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東ローマ帝国
 
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{{Infobox Christian leader
'''ヨハンネス・ベッサリオン'''(Johannes Bessarion, [[1399年]]? - [[1472年]])は、[[東ローマ帝国]]出身の[[人文主義者]]。[[正教会]]、のちに[[カトリック教会]]の聖職者。本来の名前は'''バシレイオス・ベッサリオン'''(Basilius Bessarion,[[ギリシア語]]:({{lang|el|Βασίλειος Βησσαρίων}})。
|背景色=cardinal
|敬称接頭辞=
|名前=ヨハンネス・ベッサリオン
|敬称接尾辞=
|称号=[[枢機卿]]、コンスタンティノポリス[[総大司教]]
|紋章=
|画像=Johannes Bessarion aport012.png
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|画像説明=
|教会=
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|首都大司教管区=
|大主教区=コンスタンティノポリス(名目上)
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|主教区=
|着座=[[1439年]]
|離任=[[1472年]]
|前任=
|後任=
|反対者=
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|枢機卿任命=[[1439年]]
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|座右の銘=
<!---個人情報--->
|本名=
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|生年月日=[[1403年]]
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|没年月日=[[1472年]]
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<!---聖人情報--->
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'''ヨハンネス・ベッサリオン'''(Johannes Bessarion, [[1403年]] - [[1472年]])は、[[東ローマ帝国]]出身の[[人文主義者]]<ref name="Nipponica">{{Kotobank|ベッサリオン|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。[[正教会]]、のちに[[カトリック教会]]の聖職者。本来の名前は'''バシレイオス・ベッサリオン'''(Basilius Bessarion,[[ギリシア語]]:({{lang|el|Βασίλειος Βησσαρίων}})。
 
東ローマ帝国から[[イタリア]]に[[プラトン]]哲学を伝え、[[ネオプラトニズム]]隆盛の一因となった。中世ギリシア語では「'''ヨアニス・ヴィサリオン'''」(ヴァシリオス・ヴィサリオン)。
数多くのギリシア語文献をイタリアにもたらしたことで知られる。
 
== 経歴・業績 ==
[[ニカイア]]の[[府主教]]として[[フィレンツェ公会議]]の際、[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン|プレトン]]とともにイタリアを訪れた。正教会・カトリック教会の合同に反対したプレトンらと違って、ベッサリオンは合同賛成派であり、公会議終了後も[[フィレンツェ]]に留まり、カトリック教会に改宗。1439年に[[枢機卿]]およびカトリック教会のコンスタンティノポリス[[総大司教]](名義のみで実際のコンスタンティノポリス在住ではない)になった。
[[1403年]]に黒海沿岸の都市[[トレビゾンド]]に生まれる。修道士となり、[[コンスタンティノポリス]]で[[新プラトン主義]]哲学者の[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン|プレトン]]に師事した。
 
[[1437年]]に[[ニカイア]]の[[府主教]]に任じられ、翌[[1438年]]の[[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]]に正教会・カトリック教会の合同賛成派のリーダーとして参加した<ref name="Inoue">井上浩一 [[藤縄謙三]](編)「ビザンツ帝国の滅亡とギリシア文化のゆくえ」『ギリシア文化の遺産』 南窓社 1993年、ISBN 4-8165-0114-2 pp.195,204-211.</ref>。帰国後に湧き上がった反対意見によって教会合同は成らなかったが、公会議で示した東西宥和の活動と学識が認められ<ref name="Inoue"/>、[[1439年]]に[[教皇庁]]の[[枢機卿]]およびカトリック教会のコンスタンティノポリス[[総大司教]](名義のみで実際のコンスタンティノポリス在住ではない)に任じられたことから、[[1440年]]にイタリアに移住しカトリックに改宗した。
ベッサリオンは[[ラテン語]]にも通じており、数多くのギリシア語文献をイタリアにもたらしたことで知られる。
 
イタリア移住後のベッサリオンは枢機卿の任務をこなす傍ら、対トルコ[[十字軍]]の提議や、亡命ギリシャ人の援助を熱心に行った<ref name="Inoue"/>。また、自宅に集うイタリア人と亡命ギリシャ知識人たちの間で[[アカデミー]]を形成し、[[1453年]]の[[コンスタンティノープルの陥落]]以後は、散逸しつつあった各地のギリシャ語[[写本]]を組織的に収集した。枢機卿大学の学部長という役職は、まだ設けられていなかったが、ベッサリオンは1464年と1471年の枢機卿会議を主宰した<ref>J. P. Adams, [http://www.csun.edu/~hcfll004/SV1464.html ''Sede Vacante of 1464''.] Retrieved: 6 April 2016.</ref><ref>J. P. Adams, [http://www.csun.edu/~hcfll004/SV1471.html ''Sede Vacante 1471''.] Retrieved: 6 April 2016.</ref>。[[1468年]]にベッサリオンは、収集した全ての蔵書を[[ヴェネツィア共和国]]の[[サン・マルコ寺院]]に寄贈し、その管理を委ねる契約を交わした<ref name="Inoue"/>。ベッサリオンの寄進とともに成立したサン・マルコ文庫は、今日でもギリシア語写本の世界最大のコレクションとなっている<ref name="Inoue"/>。
 
[[1472年]]に[[ラヴェンナ]]で死去した<ref name="Nipponica"/>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<!-- 正教会の修道士は主教も含め、聖名(修道名)で記憶されるのが基本であり、姓や地名等は同名の人物の識別程度にしか用いられません。従って正教会関連の読みでは修道名を先にしてあります。 -->
 
== 関連項目 ==
*[[東ローマ帝国]]
*[[枢機卿]]
 
{{Normdaten}}
 
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[[Category:東ローマ帝国15世紀ギリシャの哲学者]]
[[Category:ルネサンス東ローマ帝国の人物]]
[[Category:正教会の主教|よはんねす へつさりおん]]
[[Category:枢機卿]]
[[Category:教皇領の外交官]]
[[Category:東西教会の分裂|よはんねす へつさりおん]]
[[Category:ギリシャの人文主義者]]
[[Category:1399年生]]
[[Category:1472年没]]
 
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[[de:Basilius Bessarion]]
[[el:Βασίλειος Βησσαρίων]]
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