レナード・バーンスタインとジョン・F・ケネディ。前者は偉大な音楽家、後者は米国の大統領で、どちらも20世紀を代表する米国の偉人だ。2人はまた、ケネディ政権下の米国における芸術と政治の融合を象徴する意外な友情を育んでいた。
ケネディが1963年11月22日に暗殺されたとき、バーンスタインは悲嘆に暮れた。2年後、バーンスタインは米ボストンにあるジョン・F・ケネディ図書館の口述記録「オーラルヒストリー」で、2人の友情について語った。そして、2人の意外な一面が明らかになった。
米マサチューセッツ州出身の少年たち
バーンスタインとケネディはともに米マサチューセッツ州出身だが、別々の惑星で生まれたくらいの違いがある。
バーンスタインは1918年8月25日、マサチューセッツ州ローレンスで生まれた。両親はウクライナからの移民で、美容用品会社で成功した。しかし、若いバーンスタインはかつらを売るのではなく、音楽をつくりたいと思っていた。
ケネディは家業を選択した。ケネディは1917年5月29日、マサチューセッツ州ボストンの政治家一族の一員としてボストン近郊のブルックラインで生まれた。祖父のP・J・ケネディはマサチューセッツ州の政治家で、父のジョセフ・P・ケネディは駐英大使になった。
バーンスタインは1935年、マサチューセッツ州ケンブリッジの米ハーバード大学に入学、翌年にケネディが入学した。ここで軌道が一致したものの、2人の道が交わることはなかった。
大学卒業後、バーンスタインは音楽の世界でキャリアを積み、作曲家兼指揮者として名を成し、米ニューヨーク・フィルハーモニックを率いることになる。一方、ケネディは政治の世界に身を投じた。
2人の出会い
バーンスタインによれば、ケネディとの最初に出会いは1954年だ。当時、ケネディはまだマサチューセッツ州選出の上院議員だった。ケネディはバーンスタインと妻のフェリシアを上院の食堂に招き、一緒に昼食をとった。バーンスタインはケネディの「カジュアルさと威厳」、そして、さまざまなアイデアに対する熱意を評価している。(参考記事:「知られざるケネディ、未発表テープ公開」)
1961年、2人の道が再び交わった。ケネディが大統領に選出された年で、バーンスタインはミュージカル「ウエスト・サイド物語」でスターの座に上り詰めていた。1月19日、大統領就任式の前夜、フランク・シナトラがスターを集め、次期大統領の祝賀会を開催した。シナトラが誘ったスターのひとりがバーンスタインだ。バーンスタインは祝賀会のためにファンファーレを作曲し、自ら指揮を執った。
当初、2人の接点は公式なイベントだった。2人は米国立文化施設(現ジョン・F・ケネディ・センター)を設立するための委員を務めた。また、ケネディはバーンスタインを公式晩さん会やレセプションに招待した。(参考記事:「文化施設、忘れられた米国立公園」)
バーンスタインはケネディ図書館のインタビューで、チェロ奏者のパブロ・カザルスを招いた1961年のレセプションを回想し、ケネディ夫妻が皆を温かく迎える様子に感嘆していた。「あれほど多くの幸せそうなアーティストを見たのは生まれて初めてでした。見ているだけでうれしくなりました。もてなし、温かさ、歓迎の気持ち、すべてが行き届いた趣味の良さがありました」
家族ぐるみの思い出
2人の友情には個人的な側面もあった。1961年11月、ケネディ夫妻はバーンスタイン夫妻をホワイトハウスでの私的な夕食会に招待した。雰囲気はとてもカジュアルで、皆で応接間に移動すると、バーンスタインは床に寝転がり、ケネディの妹であるユーニス・シュライバーと電話でおしゃべりした。