...その時僕は牢獄の中に坐ってゐた格子が僕と看守の腰のピストルとの間をへだてゝゐた看守はわざ/\低くつくりつけた窓からのぞきこむために朝々うやうやしく僕にお辞儀し僕は まだ脱獄してゐない証拠としてちびつけのブハーリンのような不精髯の間から朝々はったと看守をにらみつけたこれが僕らの挨拶だった朝になると、窓が右からかげって来た夜になると、窓が左からかげって来たそのたびにアスファルトのどす黒い影がぐるりと鉄格子をまわって二つの世界を僕の前にくっきりくりひろげた僕はこう感じた鉄格子の間には、××と卑屈と道化芝居の動物園がある―――誰が敢てそれを自由と呼ぶか!そこでは空気と太陽のかけらさえ淫売婦のように購入を強ひられる犬、猫かぶり、猿まね、下手くそなおーむども何とゆうちっぽけでみじめな宇宙だ!そして僭越にも 誰が敢て僕らを檻の中と呼ぶか!このそとの、××と卑屈と、道化芝居の動物園の僕らは果敢な園長ではないか――しかも僕らの中に死活の鍵を握った!おゝ、何とゆうこゝは自由なそしてほゝえましい世界だらう!そして ある日僕は板じきの上にのんきなアルマジロのように寝転んで手あたり次第に本のページをくってゐたそれは皮肉にも、このむかっぱらになってはいじけむかっぱらになってはいじけする狭い島国の詩人たちが順々に古典的博物館からくりひろげてみる詩と詩に関する叙述に属してゐた僕はその中から 二つの名前をひろいだした――バイロン!かつてこんなしかめっつらを守りつゞけるために、民衆におあいそをふりまいたイギリス人があった……――ハイネー!かつてこんな利己的であるために、民衆を愛したドイツ人があった……そして帝国主義の尖頭で詩才をすりへらしてしまったある日本の、先日老いぼれて墓場へくたばりこんだ男はかつて星と菫に青ざめながらもっとしぶとい強盗共の進軍を眺めてこう言ったものだ――バイロン・ハイネの熱なきも……――ヨサノ・テッカンこゝにあり……現在の日本には、いろんな万能薬のパンテオンの墓場にもっともらしくこの二人を改葬したルンペン・プロレタリアートの一群があるマルキシズム――ロマンチシズム――クラシシズム――適度のエロ・グロイズム書斎の上で剣をふりまわす英雄どもの生活綱領古いせりふをひねくりまわし、世界とその没落性を批判することそしてエチオピアの戦争のように喝采すべきバイロンと正札つきのペルシャ猫のように愛すべきハイネとそうして彼等は警官の靴音に眉をひそめながら歌ふのだ――バイロン・ハイネの熱なきも……――ペンと酒壺こゝにあり……ひょうかんな同志労働者、林若い勇敢な同志労働者、石田それから多くの同志たちのこうしたなつかしい差入れの果物の地区の工場の、日々自分の心臓と共に鼓動した愉快な滑音に似た味を病みちゞんだ不消化な胃を消化するために一滴々々がつ/\のみほしながらそして差入れのこれらの書物を(国立図書館からの無断借用本、政治犯への同志からの常例の融通本!)この方はおそまつな脳液でしかしもっとよく消化し乍ら僕はうっとり空想してゐた外では この汁液が脳液になるためにどんなに多くの胃の腑と肺臓が悩まされどんなに多くの手がふるえ 目がくらみ飢餓の廃絶への進軍ラッパが工場の隅々から吹きならされてゐるかあらゆるものを消化する自由の胃の腑はあらゆる人民の胃の腑の自由と共にこうした 二つの世界の二重の牢獄に遠からず来るだらう、来らしめ来らしめられるだろうとそして僕は呑気に/\口笛を吹き吹き歌ひ出した――夜でも昼でも―― ―― ――――牢屋は明い―― ―― ――――時々犬めが―― ―― ――――窓から尾をふる―― ―― ――すると、誰かゞコツコツと窓をノックした僕は仰向いたまゝ「おーい」と返事した佩剣よりはもっともの/\しい金属の響きが僕に答えた――牢番かい?と窓口の厚い織物の影がいらだたしげに僕をさえぎった――坊主かい?