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== ラジオ放送の種類 ==
; [[アナログ]][[変調方式|変調]]
:* [[中波放送|AM放送]] - [[振幅変調]]方式で、[[中波]]で放送されている。
:* [[短波放送|短波ラジオ]] - 振幅変調を用いて、[[短波]]で放送されている。
:* [[FM放送]] - [[周波数変調]]方式で、[[超短波]]{{Efn2|振幅変調に比べ占有周波数帯幅が10倍必要なので超短波未満での運用はきわめて困難である。}}で放送されている。遠くまでは伝わりづらにくいが、<u>雑音の影響を受けにくい</u>という特徴がある<ref>ラジコム「今更聞けない!AMとFMの違いとは?」[https://www.radioad.jp/column/am-fm/]</ref>。
:* [[長波#長波放送|長波ラジオ]] - 振幅変調を用いて、[[長波]]で放送されている。日本では、放送されていないが、外国では放送されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kagura.pop.tc/radio/station.html |title=長波帯で受信出来るもの |accessdate=2022-02-09}}</ref>。
; [[デジタル変調]]
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=== 回路の方式による分類 ===
真空管やトランジスタなどを用いるラジオ受信機は、主に増幅回路の方式により次のように分類できる(鉱石ラジオも、異質な回路ながら併せて列挙することがある
 
; [[ストレート受信機|ストレート]]
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== 歴史 ==
{{See also|{{仮リンク|ラジオの歴史|en|History of radio}}}}
=== 無線電話の始まり ===
1900年、歪みはひどいものの世界で初めて電波<ref group="注">当時は火花放電による電波。</ref>に音声を乗せることに成功したのは、[[カナダ]]生まれでエジソンの会社で技師として勤めたこともある電気技術者[[レジナルド・フェッセンデン]]であった。これが無線電話の始まりである。
 
フェッセンデンは引き続き、ヘテロダイン検波方式や、電動式の高周波発振器を開発して改良に取り組み、1906年12月24日に、アメリカ・[[マサチューセッツ州]]の自己の無線局から、自らの[[クリスマス]]の挨拶を無線電話で送信した。フェッセンデンはこの日、[[レコード]]で[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]作曲の「[[オンブラ・マイ・フ|クセルクセスのラルゴ]]」そして自身が演奏する[[ヴァイオリン]]と歌で“O Holy Night”をそれぞれ流し、[[聖書]]を朗読した。この実験はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」であっただけでなく「最初の[[クリスマス]]特別番組」でもある。そしてフェッセンデンは「史上初のラジオ[[アナウンサー]]&[[プロデューサー]]」と言えるだろう
 
=== ラジオ放送の始まり ===
しかし[[ヒューゴー・ガーンズバック]]が1905年11月より一般人向けて通信販売を始めた大衆無線機「[[テリムコ]]」の受信機は電波から音声を[[復調]]できない[[コヒーラ検波器]]<ref group="注">コヒーラは電波の有無を検出するだけで音声を取り出せない。</ref>によるものである。また[[グリーンリーフ・ホイッティア・ピカード]]が電波に乗せた音声を復調する鉱石の検波作用を発見しその特許を得たのは遅く、1906年になってである。1906年当時のアマチュア無線家らはまだコヒーラ検波器を使っており<ref>Thomas Matthew "Home-Made Coherers" ''Wireless Telegraphy For Amateurs and Students'' 1906 Thomas M.ST.JOHN pp125-136</ref><ref>T.E. O'donnell "The Amateur's Workshop:An Experimental Wireless Telegraph Outfit" ''Electrician and Mechanic'' Aug.1907 Sampson Publishing Co. pp41-42</ref><ref>V.H. Laughter "Wireless Telegraphy Made Simple - Part 1: Construction of a Simple Wireless Telegraph Set" ''Popular Electricity'' May 1908 Popular Electricity Publishing Co. pp32-36</ref>、彼らの受信機が[[鉱石検波器]]へ切替わったのは1910年頃であった<ref>James D. Thomas "A Silicon Detector" ''Modern Electrics'' Dec.1909 Modern Electrics Publication pp426-427</ref>。こういった時代背景を勘案すると、フェッセンデンの実験は広く聴取者に向けて送信される「ラジオ放送」というよりも、限定された技術者・通信士を対象とした「無線電話」の実験に属するとも考えられる。
 
一般人で無線の受信機を所有していたのはアマチュア無線家達だけのみであった<ref group="注">1912年12月に施行された無線通信取締法(Radio Act of 1912)により、無線をするにはオペレーター資格試験と無線局の免許状が必要となり、1905年から1911年頃まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で発売されていた大衆無線機テリムコは、無資格・無免許では使えなくなった。</ref>。アマチュア無線は第一次世界大戦の勃発で禁止されていたが、その終戦で1919年4月12日より、まず受信活動が解禁された<ref group="注">アマチュア無線の送信解禁は同年10月1日。</ref>。戦後は一般アマチュアでも真空管が入手できるようになり、鉱石式受信機から真空管式受信機への置き換えが急速に進んでいた。
 
