった。
鎌倉幕府の経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷や貴族の荘園であった。
幕府は地頭を通じた年貢徴収の合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。
この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷が幕府の軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。
平清盛の日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交・貿易管理として継承された。
幕府が実質的な外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易(室町期)に至るまでこの構図が持続した。
藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家が天皇の外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位を媒介に権力を正当化する手法と同根である。
平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家が伝統的官制に依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。
白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時の執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。
いずれも名目上の君主(天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威と権力の分離という中世的政治構造の典型を示している。
北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承の正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方が政治的正当性を主張する根拠となった。
これに対し足利尊氏が光厳上皇を擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理に依存せざるを得なかったことを示す。
鎌倉後期に伝来した朱子学の大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史』編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。
この思想的系譜は、天皇の権威が武家政権の正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。
以上の分析から、鎌倉幕府を頂点とする武家政権が天皇の権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、
③神権思想に基づく支配の正当化——という三重のメカニズムによって支えられていた。
明治維新に至るまで継続したこの権力構造の本質は、権威(祭祀権)と権力(軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。
アメリカで自動車整備工や清掃員をしながら、若い時から倹約をして投資し続けて92歳でなくなる時には800万ドル(12億円)の資産を築いたひとがいる。
周囲は彼のことを富豪だとは知らなかったが、遺書で地元の図書館に600万ドルを寄付すると残して一躍有名人に。
俺は55歳で資産は一億円。
死んだら図書館とか病院とかマスコミが取り上げそうなところに寄付する。
父親が亡くなったのは70代半ばで、俺も同じくらい生きるなら人生あと20年。
Apple、NVIDIAは盛り上がっているが、他の半導体企業は振るわない。
半導体チップというと、ロジック、メモリ、センサー、アナログ、車載など色々ある。