こんどは芝居風なこてをかけた長髪の影が鉄格子から斜めに僕に立ちふさがった同志ではない!僕は半分起き上って「入りたまえ!」といった「もっとも拷問場への入口の鍵は牢番の転向場への出口の鍵は坊主のポケットに納まってゐるのだがね」すると影はいらだたしげにずっと入ってきたカイゼルがルパンを尋ねたように三銃士が鉄仮面を尋ねたようにそして、緋色のマントに巻髪のかづらをつけ、唇をひんまげたびっこの、堂々たる男が僕の前に立った――まごうかたなきイギリス種、キング・チャールスの純血種、放蕩詩人……これが僕とバイロン卿との最初の会見だった彼は入ってくるや否や羽根つきの帽子を子供のように左から右へ得意げにうちふりながら踵の先へまっすぐに猪首を立て舞台の友田恭助のように 尊大げに口を切った「われ/\の作りあげた浪漫的精神とそのために必要な義憤と昂奮と、そしてちっとばかりの熱情をもって(彼は目のとまらぬほどわざとくしゃみした)僕は囚れの君にうや/\しく挨拶を申しのべる僕はシェリー酒と、スタンブール種の女が命ずる限りにおける人民の友――もっともこいつは(バイロン卿はぐっとおくびを噛み殺した)われ/\の胃の腑からより跨くらのやつの命令だがね僕の名は、情熱の孤独なまでの昂揚機、閉塞せる情熱の愛撫者で、もしおぼしめしなら、昂揚のあまり人民たちから孤独にしてしまふ条件ですばらしい解放案の目録へ君をのっつけることができるのだが」この時僕は、立ちはだかったバイロン卿のマントの影にもっと小型な複製の塑像のような、眼を栗鼠のようにきとつかせたせむしの小男が松葉杖にすがって神経質に自分へ注意を引こうと身構てゐるのを発見した彼はかわいた小犬のようにすばやく僕の視線をうけとめた彼は片っ方の松葉杖につまづきながらもう一つのドイツ種の松葉杖をふりあげるようにして口をもぐ/\させながらせっかちに僕に呼びかけた「自由の神経質は神経質な自由を創造する、この××の美しさを、友よ、謳歌しようハインリッヒ・ハイネ、僕は」「ようこそ」と 僕はあぐらを組み直しながら言った半ば予期してゐたこの情景をてっとりばやく議事進行させるために――こんなことは 三五年の牢獄ではよくあるものだ自分で清算したつもりのかなりの多くの人々の心にどんなに多くのジョンブル種のバイロン卿のかけらが住みどんなに多くの気さくめいたハイネ君が心の片隅でロマンツェロな踊りを踊ってゐることだらうもしプロレタリアートが網膜の前をゆききする多くの人生のシルエットと共にバイロン、ハイネを正視するなら 彼は正しい――だが、うっかりこのシルエットが鵞鳥の食欲と一しょに彼の身内に食ひ入ったが最後二種類のジャンルのブルジョアーは彼にマラリア病のように不健康な影響を与へる僕らのからだには自然にバイロン、ハイネのみそこしがあるものだ敬遠と軽蔑と敵愾と、そして若干の友情とで僕は彼等をおしかへしながらかんたんに僕らの態度を表明した「ようこそ、バイロン卿! ようこそ、ハイネ君!きみらの生国のことばには舌なれぬがアルビオンの海賊の子孫とラインランドの羅紗商の息子がどんな舌で言ひ、どんな横隔膜でしゃべったかはこの東洋のこまちゃくれた黄色いブルジョアジーの国家では少年時代からわれ/\は辞書のかけらと一しょに悩みその中へせか/\と吸収させられることを強ひられてゐたのだあるまはりあわせが今ここでこうして君らの詩と幽霊と対角的な後継者とに僕を会見させてゐるこの不清潔な独房は、汗と糞と強制労働の作業品の体臭とに埋もれてゐるがきみらがそれに耐えうる間、お互を愉快なエピゴーネンにするだけの余裕はお互に持ち合はせてゐるだらう作業は暑いし 本は読みきったし隣房とは話させぬために西瓜の殻のように僕のまはりをずらりとからっぽにしてしまったし官給六銭也の定食にはまだ時間があるしそれに牢獄新聞の発行も今はちょっとお休みなのでね」バイロン卿は手をふりながら答へた「僕は、君、常に暴動の弁護者だったあのどぶねずみのように機械破壊者の群が死刑法の前に徒党をくんで立ち向ったとき僕はかれらのために議会で赤票を投じたたゞひとりぢゃなかったか労働者といふものが飢え、横っ面を××と棍棒でしたゝかひっぱたかれる××の下におかれたとききゃつらは 神出鬼没になるものさね、全く!