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KKコンビ

PL学園高等学校の桑田真澄と清原和博のコンビ

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KKコンビ(ケーケーコンビ)とは、桑田真澄清原和博の2人を指す。

概要

中村順司監督率いるPL学園高等学校で甲子園に1年生の夏(1983年)から3年生の夏(1985年)まで連続で5度出場し、桑田・清原はそれぞれ1年生の時からエース・4番として活躍し、甲子園に伝説と記録を残した。

1人でも十分に怪物と称されたであろう球児が、同じチームの同じ学年に存在し、しかも1年時から甲子園で活躍した唯一の例である。その強さは、下記成績に表れている。

やまびこ打線の池田高校(昭和57年・夏、昭和58年・春)、松坂大輔を擁した横浜高校(平成10年春・夏)、北海道勢初の甲子園制覇、さらには田中将大を擁しての夏の甲子園連覇(平成16年~17年)をした駒大苫小牧を含め、春夏連覇や夏春連覇を達成したチームは多数あるが、5季連続でここまでの成績を残したチームは、学制改革後はKKコンビ時のPL学園だけである。

KK3年生時の1年生は、片岡篤史立浪和義橋本清野村弘樹など錚々たるメンバーを揃え、彼らが3年生となった1987年にはKKコンビが成しえなかった春夏連覇を果たした(この時、2年には宮本慎也もいた)。

甲子園での2人の個人記録

甲子園通算成績

  • 桑田
20勝(大会記録 学制改革後)3敗  投球回数197 2/3 自責点34 防御率1.55
  • 清原
91打数40安打 打率.440 本塁打13(大会記録)
  • 清原は選手権大会最多本塁打5本。桑田も甲子園で通算6本(歴代2位)の本塁打を放っている。

名を知らしめた池田戦

桑田・清原の存在を最初に全国に知らしめたのは1年夏の準決勝、広島商中京高などの強豪高を破って力を見せ優勝候補筆頭だった蔦文也監督率いる池田高との対決であった。

当時、優勝候補筆頭であり史上初の夏春夏の3連覇を狙う池田。大会No.1注目選手水野雄仁が在籍。1年生コンビの活躍で快進撃のPLも、池田絶対有利の評価は変わらなかったが、7対0でPLの圧勝となった。桑田は強打の池田を完封したのみならず、それまで一度も甲子園で本塁打を打たれたことのない水野から本塁打を奪った最初の選手となる。この試合後、桑田は記者の取材に対し、『それまで、丁寧に土を拭ってボールを相手投手に手渡ししていた水野さんが、(むっとして)手渡しをしなくなったので、水野さん、相当怒ってるなと思いました。』と語っている。その年のドラフト1位間違いなしの水野より、1年生の桑田の方が遙かに精神的に上であることは、記者連中を驚かせた。1年生コンビが中心のチームで王者を圧倒してしまった衝撃は強烈に甲子園ファンに刻まれた。ここにおいて高校球界の盟主は池田からPL学園に完全に移ることとなる。清原が水野に全打席三振を奪われたことについては、清原の著書、『男道』によると、「水野を打ちのめすべく本塁打しか狙っていなかった結果」とのことである。桑田が先に本塁打を奪い、強打の池田に1点も与えていなかったので、桑田を意識する清原としては、本塁打しか狙わないのも当然であった。

以降3年夏まで、大阪府内の高校球児の間では、「目指せセンバツ、夏はムリ」が合言葉となった。

プロ入り後

  • 高校時代伝説ともいうべき記録を残した2人であったこともあり、高校卒業後の進路は、プロ野球ファンのみならず、世間の注目を大いに集めた。1985年ドラフト会議にて清原は西武ライオンズに、桑田は巨人にそれぞれ1位指名され、入団する(KKドラフト事件)。
  • 清原はプロ入り1年目から、日本球界の新盟主となりつつあった西武の4番打者となり、1986年度のパ・リーグ新人王を獲得する。桑田は遅れること1年、2年目の1987年にチーム最多の15勝をあげ、最優秀防御率を獲得し、19歳の若さで巨人を優勝に導いたエースとなった。2人はプロ野球でも巨人・西武というセ・パ両リーグを代表するチームの中心選手として長く活躍し、オールスター戦日本シリーズでの対戦がKK対決としてファンの注目を集めた。
  • 1997年に清原がフリーエージェント制度を利用して巨人入りすると桑田・清原は高校卒業以来のチームメイトとなった。これは清原がオリックス・バファローズに移籍する2005年まで続いた。その桑田も2006年末を持って巨人を退団、メジャーリーグに移籍する。
  • 2008年7月、ピッツバーグ・パイレーツを解雇され現役を引退した桑田は、怪我から復帰して1軍昇格直前の清原とスカイマークスタジアムにおいて清原の打撃投手をパイレーツのユニホームを着て行ない、これが「現役最後のKK対決」となった。後に清原は「桑田には(2006年9月に負傷した)スカイマークのバッターボックスに立てる勇気をもらった」と語っている。
  • AK砲」や「JFK」など、野球界ではイニシャルの頭をつなげた略称が好まれるが、KKは日本球界において「ON」(王貞治長嶋茂雄)の次に存在感を発揮したコンビ名といえる。

関連項目