1920年1月17日、[[ワシントンD.C.]][[:en:Anacostia|アナスコティア]]にある[[:en:Naval Support Facility Anacostia|海軍飛行場]]から、海軍省が[[:en:NOF (defunct)|娯楽音楽放送 '''NOF''']]をはじめた。これをもって国営放送の嚆矢とするが<ref>C. Austin ”The Romance of the Radio Telephone” ''Radio Broadcast'' May,1922 p16</ref><ref>栄谷平八郎 『ラジオ発展史』 1947 通信教育振興会 p48</ref>、そのリスナー層は自分で受信機を組立てたアマチュア無線家であった。なお1923年1月3日、アナコスティア海軍航空局 '''NOF'''は本来の航空無線の研究に専念することとなり、娯楽放送を終了している<ref>S.R.Winters The Passing of "NOF" As a Broadcasting Station ''Radio News'' Mar.1923 p1623</ref>。
 
また、一部のアマチュア無線家は無線電話を実験するようになり、無線電話で「放送したい」アマチュア無線家と、モールス電信で「交信したい」アマチュア無線家の混信問題がはじまったのもこの頃である<ref group="注">アマチュア無線家は1,500kHz以上の任意の周波数を申請し、許可を受けることができた。許可される最下限1,500kHzに人気が集中し大変混雑していたところへ、無線電話も参入したため1,500kHzは大混信となった。</ref>。
 
民間企業による商業放送として世界で最初に許可されたものは、[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス電気製造会社]]が1920年11月2日にアメリカ・[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]で放送を開始した[[:en:KDKA (AM)|KDKA]]である。その[[中波]]送信機は同社の技術者[[フランク・コンラッド]]が設計し、開局初日の番組は[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[選挙]]の開票情報で、[[ウオレン・G・ハーディング|ハーディング]]候補の当選を伝えた。
 
選択度(分離性能)が良くない受信機で起きる、商業放送(周波数833kHz)とアマチュア無線家の放送(周波数1,500kHz)の混信問題もくすぶっていたが、1922年と1923年の法改正でアマチュア無線のオペレーター資格では放送できないことになり、多くのアマチュア無線家が商業放送局のオーナーや技術者として転向したため、問題はやや軽減した。さらに1923年6月28日の規則改正<ref>"Regulations Governing General and Restricted Amateur Radio Stations and Amateur Operators" ''Radio Service Bulletin''(No.75) July.2,1923 Department of Commerce p16</ref>では、アマチュア無線家は短波を申請する権利を失ったかわりに、1,500 - 2,000kHzの帯域免許を獲得した。同時に毎夜20時00分から22時30分と、日曜午前の礼拝タイム<ref group="注">日曜午前は教会に出向けないリスナーのために、KDKAなど多くの局が教会から生中継し、人気番組となっていた。</ref>を送信禁止として、ラジオ放送とアマチュア無線の混信問題は一応の解決をみた。
 
=== 短波ラジオ放送 ===
極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのは[[オランダ]]の[[国営放送]]で、1927年11月から海外[[植民地]]向けに放送を開始<ref name="takagi205">高木利弘『スマートTVと動画ビジネス 次世代メディアをデザインするのは誰か?』2012年、インプレスジャパン、205頁</ref>。翌[[1928年]]には当時オランダ領であった[[インドネシア]]・[[ジャワ島]]での受信に成功する。この実績に追随して[[ドイツ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[イギリス]]等が1929 - 1932年にかけて[[植民地]]向け放送や海外宣伝放送を短波で開始している。
 
=== FMラジオ放送 ===
1902年に周波数変調方式(FM方式)がフェッセンデンによって考案された。しかし、実用的なFMラジオは1933年12月26日にアメリカの[[エドウィン・アームストロング|エドウィン・H・アームストロング]]が特許を取得した技術による<ref name="takagi205" />。アームストロングは世界初のFMラジオ局 W2XMNを1937年に開局させ放送を開始した<ref name="takagi205" />。
::[[周波数変調]]および[[超短数変調#FM放送|FM放送]](FM放送)を参照
 
=== デジタル化 ===
[[2000年代]]に入って、先進国で地上[[デジタルラジオ]]放送が開始された。またアメリカの[[シリウスXMラジオ]]のような衛星デジタルラジオサービスも開始されている。
 
=== インターネットラジオ ===
2000年代にインターネットにおけるストリーミング配信を使ってラジオ番組を配信する方法が考案され、法人・個人含め様々なラジオ局が開設された他に、従来から電波を用いて放送してきたラジオ局もサイマル放送などで次々と参入した。PCやスマートフォンで手軽に聴取でき、従来の電波ラジオより音質も良いことから、[[2010年代]]後半以降は[[インターネットラジオ]]が主流になった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では各局の[[ウェブサイト|Webサイト]]でラジオ番組を配信しており、[[日本]]では[[radiko]]が一括して加盟局のラジオ番組のサイマル放送を行っている。
 
== アメリカのラジオ放送 ==
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== 日本のラジオ放送 ==
=== 歴史 ===
==== 国民のラジオ熱(免許制導入前) ====
日本のアマチュア無線家は1920年代初期から自作の無線機で個人間の無線交信を行っており、1922年にはラジオ受信機の製作に関する[[雑誌|情報誌]]『ラヂオ』が創刊されている<ref name="Mizojiri">[[溝尻真也]] [[飯田豊]](編)「声を伝える/技術を楽しむ」『メディア技術史:デジタル社会の系譜と行方』 改訂版第1刷 [[北樹出版]] 2017 pp.76 - 81.</ref>。
 
その後、現在はオーディオ雑誌に変わっているが[[誠文堂新光社]]刊の『[[無線と実験]]』などが数多く発売され、また[[新聞社]]による独自のラジオ中継が行われたりした。[[1924年]]には、[[大阪朝日新聞]]による皇太子裕仁親王([[昭和天皇]])御成婚奉祝式典や[[大阪毎日新聞]]による[[第15回衆議院議員総選挙]]開票の中継をはじめ、数多くの実験的要素の強い中継が行われている。
 