ネッド・ラッド、やつらの首領――あいつは殺しても殺してもまた立ちあがって来た何千万人がネッド・ラッドになったのだ僕は指導者が××を作るものでなく、××が指導者を作るものだといふことを僕の愛するあひるの雌の存在のように身にしみて感じさせられたよちょうどバイロンがいまはしい情熱を作るのではなく、情熱がバイロンを作るのだといふことをね」こう警句めいたせりふを、ぼろ/\になった軟口蓋から発音させながら彼の着衣の中で洗濯せぬたゞ一つのものである猿股の上で彼の高貴な鼻をちょっとしわませた松葉杖のハイネ君はバイロン卿のマントの裾をふみつけながら不自由な両手でできるだけ胸を抱くようにして進み出た「君の情熱は、バイロン卿先祖伝来の海の上にさまようてゐるのだ君は 資本家独裁のための他のとてつもない法案の拘束を可決した後たゞ一つの弾圧法に散票を投じたことを生涯の誇りとする君は君の愛するあひるに対すると同じ情熱を××にそゝいだいのちうぬぼれにも君の扇動したと自任する人々が断頭台に上らされる頃にはすばやく見切りをつけて引きあげたのぢゃないか君の利害は君の赤票に、白票を投じた俗物どもと根本的に一致してゐるだがね、バイロン卿アルプスの風やインド洋のモンスーンを君がやたらに横隔膜で呼吸してゐるとき僕はラインの両岸で下から革命にとりかゝったもっとも革命ではアヂテーターの職務で指導はとてもオルガナイザーの任務ぢゃないのだからね責任の台帳は一応すませておこうやさうめんどくさいことはできやしないぢゃないか」ハイネ君はてれくささうに少しうつむいてせきこんだバイロン卿は監房の暑さで髪粉のねばつくのを気にしながら声明した「僕は子供の頃から髑髏杯で飲むのが好きだった館の穴倉の中から堀りだした真赤な酒を眺めてゐるとその中に緋色の海賊旗が酒滓(おり)の上にたゆとうてゐるのを見たハアロウの少年たちは、自由の海賊の歌をうたった彼等は踊り男も女もおかまいなしに抱きあって酔ひ倒れたいじけたくせに駄ぼらの多い彼の放論!ナポレオンに対抗して、もっと古典的な生(う)ぶ髯をウエリントン風に染めぬいた頃には彼らは商船にとびのり 封鎖された大陸を突破してマラッカまで奴隷と香料をシリヤまで女を買ひにでかけた僕が二十四のとき 祖国は異様に動乱してゐた労働者は都市で××を起し 兵士は戦いに倦んでゐた僕は坊やのハロードとなのってリラとペンとジョンブル共通の高利貸の財布と一しょに擾乱した産業と愛欲の故郷とにさらばを告げて旅立った革命のスペインでウエリントンの戦術を論じローマとヘラスのがらくた道具とひきかへにどれだけの商品が輸出できるかを検討しダーダネルスからまっしぐらにウクライナの穀倉をつく策戦を研究した自由を知らぬものには自由をおっつけ自由をもつものからは自由を掠奪する!こんな忙しい旅の間、僕はとき/″\思った奴隷の自由ってやつは、ハアロウ以来何て魅力あるものだらうってねそして僕の旅が帝国主義者たちのお先触となったにせよ尚僕は帝国主義まったゞなかのリベラリストたちのある型を創りえたことを誇りとしよう」ハイネ君はやゝ吃りながら後を引きとった「僕の伯父には すばらしい泥棒がゐるんだ子供の頃、僕はカフスへはめたナポレオンと同様伯父さんをうんと崇拝したものさこの伯父はピストルだまの先っぽ同様のんきなアメリカで銀行や農場をさんざ荒らしまはったものさ僕は伯父さんの肖像をシルダの影と、少々カソリックめいた夜の光の複写との間にちりばめて一生お尻にくっつけて歩いた僕の神聖な厨子(ずし)の中にはフランクフルトからパリまでの間で、僕のかつて愛した女たちの髪の毛の束とマルクスの手紙と シュレジァンの敗北の織衣と大学をおんでる時にふりまはした剣鞘と一しょにお伽話のように自由なアメリカの伯父さんがうや/\しく占有されてゐたのだ大陸へ行きゃあ、この伯父さんが泥棒でかせぎためたすばらしい遺産があるのだがなあ!