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自動車業界の歴史に残る失敗作 55選(前編) 1948年~1991年

公開 : 2025.02.01 18:05  更新 : 2025.02.03 10:41

デザインや性能が良くても、必ずしもヒット商品になるとは限らない。デロリアン、サンヨン・コランド、サーブ9-7xなど、さまざまな理由から「売れなかった」クルマを年代順に紹介していく。

「クルマを売る」って難しい。

自動車業界で成功を収めるのは容易ではない。クルマをヒットさせるには、多くの要因がうまく噛み合わなければならない。そして、それらの要素がすべて揃ったとしても、栄光につながる保証はない。

見た目や革新性、トレンドの先取りなど、何がウケて、何がスベるのか、発売してみないとわからないことばかりだ。失敗例は枚挙にいとまがないが、今回はさまざまな理由で失敗したクルマを年代順に55台紹介していきたい。

商業的な成功に至らなかった「しくじり車」を年代順にピックアップした。
商業的な成功に至らなかった「しくじり車」を年代順にピックアップした。

タッカー48 – 1948年

自動車史上、あり得たかもしれない「if」の話をするなら、タッカー48は最も興味深いものの1つである。反骨のイノベーター、プレストン・タッカーが設計した48には、多数の安全機能と革新的技術が盛り込まれていた。ステアリングを切った方向を照らす回転式スポットランプ、安全性を高める強化型フロントガラス、ディスクブレーキ、リアマウントのフラット6エンジンなどだ。

タッカーの構想に魅力を感じた人は多かったが、さまざまな理由で失敗に終わる。計画性の低い公開発表はマスコミの酷評を招き、さらに、会社への出資をめぐる詐欺疑惑の捜査もあった。裁判の結果、タッカーは無罪となったが、この段階では48を欲しがる人はおらず、製造されたのは51台のみ。現在も47台が残っており、100万ドル以上の価格で頻繁に取引されている。もし、量産化に成功していたら、歴史はどのように変わっていただろうか。

タッカー48 - 1948年
タッカー48 – 1948年

エドセル – 1958年

市場動向の変化を受け、フォードビュイックポンティアックのアッパーミドルクラス車としてエドセルという新ブランドを立ち上げた。当時の社長であるヘンリー・フォード2世(写真)は、1943年に亡くなった父エドセル・フォードの名を付けた。エドセルは、リンカーンブランドよりも手頃な価格で高級感を提供すること目指した。そのため、エドセル専用の販売網を確立することになった。

しかし、発売前に1年間かけて大々的なマーケティングを展開したにもかかわらず、エドセルの仰々しい外観に消費者は敬遠し、ほとんど売れなかった。未来のクルマとして売り出されたエドセルには、オイル残量やエンジン温度の警告灯、テレタッチ・プッシュボタン式ギアセレクターなど、革新的なアイデアが採用されていた。販売当初は期待値にはやや及ばなかったもののまずまずの売れ行きを見せたが、その後の数年で大幅に落ち込み、さらに自動車市場全体が50%も落ち込むという不況の煽りも受けた。フォードは3億5000万ドル(現在の価値に換算すると24億ドル)の損失を出したと見られており、1960年末にはエドセルの生産中止が決定した。

エドセル - 1958年
エドセル – 1958年

画像:1958年型エドセル・サイテーション・コンバーチブル

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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