[[1923年]]12月、逓信省は[[放送用私設無線電話規則]]を制定。翌年、当面[[東京]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪]]の3地域で、[[公益法人]]として各1事業者ずつ、ラジオ放送事業を許可する方針を打ち出した。
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==== 日本初のラジオ放送 ====
[[ファイル:ラジオ番組表 (1925年).jpg|thumb|400px|1925年のラジオ番組表。『朝日年鑑 [[1925年|大正14年]] - [[1926年|大正15年]]』より。“米突”はメートルの当て字。つまり375m=800kHz、385m=779kHz]]
[[日本初]]のラジオ放送は、[[1925年]][[3月22日]]9時30分<ref>『学研まんがでよくわかるシリーズ94 正露丸のひみつ』(2014年3月31日、学研パブリッシングコミュニケーション発行)62ページより。</ref>、'''社団法人東京放送局'''(JOAK:現在の[[NHK放送センター首都圏局|NHK東京]][[NHKラジオ第1放送|ラジオ第1放送]]。略称:AK)が東京・[[芝浦]]の[[東京高等工芸学校]]([[千葉大学]]工学部の前身)内に設けた仮送信所から発した[[京田武男]][[アナウンサー]]によるもので、第一声は
{{Quotation|アーアー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します}}
であった。<!--当時使われていたラジオは「[[鉱石ラジオ|探り式鉱石受信機]]」がほとんどで、第一声の「アーアー」は、この間に聴取者が鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるようにするための配慮と言われている。--><!--正午の号砲などを除けば正確な時計さえろくに無い時代に(ラジオ等の時報「で」、ついこの間まで時計合わせをしていたではないか)そんな数秒のタイミングにジャストに合わせて探り針の調整などできるわけがない(だいたい、まずバリコンのチューニングが必要なのだし)。-->波長は375m(周波数800kHz)、[[空中線電力]](出力)約220[[ワット (単位)|W]]であった。当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、[[東京市]]内でないとよくこえなかった。
 
元々は[[3月1日]]に放送を開始する予定であったが、購入する予定だっしてい当時日本に1台しかない[[ウェスタン・エレクトリック]](WE)社製の放送用[[送信機]]が、前年12月に同じく設立準備中の社団法人大阪放送局(JOBK:現在の[[NHK大阪放送局]]、略称:BK)に買い取られてしまった。そこで東京放送局は、東京市電気局電気研究所が放送実施のために購入した[[ゼネラル・エレクトリック]]社製の無線電信電話機を借り放送用に改造して使用することにしたが、[[2月26日]]の[[逓信省]]の検査で「放送設備が未完成のため3月1日の放送開始は時期尚早」と判断された。既に3月1日から放送を開始すると発表しており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験送信」の名義で逓信省の許可を受け、何とか3月1日から放送を開始することができた。
 
3週間の[[試験放送]]の後、逓信省の検査に合格し、3月22日に仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し、[[7月12日]]に[[東京府]]東京市[[芝 (東京都港区)|芝区]](現在の[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])の[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]からの本放送が開始された。これには改めて購入した出力1kWのWE社製送信機を使用した。
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大阪放送局はその年の[[6月1日]]から仮放送を出力500Wで開始した。
 
さらに、社団法人名古屋放送局(JOCK:現在の[[NHK名古屋放送局]]、略称:CK)も同年[[7月15日]]に、出力1kWの[[マルコーニ]]{{要曖昧さ回避|date=2024年7月}}社製送信機を使用して放送を開始した。
 
1925年、ラジオ聴取契約者は東京13万1373、大阪4万7942、名古屋1万4290件、受信機は鉱石式10円、真空管式120円<ref name="名前なし-1">日本放送史 日本放送協会編</ref>。
 
==== 19451925年 - 1950まで ====
[[File:Radio broadcasting Tokyo.jpg|thumb|1920年代末のラジオ放送収録風景。右は[[粟島すみ子]](中央)ら[[松竹蒲田撮影所]]の映画俳優たちによるラジオドラマ、左は演奏中の[[新橋芸者]]たち。]]
[[File:Mobiliário (7.1), Acervo do Museu do Colono (Santa Leopoldina).jpg|thumb|220px]]
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聴取世帯数は1940年代にも増加し続け、[[1940年]]5月には500万、[[1941年]]8月には600万、[[1943年]]3月には700万を突破した<ref name="90th" />。しかし、1945年4月になると放送時間は大幅に減少し、1945年5月には名古屋中央放送局が空襲により焼失<ref name="90th" />、8月6日には[[NHK広島放送局|広島中央放送局]]が[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆]]で大打撃を受けた(25時間後に再開)<ref>[https://web.archive.org/web/20210725132526/https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/bangumi/ja/167/ NHK広島放送局開局80年ラジオドラマ「放送を続けよ ―広島中央放送局の8月6日―」]</ref><ref>白井久夫「幻の声 ―NHK広島8月6日―」岩波新書</ref>。
 
[[1945年]][[8月15日]]に終戦ノ詔勅(いわゆる[[玉音放送]])が放送され、戦後は海外領土を失う。「社団法人日本放送協会」は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の管理・監督下に置かれ[[言論統制]]が行われた。[[アメリカ軍]]と[[イギリス軍]]を中心とした([[中華民国軍]]及び[[ソビエト連邦軍]]は日本本土に進駐していない)、いわゆる進駐軍向け放送局が主要都市に置かれた。アメリカ軍向けは後にFEN、現在の[[AFN]]の前身である。一部の局については日本放送協会から施設や役務の提供が行われた。
 