半導体株は一時期盛り上がっていたが、結局儲かっているのはApple、NVIDIA、設計ソフトEDAベンダーだ。
給湯器や車載向けの半導体が無くて作れないといったことが数年前に起こったが、一円以下の数銭単位で値引きされ利益がない。
メディアがIoTだ、車載だと騒ぎ立てたが、どこも稼げずジリ貧のまま事業続けているのが実態だろう。
性能がいくらあっても足りない。というよりスパコン、HPCだ。
単体GPUじゃデータが格納できないので、複数GPUでデータをやり取りすることになる。
NVIDIAはコンシューマ向けGPUでは不要だったスイッチチップも着々と用意していた。
NVIDIAのサイトを見てもらえばわかるが、GPU以外のハードと、それを使うためのソフトも沢山ある。
日本の研究だと低消費電力向けを研究しているのだが、IoTなどでもわかっていることだが
唯一無二の性能・販売価格でなければ他に埋もれて購入すらされなくなる。
ゲームだと1フィールド読み込めば使いまわしなどキャッシュが効きやすい、シェーダパイプラインが決まっている、
そもそもハード限界の中で仕様が決まるなどがあり、問題はなかったが、AIはチップの性能内で決まらない。
AIの場合、推論はKVキャッシュくらいは活用しようという動きが出てきたものの、メモリ全部にアクセスするのでキャッシュがバッファ的な意味合いでしか効いておらず、
メモリ帯域が物を言う。
あと日本はリソグラフィ限界のサイズの大きなチップを作ってこなかった。
4GHz,5GHzで駆動させると、チップ内を光速で信号が伝搬するとはいえ、チップサイズに対して伝搬速度が遅く、タイミングがMETしない。
大きめのチップを作っている企業もあるだろと指摘があるだろうが、物理設計は台湾企業に委託していたりとノウハウがない。
結局のところ、あの手のDQNパリピ集団暴力礼賛コンテンツは、独裁体制の礼賛か犯罪組織のプロパガンダにしかならない。
皮肉なことに、そういったコンテンツから生まれたゲロ以下の集団の餌食になるのは、そうしたイケメンコンテンツを持ち上げてる女や、そういったコンテンツに金を出してるアホ投資家どもなのだ。
マスゴミがギャーギャー喚いて、こういった連中に被害者ヅラさせるのも、要するに今後もバカみたいに金を落とせというわけだ。
こうしたコンテンツを最初に押し付けるための最も悪質な洗脳コンテンツが、あの戦隊ものだ。
ああいうコンテンツの悪影響で、日本の糞ガキは子供のころから、そうしたパリピコンテンツを当然のものとして受け入れさせられる。
日本のクソガキは、所詮は大したこともできないビビりばかりだから、やれることと言えば精々が陰湿なイジメくらいだが、これがアメリカみたいな蛮族の国に輸入されると、破壊的な影響力を発揮する。
今のアメリカの産業の何割かは、戦隊ヒーローなんて輸入したツケともいえる。
いつまでもバットマンだのスパイダーマンだのだけ持ち上げていれば、あそこまでの惨状にはならなかったろう。
まあスパイダーマンは、晴れてパリピコンテンツの一部に吸収されたわけだし、バットマンは金持ち男礼賛映画で、要するに、自分たち権力者のクソガキだけ、ああいう悪影響のないコンテンツに誘導しているわけだ。
日本はチキン国民だから、大した悪影響が表面に出ないと騙されて、アメリカみたいな国に輸入すると、ああいうことになるわけである。
実際には、日本人の精神的環境は、最悪の状態にあるのだが、怖くて自殺もできないのが日本人だ。
それでも相当死にまくってるわけだが。
大体、イジメられて一番惨めな状態になるのも、そういうコンテンツが好きで洗脳され切ってるガキだ。
集団が正義と洗脳され切ってるから、その集団にどんな理不尽やダーティワークを押し付けられても従順に従うしかない。
そういう子供が、親から金を盗んでもカツアゲされたり、自分の彼女をDQNに差し出してレイプさせたりするのである。
そういえば、サッカー選手の学生がイジメられた挙句、自分の彼女をレイプさせた事件をマスゴミがいじめられっ子ディスのために拡散していたが、どうせイナズマイレブンだのベイブレードだのをありがたがってたガキに違いない。