――そして、それ以後文士のカフェでも気まぐれな追放の汽車の席でも愛欲と××の空想の中でも伯父さんはいつも僕の×旗だった!」バイロン卿はM・ボタンの外れ目ほど感動して胸をうって応答した「僕の旗は、アトランチイズ越えの海賊船の赤旗だ多少ナチスめいて黒みがゝってはゐるがねこの旗を、ロンドン塔で彼の愉快な羊さがしのカドリールの終曲を踊りぬいたユートピアンのムーア卿にさゝげながら僕のコンラードは東洋へ突進した彼は囚はれの身になった時には適度にやさしい手を血にそめて××の手伝までしそして夜あけ方、葛のからんだ島々が安全な避難所となるころ一度のキスを合図に高麗あたりのハレムの行商人が荷物からつぎ/\にとりだす海坊主のお化けのようにてきぎに消えてくれる女 冒険からの帰還と同時にユリシイズを死ぬまで苦しめた平凡の重荷もなしにてごろに貞潔を守って斃れてゐてくれる妻こんな女たちを、われ/\は××の名の下にどんなに愛撫したことだらう!この旗を僕のマンフレッドはユングフロウの思索の窓に掛けた祖国をはなれた緩衝帯の陰謀的生活は第七の天国と同じく第七の魔女をカルナボリを消耗するほどの誇張的昂奮と独身めくほど強烈な浪漫的衣裳とでのしかゝりながら熱愛したのだ!この旗を 僕のドンジュアンは世界を僕のハアロウにする旗じるしとした僕は脂粉やけのした婆あや、サルタンにすりへらされた美少年に扮装しゆう/\と旧大陸を潤歩したアテナイの灰壺とひきかえにスコットにもらった伊達者の腰の剣は現在のサヴェート同盟の箇所にまで歴史的な遁亡を企てたのだ!」ハイネ君は腰のポケットの中で金鎖にからませたもうひとりの銀行家の伯父さんからの年金の催促状をちゃらちゃらさせそして酒と時計のない監房を見廻しながら、ふっと息を吹いた「こゝいらは荒唐無稽な××の香ひで一ぱいだねこいつはルードウィッヒ以上に、背骨と乗馬の体操教師を必要とするこいつはルードウィッヒ以上に、熱心に祖廟に誓ひ、からからな詩と、彼の腐敗した健康にふさわしい女たちと、世子と、いゝ加減に片をつけるためのファッショじるしの爆弾とを愛するこいつはルードウィッヒ以上に、人民を骨の髄までしぼりあげ、×××はてまで×と鍬つきで追っ払ふことが何よりお好きだこいつはルードウィッヒ以上に、銀行から牢獄までひっくるめた大きな資本をかゝえて、××の戦士たちを片っぱしから、看守がチロンの監房にすむひとやの中に叩きこむもっとも今は何といふご時世だらう永久にロマン革命の戦士たる僕はヒットラーのジュー迫害で伯父さんの年金があてにならなくなったら光栄あるフランス政府からおこぼれをもらふことにするつもりだがねこいつはサヴェート同盟と屈辱協定を結んで、次の新らしい卑怯な陰謀を企てる機会をうかゞはぬ以上、もう資本のはけ口も大ていつまったさうぢゃないかね」僕はあっけらかんとしてとう/\サヴェート同盟を東西から攻撃しはじめた二人を見守った「それでは」と僕は尋ねた「君らの僕に対する忠告に一口にいへばなんといってしかるべきだらう?」ばっと、例の大外套を後へはねのけながらバイロンは言った――「×獄!空想とファッショへ!」おづおづと、例の松葉杖にうづくまりながらハイネは言った――「転向! 書斎とカフェへ!」ちょっとのパントマイムの後二人は言ひ合はせたように、土佐紙ばりの机と食卓と腰脚兼用の七つ道具の上へ目をやった埃!一枚の黄色い紙片、母の手紙――失業と放浪と病気と老病の愚痴とそしてほんとの子供のように愛してゐる二十三の自分への信任と――僕は不愉快げに二人の視線をさへぎった「母!」