==== 1945年 - 1959年 ====
[[ファイル:5tubes-radio.jpg|thumb|200px|1955年頃のラジオ受信機、5球スーパー式。FM放送が始まる前の機種なのでバンドは中波と短波のみ]]
戦後、ラジオ受信世帯数は減少しており1946年7月には538万であった<ref name="90th" />。
 
[[1950年]]に「社団法人日本放送協会」が[[公共企業体]]としての「'''[[特殊法人]]日本放送協会'''」に改組される。
[[1950年]]に「社団法人日本放送協会」が[[公共企業体]]としての「'''[[特殊法人]]日本放送協会'''」に改組され、翌[[1951年]]には[[9月1日]]朝に[[中部日本放送]](現在の[[CBCラジオ]])、同日昼に新日本放送(現在の[[MBSラジオ]])が日本初の[[民間放送]]を開始した。東京では、民間放送の申請を目指す会社が乱立。新聞社系の放送会社の一本化が行われたこともあり、同年[[12月25日]]になって[[東京放送ホールディングス|ラジオ東京]](現在の[[TBSラジオ]])に開始された<ref>「新たにラジオ東京 新聞関係一本で申請」『朝日新聞』昭和26年1月11日</ref>。[[1953年]]にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、[[銭湯]]の入浴料15円程度だった時代に[[テレビ受像機]]の価格は20 - 30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。
 
==== 19451951年 - 1959年 ====
民間放送開始以前にはラジオ受信機の所持には政府の許可が必要であり、聴取料を納める必要があったが、無料で聴ける放送の開始によってラジオへの関心が高まり、『初歩のラジオ』『模型とラジオ』など少年向けのラジオ製作雑誌が相次いで創刊された<ref name="Mizojiri"/>。当時は[[物品税]]が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは[[秋葉原]]などから真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、[[高度経済成長|高度成長期]]の日本の[[エレクトロニクス]]産業の発展の基礎を作る要因の一つともなった<ref name="Mizojiri"/>。
[[ファイル:5tubes-radio.jpg|thumb|200px|1955年頃のラジオ受信機、5球スーパー式。FM放送が始まる前の機種なのでバンドは中波と短波のみ]]
 
[[1950年]]に「社団法人日本放送協会」が[[公共企業体]]としての「'''[[特殊法人]]日本放送協会'''」に改組され、翌[[1951年]]には[[9月1日]]朝に[[中部日本放送]](現在の[[CBCラジオ]])、同日昼に新日本放送(現在の[[MBSラジオ]])が日本初の[[民間放送]]を開始した。東京では、民間放送の申請を目指す会社が乱立。新聞社系の放送会社の一本化が行われたこともあり、同年[[12月25日]]になって[[東京放送ホールディングス|ラジオ東京]](現在の[[TBSラジオ]])に開始された<ref>「新たにラジオ東京 新聞関係一本で申請」『朝日新聞』昭和26年1月11日</ref>。[[1953年]]にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、[[銭湯]]の入浴料15円程度であった時代に[[テレビ受像機]]の価格は20 - から30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。
 
民間放送開始前にはラジオ受信機の所持には政府の許可が必要であり、聴取料を納める必要があったが、無料で聴ける放送の開始によってラジオへの関心が高まり、『初歩のラジオ』『模型とラジオ』など少年向けのラジオ製作雑誌が相次いで創刊された<ref name="Mizojiri"/>。当時は[[物品税]]が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは[[秋葉原]]などから真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、[[高度経済成長|高度成長期]]の日本の[[エレクトロニクス]]産業の発展の基礎を作る要因の一つともなった<ref name="Mizojiri"/>。
 
[[1955年]]には東京通信工業が日本初のトランジスタラジオを発売<ref name="90th" />。1958年11月にはラジオ受信契約数が1481万件を越えピークとなった<ref name="90th" />。しかし、当時の皇太子・[[明仁|明仁親王]]が[[1959年]]に正田美智子と結婚し[[パレード]]のテレビ中継が行なわれたのをきっかけに、テレビ受像機が普及し始め、ラジオは斜陽化の時代を迎える。
 
超短波を使用したFMラジオ放送については、[[1957年]]12月にNHK-FMが東京で試験放送を開始し、翌[[1958年]]12月には[[学校法人東海大学]]により、放送教育を目的とした「東海大学超短波放送実験局」が放送を開始した。[[1960年]]には日本最初の民放FM局<ref group="注">ただし、[[FM東海]]は当時実用化試験局として運用されており、民間企業によるFM放送は1969年開局の愛知音楽エフエム放送(現在の[[エフエム愛知]])が最初となる。また放送免許ではないが1953年から[[長岡教育放送]]が超短波放送を実施していた。</ref>である[[FM東海]]となる
 