そんな自分たちが作り出したクソガキを利用して、他のイジメを正当化し、イジメられた側に問題がーとやるのが連中の手口だ。
当然イジメのターゲットは、むしろ大人しくて気がやさしい連中から選ばれるか、連中が工作で無理やり生み出すのである。
孤独なヒーローが好きなロンリーボーイは、イジメられても一円だって渡さないのである。
まあ、それでもアメリカのそれが日本のそれよりもマシな点は、アメリカのウェイ系映画は、本気で仲間割れするところである。
あの手のプロパガンダでは、主人公たちは絶対的な正義で、みんな同じようなことを考えて同じような理想を持っていて当然、それを共有できない奴はみんな悪だとされる。
ジャンプ漫画とか、和気あいあいと仲間で慣れ合いをしていても、なんだか空気が張り詰めていて悪いのはそのせいだ。
あいつら、お互いの思想や理想や信念の違いとか一切認めず、普通に遊んでいてさえお互いの思想を監視しあう。
それでしょっちゅう疑念みたいなのを抱いては、誤解だったり、より思想性が強いことに感激して友情()を確かめ合う。
ああいうマンガに毒されてる奴らが、戦争とかになると、異常な思想警察になって、真っ当な批判も封殺し、滅亡に向かってひた走るのである。
そういう連中に限って、思想性という批判が好きだから、わざと使ったわけだが、大体、思想性思想性言ってる奴の方が、やたら不寛容で、価値観の違いを認めない。
というのも、自分とは違う思想の相手を全否定するための言葉になりやすく、この言葉自体が、アカの工作員のプロパガンダ言語レベルの代物になりやすい。
こういう言葉を連呼する輩の考えは、思想性が強いと思われたくなければ、世間(マスゴミ)が、その時その時の都合で持ち上げる思想以外の思想を語るな、ということである。
こういう風潮の結果が、実際は内心どうでもいい、むしろ不快にさえ思っている思想を、表向き支持して、称賛を得て、自分の都合で他人をけしかけようとする小独裁者が乱立し、小集団がたくさん生まれて、その行く末が、アメリカのような少数分裂の結果の、無政府寸前の治安状態だ。
アメリカ人は行動的だから、そうやって表向きに噴出しているわけだが、日本ではもうとっくの昔から、マスゴミのためにマスというものが消滅し、嗜好性の先鋭と多様化が起こっている。
集団というものを強くすると、全体においては、むしろ、一つの強力な組織なんてものは消滅し、無数の独裁者と小集団に別れるのである。
マスゴミのような、薄く広い情報媒体からの影響力が強いのは、むしろ小集団に属さないロンリーウルフなのだが、マスゴミというもの自体が、無数の小集団により利権の奪い合いであり、こうした連中が好き勝手に物を作ると、こうしたロンリーウルフを侮蔑し、排除することになる。
そうした独裁小集団のリアルにおいては、そうしたロンリーウルフこそ邪魔だし、結局のところ、ロンリーウルフは、他人の影響を受け難くて、盲目的には従わないからロンリーウルフなのであり、リアルにおいて他者からの情報が少ないために、マスゴミの情報に依存する傾向があっても、その情報は批判的に扱われやすく、洗脳され切らないからだ。
現実に小集団に所属する者は、あらゆるメディアからの情報より、現実に属している集団の情報と命令を優先する。
ネットで陰謀論がバカにされてるからって、自分の属しているグループ内での陰謀論の内容を否定する奴は、その集団から”お仕置き”の対象になるだけだ。
仲間とか集団という存在を大きくすればするほど、そのお仕置きへの恐怖は増大する。
身近な人間や身内でさえ信じるな、テレビだけ信じろ、という風に。
マザコンとか家族に従う子供というのは最悪の存在として描かれるし、マスゴミの報道する犯罪は、いつも家族のせいでおかしくなった犯罪者ばかりだが、現実の犯罪のほとんどは、むしろ家族に暴力などを振るって追い出され、ヤクザ以外に行くところがなくなった奴によって行われる。
片親や虐待など、家族側に問題があるパターンもあるが、たいていの場合は、マスゴミのプロパガンダに悪影響を受けまくって、家族を蔑ろにすることを覚えた不良である。
自分たちで叩きまくらせておいて、世間で叩かれるようになると見るや、途端に虐待してる母親も~みたいなドラマを作り出す。
