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柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日(1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。 伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。 幼名は六弥。通称は靭負。先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保15年(1730年)5月29日、俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。法号は心源妙証得心院。墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。

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  • 柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日(1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。 伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。 幼名は六弥。通称は靭負。先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保15年(1730年)5月29日、俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。法号は心源妙証得心院。墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 (ja)
  • 柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日(1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。 伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。 幼名は六弥。通称は靭負。先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保15年(1730年)5月29日、俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。法号は心源妙証得心院。墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 (ja)
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  • 柳生 俊平(やぎゅう としひら、元禄12年(1699年) - 明和5年3月18日(1768年5月4日))は、大和国柳生藩の第6代藩主。 伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男。正室は稲葉恒通の娘。官位は従五位下、但馬守、飛騨守。 幼名は六弥。通称は靭負。先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保15年(1730年)5月29日、俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。法号は心源妙証得心院。墓所は東京都練馬区広尾の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。 (ja)
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