==== 1960年 - 1974年 ====
東海大学のFM実験局は[[1960年]]に日本最初の民放FM局<ref group="注">ただし、[[FM東海]]は当時実用化試験局として運用されており、民間企業によるFM放送は1969年開局の愛知音楽エフエム放送(現在の[[エフエム愛知]])が最初となる。また放送免許ではないが1953年から[[長岡教育放送]]が超短波放送を実施していた。</ref>である[[FM東海]]となる。[[1969年]]には[[NHK-FM放送|NHK-FM]]の本放送が開始され、同年には民放でも[[エフエム愛知|FM愛知]]が開局。1970年には、[[エフエム大阪|FM大阪]]、FM東海を東海大学から引き継いだ[[FM東京]]、[[エフエム福岡|FM福岡]]の3局が相次いで開局した。いずれも音楽を中心とした編成で、高音質のステレオ放送により、[[レコード]]に次ぐ[[Hi-Fi]]音源として人気を集めることになる。
 
この頃、部品のトランジスタの普及が進み、これを使った[[トランジスタラジオ]]の商品化や、さらに[[モータリゼーション]]により、[[カーオーディオ|カーラジオ]]が普及するなど、ラジオは一家に一台から一人に一台というパーソナル化の方向へ向かう。ラジオ放送は家族をターゲットにした編成から、個人をターゲットにした編成へと転換していく。情報トーク番組や音楽番組が増えた他、ターゲットを絞った[[深夜放送]]も盛んになった。
 
1950年代後半から試験放送を続けていたFMラジオ放送は、[[1969年]]に[[NHK-FM放送|NHK-FM]]の本放送が開始され、同年には民放でも[[エフエム愛知|FM愛知]]が開局。1970年には、[[エフエム大阪|FM大阪]]、FM東海を東海大学から引き継いだ[[FM東京]]、[[エフエム福岡|FM福岡]]の3局が相次いで開局した。いずれも音楽を中心とした編成で、高音質のステレオ放送により、[[レコード]]に次ぐ[[Hi-Fi]]音源として人気を集めるこになる。同時期に登場した[[ラジオカセットレコーダー|ラジカセ]]の普及によって、放送される楽曲を[[オープンリール]]テープや[[コンパクトカセット|カセットテープ]]で録音する「[[エアチェック]]」も流行し、エアチェックを目的として放送される楽曲が載った[[FM情報誌]]も創刊された<ref name="Mizojiri"/>。しかし、民放局を中心に「楽曲そのものを楽しむ」から「トークの合間に楽曲が流れる」など番組スタイルの変化などから、次第にエアチェックという言葉自体が廃れていくようになる。
 
==== 1975年 - 1981年 ====
[[ファイル:ICF5900.jpg|thumb|200px|代表的なBCLラジオ ソニー スカイセンサー5900]]
[[1970年代]]後半に、[[中東戦争]]や[[オイルショック]]、[[日中国交正常化]]などをきっかけとして海外の国際放送を受信するBCLブームが中学生・高校生を中心に起こった。この時期には、[[冷戦]]による宣伝放送目的もあり日本向け[[日本語放送]]の充実を図る放送局も多く、時事ニュースに留まらずその国の文化などの理解を深めるうえで一定の役割を果たした。また、受信報告書を送ると受け取れる[[ベリカード]]の収集も盛んに行われた。さらに、送信方向が日本向けではないなど、一般的には受信困難な放送を工夫を重ねて受信しようとするマニアも増えた。これに応じ、受信周波数帯域の広いラジオ受信機、いわゆる[[BCLラジオ]]が各社より発売され、戦後2回目のに再び黄金期だっがおとずれた。しかし、日本からの海外旅行の一般化や[[通信自由化]]を遠因とする国際放送の縮小などで、BCLブームも終わりを遂げ、BCLラジオメーカーも次々と撤退した(2006年時点で国内メーカーはソニー以外は撤退)。
 
[[1978年]][[11月23日]]には[[国際電気通信連合]](ITU)の取り決めによりAMラジオの周波数一斉変更(10kHz間隔→9kHz間隔。通称:9キロヘルツセパレーション)が行われた<ref>中村禎昭、「[https://doi.org/10.3169/itej1978.32.902 中波放送用周波数の変更]」『テレビジョン学会誌』 1978年 32巻 10号 p.902 - 904, {{NAID|110003697789}}, {{Doi|10.3169/itej1978.32.902}}。</ref>。
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[[1982年]]の[[エフエム愛媛|FM愛媛]]を皮切りに全国に民放FM放送局が相次いで開局する。[[1988年]]には東京で2番目となるエフエムジャパン(現在の[[J-WAVE]])が開局、大都市圏では複数の民放FM局が開設されるようになり、対象[[セグメント]]の多様化が進んだ。
 
この時期には[[ニューメディア]]の掛け声のもと新技術導入が相次ぐ。[[1991年]]、衛星放送による有料ラジオ放送「[[セント・ギガ]]」開始。[[1992年]]には[[コミュニティ放送]]が制度化され、都道府県単位よりもかなり狭い地域を対象としたラジオ放送が行われるようになった。同じく1992年には[[AMステレオ放送]]開始、[[1995年]]にはFM[[文字多重放送]]もスタートするなど新技術導入が相次ぐ
 
[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]では、災害時における情報伝達メディアとしてのラジオの重要性がクローズアップされる結果となった。以降、各局とも災害への対応を重点に置くようになる。また災害時の情報発信用として大都市圏に[[外国語放送|外国語FM局]]が開局したが、後に経営難に苦しむこととなる。
249 ⟶ 255行目:
==== 2000年 - 2009年 ====
[[ファイル:IPod-5.5G-FM-Radio-connect-with-earphone.JPG|thumb|200px|iPodにおけるラジオ受信装置(左のリモコン)]]
不況に加え[[インターネット]]をはじめとするメディアの多様化が起因となり[[ラジオ離れ]]の動きが顕在化し、それに伴い広告費も減少し続けていることから、ラジオ局は厳しい運営状況を強いられていく(詳細は[[ラジオ離れ]]を参照)。
 