母親が虐待するダメな存在という印象は、同情するように見せかけて植え付けまくってるわけだが。
現実に虐待する家族なんてのは、マスゴミ周辺には五万といても、他には殆どいないにも関わらずだ。
だが結局のところ、マスゴミも、人間の顔をして洗脳する以上、ある種の人間、マスゴミによく出る人種については美化しないとならない。
その結果、マスゴミがどんなに自分たち以外を信じるなと洗脳したところで、マスゴミによく出るような人間が、そいつの側にいると、途端に小集団が形成され、マスゴミの情報はシャットアウトされる。
結果、タレント的な人間は、タレント的な人間同士で徒党を組み、周囲の衆愚を扇動し、マスゴミの洗脳網から独立し、独裁小集団を形成する。
学校のヒエラルキーが、露骨にルックスによって形成されやすいのは、そのせいだ。
というのも、工作によって、わざと面白くなくさせることがある程度可能だからだ。
だから、連中の工作によって、連中以外に芸人みたいな奴らが生まれにくくなっているのである。
見てくれが良いだけの奴は、中身なんてない場合が多いため、大したことは出来ないわけだが、この工作を振り払って芸人みたいになれる奴というのは、相当頭が良いだろう。
一方でスポーツができるか否かという基準も作っているが、これは、いかにスポーツというものが、軍隊的でファシスト的で、簡単に人を操れる道具かということを示している。
彼女を提供させた奴らのように、連中がいかに醜悪でおぞましいかが、そこには表現されきっている。
あのスポーツの部活というものに入って、嫌な思いをしなかった者など居ないだろう。
そんなこともまともに見もせず、スポーツマンなんてものをチヤホヤするバカ女の末路が、肉便器だ。
少しでも人間性に目を向ければ、学校のスポーツマンなんてカスしかいない。
日本人がまともにスポーツをやれるようになるのは、成人してからで、学校の部活なんて、一番性格が最悪で暴力的な屑が占領している。
結局のところ、スポーツマンと付き合っていられる女というのは、人をブランドでしか判断せず、しかも現実に何が起ころうがすべて無視していられる自己満人形みたいな女だけだ。
一般ニュースのアナウンサーなんてのは、中身空っぽの人間ボイスロイドで、上っ面だけで良い印象を人に与える以外の何の才能もいらない職業だからだ。
大体、ちょっとでも考える知能があれば、無批判でニュースを垂れ流しにし続けることなんてできないわけで、アナウンサーというのは、積極的に頭の中身が空っぽであることが要求される職業なのである。
アメリカなんかでは、しょっちゅうアナウンサーがブチギレて放送事故を起こしており、向こうでは日本ほどサイボーグ化が進行してないのだろう。
まあ日本でも、思想性の強いアナウンサーは、ワイドショーとかには居るわけだが。
むしろあの連中というのは、放送事故も起こさずに、自分で言ったニュースに不満があれば、自分の意見を表明して、そのうえで場を取り繕って進行できるわけで、相当コミュ力も思考力も高い証拠だろう。
その真逆の存在が、ひたすらニュースを音読してるだけの普通のアナウンサーであり、アナウンサーというのは、全く真逆の二タイプが居るわけだ。
ワイドショーの、本当に頭のいいアナウンサーと、一般ニュース番組の肉人形を一緒くたにアナウンサーとして括るから、政治の世界で民主主義が崩壊しているのである。
中身空っぽのロボットみたいな奴に限って、都知事になって成功している。
あいつらは、全て少数権力者の指示通りに動いてるだけのマリオネットだ。
逆に、ワイドショーのアナウンサーが人気を得ることは殆どない。
彼らは、アナウンサーとして一括りにした肉人形を、同じアナウンサーだから頭が良いはずと騙すことに利用されるだけだ。
というのも、自分で読み上げたニュースを、自分で批判するという構図自体が、視聴者から反感を持たれやすい。
このアナウンサーは、自らの立場を利用して、自分の思想を宣伝している、卑怯だ! というわけだ。
実際に卑怯な宣伝工作をしてるのは、そのニュースを描いた奴だけなのだが。
こういう衆愚を騙して、一方的に洗脳するには、対立する意見を横に並べてはいけないのである。
横に並べて公平に扱っているかのように見せかけながら、相手の意見だけを誇張し、曲解し、誤解を与えるように切り抜きして書く新聞記事の書き方こそ正答なのである。
