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星合 八碩(ほしあい はっせき、1666年(寛文6年) - 1692年(元禄5年))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国津の生まれ、本因坊道策門下、七段。小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩と共に道策五弟子の一人と数えられるが、わずか27歳で夭逝した。 8歳で碁を志し、津藩藤堂家からの預かり弟子として本因坊道策に入門。1679年(延宝7年)14歳の時にお目見え。1682年(天和2年)17歳で御城碁初出仕。その後計7局を勤めて6勝1敗。段位は六段とされていたが、当時道策は弟子の段位を実力より一子を下げていたと言われる。道策の跡目本因坊道的が没した翌年の1691年(元禄4年)に帰郷を許され、藤堂家お抱え碁士となったとも言われるが、翌正月に死去。道策より七段を追贈された。 棋譜は20数局が残されている。また御城碁出仕は、外家としての先例となっている。堅実で手厚い碁。

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  • 星合 八碩(ほしあい はっせき、1666年(寛文6年) - 1692年(元禄5年))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国津の生まれ、本因坊道策門下、七段。小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩と共に道策五弟子の一人と数えられるが、わずか27歳で夭逝した。 8歳で碁を志し、津藩藤堂家からの預かり弟子として本因坊道策に入門。1679年(延宝7年)14歳の時にお目見え。1682年(天和2年)17歳で御城碁初出仕。その後計7局を勤めて6勝1敗。段位は六段とされていたが、当時道策は弟子の段位を実力より一子を下げていたと言われる。道策の跡目本因坊道的が没した翌年の1691年(元禄4年)に帰郷を許され、藤堂家お抱え碁士となったとも言われるが、翌正月に死去。道策より七段を追贈された。 棋譜は20数局が残されている。また御城碁出仕は、外家としての先例となっている。堅実で手厚い碁。 (ja)
  • 星合 八碩(ほしあい はっせき、1666年(寛文6年) - 1692年(元禄5年))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国津の生まれ、本因坊道策門下、七段。小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩と共に道策五弟子の一人と数えられるが、わずか27歳で夭逝した。 8歳で碁を志し、津藩藤堂家からの預かり弟子として本因坊道策に入門。1679年(延宝7年)14歳の時にお目見え。1682年(天和2年)17歳で御城碁初出仕。その後計7局を勤めて6勝1敗。段位は六段とされていたが、当時道策は弟子の段位を実力より一子を下げていたと言われる。道策の跡目本因坊道的が没した翌年の1691年(元禄4年)に帰郷を許され、藤堂家お抱え碁士となったとも言われるが、翌正月に死去。道策より七段を追贈された。 棋譜は20数局が残されている。また御城碁出仕は、外家としての先例となっている。堅実で手厚い碁。 (ja)
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  • 星合 八碩(ほしあい はっせき、1666年(寛文6年) - 1692年(元禄5年))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国津の生まれ、本因坊道策門下、七段。小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩と共に道策五弟子の一人と数えられるが、わずか27歳で夭逝した。 8歳で碁を志し、津藩藤堂家からの預かり弟子として本因坊道策に入門。1679年(延宝7年)14歳の時にお目見え。1682年(天和2年)17歳で御城碁初出仕。その後計7局を勤めて6勝1敗。段位は六段とされていたが、当時道策は弟子の段位を実力より一子を下げていたと言われる。道策の跡目本因坊道的が没した翌年の1691年(元禄4年)に帰郷を許され、藤堂家お抱え碁士となったとも言われるが、翌正月に死去。道策より七段を追贈された。 棋譜は20数局が残されている。また御城碁出仕は、外家としての先例となっている。堅実で手厚い碁。 (ja)
  • 星合 八碩(ほしあい はっせき、1666年(寛文6年) - 1692年(元禄5年))は江戸時代の囲碁棋士。伊勢国津の生まれ、本因坊道策門下、七段。小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩と共に道策五弟子の一人と数えられるが、わずか27歳で夭逝した。 8歳で碁を志し、津藩藤堂家からの預かり弟子として本因坊道策に入門。1679年(延宝7年)14歳の時にお目見え。1682年(天和2年)17歳で御城碁初出仕。その後計7局を勤めて6勝1敗。段位は六段とされていたが、当時道策は弟子の段位を実力より一子を下げていたと言われる。道策の跡目本因坊道的が没した翌年の1691年(元禄4年)に帰郷を許され、藤堂家お抱え碁士となったとも言われるが、翌正月に死去。道策より七段を追贈された。 棋譜は20数局が残されている。また御城碁出仕は、外家としての先例となっている。堅実で手厚い碁。 (ja)
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  • 星合八碩 (ja)
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