2000年12月、[[BSデジタル放送]]による[[BSデジタル音声放送]]が開始されたが、2003年にセント・ギガが終了するなど衛星ラジオは市場規模が小さいまま終わり、他局も2005年以降順次廃局した。FM[[文字多重放送]]や、その後登場した地上[[デジタルラジオ]]も失敗に終わっている。
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==== 2010年 - 2020年 ====
2010年3月15日0時(3月14日24時)より、地上波のラジオ放送と同内容をインターネットを利用してサイマル配信するIPサイマルラジオ「[[radiko]]」の実証実験が開始された同年12月1日より本格的に開始)「株式会社radiko」となり、順次配信対象エリアを拡大していった<ref>{{Cite news|url= http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=38868 |title= IPラジオ「radiko」好反響、初日聴取人数105万人、急きょシステム増強 |newspaper= 文化通信.com |date= 2010-03-17 |accessdate= 2022-12-11 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20100322213450/http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=38868 |archivedate= 2010-03-22 }}</ref>。radikoは当初、本来の放送エリア内での無料配信のみとしていたが<ref group=注>但し、大都市圏の一部の県域ラジオ局では当初から近隣のエリア外でも無料配信を実施している。</ref>、[[2014年]]4月1日からは放送エリア外からも有料で聴取が可能になるエリアフリーサービス「radikoプレミアム」がスタートした。
 
またこれとは別に、[[南海放送|RNBラジオ]]では、独自で2010年[[10月1日]]にCATVサイマル放送を、同年[[12月18日]]から2011年3月31日までIPラジオ実験放送をした。
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==== 複数の放送波によるステレオ放送(立体放送) ====
[[ファイル:AM Stereo 02.jpg|thumb|200px|二波利用のステレオ受信機]]
[[1950年代]]、NHKラジオ第1放送・第2放送や民放各社などが、2つの放送波を使ったステレオ放送(当時は'''立体放送'''と呼ばれた)を行った。NHKの例でいえば第1放送が左側の音声、第2放送は右側の音声をそれぞれ放送し、2つのラジオを並べて置いたり、2台分のチューナーを搭載した[[レシーバー]]を使ってステレオ音声を受信するものであった。テレビ放送が開始されると、ラジオとテレビを併用した立体放送も実施された。番組の冒頭では「左のラジオを○○放送に、右のラジオを○○放送に合わせ、私の声が中央から聞こえるように、受信機の音量を調節して下さい」といったアナウンスと、受信機の調整のための音楽が流された。
 