ワイドショーのアナウンサーは、本当にニュース原稿を公平に読むため、その後に自分の意見を開陳したところで、視聴者はその反論を真に受けない。
むしろ、ニュースを自分で読むというアドバンテージの上に、後で自分の意見だけを言って終わらせる形式に、反感を抱くだけなのだ。
だからテレビ局というのは、”思想性"の強いアナウンサーを自由にさせておける。
自分たちの原稿さえ読む仕事をさせれば、あとは問題にならないからだ。
そして、連中を自由にさせておくことで、自分たちの公平さを捏造し、アナウンサーという職業に、ちゃんと自分で考えられる頭のいい人たち、という誤った印象操作をすることができるのである。
むしろ、実は、原稿を棒読みしてるだけの肉人形は、自分の意見を押し殺して、仕事に没頭しているプロフェッショナルと思われている。
年末に昔世話になったお店の閉店情報が流れてきて案の定「なくなるの悲しい」コメントで溢れかえってた。
正直めちゃくちゃうんざりする。
その「悲しい」感情表現が、閉店を決意した人間のどれだけ後ろ髪を引くかわかってないだろ。
一つも葛藤せずにみんなから愛された店を閉じる人間なんていない。
何度も何度も葛藤して、文字通り自分の身を削って店をもたせてきたけど、それがもう限界だから閉店という決断をするのだ。
そうなれば一人のファンとしてはその決断を称えて前に進ませてやることしかできない。
それなのに「むかし通ってました。悲しいです」とか「なくなる前に絶対に行きます!」とか、それがどれだけ相手の気持ちを踏みにじる言葉だということがなぜ理解できないのか。
いま来てくれているお客だけじゃ維持できなくなったから店を閉めるんだ。
皆が色々な事情を持ってて通えなくなるのが仕方ない事なのはわかっている。
だったら店側に「悲しいです」なんてプレッシャーをかける前に、自分自身が省みるべきではないか。
以前も利益を取っていないような安価な飲食店が店を閉める際、閉店が決まったからとこぞって人が訪れているというニュースがまるで美談のように流れていた。
100歩譲ってお礼を言いに来たと言うならわかる。
そうじゃなくて、行列を作ってまで安価な料理で腹を満たしてやろうという気持ちが全く理解できない。
もう無くなるから最後に味わっていたいという気持ちがわからないではないが、だったら3倍の料金でも置いていけばいいのにそんな人間は誰ひとりいなかった。
ここに並んでいる人たちが普段から十分に利益を落としていれば、後継ぎだって教育できたしその人達にも十分な給料を支払えたはずだ。
それこそが店を残し続けることのできる唯一の手段だということがわかっているのに、安価な料理しか受け入れなかったのは今まさに行列を作っているこの人たちではないか。
一体どんな立場で「悲しい」とか「続けてほしい」とか言えるか。
大事な店の閉店が決まった時に、自分たちができることは悲しむことでも最後にあやかることでもない。
それができてはじめて、最後にお店の商品やサービスを受ける権利があるといえるのではないか。
自らの生活をすり減らしてまでお店を続けてきてくれた人が、今後スムーズに新しい生活を送れるようにするためって考えれば安いものではないか。
その時はじめて「本当はなくなってほしくなかった」って言葉も心に響くだろう。
それすらしないしできない人間には店がなくなることを悲しむ権利なんてない。
それはもう「これからも自分のために犠牲になってくれ」といっているのと同意だ。
そんなものはただの感動ポルノ消費だし感情に任せて身勝手を振り回しているだけだ。
それがわかったなら、わざわざ店に行ってまで店主にプレッシャーかけるじゃなくて、店の維持に貢献できなかった自分の不甲斐なさをまずは責めるべきだ。
そうして散々自分の不甲斐なさを責めたら、「悲しい」なんて言葉をかけるのではなく、店主に向かって感謝やはなむけの言葉をかけてほしい。
間違っても「続けて下さい」なんて言うな。だったら自分がやれ。
これから先も誰かにとって大事な居場所はどんどんなくなっていくだろう。それはもう時代の流れとして仕方のないことだ。