とバイロンは言った――「あいつは生れながらにおれの片足をへしおった、おれは何べんもまるで監獄のように毒薬のもりっこをしたよ」「母!」とハイネは言った――「僕はいつもパンと生活との袋口を彼女を通じて求めた母とはいゝものだねえ!」イギリス帝国の海賊資本家どもに梅毒をうえつけた母彼等から詩と商品とをうけついだドイツ帝国の小海賊どもに背椎カリエスをうえつけた母この二つの血が転身者たちの全身に脈うってゐた遺伝は予期以上正確に子供たちに影響する!僕はぢっと目を捉へえぬ彼らの顔を見つめたお互の目がであった刹那バイロン卿はてれかくしに剣をたゝいて叫んだ「行こうハイネ君!エチオピアは景気がよささうぢゃないか僕らはむかし自由と酒と掠奪するためにヘラスへおしかけた僕らは叫んだ、自由!すると水夫らは叫んだ、給料!僕はインフラ紙幣をペンで書きまくった水夫らは暴動を起した僕はミゾロンギへ上陸し自分を自由の皇帝と宣言したおりふしコレラがはやってきて僕らのゴールド・ラッシュを暴動者の自由と一しょにたゝきつぶしたパルテノンの廃墟から起ってくる瘴気に挟撃(はさみうち)されて僕はチゝアンのように歪んだ寝台に横たはってゐたおせっかいな僕の伝記史家どもは僕の最後のことばをこう誤り伝へたものさ進め! 自由に向って進め! ってねだが僕は正確にはこういったのだ――進め! ものども、つゞけ!僕のハレムと商品ども! って僕は赤ん坊の時から一しょの寝台でそだった姉のオーガスタスを僕のハレムの先頭においたそして僕のハーレーの並木に葬った、全身泡瘡で斃れた私生児のアレグラを僕のハレムの最後においた僕の荘厳なハレムには少年の代りに母がゐなかった(だがそれはイースター祭に近い地中海の病床での、臨終の空想だった!)万事終った!あの時のミスチコ号はスエズを切りひらゐたあちこちの船幽霊どもに乗りまはされてゐるのだがひとつあいつを修繕しようやねそれは提督に僕よりもっと自由の詩に乏しい最後をとげさせたトラファルガーの旗艦を修繕するよりもっと有意義ぢゃあるまいかそしてエチオピアへのっつけよう!ハイネ君、君は伯父さんゆづりでエチオピヤ国立銀行の総裁に就任したまへ僕はアヂス・アベバをのっとってエチオピア皇帝バイロン第一世と宣布しよう!」だが、憂鬱なハイネは黙ってゐた四八年と五年との考量が三五年の彼の日暦の上にあった彼は友人から肩をたゝかれるのを恐れるように腕を組み、すこしづゞ後じさりしながらたゞひとこと、つぶやいた「君のハレムには母はゐなかったのかねえ!」このことばと同時にバイロン卿は惨然として額をこすったハイネ君の恐れてゐたことがとう/\現実にやってきた北方の海賊は南方の墓守の肩をたゝゐたそしてその瞬間クリスマス・カロルの合図のように二人はぱっと消えてしまった僕は立ち上りこうしたレジングの亡霊どもに対して宣告した「きみら敗北と屈辱との二つの精霊高く、英雄への燃焼にまで翔り去り低く、自我への屈従にまで陥落し去るものきみらは自由の歌を愛欲の替台辞(ヴァリエーション)で歌ひ×××組織を×××ぬ剣をもて遂げようとする時の潮がどんなにわれらに辛かろうとほうはいたる勝利の歌を響かしめえぬ聾いたる耳殻をして広らかにうち開らかしめ死と幽囚の一こま/\を強く――蒼鉄の大空にまでわれらの精神の鋼条と爽かな自負をもて貫かしめよ!」今夜の食事を――この椀に何度目、何十度目の毒薬が盛られてゐるか!――運びゆき、運び去るトロッコの音を聞きながら僕は同志と、母の手紙に並べてガリ/\のペンで「不降身、不辱志(註)」と書いたこれは 二つの影がいつか消えてから死の牢獄が僕らに生をもたらすまでの僕の刻んだ記録だった(一九三六・一、「詩人」一月号)(編者註)子曰不降其身、不辱其志...
槇村浩 「長詩」
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