この方式では「モノラル放送との互換性がとれず、受信機を2台用意しないと片方のチャンネルしか聞くことができない」「左右の受信機に位相特性、周波数特性、レベル等の特性差があると、正しいステレオイメージが得られない」「NHKを除き、2局が協力しないと実現できない」などの問題が多かった。[[1963年]]以降、[[超短波放送|FMラジオ放送]]で、これらの問題点を解決したステレオ放送が行われるようになったことで、2つの放送波による立体放送は終了した。
===== 沿革 =====
* [[1952年]]
** [[12月5日]] - [[12月7日]] - 第1回[[オーディオフェア]]にちなみ、NHK東京第1・第2放送の放送終了後の0:35 - 1:00に立体放送の試験放送を、ラジオ第1を左チャンネル、ラジオ第2を右チャンネルにして実施<ref name=nhk1954>{{Cite|和書|author=日本放送協会放送文化調査研究所放送情報調査部|title=NHK年鑑'54|date=1954|publisher=日本放送出版協会|pages=191}}</ref>(以降、NHKによる同放送は、同放送が終了するまで、この定位にて行った)。録音・再生機には[[ソニー|東京通信工業(現在のソニー)]]製の[[テープレコーダー]](ステレオ録音用の試作機)を使用した。
** [[12月20日]] - NHK東京第1・第2放送、『土曜コンサート』の枠内で最初の立体放送の本放送実施<ref name=nhk1954/>
* [[1953年]]
** [[1月9日]] - [[北海道放送]]・[[AFN|FEN]]北海道、共同で日米交歓音楽会の立体放送実施。
** [[2月28日]] - NHKラジオ第1・第2放送、第2回の立体放送の本放送を全国中継で実施(『土曜コンサート』)。<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会放送文化調査研究所放送情報調査部|title=NHK年鑑'54|date=1954|publisher=日本放送出版協会|pages=192}}</ref>
** [[3月22日]] - NHKラジオ第1・第2放送、明治座新派劇『息子の青春』をステレオ録音にて放送。<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'54|date=1954|publisher=日本放送出版協会|pages=28,31}}</ref>
** [[8月23日]] - NHKラジオ第1・第2放送、初の立体[[ラジオドラマ|放送劇]]『死んだ鶏』を放送。<ref group="注">作:[[内村直也]]、作曲及び音楽指揮:[[芥川也寸志]]、演奏:NHKサロン・アンサンブル、演出:山口淳、出演:尾崎勝子、須永宏、佐藤美恵子、[[名古屋章]]、ほか。</ref><ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'55|date=1955|publisher=日本放送出版協会|pages=204,235}}</ref><ref>朝日新聞 1953年8月23日 朝刊 P.5 ラジオ・プログラム 番組表 及び「ききもの『音のロケに大苦労 立体放送 内村作の「死んだにわとり」』」(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
** [[8月23日]] - NHKラジオ第1・第2放送、初の立体[[ラジオドラマ|放送劇]]『死んだ鶏』を放送。
* [[1954年]]
** [[11月13日]] - NHKラジオ第1・第2放送、世界初の立体放送による定時番組『[[立体音楽堂]]』放送開始<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'56|date=1956|publisher=日本放送出版協会|pages=131,132}}</ref><ref>宮坂榮一「放送の音声方式 : アナログ放送からディジタル放送まで」『日本音響学会誌 57巻9号』 日本音響学会、2001年9月、p.597-603、{{doi|10.20697/jasj.57.9_597}}</ref>(当番組の2波ステレオでの放送は[[1964年]][[4月5日]]まで。その後は当時同時に放送していた[[NHK-FM放送|FM]]のみでの放送に変更。同番組終了は[[1966年]][[4月2日]])。
** [[11月27日]] - 第3回オーディオ・フェアにちなみ、[[TBSラジオ|ラジオ東京(KR 現在のTBSラジオ)]]・[[文化放送|文化放送(QR)]]・[[ニッポン放送|ニッポン放送(LF)]]による三元立体放送(=3チャンネルステレオ放送)<ref group="注">各放送局のスピーカーを聴き手の左・中央・右にそれぞれ置いて行うもの。</ref>を実施。各放送局30分の番組を制作し、番組毎に放送局のスピーカーの位置を変える演出を行う「音楽劇ボードビル『鶏郎トリオ』」(ニッポン放送制作)<ref group="注">スピーカー位置 左:KR、中央:LF、右:QR</ref>、ドラマ『われを呼ぶわれの唄』など(ラジオ東京制作)<ref group="注">スピーカー位置 左:LF、中央:KR、右:QR</ref>、「これがスウィング」(文化放送制作)<ref group="注">スピーカー位置 左:LF、中央:QR、右:KR</ref>の計3番組を連続放送)。<ref>{{Cite book|和書|author=東京放送 社史編集室|date=1965-5-10|title=東京放送のあゆみ|publisher=東京放送|page=583}}</ref><ref>朝日新聞 1954年11月27日 朝刊P.5 ラジオ・プログラム 番組表、「聴きもの見もの」番組紹介欄 及び 文化放送(JOQR)番組広告「三元立体放送」(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
** [[12月25日]] - NHK東京、『立体音楽堂』の時間にラジオ第1・第2・[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]を使っての三元立体放送を実施(俳優座劇場中継 メノッティ作曲、歌劇『アマールと夜の訪問者』)。<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'56|date=1956|publisher=日本放送出版協会|pages=131,132,274,275}}</ref>
* [[1958年]]
** [[6月28日]] - 北海道放送、ラジオ・テレビにより立体放送の実験実施。
** [[9月15日]] - 文化放送(左チャンネル)・ニッポン放送(右チャンネル)の共同による初の立体放送実施。翌年からは立体放送による帯番組として『[[パイオニア]]・イブニング・ステレオアワー]]」放送開始。<ref>朝日新聞 1958年9月15日 朝刊P.6 ラジオ・プログラム 番組表 及び「ききものみもの」番組紹介欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
** 11月 - [[中部日本放送]](現在の[[CBCラジオ]])、ラジオ・テレビにより立体放送実施。
* [[1959年]]
** [[RKB毎日放送]]・[[九州朝日放送]]、共同で立体放送実施。
** [[2月16日]] - [[MBSラジオ|毎日放送]](右チャンネル)・[[朝日放送ラジオ|朝日放送]](左チャンネル)が共同で立体放送による定時番組『[[ナショナルステレオホール]]』放送開始。
** [[3月1日]] - NHK東京、『立体音楽堂』の時間にラジオ第1・第2・[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]を使って三元立体放送実施(第2回NHKイタリア歌劇公演より[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]作曲・歌劇『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』ハイライト第2&4幕)。<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'60|date=1960|publisher=日本放送出版協会|pages=351,352}}</ref>
** [[11月9日]] - 文化放送・ニッポン放送の共同で、立体放送初の帯番組『[[パイオニア・イブニング・ステレオ]]』放送開始。<ref>朝日新聞 1959年11月9日 朝刊P.5 ラジオ・テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
* [[1960年]]
** [[東北放送]]、ラジオ・テレビにより立体放送実施。
** [[3月1日]] - NHK東京、『立体音楽堂』の時間にラジオ第1・第2・[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]を使って三元立体放送実施(第2回NHKイタリア歌劇公演より[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]作曲・歌劇『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』ハイライト)。
** [[3月27日]] - [[関西テレビ放送]]・[[ラジオ関西]]、ラジオ・テレビによりステラマ(ステレオ・ドラマの略)『コルトを持つ男』を放送。
** [[10月4日]] - 中部日本放送(現在のCBCラジオ)・[[東海ラジオ放送]]、共同で立体放送開始。
** [[11月5日]] - [[琉球放送]]がKSAR(日本語・左チャンネル)とKSBK(英語・右チャンネル)の2波を使って立体放送開始。
* 1960年代中期(時期不明)
** 当時宗教放送局の[[FEBC]]沖縄放送局(後の一般放送局・[[極東放送 (沖縄)|極東放送]]、現・[[エフエム沖縄]])がKSDX(日本語・右チャンネル)とKSAB(英語・左チャンネル)の2波で立体放送開始。
* [[1964年]][[6月19日]] - 文化放送・ニッポン放送の共同による立体放送の帯番組『[[パイオニア・イブニング・ステレオ]]』が終了。<ref>朝日新聞 1964年6月19日 朝刊P.7 ラジオ・テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
* [[1965年]][[4月3日]] - 前年に[[NHK-FM放送]]によるステレオ放送が全都道府県で聴けるようになったことを機に、NHKラジオ第1・第2放送はこの日に放送された『夜のステレオ』の最終回を最後に中波2波によるステレオ放送を終了する。
* [[1965年]]
** [[1965年]][[4月3日]] - 前年に[[NHK-FM放送]]によるステレオ放送が全都道府県で聴けるようになったことを機に、NHKラジオ第1・第2放送はこの日に放送された『夜のステレオ』の最終回を最後に、NHKでの中波2波によるステレオ放送を終了する。
** [[10月24日]] - 文化放送・ニッポン放送の共同で行っていた中波2波によるステレオ放送が、この日の「これがステレオだ」の放送をもって終了する。<ref>朝日新聞 1965年10月24日 朝刊P.9 ラジオ・テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>
 