それが抗えない流れだとわかっていても、自分にとって大切だと思えるならそうやって思い出したことがあったなら、お店がまだ開いているうちに一度でも多く行って一円でも多くのお金を落としてほしい。
それでも閉店を決断した人がいたなら、自分が悲しむよりも先にその決断をしっかりと支えてやってほしい。
1.5cmって一円玉の直径より短いんだけど。
ワイもAIに書いてもらったやで
大阪に引っ越してきて、「とにかく安いスーパーがあるから一度行ってみな!」って友達に言われて、どんなもんかと行ってみたんよ。そしたら、駅からちょっと歩いたところにあるんやけど、遠くからでもすぐにわかるくらい派手な外観でビックリしたわ。ピンクや黄色の看板に「激安!」とか「大売出し!」ってでっかく書いてあって、派手すぎてほんまに目がチカチカするレベル。あんなスーパー、他には絶対見たことない。
店に入った瞬間も、もう独特な空気に圧倒されてな。なんか、普通のスーパーやったら綺麗に陳列してある商品も、玉出はちょっと雑に置かれてる感じで、「これが大阪や!」って思わせられるねん。
で、商品見てたら、まず値段にびっくりする。肉とか魚が他のスーパーの半額以下とかで、ほんまにこれ大丈夫なんか?って思うくらい激安やねん。しかも「一円セール」とかもやってて、特定の商品がたったの1円で買えるとか、マジでありえへんやろって感動した。
買い物してるお客さんも地元の人が多くて、みんなめっちゃ馴染んでる感じやし、活気があって面白い雰囲気。レジ並んでるときもおばちゃん同士で世間話してたり、レジの店員さんがパパッと袋詰めしてくれたりして、大阪のあったかい人情を感じる瞬間やったわ。
しかも、夜遅くまで開いてるから、仕事帰りでも寄れて、いつでも「とりあえず玉出行こか」ってなるんよな。
その日は色々買いすぎて、袋パンパンやったけど、財布はほとんど痛まへんかった。
それ以来、スーパー玉出は自分にとっても「ザ・大阪」って感じの象徴的な場所やし、友達が遊びに来たら「玉出見に行こうや!」って案内するくらい、お気に入りのスポットになってる。
選挙は物言わぬ人や投票しない人や無効な投票をすることで意見を表明するものじゃないから
二択で「じゃあ三番!」って言うのと同じ
それに意義を感じる人はいるかもしれないけど選択にはなんの効力もないからね
もしそれに効力があるのだとしたら、選挙権もってない人の意見も反映されてしまうって事だよね
じゃあ黙ってだれかの選択に乗せられろっていうのかってったらまあそうだね
それが嫌なら候補をつくること
いないなら作らないと永遠にだれかのサイコロであたりがまわってくるの待ち
誰かがつくるの待ってても、でずっと待ってて今なんでしょ
今回はしかたないよ
いないのだったらしなくていい
でも次はそうじゃないようにしたいよね
そのためには
どこかの政党に肩入れするのもあり
そうじゃないなら
なんてできたらいいけどそんなに簡単でもない
一票に意味がでてくるっていうのはそういう事
ひとりの一票はなにも変えられないけど
みんなに参加した一票は変える力をもってる一票
一票を捨てる人たちで集まるもよし
無駄につかう人たちでもよし
一票が意味を成すのは
「一票がなければ二票にならない」
ところからだよ
一万円の買い物も一円足りなかったらできない
それは無理でしょ
結局投票をしないと意味がないし、集団にならないと効果は見えないからね
自分ひとりでこっそり入れた一票は、勝ち馬だったとしてもなんの還元もないから
でも支援者にはありがとうのハグもするし融通も利くだろうし意見だって聞くだろうし
なんでもしてくれて勝った一票の重みを還元してくれるかもしれないね
入れないとかどこに入れるとかは集団化して1票をまとまった数にして評価の還元先を
入れる先がないなら入れる先がない事を壊すためにも
これじゃあだめになるって政党に入れたらいい
本当にダメになったら気が付くよ
「そんな適当な選択で取り返しがつかないほどダメになったらどうするんだ」
って言われても、その選択肢にしてるのは、入れる先のない本人だよ
だれかが作るのまちだったらあなたの望む世界は意見をお聞きしてないので
つくりませんでしたって事でおわりじゃん
なのでいいのがでるまで壊してつくってしていくしかないんじゃない?