==== FMステレオ放送 ====
日本では[[1963年]][[6月25日]]から当時の[[FM東海]]によってこの方式による試験放送が開始される。
 
日本においてステレオ放送が開始された当初は、[[日本電信電話公社|電電公社]]のステレオ[[放送線|中継回線]]が整備されていなかったため、ステレオでの生放送は東京近辺のごく限られた地域でしか聴取できなかった。ステレオ収録された番組を放送する場合、NHKでは各[[拠点局]]([[NHK札幌放送局|札幌]]、[[NHK仙台放送局|仙台]]、[[NHK放送センター首都圏局|東京]]、[[NHK金沢放送局|金沢]]、[[NHK名古屋放送局|名古屋]]、[[NHK大阪放送局|大阪]]、[[NHK広島放送局|広島]]、[[NHK松山放送局|松山]]、[[NHK福岡放送局|福岡]])にパッケージテープを送り、各地方局ではテープを流している拠点局の電波を再生する「放送波中継」方式がとられていた。また、[[エフエム東京|FM東京]]をはじめとする民放でもパッケージテープを再生する方式がとられた。
 
その後、[[1978年]][[10月1日]]からFM放送用のPCMステレオ回線が整備され、パッケージテープの送付が廃止される。[[1980年代]]には全国のNHK及び民放FM局に、PCMステレオ回線設備が導入され、全国でステレオ音声での生放送が聴取できるようになっている。
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* 1960年8月 - FM東海が、アメリカ・クロスビー研究所が開発したFM-FM方式によるステレオ実験放送を開始(1961年にAM-FM方式が標準ステレオ方式になるまで実施)。
* [[1963年]]
** 5月17~19日 - NHK東京FM放送局が、この期間中に行われるNHK放送技術研究所の技研公開にて、米のFCCが1961年に規格決定した、AM-FM方式(現在のステレオ方式)によるステレオ試験放送を、毎日2時間半に渡って行う(翌月の6月12日にも、当時の皇太子[[明仁]]が同研究所を参観した際に、同じくステレオ試験放送を2時間半に渡って行った<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'64|date=1964|publisher=日本放送出版協会|pages=206}}</ref>)。
** [[6月25日]] - FM東海が、日本初のAM-FM方式によるステレオ実験放送を開始。
** [[12月16日]] - NHK東京FM放送局が、AM-FM方式によるステレオ放送を開始。
* [[1964年]] - NHK-FMが全国に放送局を相次いで開局させ(この時に同時にステレオ放送を開始した局も多い)、遂にFMステレオ放送が全都道府県で聴けるようになる。
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仕事や作業をしながらでも番組を楽しむことができるため、職場やカーラジオなどで聴取されることも多い。首都圏では10:00 - 11:00にテレビの視聴率よりもラジオの聴取率が高くなる。<!--情報はTBSラジオのリクルートページより-->地域・放送内容・機器などの影響により、長時間にわたり1つの局を聴取する傾向のリスナーもいる。番組ごとのスタッフ数は、テレビと比較して少ない<ref>[http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~chousa/WP/j-68.pdf 番組制作における多様な雇用形態 -中堅ラジオ局の事例を中心に-] - 2008年5月 久本憲夫(京都大学大学院経済学研究科 教授)、川島広明(日本民間放送労働組合連合会 近畿地方連合会 執行委員)</ref>。
 
放送局の選局は、ダイヤルを回してチューニング(いわゆる同調)する伝統的なタイプが安価なものを中心に多数採用されておりいるが、テレビ同様プリセット式で局をボタンで一発選局(いわゆる[[電子チューナー]])できる受信機もある。
 
短波による国際放送の場合、同じ内容の放送を同時に複数の周波数で放送し、聴取者が最も受信状態の良好な電波を選んで受信できるようにしているのが一般的である。
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* {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/comic/?movie#vol01 |title=ウグイスは鳴かなかった 〜ラジオのはじまり〜 - マンガで読むNHKヒストリー |date=20150927095703}}
* {{Kotobank}}
* [https://www.kagakueizo.org/movie/industrial/348/ 『つたえる-情報通信-』(1984年)] - [[科学技術庁]](現・[[文部科学省]]ほか)の企画の下で東京文映が制作した短編映画。通信の歴史について紹介している作品前半中にて、ラジオ放送もとりあげられている。『[[科学映像館]]』より。
 
 
{{Telecommunications}}